ホリデイ・トレッキング・クラブ

メンバー紹介

文化人類学コースの沿革

『富山大学50年史』(2002)より抜粋・加筆 2003.8.1

Milima haikutani, lakini watu hukutana
「山と山は巡り合わないが、
人と人とは巡り合うものである」
( スワヒリ語の俚諺)

Ⅰ 文化人類学コースの草創

文化人類学コースは、1977年(昭和52年)の人文学部の創設にともなって新しく設置された。1979年(昭和54年)4月に、和崎洋一が天理大学から文化人類学コース(講座)の初代の教授として、また赤阪賢が学習院女子短期大学から助教授として着任し、このペアで文化人類学コースの運営に着手することとなった。

それまで、富山大学には文化人類学を担当する教員はまったくいなかった。経済学部には、アメリカの文化人類学者J.エンブリーの名著 "Suye Mura: a Japanese village"を翻訳した植村元覚教授が勤務していたが(邦訳タイトル名は『日本の村落社会-須恵村』)、氏のご専門は地理学であった。教育学部には日本の民族学の泰斗であった岡正雄氏が集中講義で数回来学されたことがあったが、研究教育環境としては、たとえば図書館にも文化人類学関連の書籍がほとんどないといった状況から、文化人類学コースは出発することになったのである。

誕生したばかりの文化人類学コースを担うこととなった和崎は東アフリカ、赤阪は中央アフリカと西アフリカをそれぞれフィールド(調査地)とするアフリカ研究者であった。このことが、その後の文化人類学コースにアフリカ研究という大きな特色をもたらす契機となる。

和崎は京都大学理学部で地球物理学を学んだ後に人類学に転じた異色の経歴を持ち、日本の人類学とアフリカ研究をリードした今西錦司が率いる京都大学アフリカ学術調査隊の初期のメンバーであった。タンザニア国のマンゴーラ村における長期の人類学調査の成果と経験をまとめて『スワヒリの世界にて』(NHK出版会、1977年刊)を出版し、アフリカニストとしてすでにひろく世に知られていた。着任当時は、東アフリカで広範囲に使用されているスワヒリ語の日本語辞典の編纂に没頭していた時期であり、資料整理を手伝ったおられた通称「あいさん」こと宮岡あい氏も富山に来られて、編纂作業が続けられた。この成果は『スワヒリ語・日本語辞典』(養徳社、1980年)となって結実した。

赤阪は京都大学文学部の人文地理学専攻の学部生時代に京都大学大サハラ学術調査隊に参加して西アフリカのマリ共和国の調査をおこない、サハラ砂漠南縁の西スーダン地方の地域特性・文化・歴史について業績を積んだ後、当時は京都大学のザイール国(現コンゴ民主共和国)東部調査の一員として農耕民テンボ人の研究に従事していた。

文化人類学の研究の伝統がまったくない環境で出発した文化人類学コースであったが、開設当初は学生もまだ在籍していなかった。和崎と赤阪は着任直後は手持ちぶさたの状態で、やむなくホタルイカや岩ガキなど富山の珍味の賞味にひたる日々をおくっていた。しかし、5月になると翌年の専攻希望学生が研究室にあらわれ始め、そこでさっそく和崎流の独特の教育がはじまった。学生を引き連れての山登り、河原での焚き火、実習室での鍋料理など、和崎のフィールド・ワーカー(野外調査者)としての自由闊達な資質が存分に学生教育に発揮される幕開けであった。


Ⅱ 1980(昭和55年)から1988年(昭和63年)まで

コース創立の翌年の1980年(昭和55年)、最初の専攻学生10名がそろうと、さっそく文化人類学実習の調査テーマをえらぶことになったが、アフリカで「イディ・モハメディ」(お祭り男)の異名を持つ和崎の独断で、県内各地でくりひろげられる祭りの調査をてがけることになった。まず、最初に八尾町の風の盆にねらいをつけ、地元の協力を得ることになった。この町には春に曳き山祭りもあり、さっそく地元の民家を合宿所にfestivalして、つぶさに祭りの進行を記録した。こうして開始された祭りの文化人類学的調査はその後、富山県内の八尾、伏木、新湊、岩瀬などの祭り調査にひきつがれ、「お祭り研究室」という異名を学内や学界で獲得することとなった。調査の成果は、富山大学文化人類学教室発行の『地域社会の文化人類学的調査』という形で出版されたが、この報告書の刊行は現在に至るまで継続されており、2003年現在で13号を数えるにいたっている。

