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第4節 高岡漆器職人たちと「伝統」 (河原田 香苗)

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(1)「伝統」へのそっけなさ

 職人たちにとっての「伝統」について私が興味を持ったのは、インタヴュー中に「伝統」という言葉を向けられたときに多くの職人がそっけない反応を見せたことがきっかけであった。職人たちは「伝統」という言葉が出てきても実にクールな発言を返しており、一見すると「伝統」を重視していないかのように見える。例として次の職人たちの発言内容を見てほしい。彫刻師のHTさんは自身で伝統工芸士の資格を持っているが、それにもかかわらず「伝統」という言葉に重圧は感じないと言う。むしろHTさんは高岡漆器の職人であることや、彫刻において日本の経済産業省から認められたのだということに対して誇りを感じるのだということだった。また、青貝師のOHさんは伝統工芸について次のように語ってくれた「これ言うたら、どうなるか、本当は、だめなことなんやけど、伝統工芸品っていうのは、もうつぶれますよっていう目印になっとるんですよ。補助せねばこの業界は生きていけませんよーって」。しかし、いいものは残していかなければという信念がOHさんにはあるようだ。「まぁ重圧っていうか、いいものは必ず残ると思いますし、いいものをつくっていけばいいと思ってるんで」。だからといって肩肘を張って無理をすることもないし、今まで自分がやってきた仕事を一生懸命やっていけばそれでいいのではないかと彼は語ってくれた。以上の2人以外でも、塗師のMHさんや木地師のFKさんは伝統工芸ならではの重圧感は感じたことが無いと言っていた。塗師のMKさんは伝統工芸士という肩書きには重圧を感じるが自らが伝統工芸品を作るということには重圧を感じないという。MKさんは伝統工芸について、平生自分がやっていることであるために負担にはなっていないし、塗りの仕事が楽しいから仕事に携わっており、「かわったもの」を作るときはおもしろいし、多くの製品を仕上げなければならないときは逆にちょっと負担になってしまうこともあるのだと語ってくれた。
  これらの事例から私は次のような疑問を持つに至った。 職人たちが自らの「伝統」について語っている部分はどうして職人たちは「伝統」という言葉にあまり反応を示さなかったのであろうか?仮にもかれらは一人ひとりが現在の高岡漆器を根底から支えている職人であり、漆器が生活の一部になっている人たちである。それなのにどうして「伝統」という言葉に対して積極的に反応しなかったのであろうか?

(2)職人の意味世界における<伝統>的なるもの

 まず考えられるのは、職人たちは「伝統」をことさら意識していないため、インタヴュー中にあのように答えていたのではないだろうか、ということである。私たちは伝統工芸品や職人の様子などを語るときに「伝統的なものである」とか「伝統工芸品ならではのものだ」など「伝統」や「伝統的」という定義づけを職人製や製品そのものに対して良く行う。このような「伝統」の観念は職人の側にはそもそも存在しないものなのかもしれない。だから、予想に反して彼らはインタヴューの中で「伝統」の考え方をそれほど持ち出さなかった、と考えることもできる。
 しかし、職人たちが「伝統」という言葉にそっけない態度を取るのはそれだけの理由だと言い切ってしまって本当にいいのだろうか?調査のインタヴューを読む限り、そうは言い切れない部分も多々存在する。実はインタビュー中に職人たちが「伝統」という言葉を使わずに、長年蓄積されてきた伝統の技術や製品などに対しての考えや思いを実に雄弁に語る部分があるのだ。これを私たちはどのように捉えたらよいのであろうか?やはり、そこには「伝統」という言葉だけでは語ることができない職人たち特有の感情や考え方が存在するのではないだろうか?ここから先はその職人がそれをどのような言葉で語っているのか例示しながら、その奥には職人のどのような考えや思いが存在するのか検証していこうと思う。
 青貝師のOHさんによれば、自身の家では家庭でも子どもたちに漆器のスプーンを使わせているという。それは別に両親が強制したからというわけではないのだが、子どもたちは口当たりが良いためか自然に自分たちから漆器のスプーンを使うようになったという。これに対してOHさんは「要はそういう木の物、まあ木が本物とは言いませんけど、いいものを使うべきだと思います。…(略)…使う前から、めんどくさいんだとかいう感覚があるでしょう、みんなに。だけど違うんですよね、使ってみていいものはやっぱりいいんです」と漆器の持つ良さを語ってくれた。
 ここから読み取れるものは、高岡漆器職人の製品に対する確固たる自信である。彼ら職人は高岡漆器が「いいもの」であるという確信や自負を持っていることが分かるし、だからこそ自分の子どもにも漆器を日常生活の中で使わせているのだろう。自らの技に自信や自負を持っているからこそ職人もこのようなことができるのだろうし、自分が製造に関わっている漆器を「使ってみていいものはやっぱりいい」と言うことが出来るのである。この言葉は製造に関わる高岡漆器の職人であるからこそ言うことができる言葉である。
 また、職人は消費者が「使う前から、めんどくさいんだとかいう感覚」を持っていることを残念に思っていることもここから見て取れる。彼らは漆器の素晴らしさを製造過程で実感して、その良さを一般に広く広めたいと考えているのである。職人の生の声として伝統工芸の受け手が耳を傾けなければならない言葉であろう。
 青貝師のOHさんと同じく漆器の良さを語ってくれた職人さんに木地師のFKさんがいる。その部分を第2章第1節「2.自分の子どもみたいな木に囲まれて:木地師FKさんのライフ・ヒストリー」から引用しよう。

