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第5節 職人の変容 (宮崎 園子)

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 私たちが高岡漆器の調査をおこなったのは、2003年10月9日の北日本新聞で取り上げられた記事がきっかけであった。記事の内容は高岡漆器の若手グループt[j]rが東京デザイナーズウイークに参加する、というものであった。t[j]rは若者向けのシンプルなデザインの漆器を作ろうと結成されたグループであり、東京デザイナーズウイークでは食器類50点の展示と塗りの紹介をした。今まであった伝統的な漆器とは一味違った現代的な漆器を作っている。そこには、私たちが伝統的だと思っていた漆器というものを、積極的に現代の生活に合わせ、伝統的な漆器から現代的な漆器へとみごとに転身している様子や、またそのことをたくさんの人に知ってもらおうとする高岡漆器の情報発信がうかがえた。
 しかし、職人たちとのインタビューを通して、試行錯誤し、苦悩している高岡漆器の姿も同時にみえてきたのである。本節では、このこともふまえながら、高岡漆器職人の変容を特徴づけてみたい。


(1)高岡漆器に対する危機感

 インタビューで8人の職人それぞれが、高岡漆器に対するなんらかの危機感を持っていることがわかった。危機感の内容は人それぞれで違っていたものの、8人全員に共通していたことが後継者問題であった。
 全国的に伝統工芸の後継者は不足しているが、高岡漆器の後継者不足も深刻である。意外だったのは、私たちが考えがちな「人材不足」が原因ではなく、育てた後継者の人の生活に責任を持つことができないからなのである。彫刻師のHTさんはこう語っている。

育てたいけれども、かわいそう。そりゃ、育てたい。2人でも3人でも育てたいよ。だけど育ててもその人が生活できんもん。私自身が生活できんのに、そう、弟子を入れてね、その人に教えてね…その人の責任持てんもん。だから、私だけでなしに、他の人もみなそう思って、だから後継者がおらんがやちゃ。伝統工芸に後継者がいないということは、そこにあんがやちゃ。