実習調査をつうじて学生たちにフィールド・ワークの楽しさを体得させようという和崎と赤阪の教育方針は、理論に拘泥するよりも実際に自分の目と耳で地域の人々と接することを重視するというコースの学風を産み出すこととなった。実際、現在までに提出された卒業論文はすべて、学生たちが自分自身でおこなった現地調査にもとづいて書かれている。「お祭り研究室」の伝統も脈々と受け継がれ、富山県内の祭りだけでなく、長浜の曳き山、姫路のけんか祭りなどの全国的に有名な祭りを対象とした卒業論文も数多い。このように、和崎、赤阪の二人がタッグを組んで教鞭をとっていた時代に、現在まで受け継がれることになる実習重視の教育と自由でのびやかな気風がしっかりと根をおろしたのである。

コース新設のわずか3年目の1981年(昭和56年)に、文化人類学の全国レベルの学会である日本民族学会の研究大会の開催をひきうけることになった。大規模な研究大会の開催をたった二人のスタッフでやりくりするのはたいへんであったが、近隣の金沢大学の教員の援助もあって、開催は成功をおさめることができた。ここで特筆すべきは、文化人類学とは何のかかわりもない朝鮮語や中国語コースなどの人文学部の同僚教員たちからも、開催にあたって援助を受けたことである。新設されたばかりの人文学部には、今から考えれば夢のような同志的な連帯とでも言うべき雰囲気が存在していたのである。

日本民族学会の研究大会に次いで、1983年(昭和58年)に日本アフリカ学会の記念すべき第20回研究大会の開催をひきうけたのも、お祭り好きの和崎の面目躍如と言えよう(ただし、大会事務の当局者はたいへんな苦労をしたようである)。この研究大会に参加した今西錦司をはじめ日本の人類学Yoichi WAZAKI、アフリカ学を代表する錚々たるメンバーが大会の後に酒興に乗って記した句が、富山駅近くの小さな居酒屋に今も残っている。和崎が好んで使った「Milima haikutani, lakini watu hukutana」(山と山は巡り合わないが、人と人とは巡り合うものである)というスワヒリ語の俚諺も和崎の達者な絵とともに居酒屋の壁面をひそやかに飾っている。また、和崎は東アフリカの民謡「マライカ」を学生たちとともに愛唱したが、この歌はいつしか文化人類学コースの「コース歌」となり、現在でもコースの宴会や卒業式の際に歌われる。「和崎先生は魚を三枚におろせない学生には単位を与えなかった」などという真贋さだかでない話が今なおコースの「伝説」として語り継がれているが、教授会の席上で突然「もっといいお茶を出してくれ」という提言をしたことなど和崎は在職中に様々な逸話を残すことになった。和崎は1985年(昭和60年)をもって停年退官したが、退官を記念して有志によって編まれた文集『故霜集』には、卒業生・在学生やかつての同僚たちによって、和崎の豪放磊落な人柄をしのばせる数々のエピソードが披露されている。和崎は退官後、中部大学に転じて、1992年(平成4年)6月29日、享年71歳で惜しまれながら逝去された。1996年には富山でコース学生と和崎と縁の深かった方々によって「和崎先生をしのぶ会」が開かれ、地元の新聞に大きく取り上げられた。

七年にわたって大きな足跡をコースに残した和崎教授が停年退官した1986年には、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所を退職したばかりの富川盛道を教授としてむかえることとなった。これは、人文学部に修士課程を新設するための一種の補強人事であったが、同時に軌道に乗り始めたコースのアフリカ研究の方向をいっそう確立するための布石であった。富川は大阪高等医学専門学校を卒業後、北海道大学文学部で心理学を学び、北大社会学研究室の助手時代にアイヌ民族の自殺研究で医学博士号も取得するという、異色の研究歴の持ち主であった。また、戦前に今西錦司が率いた大興安嶺探検の一員として中国東北部に居住する狩猟民オロチョン人の調査を実施した体験も持っていた。和崎と同様に日本のアフリカ現地調査の草分けのひとりであり、タンザニア国の牧畜民ダトーガ人の研究に長年従事していたが、当時の日本のアフリカ研究者の大半を組織したアフリカ学術調査のプロジェクト・リーダーの任にもあった。在任期間は3年と短かったが、研究一途の経歴の最後に若い学生たちの教育の機会を持ったことを富川は楽しみ、学生たちもまた富川の温厚な人柄とダンディな身だしなみに魅了された(写真は赤阪賢氏所蔵)。退官後は東京国際大学大学院で教鞭をとっていたが、その後、1997年(平成9年)9月29日、享年74歳で逝去された。こうして、富山大学の文化人類学コースのアフリカ研究と自由闊達な学風を育てあげた和崎洋一、富川盛道の両氏があいついでともに70台前半にして冥界に旅立たれたが、これは後進にとってはかえすがえす惜しまれることであった。    


