はじめに

問題の所在と本研究の目的

 ジェンダーは、「女らしさ」「男らしさ」といった性差を「生物学的宿命」から引き離すためにフェミニズムによって持ち込まれた用語で「社会的文化的性別」を指す。しかし、研究や運動において、ジェンダーが男女の生物的性差の避けられない結果であり、男・女の2元的構成から成る普遍的かつ超越的な意味を持つ概念ととらえられるようになり、当初の「性差が、社会的コンテクストにおいて広範な社会的実践を通じて歴史的に構築されてきたもの」という含意が失われてしまった。
 そこに、新たな見直しが起きている。フェミニスト・メディア研究者van Zoonen, L.は、「ジェンダーとは 人間がその社会活動について考え、それを組織化するために使う分析カテゴリーの一つであって、生物学的性差(sex)の自然な結果でもないし、文化によって異なったやり方で個々の人々に割り当てられる単なる社会的変数の一つでもない」(ファン・ゾーネン、1995,p56)とハーディングを引用して述べる。そしてメディアにおけるジェンダーの意味づけは、メディア制度、メディア・ディスコース、受け手の各レベルにおける文化的交渉の結果として産出される。すなわち、ジェンダーとは、メディアという意味をめぐる闘争が行われる中心的場でのディスコースをめぐる闘争と交渉によって決まるというのである。
 日本のメディアの女性学的研究においても、ジェンダーをそれぞれの社会や文化のコンテクストのなかで変化するものとしてとらえた研究(井上輝子,1988、落合恵美子,1990)は雑誌メディアにおいて始まったばかりである。新聞、テレビなどの他のメディアにおいてもジェンダーの社会的実践過程を日本の現状に根ざした方法論を考察し、分析することが求められている(松田、1996)。
 それはむろん、メディアの存在をもパラダイム・チェンジするものである。従来、メディアは、ジェンダー・バイアスを垂れ流す、すなわち社会の文化価値を伝達する道具としてとらえられ、社会・経済構造や権力関係とは切り離して考えられていた。コミュニケーションを伝達の道具として独立して捉える視点である。しかし、ジェンダーの意味がディスコースをめぐって日々行われている闘争と交渉により実践されるとするならば、メディアの存在もメディア制度とそれに係わる人間との相互作用により日々構築される社会実践ととらえることが必要である。
 本稿は、そうした視点から新聞メディアにおいて、ジェンダーがどのように構築されてきたかを歴史的に振り返るものである。なお、現在、新聞というメディアは、テレビに比べ、速報性と映像の面で劣るため、影響力が減少しているとも言われるが、メディア接触と信頼度調査によれば、新聞を「毎日読む」人は76.2%、「信頼できる」人が73%(日本新聞協会研究所,1995,p.64-84)とここ10年変化なく、閲読、信頼されている。そのメディア特性として、長期に存在するメディア文化であること(歴史性)、日本での全国紙体制により発行部数が巨大であること(影響力)、記録性が高いこと(記録性)、単に1人で読むにとどまらず、コピー、ファックスなどによって知人、同僚などと知識の共有がなされること(知識の共有性)、公的なアクセスが永遠に可能であること(アクセス容易性)などがある。すなわち、多くの人々が長期にわたり繰り返し閲読することにより、社会の状況や価値体系を知る際に基準とするメディアと言えよう。社会の判断基準という新聞メディアの特性をよく表すと思われる『朝日新聞』を中心に、『読売新聞』、『毎日新聞』も参照するという方法で日本の全国紙を対象とした。テレビ、雑誌など他のメディアのニュースと新聞のニュースとの異同については今後の検討課題とする。なお、本研究はこれまで女性誌、ドラマなどの創造的メディアに偏りがちであったジェンダー研究を新聞のニュースという現実とより緊密な関係を切り結ぶメディアへと広げる意図を持つ。それは、フェミニズムが行ってきたメディアとの不均衡な関係の改善の方策は、ニュースという特定のコードや規則を持つメディアのほうがより探求しやすいと考えるからである。
