我々が普段使っている漢字がどうして出来上がったのかということには、誰もが一度は興味を抱くのではないかと思います。昨今の日本語ブームに加え、白川静『字統』などの字源を解説した辞書の出版の影響もあって、漢字の字源を自分なりに考えてみようという人も多くなっているようです。
ところが漢字の成り立ちというものは、言うほど単純なものではありません。白川静氏は漢字の多くを呪術や宗教儀礼と結びつけて解釈していますが、これも好き勝手な空想で言っているのではなく、古代文学や甲骨・金文の研究から得られた知見に裏打ちされたものです(それでも「何でも神がかりに結びつけてしまう」という批判があります)。文字の由来を研究しようと思えば、中国語学や甲骨学・金文学をはじめ、古代文学や古代宗教など該博な知識が必要になってきます。
ここで具体例を挙げてみますと、「人という字は二人の人が互いに支え合っている形だ」という話が古くからあります。「だから人同士は助け合わなければならない」という格言として親や先生からこうしたことを説教された人も多いことでしょう。あるいは本当にこれが「人」の字源だと思い込んでいる人もいるかもしれません。
しかし「人」という字の古い形を見てみると、甲骨文は「」となっています。これは人が手を下に垂れて膝を曲げ伸ばししている様子を描いたもので、どこから眺めても二人が支え合っているようには見えません。したがって「人という字は二人の人が互いに支え合っている形だ」という説は根拠のない俗説に過ぎません。字源は古い形にまでさかのぼらなければ、確かなことは何も言えないのです。
(蛇足ですが、こうした俗説を子供の説教の種に使うことには、私はあまり賛成しません。もし子供が本か何かで正しい説を知ったら、説教した親や先生を「ウソつき」と軽蔑し、二度と説教を受け入れなくなることでしょう。この手の説教はある程度分別をわきまえた大人に対してするものです。)
一方でこうしたことを全く顧慮せずに、独自の「字源」を唱える自称「研究家」もいます。彼らの多くは漢字を適当に分解し、それぞれの要素の意味を漢和辞典で調べ、それらを組み合わせて「字源」だと称します。しかし漢字の中には甲骨文から楷書に至るまでに字体が大きく変わっているものも少なくなく、古代文字の字形を考慮せずに楷書だけに頼っていたのでは説得力がありません(ひどい人になると戦後になって制定された新字体を分解して「字源」を解こうとしていますが、何をか言わんやです)。また漢字の多くは意味を表す部分と発音を表す部分を合わせた「形声文字」であり、このことを無視するのであれば、無視するだけの合理的な根拠を説明する必要があります。(「分解法なら意味がちゃんと説明できるのだから分解法が正しいのだ。甲骨文も形声文字も皆誤りだ」という説明は「論点先取の誤り」と呼ばれる詭弁です。「分解法は正しい」というこれから証明すべき結論を、証明のための前提に使っているからです。)
世の中にはウソも方便ということもありますから、漢字を覚える方便として、漢字を分解して根拠のない由来をこじつけた「覚え歌」を使うというのであれば、別に目くじらを立てることでもないでしょう。たとえば
「戀という字を分析すれば、いと(糸)し、いと(糸)しと言う心」
「櫻という字を分析すれば、二階(二貝)の女が気(木)にかかる」
といった昔から有名な都々逸は、傑作と呼ぶにふさわしいものです。しかしこういったものは、お遊びとして楽しむならともかく、教育に使うにはやはりふさわしくありません。なぜならその場限りで応用が全くきかないからです。「櫻」は「二階の女が気にかかる」で説明できても、では「嬰」は「二階の女」、「鸚」は「二階の女が飼っている鳥」と説明できるでしょうか。それよりは、「櫻」「鸚」の音「アウ」は「嬰」の音「エイ」が変化したもので、同時に「嬰」は「貝飾りを首にまとった女」がもともとの意味であることから、「櫻」は「貝飾りのような実をつけるゆすらうめ(「さくら」の意味で使うのは実は日本だけ)」の意味にもなる、というように系統立てて覚えた方が、他の字にも類推して応用できるのです。「纓」も音は「エイ」で、意味は貝飾りのように首にめぐらす「冠のひも」という風に。
(「おや、この説明も文字を分解しているじゃないか?」という人もいることでしょう。今挙げた「櫻」「纓」は漢字の大半を占める「会意形声字」であり、それぞれ「木」「糸」の仲間の字であって、「嬰」が音と同時に意味をも表すと説明できるのです。「鸚」は会意の要素がない「形声字」で、「嬰」は単に音を表すだけです。私が問題にしている「分解法」とは、「櫻」=「貝+貝+女+木」というように「極端に分解しすぎる」「楷書の字形しか考えない」「その場限りの説明であって法則性がない」などの特徴を持つ、これまでの文字学の知見から極端にかけ離れたもののことです。)
それに何よりも、自称「研究家」の唱える「分解法」は、漢字を覚える方便としても、こじつけが過ぎてすぐにピンとこない、あまり面白くないものがほとんどです。ちょうど「ひねり過ぎてどこが面白いのかすぐにわからないギャグ」のようなものです。どうせウソを方便に使うのなら、先に挙げた都々逸の方が、よほど芸術的でユーモアもあり、口調もよくて覚えやすいのではないでしょうか。
ここで私も一席。
「色という字を分析すれば、クるしさ募る三つ巴」
「桜という字を分析すれば、ツの出す女が気(木)にかかる」
……お後がよろしいようで。
実は900年ほど前の中国にも、こうした「分解法」を唱えた人がいました。北宋の文人で、「新法」と呼ばれる政治改革を推進した政治家でもあった王安石です。彼は『字説』という本を著し、すべての文字は象形字か会意字であると主張して、いろいろな文字の由来を「分解法」で解説しました。王安石もきっちり学問を修めた人ですし、彼の説も一部には見るべきものがあったので、発表された当時は新法派を中心に支持を集めました。しかし極端に走りすぎたこじつけもまた多かったため、新法が停止されるとともに顧みられなくなり、今では『字説』も散佚して断片しか見ることができません。経書の注釈や字書に引用されて残ったものは、『字説』の中でも比較的まともな部分と考えられますが、明の趙南星の著した『笑賛』などの笑話集に引かれているのは、恐らく『字説』の最も牽強附会な部分で、さんざんコケにされてています。たとえばこんな具合です。
その1
王安石が「『波』とは水の皮のことだ」「『坡』とは土の皮、つまり坂の表面のことだ」といった説を唱えました。ところが王安石の政敵だった、著名な文人の蘇東坡がこれを聞いて言いました。
「すると『滑』という字は水の骨のことですかな」
その2
蘇東坡がある時王安石の『字説』をからかって言いました。
「竹で馬を鞭打ったら『篤(一心不乱なさま)』になると言うのはわかるが、では竹で犬を鞭打ったら『笑』うのはどういうわけですかな」(注・当時の「笑」という字は「竹冠に犬」と書く俗字が通用していた)
あなたはそれでも「分解法」を信じますか?
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