「例えば、お椀の話すると、プラスチックの漆みたいなお椀と、僕らみたい木地でちゃんと塗りをしたものとあったとしますね。そうすると、そのー、プラスチックのは、熱いものを入れたとき、持ったら熱いんです。熱がすぐ伝わるんです。だけど木で作ったやつは熱が伝わりにくいので、もちろん熱湯入れればだんだん熱くなってきますけど、たいがいは手で持って大丈夫」なのだそうだ。また、「もちろん、口当たりもいいし、逆に冷たいものをいれても、ガラスだとすぐ汗をかくけれども、漆器の場合は汗をかかない」と本物の木地ならではの優れた特徴を指摘している。
 漆器には他の国には見られない独特の繊細さや手先の器用さが作品に表れているとFKさんは胸を張る。「ここまで神経を、なんていうか繊細なところはちょっと他の国にはないんじゃないかなって思うんですよね」。手間がかかるので、外国の人にとっては「なんでこんなことしてまで作るんだ」という感覚があるようだと、FKさんはいう。職人一人一人の丹精を込めた手作りだからこそ作品一つ一つに職人の魂が息づいている。そこには、日本人の根気強さと手の器用さが活きてるんじゃないか、とFKさんは考えている。
 ここではFKさんは漆器の良さを上記のように説明しているが、この言葉も高岡漆器の職人だからこそ出た言葉だといえるだろう。そしてFKさんがそれを生み出した日本の文化や日本人の感覚に誇りや尊敬の念を持っていることもうかがい知ることができる。この点はまさに職人ならではの感性だということができるだろう。中でも特に興味深いのは、「職人一人一人の丹精を込めた手作りだからこそ」製品には職人の魂が息づいており、そこには日本人の根気強さとての器用さが活きているとFKさんが考えている点である。私はこの部分を読んで職人の漆器への強い愛着や自負の気持ちがこのような言葉になって現れたのではないだろうかと考えた。この言葉は高岡漆器の職人だからこそいえた言葉だと思うのである。自らの職業として漆器に関わり続けてきたこそ、このような愛着を持つに至ったといえるし、実際にFKさんもそのように考えるようになったのだと思う。
 ここに挙げたふたつの例で、語り手は「伝統」という言葉は使っていない。しかしそこには職人ならではの漆器に対する感情や考え方がある。FKさんはそれを「独特の繊細さや手先の器用さ」への絶対的な自信という形で表現して、職人の手仕事の良さを語ることで自らの思いを語っている。このような自信が職人にあるからこそ、OHさんも漆器のスプーンを家族に使わせているのであろう。これらの例は「伝統」では語れない職人の感情や考えを語り手が語っている場所であると見ることができる。 
 塗師のUAさんは、職人としての人生がから影響を受けた経験を持つ。その部分をUAさんが語った箇所を第2章第2節1.「宿命やったから:UAさんのライフ・ヒストリー」から見てみよう。

 家業を継いでから10年ほど、30歳になるまでは家の、父親の仕事をしたくなかったそうだ。父親は彫刻塗の仕事しかせず、これでは仕事が来ないようになると思い、有名な職人の家へ技術を盗みに行った。習得した技術と、これまで自分や父親が駆使していた技術を見比べて、「うちの親父はこの程度かな」「親父、なんちゅう古いことやっとんやな」と思うようになり、技術を見る目も養われた。(…略…)
 彫刻塗だけではなく青貝塗りの仕事も出来るようになり、県外からの仕事の注文も来る様になった。しかし、彫刻塗の技術を捨てると言うわけではなく、父親の使用していた図柄を使用して、今では失われつつある昔ながらの彫刻塗の作品も作ったことがある。(…略…)また、近年では、父親から継承した技術を用いて高岡の曳山の修理も手掛けている。

 この事例から読み取れるものは、無意識に職人に作用している伝統の存在であろう。UAさんは当初、<伝統>を殊更意識してはいなかったにも関わらず、現在では、父親から受け継いだ伝統的な図柄や技術を後世に残そうと仕事をしているのである。私はここに職人に代々受け継がれている伝統の本来の姿を見た気がした。職人のなかに受け継がれてきた伝統とは決して伝統産業だからという理由で受け継がれてきたものではなく、自分の代から次の代へと自然の営みの中で自然に継承されてきたものなのだろう。それは職人の家族や徒弟関係の中で築かれてきた生業として生活の中で職人の身体に染み付いているようなものなのであって、殊更「伝統」産業だという肩肘を張った考え方の中で形成されたものではないのだ。
 このUAさんの例でも「伝統」は殊更に語られることはない。しかし、彼の中での伝統は、時代を超えて脈々と受け継がれうるものであり、確実に職人たちの意識の中に内在しているものでもある。
 青貝師のMYさんは伝統や弟子への職人教育について次のように話してくれた。その部分を第2章第4節2.「仲間と磨く:MYさんのライフ・ヒストリー」から見てみよう。

