第2章 先行研究とそれらに対する考察

第1節 少女マンガから少年愛、やおいへ

少女マンガにおいて描かれる物語は恋愛である。橋本治はオトメチックマンガ(注・1)の代表的漫画家である陸奥A子にふれて、そのファンタジーの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に「そんな君が好きだよ」と言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定であると指摘した。しかし、そこに重大な問題が発生する。いくら主人公の少女が「自分はブスで・・・。」と思っていても、少女マンガで恋愛が描かれる上で作品の中の少女は「かわいい」のである。少女マンガの中でブスが主人公になれるのはギャグマンガの中だけであり、笑われるだけなのである(注・2)。

それでは、「自分はかわいい」とは思えない(これは客観的な事実は問題ではなく、本人の自己認識の問題である)現実の少女はどうしたらいいのだろうか。少女マンガの主人公に自己投影出来ない、つまり自己肯定が出来ないままになってしまう。そこに現れたのが少年愛である。彼女たちは、そこに何を見いだしたのか。

簡単に思いつくのは、自分と同じ性である「少女」では自分との違いがわかりすぎて投影できないが、理想的な男性に愛されるのが自分と遠い存在である少年であれば投影することが出来るという説である。しかし、「(美)少女」がダメだったら「(美)少年」などと単純に換えることが出来るのであろうか。

少年愛の世界には萩尾望都『トーマの心臓』(1974〜)、竹宮恵子『風と木の詩』(1976〜)、山岸涼子『日出処の天子』(1980〜)などのいくつかの代表作がある。

藤本はこれらの作品の最大の達成ははじめて少女マンガに「拒絶される愛」という モチーフを導入したことであるとしている。しかも、そこではつながりへの希求は激烈に描かれた。この「つながりへの希求」「他者による自己肯定の欲求」というこれまでの少女マンガにおける最大の夢物語が、少年愛においてはこの欲求は満たされずこの欲求そのものを見つめることを可能にし、「人と人との究極のつながり」という純粋な関係性のみを問題とし得た。だから、少年愛のカップルは常に、究極に対であり、運命の相手であると述べている。(藤本、1998、p.144−146)

しかし、これに対し(実際に同人誌活動を長く続けている)野火は関係性の純化は副次的なものであり愛の勝利をより感動的なものにするためのテクニックであって、やおい少女が「男(少年)同士の恋愛モノ」を志向する理由とは関係ないと主張する。実際最近のJUNEややおい作品の中で少年たちは時折、なんの葛藤もなく、当然のように男の子を好きになる。では、何に魅力を感じるのかといえば単に双方が同じセクシュアリティであるが故に、セクシュアリティによる差別が持ち込まれない、即ち双方が対等であるということに尽きるとした。(野火、1994、p.28,29)

同様に、少女たちが「男(少年)同士の恋愛モノ」において「少年」という記号に同一化するのは、ジェンダーに汚染されない世界で「異質だが対等な」関係の思考実験のための装置になるのではないかという仮説を基に性役割との関わりについての調査がある。岩井はやおい少女群と対照群となる一般女性群(以下対照群)に対してMasculinity,Humanuty,Feminityという3つの観点から個人にとって望ましい特性と、世間一般に女性にとって望ましいと思われる特性(認知された性役割期待)のギャップを考察した。その結果やおい少女群と対照群ではmasculinityとfemininityのすべての項目について有意差があり、やおい少女群は対照群に比べ個人にとって望ましい特性としてはmasculinityに高い得点を与えているのに対し、femininityには低い得点しか与えていない。しかし、認知された性役割期待ではその関係が逆になる。その結果個人的な特性の評価と認知された性役割期待の差は非常に大きいものとなる。(岩井、1995)

また、藤本は少年愛作品の根底には女性嫌悪があるとしている。まず少女マンガにおける「男装の少女」について触れ、男装は少女の成長する性への拒否であるとした。そして少女にとって性はまず「怖れ」であり欲望ではないことに注目した。さらに、少女の欲望は社会的にも抑制されその結果「少女から女性への落差は大きく」なる。それがさらに成熟へのおそれをあおり「女性嫌悪」へとつながる。少年愛作品において美少年の口からこうした女性嫌悪が表明されるとことによって、逆に、この上ない女性理解の言葉として響きはじめる(藤本、1998、p.140)。

こうした少年に少女たちは自己投影するのではないだろうか。つまり、彼女たちは「自分はかわいいと思えない」のではなく、「思いたくない」のである。「かわいい女の子」以外は笑われるしかないなんてごめんだ。といういわゆる伝統的女性像といった「女制(制度としての女性、『女』であるということ)」への拒否の姿勢がやおい少女であるという仮説が成り立つのではないだろうか。