Ⅲ 1989年(平成元年)から1996年(平成8年)まで

1989年(平成元年)、富川教授の退任後は赤阪が教授に昇任したが、在任中に文部省の科学研究費補助金(科研費)によって、中央アフリカのザイール国(現コンゴ民主共和国)や西アフリカのマリ国の現地調査に従事した。また、自身も研究代表者として科研費(国際学術調査)を取得して、新たに西アフリカのギニア国の農村社会と市場経済のかかわりについての調査を開始した。赤阪のアフリカ研究にかける情熱は、在任期間中にコースのために購入したアフリカ関連の書籍類が日本でも有数のアフリカ関連図書のコレクションとなっていることに端的にあわれている。赤阪はアフリカの歴史にも造詣が深く、奥行きの深いアフリカ研究の成果は共編著の『アフリカ研究―人・ことば・文化』(世界思想社、1993)、共著の『新書アフリカ史』(講談社、1997)や『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』(中央公論社、1999)などの著作に結晶している。アラブ系テロリストの事件が頻発していた時期にパリでアラブ系と間違えられて警官に職務質問されたという独特の風貌を持つ赤阪は、鷹揚で気取らない性格で学生に慕われ、長い在職期間をとおして個性豊かな学生を次々と育てていった。和崎も愛煙家で有名であったが、赤阪もパイプを片時も離さず、演習室にたむろしている学生たちは、パイプの甘い香りが廊下に漂いだすと赤阪が研究室にやってきたことを知るのであった。

富川の後任には、末原達郎を京都造形大学から助教授としてむかえた。和崎ももともとは理系の出身であったが、末原も農業経済学から人類学に転じた経歴を持ち、当時はザイール(現コンゴ民主共和国)の焼畑農業を継続的に研究していた。在任中に研究をまとめて博士号を取得し、博士論文をもとに『赤道アフリカの食糧生産』(同朋舎出版、1990)を刊行した。祭りの調査実習が継続される一方で、末原の指導の下に県内の下村、入善、利賀などの農村調査もてがけられることとなった。その成果の一端は、1994年に報告書『地域社会の文化人類学的調査7 下村の変貌』にまとめられている。末原も研究代表者として文部省の科研費を得て、アフリカの食糧生産の研究プロジェクトを組織して、自身は東アフリカのタンザニア国で農業調査をおこなった。大柄な体躯に温和な風貌で学生に親しまれた末原は、七年間にわたって研究と教育の両面においてコースに多大の貢献を残し、1996年に龍谷大学に転出した。その後、京都大学農学研究科に移って精力的に研究と教育にあたっており、最近では、『アフリカ経済』(世界思想社、1998)を編んでいる。


Ⅳ 1997年(平成9年)から2003年まで

末原の後任には京都大学アフリカ研究センターの研修員であった竹内潔が助教授として着任した。竹内は政治学、社会学を経て、生態人類学に転じて京都大学理学研究科で理学博士を取得した経歴を持ち、当時は中央アフリカのコンゴ共和国の熱帯森林帯に居住する狩猟採集民の生業文化を研究していた。その研究成果の一端は、『熱帯森林のポリフォニー』(弘文堂)にまとめられて、近々発刊される予定である。赤阪、末原はそれぞれ文部省科学研究費(国際学術研究)を獲得してアフリカ調査チームを組織してきたが、竹内も1998年から科研費(1999年に国際学術研究から基盤研究Aに移行)を継続して獲得して、主としてガボン国などの中央アフリカ諸国を調査地として研究プロジェクトを進めている。

創設以降、十八年の長きにわたってコースを支えてきた赤阪は、1997年(平成9年)4月に京都府立大学文学部に新設された国際文化学科に転出した。京都府立大学に移った後も、日本国際文化学会の設立に寄与するなど文化人類学から国際文化学へと関心領域をひろげながら、研究と教育の第一線で活躍している。また、アフリカにかける学問的情熱にいささかの衰えもなく、先述のようにアフリカ史の書物を刊行している。

赤阪の転出と符節をあわせるかのように、コースは老朽化した校舎から図書館脇に建てられた新校舎に移転することとなった。旧校舎では最上階に研究室や演習室があったため、真夏には室温は40度近くにまで上昇し、7月に入ると教師も学生も汗をしたたらせながらの授業風景が普通であった。しかし、二部屋あった演習室は、学生たちにとっては授業の合間の憩いの場であり、夜ごとに鍋や酒を楽しむ場であり、学年を越えて集い議論する自由な空間であった。アパートに一人で帰ってもつまらないので、炬燵を持ち込んで寝泊まりする学生までいたほどである。新校舎では、空調が付いたものの演習室は一つに減り、多人数が自由に演習室に集うということはできにくくなった。

