第五章 マス・メディアから見られるフェス文化生産の過程

 

本章では、ロック・フェスが文化としてどのように「生産」され「昇格」していくのか、複数のマス・メディアでの登場形式の変化に注目し、その過程を分析していく。

 

 

第一節 ロック雑誌によるオーディエンス理想モデルの構築

 

ロック・フェスが文化として昇格していく第一段階に、ロック雑誌を媒介としたオーディエンスの成熟があったことが既出の岡田氏の論文でも述べられている。

 

洋楽ロック雑誌によるオーディエンス理想モデルの構築が行なわれた過程を調べるにあたり、ロック雑誌『rockin'on』を対象に分析を進めた。『rockin’on』を出版する潟鴻bキング・オンは、FUJI ROCK FESTIVALに第一回(1997年)からスポンサーとして協力しており、またFRF主催者であるSMASH代表・日高正博氏と潟鴻bキング・オン社社長・渋谷陽一氏は個人的な友好も長く(そのことは日高氏の著書や、渋谷氏の記事でも触れられている)、雑誌『rockin’on』では主催者の意図を強く代弁し、開催前には毎年大きく特集し、告知の広告も毎年必ず掲載されている。また、雑誌としての歴史も長く多くのロック・ファンに親しみのある雑誌である。

 

 

第一項 FUJI ROCK FESTIVAL告知広告の変化

 

まず、1997年から2005年までの雑誌におけるフェス告知広告の変化を見てゆきたい。これは、イベントの開催およびチケットに関する告知がされる広告であり、出演アーティストの第一弾発表が終わった時期に発売になる5月号ぐらいからフェス開催直前の8月号まで毎号に渡り掲載されるものである。

 

1997年の広告は、シンプルな白黒無地の背景に見開き2ページを使って広告されている。出演アーティストの名前が日程・ステージ毎に単調に羅列されている。日にちの区別はページで分かれているので分かりやすいが、「main stage」、「second stage」は文字も小さく、同じように並べられているので、ステージの区別が分かりにくい。「information」として、日時、会場、入場料、問い合わせ電話番号が、出演アーティストなどと同じ文字サイズで整然と書かれている。その隣には、チケット申し込み方法やチケット購入に際しての注意事項が細かい文字で書かれている。97年の広告の情報はそれだけで、「ロック・フェスティバル」とはどんなイベントなのかという説明は無い。また会場での注意事項も無く、必要最低限の情報のみで非常にシンプルな広告である。

 

1998年の広告も同じく白黒印刷で見開き2ページが使われている。しかし、1997年の広告と見比べてみると、非常に派手になった感じを受ける。背景にフェス会場の人々の写真が使われ、フェス会場の賑やかな印象が伝わってくる。文字の大きさにもメリハリがあり、日程、会場などが目立っている。そして、97年の広告にも書かれた必要最低限の情報(出演アーティスト、日時、会場、入場料)は全て1ページの中に収まり、もう半分の1ページには、面積を広く使って「フェスティバルの原則!」が書かれている。以下がその内容である。

 

 

フェスティバルの原則!

 

まず…体を鍛えてくる!

フェスティバルは真夏の炎天下、10時間以上にわたって行われます。

各自、日射病、熱射病等に気を付け、自己の健康管理に心がけて下さい。

 

そして…歩いてくる!

お車での来場は一切出来ません。違法駐車、及び近隣住民の迷惑になる行為はやめて下さい。

 

さらに…ゴミは捨てない!

お帰りの際、ゴミは各自で持ち帰ってください。レジャーシート、パラソル、クーラーボックス等の

持ち込みは可能ですが、会場内での使用は客席後方のみとさせて頂きます。

会場内ではカメラ、ビデオカメラ、テープレコーダー等での出演アーティストの撮影、及び録音は禁止致します。

 

みんなで…助け合う!

フェスティバルはみんなで協力し、助け合いながら初めて成功するものです。

会場内にアルコール、ビン、カン類、花火等の火薬類、その他危険物及び

法律で禁止されている物のお持ち込みは禁止します。

会場内、外において、他のお客様の迷惑になる行為を行う、係員の指示に従われない等のお客様は

強制的に退場させて頂くこともあります、皆さんの協力をお願いします。

場内、外で発生した事故、盗難等は主催者は一切責任を負いません。

終演後はすみやかに御退場願います。会場内には宿泊出来ません。

 

最後に…自分の面倒は自分で見よう!