 このように、職人自身が生活していくのに手一杯で、弟子の生活まで面倒を見ることができないとHTさんは言う。そして、もし、後継者を育てたとしても、この先漆器が売れない可能性もある。そのため、「漆器が好きだから」という気持ちだけで簡単に跡を継がせることはできないのである。
 また、自分の子どもに跡を継がせることに関しても、青貝師のMYさんだけが息子さんに跡を継いでもらうことが決まっているだけであった。他のほとんどの職人は自分の子どもに跡をついでもらうことに対してあまり期待はしていないようである。継ぐか継がないかを決めるのは本人次第で、無理には継がせないと考えている人が多かった。また、大きくなってしまった今からでは技術の勉強をするのに遅すぎる、女の子だから跡を継ぐことをあまり強くは言えないなどと考えている人もいた。しかし、本当は後継者を育てたい、というのが彼らの本音であるように見えた。彫刻師のHTさんは、自分の持っている技術を少しでも多くの人に教えたいから、小学校などに「講師として来てほしい」と頼まれたら喜んで行くと語っていた。
 他にも、自分以外の工程の職人が高齢化し、後継者がいなくなってきていることを心配している職人もいた。例えば、青貝師のOHさんは、木地師が少ないのももちろんのこと、特に塗師が高齢化し、その跡を継いでくれる人がいないことを心配している。それは、青貝師がいくら作品を作ったとしても、塗る人がいなければ漆器は完成しないからである。高岡漆器は分業であるために、ひとつの工程の職人がいなくなってしまったら漆器が作れなくなってしまうのである。
 後継者問題の他には、変わりきれていない高岡漆器に対する危機感が語られた。
木地師のFKさんは、現在の高岡漆器の変化について「中途半端な、どっちつかずの状態である」と語っている。それは、高岡漆器が今の生活にあわなくなっていると感じていて、今よりももっと思い切って変わることが必要だと考えているからである。もちろん、FKさんは、昔と同じような作品を作ることができる人がいたほうが良いと思ってはいるが、このままでは昔と変わらない技法だけを継続している人がいるに過ぎなくなってしまう、と考えている。これからは、昔とあまり変わらないような作品を作っていくのではなくて、高岡漆器の技術を生かし、今の生活にあう漆器を作る、というようにもっと意識を転換していくことが必要であり、また、そうすることによって、高岡漆器もさらに続いていくのではないか、と彼は語っていた。
 また、塗師のMHさんも、高岡漆器は昔とそれほど大変わりしていないと感じている。彼によれば、大きく変わっていないから今の高岡漆器の状況があり、こうなってしまった今になってあたふたしている。生活様式が変わってきたことに目を向けてなにか手をうっておけば、このような状況は回避できたはずである。しかし、MHさんはその一方で、高岡漆器が今日まで残っているのは、高岡漆器の良さを受け継いできたからだ、とも感じている。MHさんは伝統を伝えていくということはあまり気にせずに、新しいことに挑戦しようと考えている。それは、伝統というものの決まった形があり、それを今までと同じようにすることも大事であると思ってはいるが、今まであった伝統をその時代にあわせて変えてゆかなければ伝統にはならないし、伝統が伝わってゆかない、決まりきった伝統を伝えていては、高岡漆器は消えゆく運命にあると考えているからである。
 さらに、青貝師のOHさんは、高岡漆器も変わろうとはしているものの、それ以上に社会が早く変化していて、追いつけてないために変わりきれていない、と考えている。そして、漆器の売り上げも落ちているために高岡漆器が危ない、と感じることもあるそうである。そのために、自分でなにかしなくてはならない、と思っているものの、どのようなものを売ればよいのかわからない、とも彼は語っていた。
 上に挙げた3人は、他の5人に比べて、高岡漆器に対する危機感の語りが特に目立った職人たちである。そして、この3人には1960年代生まれという共通点がみられる。
 1960年代生まれの職人たちは、いずれも1990年前後に独立したり、本格的に職人としてのキャリアを開始したりしている。1960年生まれの青貝師のOHさんは、高校卒業後大工になり、1982年22歳のときに青貝師のMYさんに弟子入りし、そして1992年に独立した。塗師のMHさんは1961年に生まれ、1980年高校卒業とともに修行を始め、1988年に独立した。また、木地師のFKさんは1963年に生まれ、大学卒業後2年間だけ名古屋で就職し、1987年から本格的に木地師の仕事を始めている。このようにしてみると、3人は、いずれも職人としてのキャリアを形成してゆく時期にバブル経済の崩壊を経験している。売り上げが低迷する中で、彼らが、伝統的な高岡漆器を作り続けてよいのか、それは現代の生活にあわないのではないか、と考えるようになっても不思議ではない。そのため、1960年代生まれの人たちは売れるような漆器を作る職人のスタイルを求め、そしてそのことが、顕著な危機感の語りとなって表れたのではないかと考えられる。
 一方、それ以前に生まれた職人たちは、1990年代前後には、既に職人としてのキャリアを長年積んでいる。そして、彼らは、その後にバブル経済の崩壊を経験した。もちろん、バブル崩壊を経験している以上は、高岡漆器に対する危機感を持っている。しかし、自分の長年の経験に基づいて知っている高岡漆器の良さがこれからも分かる人には受け入れられていくという自信あるいは信念も一方ではあり、そのことが、危機感の語りがあまり目立たない背景になっているのではないだろうか。