1997年、赤阪の後任として、京都大学人間・環境学研究科の大学院生の佐々木重洋を助教授としてむかえた。佐々木は2002年(平成14年)に名古屋大学に転出し、同年8月に後任として中央アフリカのカメルーン国で儀礼活動を研究している、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科研修員の都留泰作が助教授として着任した。また、1998年(平成10年)には、新しい教育カリキュラムである「情報文化論」の担当教官として動物考古学を専攻する内山純蔵が講師として着任し(2001年に助教授に昇任)、文化人類学コースに籍をおくこととなった。内山は、共通科目である情報文化論の教育を担当するとともに、動物残存遺体をもとに、現存の狩猟採集社会との比較から縄文時代の生業生活を復元するという手法で研究をおこなっている。

1999年には生態人類学会の第4回研究大会を主催することとなり、囲碁学会の異名を持つこの学会のために立山のホテルを借り切って大会を開催した。また、コース創立以来、日本民族学会の北陸支部例会である北陸人類学研究会を金沢大学との合同で毎年数回のペースで開催してきたが、1997年からは内外の研究者を招いてセミナーを開く『富山人類学談話会』を開催し、2003年現在までに3回開催して、フランス国立科学院のセルジュ・バユシェ博士、エマニュエル・オリビエ博士、ロンドン大学のジェームズ・ウッドバーン教授、ワシントン州立大学のバリィ・ヒューレット教授などの人類学者を招聘して、講演や学生との懇談会を実施した。


Ⅴ 卒業生とコースの現況

文化人類学コースが誕生してすでに30年以上が経過し、300人以上の卒業生が巣立っていった。そのなかで、同級生や同窓生同士でカップルが10組以上誕生していることは特筆すべきであろう。コースの自由でのびやかな雰囲気が知らず知らずのうちに結婚にいたるような交友を育んだのかもしれない。

卒業生の多くは教職に就いたり一般の企業に就職したりしているが、なかには陶芸や絵画の道をこころざすなど、のびのびと才能をのばしている者もいる。在学中の関心を持続させて海外に出る者もおり、日本語教師として東南アジアで活躍したり、アフリカの日本大使館に勤務したりしている。また、大学院に進学して研究者の道をえらんだ者も少なくない。第3期生の高根勤氏は海外青年協力隊に加わってガーナに赴任した後、イギリスの大学院を終了し、現在はアジア経済研究所に勤務してアフリカ農村社会について着実な研究の成果を挙げて、京都大学で博士号を取得している。2003年4月現在で、大学院に在学して文化人類学を学んでいる者は11名を数える。文化人類学を研究するためには長期の海外現地調査が必須であるため、このうちのほとんどは京都大学大学院などの博士課程を持つ他大学の研究科に在籍している。修士課程しか持たない富山大学人文科学研究科では、文化人類学を究めたいという学生の志望に十分に応えることができないのが残念である。

1999年の春にコース創設20周年を記念して、東京外国語大学の院生である檜垣まり氏など同窓生有志の尽力によって祝賀会が開催されたが、富山だけでなく全国から数十名の卒業生が集まって一堂に会し、京都から参加された赤阪、末原の両氏を囲んで青春の思い出話に花が咲いた。最後には赤阪氏がマライカを熱唱されて、「人と人は巡り合う」ひとときの宴は幕を閉じた。

2014年現在、文化人類学コースには、大学院生1名をふくめて40名の学生が在籍している。旧校舎時代のように夜ごと演習室に学生が集まるということは少なくなったが、それでも学生たちは活発に自分たちでさまざまな行事を演出して、宴会を開いたり、海外旅行の土産を持ち寄って賞味したりと、演習室を大学生活のベースとしておおいに活用している。突然、ぶらりと卒業生が訪ねてくることとも多い。「人間のことは現地で学べ」という和崎以来のフィールド・ワークの精神も、しっかりと今の学生たちに受け継がれている。現3年生は高岡市を調査地として、まちづくりや伝統工芸の調査を精力的に進めている。

富山大学の文化人類学コースは、二十有余年の歴史をつうじて、日本におけるアフリカの人類学的研究の一拠点として研究実績を蓄積するとともに、多くの有為の人材を社会の多方面に送りだしてきた。調査実習をとおして、狭い大学のなかではとうてい知り合うことができない多くの人々の語る声に耳を傾けて多様な生活と人生のあり方を理解することが大学において文化人類学を学ぶ原点であり、文化人類学コースは一貫してこの原点に立って教育をおこなってきた。価値観が多様化し錯綜する一方で人間的な交流の機会が少なくなってきている昨今の社会事情を鑑みると、文化人類学の教育が持つ意義はかつてにもまして大きい。しかし、富山大学は再編統合や独立法人化といった組織改変の渦中にあり、その過程で文化人類学コースの存立が危うくなる事態が生じるかもしれない。関係者のご理解とご支援をお願いする次第である。

最後に、卒業生のうちでひとり、折戸千佳子氏が事故で亡くなられたことを記して、謹んで氏のご冥福をお祈りいたします。

あなたも参加しませんか?