 

SMASH 1998:『rockin’on』1998.8月号)

 

 

 1997年の広告から比較すれば、観客に対して非常に親切かつ教育的な宣伝の仕方だ。1998年以降1999年、2000年も、FRFの広告ページには、上のようなフェス参加者への注意事項がかなり目立つ形で書かれるようになった。広告では、「自分の面倒は自分で見よう!」「Do it Yourself!」といった言葉がフェス参加者への合言葉のように用いられる。

 2000年までの3年間で目立つ形で掲載されていた注意事項だが、2001年8月号に掲載された広告には、その最も目立っていた注意事項がなくなる。主に出演アーティストのリストが広告の面積の多くを占めるようになり、また、KIDS LANDやNGO VILLAGEなどステージ以外のアトラクションに関する紹介が掲載される。そしてそれまで最大時で4ページ、平均して見開き2ページを使用していた広告が2002年7月号に1ページ広告になる。その情報量も減り、ページのほぼ4分の3は出演アーティストのリスト、残りの4分の1にチケット販売に関する情報が載る。しかし、その出演アーティストとチケット販売の掲載も2005年の広告には無くなる。2005年の広告はFRF会場の写真を背景に、「音楽を遊べ!自然と遊べ!」とキャッチコピーが大きく書かれ、公式ホームページのURLが載っているだけである。

このようにFRFの告知広告は、一度は教育的な内容を含ませ、来場者に対しかなり丁寧な表現になるのだが、数年後にはその形式を辞め必要な情報のみを盛り込むものになり、さらには「遊べ!」とだけ広告するものへ、とその内容を大きく変化させてきた。広告内容の変化により、広告が担う役割も大きく変化しているのだと思う。

 

(表3)フェス告知広告の変化

頁数

記載事項、特徴

97

出演者、日時、会場、料金、問合せ先、チケット申し込み方法、購入の注意事項

98

前年の事柄にプラスして、交通機関、

ほぼ1ページ使って『フェスティバルの原則!』「自分の面倒は自分で見よう!」

99

チケットの購入方法が複雑だったため、その注意、説明が多い。宿泊パック

『チケット購入前に、必ずお読みください』

Do It Yourself!」「以上のことが守れない方は、チケットを購入しないで下さい。」

00

前年同様に『ATTENTION!』「守れない方は…」

券種ごとの細かい説明、エリアマップ

01

ATTENTION!』が無くなる。

ステージ以外のアトラクションの説明が登場。料金の説明がすごく小さい。

02

ATTENSION!』は無いまま。

03

大きく出演ラインナップ。約1/4スペースに「チケット発売中!」

04

03年とほぼ同様の広告形式

05

日にち、会場、URL、写真のみ。出演者リストなし。大きく「音楽と遊べ!自然と遊べ!」

SMASH 1997〜2005:『rockin’on』)

 

 

1998年の広告が親切になったのは、やはり1997年の悲惨な大失敗があったからだろう。1997年は、天候以上にオーディエンスたちの心構え準備不足が事態を悪化させた一つの原因だった。オーディエンスに対し「フェスティバル」とはどういうイベントで、いかに心構えが必要かということをチケット販売の際に、しっかりと説明する必要があった。広告もオーディエンス構築の大きな役割を担っていたのだ。1999年は会場が苗場に移り、東京での開催とはまた異なった心構えが必要になってくる。天神山の二の舞を踏むことなく、苗場で成功をおさめるため、フェス来場者全員の意識が大切だったと考えられる。1999年に一度は成功したが、今度はそれを継続させていくことがFRFの目標になった。1999年以降、ロック・フェスが浸透していく中で、告知広告はより多くの来場者に対しフェスにおける注意事項を広めていく。

 

その後、フェス文化はさらに浸透してゆくが、雑誌広告での「注意事項」の表示を行われなくなる。それまで、最も目立つ形で広告されていたものが、なぜ無くなったのか。その背景には、どのような変化があったのだろうか。オーディエンス成熟にある程度の「到達点」に達したと判断したからだろうか。もしくは、広告以外のメディアでの注意の呼びかけへと変化していくのだろうか。

 

 

 

第二項 オーディエンス教育

 

 次に、オーディエンス教育について、広告以外の記事について見てゆく。特にその特徴が顕著に表れるのは、やはり1998年の第二回FRF開催前であり、7月号・8月号に渡って「FUJIノススメ」という特集が組まれたり、「パーフェクトガイド」が掲載されたりと、1997年には全く見られなかった教育的な記事が登場する。

 