 なお、本稿で女性運動を分析対象に選んだのは、公・私の領域区分がジェンダー弁別により成立していることに疑問を提起している運動だからである。女性運動は、ジェンダー議論においては常に先頭走者としてそのジェンダー弁別に意義を申し立てている。「ジェンダーとは、男/女に人間の集団を分割するその分割線、差異化そのものだ」(上野、1995)という文が含意するのは、ジェンダー関係には権力関係が組み込まれ、差異の政治学(ジェンダー・ポリティックス)が働いているということである。先頭ランナーが次々打ち出すジェンダー認識は、支配的な価値体系を前提にニュースをつくる新聞メディア(van Dijk,1988)との接合点において、マイノリティ・ディスコース(van Dijk, 1996)の形をとって表象されるのではないか、と想定した。
 ニュース・ディスコースに表象されるジェンダーは、運動の参加者と取材する記者との交渉や闘争の結果であり、それも一つの政治である。ニュース・ディスコースおよびその中のジェンダーは、取材ルーティンやニュース価値基準に制約された職業意識との闘争や交渉により構築される。その現場では、女性運動と記者との間でどのような闘争や交渉が起きているかをニュース・ディスコース分析(van Dijk,1988) を用いて検討する。
 van Dijkは、ニュース・ディスコースは、情報源を取材したその記録文や記者発表のテクスト、記者会見の談話などのディスコース(テキスト)の加工によって構成されると述べる。そして、テクスト加工に際しては、記者の何がニュースかというニュース・バリュー観や記者の(社会的出来事を認識するために使われる)認識枠組み(フレーム)が影響しているとする。そして、エスニシティなどのマイノリティのディスコースには、以下の特徴があるという分析結果を報告している(van Dijk, 1996)。@「われわれ/彼ら」という対立するフレームが使われ、マイノリティを敵視する、Aジャンルは文化、宗教などリスクの少ない領域 Bスピーカーには、マイノリティを引用しない。
 筆者は、こうしたニュース・ディスコースにおける女性と女性運動をフレーム、ジャンル、スピーカーなどからニュース制作のルーティンを中心に考察する。近年のカルチュラル・スタディーズでは、オーディエンスの読みの多様性が指摘され、その重要性がクローズアップされているが、本研究ではニュース制作過程への関心に焦点を絞るため、読者の理解、解釈については中心課題とはしない。これは別の研究課題とする。
 さらに、筆者は、メディアとジェンダーを分析する際に不可避的に生起するのが公共圏の概念と考える。公共圏については、「市民社会という社会的関係が作り出す、見えざる社会的空間であって、公開された言説空間のこと」(花田、1996,p293)という定義がある。女性運動が社会的共同性の編成を求めて活動する公的意味「空間」であり、マスメディアとの相互作用を行う「空間」(場)でもある。マスメディアという公的意味空間を通じて女性運動は多くの市民と出会い、自らの主張を展開することもできる。また、そうした新しい社会運動に公開された言説空間を提供するのがメディアであり、そうした意識活動をするのがジャーナリストである、と花田は主張する。但し、さまざまな社会的経済的な阻害要因も働く。
 こうした公共圏の拡張を考える際に、ジェンダーが差異化され、公領域から排除された過程からトータルに現在までを分析することが重要という認識はあったが、本稿では能力的、時間的制約があり果たせなかった。明治時代に「公」領域と「私」領域の分離が成立したが、それに伴い男=公、優、女=私、劣というジェンダー化された規範が生まれたという文献( 舎官かおる,1994、小山静子、1995、牟田和恵、1990)での確認をし、その後の女性運動が公領域からの排除に抵抗し、妊娠、出産、セクシュアリティなど私領域の課題を公領域に析出し、固定的なジェンダー弁別を切り崩そうとする展開を考察する。
 本稿で取り上げたのは、2章で第2次世界大戦直後の女性参政権運動、3章で70年代初頭のウーマン・リブ運動である。それらの時期を選択したのは「日本の女性解放運動は1970年代初頭に、大正デモクラシー期、第2次世界大戦直後、に続く第3の高揚期を迎える」(加藤、1987,p187)という指摘による。
 分析にはいる前に、1章では、先行研究をジェンダーとメディアの構築主義的立場から整理し、さらに本研究で使用するニュースのディスコース分析の方法および記者インタビューについて概説する。

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