(2)変わろうとする高岡漆器 〜職人たちの試み〜

 このように、調査によって、現在の高岡漆器への危機感を持っている職人の存在がわかった。しかし、職人たちは何もしていないわけではなく、この状況を打破するためにさまざまな試みを行っている。ここでは、その試みを、例を挙げて紹介する。
 青貝師のMYさんは、漆塗りのシンプルなデザインのめがねケースを作った。加飾で2パターン、色が3種類(黒、グリーン、ワインレッド)のものをつくった。塗りの面ではより安価に、そしてきれいに塗ってくれるところに頼んだ。彼は「今のほうが厳しいが、やりがいがある。今はいろんな要求があり、それがおもしろい」とも語っている。例えば、現在では、フッ素樹脂でコーティングしたエクステリア製品を試作するなど、MYさんは現代の生活にあった漆器を安く消費者に提供しようとしている。
 木地師のSRさんは、祖父の代まで作っていた火鉢を作るのをやめ、丸盆を作り始めた。SRさんが家業を継いだのは終戦後で、生活様式の変化から火鉢が売れなくなったのだという。そのことを察知したSRさんの父親が丸盆を作り始めたのだ。そして、丸盆はSRさんのメインの商品として今でも作り続けている。しかし、丸盆も時代とともに変化しているという。「丸」という基本の部分は変わらなくとも、厚みや深さ、持った感じなどが変わっているという。そのような時代の変化については、問屋との話し合いやデパート売り場の情報などで得ているという。また、SRさんは漆器とは全く関係の無いものを見て、新しい作品の形の参考にしている。「無から有を作ることはなかなか難しい」とSRさんは語っている。
 また、青貝師のOHさんは従来の丸盆ではなく、六角形のお盆を作り始めた。OHさんはここ2.3年、六角形の形をした変わった形のお盆を作り、たくさん売れたのだという。それを作ったのは、OHさんがいつも相談している人と話し合い、一生懸命考えた結果だという。OHさんは、現在は昔と売れるものが変化していて、何を売っていいのか分からない、と語っていた。しかし、OHさんは女性をターゲットとしたデザインのものを意識して作っているのだという。六角形のお盆が売れたのは、OHさんが現代の女性の心をうまくつかむことができたからなのかもしれない。
 木地師のFKさんは、現在は伝統的な高岡漆器の仕事はあまりしていないのだという。それよりも、高岡漆器の技術を活かした、新しいことに挑戦したいと語っており、今は「拭き漆」の作品を作っている。拭き漆というのは、生漆を木地の表面に塗って、拭いて、乾かすという作業のことである。FKさんは拭き漆の技法を用いて、高岡漆器にはあまり見られなかったテーブルや椅子といった大型のものもつくっている。このように、FKさんは高岡漆器の技を活かして現代の生活にあった新しい作品を作っている。しかし、伝統から離れて新しいことをしていくことに関しては、父親との「ズレ」もあるし、ジレンマも感じる、と彼は語っていた。というのも、実際、漆器を買うのは年配の人が多く、若い人たちにとっては値段的にあわない部分が多いからだ。しかし、若い人向けの作品を作ることも考えていかないと、今の若い世代の人たちが年をとったときにまったく漆器が売れなくなってしまう、とFKさんは危機感をもっている。そのため、FKさんは将来のことも視野にいれた新しい試みを実行しているのである。私は、若い人向けの漆器があまり売れなかったとしても、FKさんがしていることは、高岡漆器が将来生き残っていくために必要な、意味のあることではないかと思う。
 塗師のMHさんは、新聞記事にもあったt[j]rのメンバーのうちの一人である。MHさんがt[j]rに参加した理由は、高岡漆器をこのままにしておくのはもったいない、なにかしなくてはいけない、というデザイナー佐藤康三氏の言葉がきっかけであった。そして、若い人たちにも漆を知ってもらおうという思いから、若い人向けのシンプルなデザインの漆器を東京デザイナーズウイークで展示することを決めた。イベントでは、若い人はもちろんのこと、外国人もたくさん来て、たくさんの反響があったのだという。