 「FUJIノススメ」では、1997年天神山に「参戦」した編集者が、当時の様子を「死ぬかと思った」「思い出すだけで泣きそう」と冗談交じりで語り、自分たちの準備不足を反省している。1997年は誰もが初めてで準備不足だったことを踏まえ、1998年のFRFは「リヴェンジ」だとして、「東京開催を整然と乗り越えて、再びキャンプ・スペース開催に備えよう」とフェスへ参加する読者に対し呼びかけている。7月号の記事では、フェス会場に向かうまでの様子について書かれている。今年(98年)のフェスでは、「日ざしが死活問題」になること、最寄り駅から会場までの経路(コンビニはあるか、食事できる場所はあるか)、会場の様子(「日ざしをさえぎるものは何もなし」)などを、現地からリポートしている。連載第二回8月号では、「フェスの心得を読者に伝える」をテーマに、事前にタイムテーブルをよく見て当日は時間に余裕を持って動くこと、日射病・熱射病対策を各自でしっかり行うこと、具合が悪くなったときは速やかに救護室に行くこと、といった、まるで小学校の遠足のしおりに書いてありそうなことが掲載されている。加えて、読者の質問に答える形式で、食事できる店について、荷物ロッカーの有無、台風の恐れについてなど、あらゆることに丁寧にアドバイスを与えている。また最低限の常識として「トイレットペーパーを持参する」「携帯灰皿持参」「全員ゴミ袋持参で出したゴミは絶対持ち帰る」等を呼びかけ、全員でクリーンなフェスを目指すことを意識している。

 

 翌1999年は、FRFは会場を苗場に移し、再び山と自然の中のフェスに帰ってくる。そこで雑誌では、1998年ほど初心者向けの教育ではないが、苗場に関する情報が多く掲載されている。現地への交通アクセス、宿泊手段、シャトルバスの運行、苗場会場の模様などを、3号に渡り「速報」の形式で伝えている。

 

 2000年以降もこのようなFRFの速報特集は掲載されるのだが、98年・99年のような「心得」を大々的に扱うような記事は見当たらず、主に出演ラインナップをいち早く報じる特集内容である。

 

 広告における「注意事項」が1998年に登場し2001年になくなるように、ロック雑誌内の教育的記事の特集も98年・99年に盛んに行われ、2000年以降は見られなくなる。やはり、ロック雑誌の読者層に対する、フェス心得の教育はこの時点である程度到達していたのではないかと考えられる。

 

 

 

第二節 「文化」としての昇格――新聞記事での変化

 

次に、フェスが「騒ぎ」から「文化」として昇格する過程について、今度は新聞記事での扱われ方の変化に注目して分析していく。

調査方法:朝日新聞オンラインデータベース“聞蔵”で1997年から2005年8月までに登場したFRFに関する記事を検索した。

 

(資料2)FRF表現の変化

97年 6月27日 夕刊:大型野外ロック・フェス「フジ・ロック・フェス97」

98年 5月7日 夕刊:昨年台風の直撃を受けて(略)話題を呼んだ大型野外イベント「フジ・ロック」

99年 5月20日 夕刊:今年で三回目を迎える日本最大級の音楽イベント、フジ・ロック〜

00年 6月21日 夕刊:“しにせ”の「フジ・ロック・フェスティバル」、はや四回

01年 7月7日 夕刊:この夏も、(略)野外フェスティバルが開かれる。

   10月1日 アエラ:夏の風物詩となったフジ・ロックフェスティバル

02年 7月22日 夕刊:今年の夏も各地でさまざまな野外音楽イベントが

03年 4月3日 夕刊:夏恒例の「フジ・ロック・フェスティバル」

   7月23日 夕刊:野外で開かれるロックフェスティバルの季節がやって来た

04年 7月16日 夕刊:すっかり定着した夏の大型イベントの季節がやってきた。

           日本を代表する夏フェスといわれる「フジ・ロック・フェスティバル」

05年 5月24日 夕刊:夏の風物詩として定着した感のある野外ロックフェスティバル

 

上の(資料2)からも分かるように、1997年、1998年の記事では、そのままロック・フェスといった表現なのだが、2000年には他の大型野外フェスも開催されるようになったこともあり、FRFに対して、「しにせ」とか「恒例の」といった扱いに変化していくことが見て取れる。そして、2001年からは「今年も」「夏の風物詩」「恒例」といった表現が使われるようになる。

これらのことからも、FRFをはじめとしたロック・フェスが数年の間に社会に広まり浸透していったことが読み取られる。

 

 