そしてさらに、少年愛の姿をかりることによって少女マンガはそれまでタブーとされていた「性」の領域にまで踏み込むことを可能にしたともいえる。藤本は『風と木の詩』はその主題が人間の性的欲求にあり、さらにそこに描かれたのは登場する少年たちの能動的な性欲ではなく、受動の苦しみ、常に欲望を喚起する存在であり、それはまさに女性の特性であると考えた。それが男の身体に仮託されることによって、しかも現実と切り離された舞台設定をされることによって、読者の側には痛みを伴わずに描き出すことに成功したと説明している。(藤本、1998、p.141)

またやおいにも触れ、今のところやおい本は過激な男女関係の安全なシュミレーションの域を出ていないが、これによって女は一方的に犯(や)られる側の立場から解放され、犯(や)る側、見る側の視線をも獲得したと、述べている。(藤本、1998、p.142)

やおいにおけるセックスシーンが男女関係のなぞりでしかないという批判はほかにも存在する。それは、やおいにおけるセックスシーンは必ずと言っていいほどアナルセックスが描かれるからである。だが実際同性愛者の間ではアナルセックスは一般的ではない。

もちろんやおい少女の興味は男性同性愛者のリアリティにあるのでは無いということはある。しかしなぜやおいにおいてはアナルセックスが当然のように受け入れられているのだろうか。それについて、高城は作者も、読者も「挿入される体」を持った女性であり、彼女たちにとってセックスは必ずペニスの挿入を伴うためであるとしている。(1994、p.39)

これは彼女たちが従来の「女性」を拒否しながらも、自分が女であることに実は捕らわれてしまっているとでも表現したらよいだろうか。

しかし、「犯(や)る、見る側の視点」というものは、やおいとやおい少女を考える上で重要な論点の一つである。現在の同人誌の主流は、まさに「犯(や)る側」の視線で描かれているものである。描き手や読み手の、キャラクターへの愛情、カップリングへのこだわりやおい本の構成要素の内で大きな割合を占めるといってもよいだろう。

やおいでは「受け」「攻め」という言葉がある。これはキャラクターたちのセックスにおける役割を表した言葉である。一般に好きなキャラクターは「受け」になる。好きなキャラクターが「受け」を演じる物語であれば、「攻め」は誰でも良いという人も多い(そのような状態を「総受け」という)。「受け」は愛の対象であり、愛の主体であるやおい少女は明確に欲望しているのである。その場合「攻め」は欲望を仮託する道具なのである。それは、やおい少女がよく言うセリフである「男になってホモになりたい」に端的に表されているといえる。

野火は自分は「攻め」の視点で同人誌を描いていると、宣言した上で、そこにある屈折を主張している。それは、「愛する(犯す)男」として自分と「愛される(犯される)少年」という関係を求めている場合、自分が現実には「女である」ということに立ち返ったとき、その現実の「肉体」は「愛される(犯される)」ものであって、「愛する」ものとしては欠陥品であるという深い絶望に変わる、というものである。(野火、1994、p.25)これはやおい少女が「女」を拒否しながらなお強く「女」に縛られているということであろう。

それに対し、栗原は「攻め」にアイデンティファイするやおい少女は既に欲望の積極性を獲得しているのだから、屈折したままなのではなく、屈折を越えていると反論した。(栗原、1994、p.32)つまり彼女はやおい少女は「現実の女」つまり「女制」も否定する事が出来ると言うのであろう。

現在やおい少女たちは「女制」に捕らわれいいるのであろうか。それとも栗原の主張のようにさらにそれをも否定する事が出来ているのであろうか。今ちょうどやおい少女は過渡期に立たされているのでは無いだろうか。この事について、本論では第3章以降で述べる質問紙調査において、やおい少女の特性を明らかにしていくことによって考察していきたい。

第2節 パロディであるということ

本論では第1章においてやおいの中にパロディという要素を入れておいた。では、パロディであることは単に「男(少年)同士の恋愛モノ」であると言うこと以上にどの様な特徴があるのだろうか。

まず、同人誌全体の特徴ともいえるだろうが、同人誌というものは読み手と書き手が商業誌に比べ非常に近い関係にある。そこにパロディという手法が入り込むことにより、既知にキャラクター、設定のおかげで短いページで描きたいことだけ自由に描くということが可能になった。