33歳で初めて弟子を持った。地域や人によって弟子の育て方もいろいろである。住み込みで給料は月5万円程度のところもある。MYさんの工房では、弟子を従業員として扱っているのが特徴である。従業員は現在女性2名である。高岡短大卒と工芸高校卒の人に募集をかけた。MYさんは弟子たちについてこう述べている。従業員という形は安定的な面もあるので、ここの人たちは楽に仕事をしていて、早く独立したい等という貪欲さがない。だがそれぞれに欲求はあるはずなので、感性をだしてあげたい。個性にあったものづくりをさせたい。もちろん、この仕事は伝統産業として伝えていけるものであり、先代から受け継いできたものでもある。伝えることが伝統産業の義務だと思う。(…以下略…)

 ここでは、MYさんが伝統と個性という、一見すると相対しそうなものをどちらもものづくりに必要なものとして捉えているところが特に興味深い。MYさんにとっての伝統とは、次の世代にどうしても伝えなければならない基本的なことであり、職人の個性とは対立するものではないし、職人教育の中での伝統性も部分的であり基礎的なものなのである。
 また注目したいことはMYさんが職人として、伝統を次世代に伝えることの重要性や必要性を語る時に「個性」や「感性」の重要性も同時に訴えていることである。伝統工芸にあまり関わったことのない人から見たら意外に思うことなのかもしれないが、職人たちの持っている伝統の概念は職人一人一人の感性や個性とも係わり合いがあるということをここから読み取ることが出来る。このことから、職人の精神構造の中での<伝統>は少なくとも一般的に考えられているような限定的なものではなく、個人の感性や個性を重視した柔軟的なものだといえる。

(3)「伝統」と<伝統>

 本節が発見したのは、職人たち特有の意味世界における<伝統>の観念と、私たちが普段一般的に考えている「伝統」とでは捉え方にかなりの差異、ギャップがあるということである。
 先に例示したように、職人たちの中に脈々と受け継がれている、いわば「生きた<伝統>のようなもの」がある。しかしそれは、高岡漆器に対して社会の側が「付与した伝統」とは全く異質のものだといえる。高岡漆器の職人たちには、いわゆる外の世界で呼ばれる「伝統」と言うものは存在しないのである。職人たちが持っているものは生活の中に根付いた日常の一部分としての高岡漆器への感情であって、ほかのものではないのだ。
 それに対して、現代の社会は高岡漆器をはじめとする伝統産業を「発見」し、それに対してに「伝統」という言葉を付与した。これによって高岡漆器は「伝統的なもの」として人々に広く捉えられるようになった。しかし、職人たちの意味世界から見れば、「伝統」の観念は外の世界から特徴付けられたものであり、自分たちの生活に根ざしたものではなかった。また、もともと頻繁に使われていたような言葉ではなかったのである。
 このことから、高岡漆器の職人の内部世界では「伝統」とは違和感のある言葉であることや、「伝統」という言葉そのものへの馴染みの薄さなどが予想できる。職人たちがインタヴュー中に「伝統」という言葉に対してそっけない態度を取ったことも、「伝統」という観念が自分たちの中に存在し得ない感覚だったからだと説明することができる。
 このことは私たち一般の伝統工芸に詳しくない人々が伝統工芸品を見るときや伝統工芸やその職人に関わるときに知っていなければならないことではないだろうか。職人が今も昔ながらの製法で手作りで製造している工芸品に出会った時、たいていの人は「伝統」という名のレッテル一言でラベリングし、その奥底に存在する職人の感情にまで思いを馳せる人は少ないであろう。しかし、実際には職人たちは自らの製品にさまざまな思いを抱いて製造活動に携わっており、社会に流通する「伝統」というカテゴリーとは無縁の場所にいるのである。
 現在、高岡漆器は時代の流れの中にあってその姿を変えようと模索している最中である。(詳しくはこの後の第3章第5節「職人の変容」を見てほしい。)この流れの中にあって、社会から付与された「伝統」というカテゴリーが職人たちにとっては自分の仕事をする上で必ずしも役に立たないこともある。自らの身体に染み付いた感覚としての<伝統>に、付与される「伝統」がフィットしないために、伝統という自分たちに大きく関係してくるはずの言葉が自分たちの拠り所とはなってくれないからである。
 このような<伝統>に対して、私たち受け手の側はどんなことに気をつけてこれからの伝統と関わっていくべきなのであろうか。まず、「伝統」工芸品であるという紋切り型のイメージから脱却すべきであろう。そして、製品そのものに内在する職人の生の声にもっと耳を傾け、注意するべきであろう。そこから、伝統工芸品の新しい味わい方や、新しい職人と消費者との関係が築けるのではないだろうか。


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