 MHさんは漆器のなかなか売れない現在の状況が普通であるというふうに受け止めている。そして、ここからいかにして伸びていくかが売る側の腕の見せ所であり、楽しみであると考えている。そのような現代だからこそ、なにかもっと熱いことをしなければならないと考え、どうなるかわからないけれど、とりあえず動いてみよう、という思いからt[j]rを結成したという。そして、そのようなMHさんの行動は、漆器をあまり知らない若い人にはもちろんのこと外国人にも、高岡漆器のみならず、漆器について知ってもらう良い機会を作ったのではないかと思う。
これらの職人たちの新しい試みからはいくつかの共通性を見出すことができる。
 1つ目に「若い世代をターゲットとしてみていること」である。木地師のFKさんも言っているように、たとえ今は値段的に若い人向けではなかったとしても、若者をターゲットにした漆器を作ることはとても意味のあることであろう。それは、今の若い人が欲しくなるような漆器を作っていかなければ、将来今の若い人たちが年をとったときに古い、伝統的な漆器では買ってもらえないと思うからである。そう考えると、この先、今の若い人が好むようなデザインの漆器を作っていかなければ、何十年か経ったときには高岡漆器の将来はどうなっているかわからない。
また、塗師のMHさんは、MHさんよりも上の世代の人たちと同じことをしていたらこの先、高岡漆器は続いていかないし、また、上の世代の人に理解されるようなことをしてはいけない、上の世代の人と多少ぶつかったとしても、新しくやったことで結果を出せば文句も言えないだろう、と考えている。そのような考えからt[j]rに参加し、今までには考えられていなかった「若者」という新しいターゲットに漆器をアピールすることにより、新たな高岡漆器の在り方を見つけようとしているのだろう。
 2つ目に「日常生活にあったデザイン」である。例えば、木地師のSRさんは丸盆、という基本的な部分は変えていないが、時代とともに丸盆の厚みや深さ、持った感じなどを変えて時代の流れにあわせて作っている。これは、時代とともに、昔からあったような漆器では現代の生活にはあわなくなっているからだと考えられる。職人の中には、「現在の住宅には漆器の置き場所がなくなった、大型の漆器は売れなくなった」と語っている人もいた。住宅の西洋化に伴って、昔からあったような伝統的なデザインのものは現代の生活にあわなくなっているのだ。
 3つ目に「シンプルなデザイン」である。これは、2つ目の「日常生活にあったデザイン」にもかかわることであるが、現代の生活様式にはシンプルなデザインのものがあうことが多い。このことは展覧会の入賞作品の変化にも関係している、と指摘する職人もいた。昔入賞した作品のデザインは派手な装飾のものであった。しかし、最近の入賞作品はシンプルな、あっさりとしたデザインのものであるそうだ。審査も消費者のニーズにあわせて変化していっているのである。そして、このことに関して、「技術的には作れても現代風な感覚についていけない」と語っている職人もいた。
 最後の4つ目は「値段の安いもの」である。例えば、青貝師のMYさんは、高岡漆器の中では比較的値段の安いめがねケースを作っている。塗りの面ではより安価に、そしてきれいに塗ってくれるところに頼んだという。MYさんの工房のホームページを見てみると、5000円以下で買える商品があったり、フッ素樹脂でコーティングしたエクステリア製品を試作していたりと安い価格で消費者に商品を提供しようとしていることがうかがえる。
 今の時代私たち消費者は、高い値段のものは質がよくて当たり前、値段が安くてなおかつ質も良い、ということに慣れてしまっている。そのような時代の中では、値段の高い漆器はたとえ質が良くても、もっと値段が安くて質もそれなりのものには勝つことができないだろう。これからは、漆器もリーズナブルな値段のものが求められているのである。そんな中で、MYさんは安い価格の漆器を作ることによって時代の流れに上手に乗っているのではないだろうか。
 この4つの共通点は、1つ1つが独立して存在しているものではなくて、相互に関係をもっているものではないかと思う。例えば、「シンプルなデザイン」が「日常生活にあったデザイン」であるし、「値段の安いもの」は「若者向け」にもなる、といったように、それぞれがそれぞれに関係をもっているのだ。また、これらのことは、これから先の将来、どれも欠けてはならない重要な要素であるようにも思われるし、また、この共通点がこれからの高岡漆器を考えていく上で大きなヒントになっていくのではないかとも思う。塗師のMKさんはこれから先のことをこのように語っている。