このことでますます、描き手と読み手の境界は曖昧になったといえるであろう。実際コミックマーケットでは、参加希望サークル数は、参加可能サークル数の限界を超えており、抽選倍率は2倍強とも言われている。さらに一般参加者は増え続けているのである。

しかし、このことだけでは当然やおい少女たちがなぜパロディを選んだのかという説明にはなり得ない。

栗原はパロディの元ネタが子供向けアニメであるとした上で、その理由を大人になって好みが細分化する前の、最大公約数的な喜びを分かち合いたいからであろうとした。さらにそこに最大公約数が用いられるのは、やおい少女というマイノリティが自分が多数派からはずれることが怖いからであると述べている。(栗原、1994、p.33)

これは、同人視界において「メジャーなジャンル」という言葉が存在(注・3)し、第1章で述べたようにジャンルの拡散が進み、1年単位でブームが起きその波に乗り遅れないように努力するような多くのサークルや読み手がいるということを見たときには有効であろう。

しかし、一見メジャーなジャンルという「最大公約数」の中であっても、実際は細かく好みは分かれている。それは、先に述べたキャラクターへの愛情であり、カップリングへのこだわりである。特にカップリングにおいて「受け」「攻め」が逆の場合は同じジャンルであっても対立があることすらある。

これに対し、野火はブームの移り変わりにおいて、人気が人気を呼ぶ側面はあるものの、その人気の根元は感動であり、表現においてはメジャーもマイナーも関係ないと反論した。その上で、パロディの元ネタは「子供向け」アニメではなく「少年向け」アニメであり、少年マンガであるとした。それは事実上、「少女向け」アニメや少女マンガがやおいの範疇にほとんど入っていないことから見ると説得力がある(注・4)。

そして、やおい少女が少年マンガを支持する理由はそこに登場する少年たちがおしなべて童貞、さらに言うなら、少年マンガという枷の中で童貞と言うよりも、不能であることを余儀なくされているため、やおい少女のコンプレックス(注・5)に抵触することなく少年たちが愛しいと思えるのであると反論している。(野火b、1994、p.5)

これは、今までのいわゆるメジャージャンルと言われてきたものの多くの元ネタが、青年マンガでもなく、『少年マガジン』でもなく、『少年ジャンプ』であったことを考えたとき説得力のあるものである。

まず、青年マンガにおいては男女間の性描写は描かれることは珍しくなく、主人公たちの欲望も明確である。

次に『少年マガジン』と『少年ジャンプ』の違いとは何であろうか。両者ともに少年マンガ誌の発行部数トップを競っているがやおいにおいては圧倒的に『少年ジャンプ』の勝ちである。そこにあるのはリアリティの差ではないだろうか。『少年マガジン』においては『少年ジャンプ』に比べ少年たちにリアリティがある。だから実際に作品上では童貞であるかもしれない彼らだが、不能にまでは至らないのだ。

では、『少年ジャンプ』においてはどうか。『少年ジャンプ』では「友情・勝利・努力」というメインテーマが掲げられている。このあまりにも古典的で、極め付きの「少年らしい」テーマを押しつけられた結果、少年たちは現実から離れ、限りなく不能に近くなるのである。

このことは、最近同人誌界において勢いのあるほかのジャンルにもいえることである。

ゲームにおいては主人公の目的は「ゲームクリア」であると実にはっきりしてるため、そのほかの側面特に性的な事柄には触れられることはない(注・6)。その意味で不能に近い存在であるといえよう。

(注・1)少女マンガの舞台が遠い外国でなく日本であることで、日常に近づく。その日常の中でそんなに離れていない非日常を夢見るというリアルな少女趣味をオトメチックとした。(橋本,1979,p.105)

(注・2)同じく橋本は土田よし子の『つる姫じゃ〜!』にふれブスで普段はトラブルメーカーのつる姫がいくら心の底から可憐な少女の様に振る舞ったとしてもそれは、容姿の故になお笑われるだけになると論じている。(橋本,1979、p.146−155)

(注・3)TVアニメ化されているような、人気があり同人誌においても多くの読み手と書き手がいる作品のこと。

(注・4)ここで言う少女マンガには少年愛からボーイズラブに至る作品群は含まれない、いわゆる「少女マンガ」。

(注・5)1節での野火の主張である「現実の女の肉体」は「愛すること」が出来ない、つまり不能であるというコンプレックスのことであろう。

(注・6)ゲームの目的自体が恋愛であるものもあるが、当然そのようなゲームのやおいというのはほとんどない。