(資料3)主に社会面でのFRF記事

97年 7月28日 朝刊 社会:フジ・ロック・フェス97、風雨で2日目中止

98年 7月24日 夕刊 社会:ロックにリサイクルを!学生環境保護団体がゴミ袋の配布作戦

 8月2日 朝刊 社会:屋外ロックで観衆350人手当て 満員で貧血、踊りけが 東京・豊洲

8月3日 朝刊 社会:○海辺に一番の人出 ロック会場、熱中症など740人

99年 7月28日 朝刊 新潟:国内最大級のロックコンサート 苗場でフジ・ロック・フェス/新潟

7月31日 朝刊 新潟:夏だ、音楽だ、人波だ フジ・ロック・フェスティバル/新潟

01年 8月20日 朝刊 文化:夏ロック、祭り気分はガス抜きか

02年 7月27日 朝刊 1面:テント満開、ロック満喫「フジ・ロック・フェスティバル2002」

8月3日 朝刊 新潟:夏ロック成長、9万人揺れた 苗場の音楽祭、過去最高の人出/新潟

04年 8月5日 朝刊 文化:ゆったり楽しむ フジ・ロック・フェスティバル

05年 7月31日 朝刊 新潟:ロックの祭典に聴衆歓声 湯沢で「フジ・ロック・フェスティバル」/新潟県

 

次に、主に社会面でのFRFの記事の登場を見てゆく。1997年7月28日 朝刊で、二日目の開催が中止になったことが報じられる。「約三万人の観客が集まったが、台風による風雨のために、体の冷えた数百人が手当てを受けるなど、観客の疲労が激しく、会場の足場も悪化したことなどから、主催者が二十七日のコンサートの中止を決めた。」(朝日新聞 1997:7月28日朝刊)結果として大失敗に終わった1997年、FRFは、一つの「事件」として扱われ、若者が暴走したある種「騒ぎ」として社会に受け入れられていくようになる。

 

1998年、富士山麓での開催が出来なくなり、東京という妥協した場所での開催となった。この年は、前年の反省を生かし、観客も主催者も準備を怠らなかった。観客は熱中症・日射病の対策を自分たちで行い、フェスを楽しんだ。主催者は救護テントで手当てを受けた者を全員細かく計数した。その結果「屋外ロックで観衆350人手当て 満員で貧血、踊りけが」(朝日新聞 1998:8月2日朝刊)とまるで負傷者が続出したかのような報道のされ方をしてしまう。この負傷者というのも、実際はバンソウコウ程度の擦り傷や、貧血気味で休息をしに救護テントに訪れた人がほとんどだったそうだ。しかし、報道メディアはFRFに対して取り立てて「騒ぎ」のような扱いを続け、イベントとしては成功に終わった第二回FRFであったが、報道の中では「騒ぎ」としての記号が付されたままだった。

 

 1999年以降、新潟の地域面では毎年イベントが開催されたことを報じる記事が掲載されていく。そして2002年、FRF会場のキャンプサイトの写真が全国版の朝刊1面で紹介され、ここでは、「事件」でも「騒ぎ」でもなく、ごく一般的な恒例行事のように登場する。イベントとして継続してきたもあるが、イベント自体の方向性は何も変わっていないのに、記事での扱われ方が、すっかり様変わりする。

 

 FRFをはじめとするロック・フェスの浸透により、新聞報道での扱われ方も変化し、フェスは「騒ぎ」から「文化」へとわずか3〜4年の間に昇格していく。

 

 

 

第三節 フェス文化の大衆化――雑誌系統の広範化

 

 ここまで、フェス文化の「生産」と、文化としての「昇格」を、それぞれのメディアにおける扱われ方の変化から見てきた。次に、このように生産され昇格したロック・フェスが、さらに大衆へと浸透していったことについて見てゆきたい。

 

第一節ではロック雑誌でのオーディエンス教育の変化を見てきたが、ロック雑誌での教育的なオーディエンスへの心構えを掲載した特集は98年99年に見られるだけで、広告内での呼びかけも2001年には消えている。ロック雑誌の読者層への「教育」はその時点である程度到達していたと予測されるが、オーディエンスへの教育はロック雑誌を越え、一般の情報雑誌の中で行なわれるようになる。フェスは、読者層がより広範なものに広がり「教育」されていく。

 

 『ぴあ』や『日経エンタテインメント!』などエンタテインメント情報誌、『山と渓谷』などアウトドア情報誌、『ぼらんたーる』などボランティア情報誌、『Tokyo Walker』のような巨大部数を誇る情報誌、さまざまな分野の雑誌で「フェス」が特集されるようになる。

 

たとえば、2004年『SWITCH』8月号では特集が組まれ、国内外の夏の野外フェスに関する情報、フェスに向けての持ち物リストや服装、フェス会場周辺の温泉情報などを掲載している。また、著名なクリエイターにフェス経験やフェスでの好きな過ごし方などをインタヴューしている。

 

 ロック・フェスを紹介する雑誌系統は特定の音楽ファンが読むロック雑誌から、より広範な層の読者を有する雑誌へと浸透・一般化していく。このことから、ロック・フェスは一部の音楽ファンによる「騒ぎ」に過ぎなかったものから、よりポピュラーな「文化」として社会に浸透し定着していったことがわかる。

 

 

 

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