MK:市場開拓の勉強とか、そういうこと考えてってもらわんなんね。
森田:もう漆器だけやっとりゃいいってもんではない。
MK:だめだめ、今そんな時代じゃない。やっぱり問屋さんが、あんまりほら、漆もう扱わんようになったやろ。高岡の場合特にね。それで、みんな売れるもんを同じように作ってくやろ、各産地ではね。ほったら競争がひどくなっていくやろ。そいつについていけんがちゃ。下請けの塗り屋、塗るところとしたらね。
森田:もっとなんか、新しいのを取り入れて、下請け…
MK:下請けから、出ていかんならん。

 このように、これからは問屋の考えるデザインを作る、下請けのみをするのではなく、職人自らが積極的に現代の社会に飛び込んで行き、そこから売れるデザインを考える、といった市場開拓が必要だ、とMKさんは考えている。


(3)まとめ
 今回のインタビューでわかったことは、現在の高岡漆器職人たちが変容してきている、ということである。それは、職人それぞれで変容の度合いなど違ってはいるものの、8人すべての職人に見られることである。
 第3章第2節では、「職人」と「作家」の違いを「同じものをたくさん作ることができる」と表現した人がいた。これは、昔から受け継がれている職人としての誇りと見ることができるが、この誇りは、製作過程のある部分に限定的に向けられている。同じ作業によって、質のそろったものをいくつでも作れるという性能へのこだわりがこの誇りの源泉である。そこには、例えば自分で現代のライフスタイルに合ったデザインを考えるといった要素は含まれていない。
 しかし、職人の中には、それでは足りないと考える人がいる。先の塗師MKさんの語りは、どんなに技が熟練していたとしても、注文されたものしか作れなければ各地の競争が激しくなって注文が減っていったときに生き残っていくことは難しい、という見方を示している。同じものをたくさん作ることができるという技だけを持っているだけでは高岡漆器は生き残っていけないのではないか、ということである。
 しかし、現在の職人たちはそうではなく、デザインを職人自らが考えたり、職人と問屋が共同でデザインをしたり、デザイナーにデザインをしてもらったりと職人たちが積極的に漆器を現代にあわせていこうとしている。つまり、「同じものをたくさん作ることができる」技に加えて「漆器を現代にあわせていこうとする」志向という2つの要素を持っているのである。この「漆器を現代にあわせていこうとする」作業は、一種のマーケティングとしてとらえられるから、今までは職商が相対的に分離していたのに対して、「職」に「商」が部分的に流入するようになったと見ることができる。したがって「商」の機能を部分的に組み込むようになった点に、高岡漆器職人の変容をみることができるであろう。
 これから先、このような職人たちの変容によって、高岡漆器がほかの伝統産業とは違う個性を発揮することができれば、高岡漆器の独自の位置を築いていくこともできるのではないかと私は思う。また、個性を発揮し、安定した高岡漆器の位置を築くことができれば、漆器に対する将来の不安もなくなり、後継者を受け入れることのできる環境も整って、後継者問題の解決にもつながるのではないかと思う。
 職人たちのインタビューからわかったことは、職人たちが変わってきているということであった。今までは漆器に対して受動的であった職人たちが、能動的かつ積極的に高岡漆器を変えようとしているのである。そしてその職人たちの行動は、高岡漆器が生き残ってゆくための鍵であると私は思う。職人たちの変容は、高岡漆器が生き残り発展していこうとする姿を反映しているのである。


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