トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「素人の柔軟なひらめき」という素人考え


■素人だからこそ天才的なことがひらめく?

 どんなに傲岸不遜な自称「研究家」でも、「学識の蓄積は長年研究を続けているプロにはとても及ばない」ということはうすうす感じているようです。そこで彼らは何とか自分の優位性を示そうと、こんなことをよく口にします。

 「学者先生は固定観念に縛られて自由な発想ができない。その点アマチュアは何にも縛られていないから柔軟な発想ができ、プロには思いもよらない天才的なことがひらめくのだ」
 いかにももっともなように聞こえます。現に企業でも地位のない若手から「柔軟な発想での新企画」を求めることがよくありますし、何よりあの発明王エジソンは全くのアマチュアだったからこそ次から次へと天才的な発明を思いついたのです!

■「ひらめき」はそのまま学説にはならない

 しかしちょっと待ってください。彼らはさも学者が「固定観念に縛られて」何もひらめかないかのように決めつけていますが、そうではありません。
 学者も普段からいろいろなことがひらめきます。読書の折に、仲間と話をしながら、あるいはトイレの中でなど、様々な場面でアイデアは浮かんで来るものです。
 しかしその「ひらめき」の中で、研究として完成するものはごくわずかです。多くの「ひらめき」は学問的検証を加えていくうちに、使い物にならないとわかって消えていく運命にあります。
 「ひらめき」は大切です。しかし「ひらめき」がそのまま「学説」になると思い込んでしまうのは大きな誤りです。「ひらめき」は他の例を調べたり、反証がないか確かめたり、先行研究を調べたりして厳しく学問的検証を行わなければ、単なる「思いつき」にすぎません企業が若手から募った企画にしても、全部が採用されるわけではもちろんありません。実現性や採算性を綿密に検討し、それをパスしたごく一部の企画だけが日の目を見るのです。
 一方自称「研究家」が何かひらめくと、先行研究も調べず(調べても自分に都合のよい説だけ挙げて)、反証は見なかったことにするなど、学問的検証が不十分なまま「画期的な新説」だと主張しますが、それは「思いつき」以上の何ものでもありません。せっかくの「ひらめき」を大切に育てたい気持ちはわかりますが、それに流されてしまっては真の研究者とはいえません。自分の説に自分で反論できるだけの客観的態度こそが、研究者に必要不可欠な資質なのです。

■自分の説を本気で壊せ

 私は大学院生の頃、恩師の一人に次のようなことを言われました。
「一つの説を立てたら、それを本気で壊してみなさい。」
「ひらめき」に有頂天になるのではなく、その「ひらめき」を反対者の立場に立って本格的にやっつけ、それにも堪え得るように説を作り直す努力の結果、真の学説ができ上がるのです。こうした努力をしない「研究」は「研究ごっこ」でしかありません。
 エジソンもこう言っていることをお忘れなく。
 「天才とは99パーセントの努力と1パーセントのひらめきである。」
自称「研究家」の言う「ひらめき」には、それを客観的に検証する努力が決定的に欠けているのです。

この項のまとめ


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