1章 先行研究と本研究の方法

1 先行研究

(1)メディアの女性像批判の研究

 女性学的研究は、1970年前後に始まる第2期フェミニズムの後、男性優位の社会関係への批判から起こり、後に認識の男性中心主義(知識批判)へとシフトする。その呼び名もフェミニスト・リサーチ、ジェンダー・スタディーズへと認識により変化しているが、メディアの女性学的研究もその流れに沿って進展している。
 70年代は女性運動報道がメディアによって矮小化、周縁化されていることへの内容分析による批判(F. M. Cancian, B. L. Ross,1981, M. B. Morris,,1973, Janetta Davis, 1981)がその中心であった。ニュース、写真、女性(家庭)欄にあらわれる女性の性役割や女性像に見られる疎外、バイアス、周縁化を内容分析によって批判する研究(S. H. Miller, 1975, Z. B. Guenin,,1975)が多く見られた。そこでのメディアの機能は、社会に支配的な価値観を伝播するものとして一面的に捉えられていた。
 この問題関心は日本では、早くは、村松泰子(1979)や井上輝子(1981)の研究に端を発したが、1980年代後半から本格化し、小玉美意子(1989)、井上輝子+女性雑誌研究会(1989)、加藤春恵子・津金澤聡廣編(1992)、田中和子・諸橋泰樹編著(1996)など女性とメディア関連の単行本が多数刊行されるにいたった。女性運動の中からも、メディアの中の性差別を考える会(1991)や中山千夏・丸山友岐子他編(1991)などによるメディア批判の出版物が目立つようになったのは、メディアの女性像批判の社会への広がりを象徴するものであった。
 次いで、そうした偏った報道を産み出すメディア産業のジェンダー構造(日本はこの点で世界のワースト1である)に関心が向かった。第4回国連世界女性会議・女性とメディア研究日本委員会(代表・加藤春恵子)による新聞・放送界の組織構造と女性の参入に関する調査や、村松泰子(1995)や岩崎千恵子・小玉美意子(1994)といったメディア組織に女性が参入していない状況とその内容との関係を探るものが出ている。岩男寿美子・武長脩行編『情報化社会を生きる女たちーコミュニケーションの視点から』NHKブックス、1991は、数少ない女性の参入がメディアの内容に新たな価値を産み出す可能性を示唆するものである。
 もう一つの流れは、そうしたメディアの差別的表現の是正策を検討し、一般的なガイドラインの提案をする流れである。アメリカの言語とジェンダー研究の蓄積を踏まえた非差別言語のガイドラインの提案(斉藤正美1994b、田中和子・女性と新聞メディア研究会1994、上野千鶴子+メディアの中の性差別を考える会1996)および、公正報道のガイドラインに関する諸外国の先行例(田中和子・女性と新聞メディア研究会1994、斉藤正美1995)やアメリカの言語運動について(れいのるず=秋葉かつえ1993、1996、斉藤正美1994a, 1996)の紹介が自治体で先行するガイドラインづくりと相まって日本のフェミニスト・メディア研究の一つの流れになっている。

(2)フェミニスト・メディア研究の新たな潮流

 一方、欧米での最近のフェミニスト・メディア研究は、フェミニスト理論が言語や認識などコミュニケーションへの理解をその理論形成の中心課題とし、多くの成果をもたらしているにもかかわらず、メディア研究領域に着実に反映されていないことに危機感を持ち(L. F. Rakow, 1992)、1980年代後半から、ヨーロッパを中心とした批判学派のカルチュラル・スタディーズの影響が浸透し始めた。「マス・コミュニケーションの内容、送り手、受け手は、それぞれに女性学の観点からのマス・コミュニケーション独自の問題として指摘し、変革を求めていくという対象というよりも、マス・コミュニケーションそのものを、社会の中で支配的な価値観を産み出していくメカニズムの中枢にあるものとしてとらえるべき」(村松泰子、1988)という研究動向が目立つようになっている。
 阿部潔(1996b)は、フェミニズムとカルチュラル・スタディーズとは「権力関係に対する「問いかけ」を理論的・実践的に試みる点に共通性があるという。また、加藤春恵子(1996)は、「ジェンダーが男性による女性の支配とその正当化の仕組みである以上、日常的なコミュニケーション過程のなかで日々再生産されている」からこそ、「コミュニケーションを支配の過程としてとらえるだけでなく、変革の過程としてとらえる必要がある」ことを指摘する。その際、制作過程への女性の参加が少なく、内容の変化の度合いも少ない日本では、歪小化されることのない人間の自由への模索の原点に立った研究を創造していく必要性を強調する。さらに、松田美佐(1996)は、ジェンダーをセックス(性別)に基づくものとする見方ではなく、特定の文化、歴史条件により多様に変化するものととらえ、社会成員の日常的な実践過程ととして捉える視点が日本のこれまでの研究に欠けていたことを指摘し、そうした視点に立ったメディア分析の必要性を説くものである。

(3)メディアの媒介機能(女性運動との相互作用)研究

 フェミニスト・メディア研究において、当初仮定されていたメディアの媒介的機能は、メディア機関とメディア内容はその社会で支配的な価値観を垂れ流し、再生産するという強力効果モデルであった。その流れにおける女性運動とメディアの関係は、メディアがフェミニズム運動を統制するというものであった( M. B. Morris,1973 a, b )。Monica B. Morris(1973a)は、英国の『タイムズ』紙からタブロイドまでの多様な新聞とロス・アンジェルスのローカルな新聞で、68年から69年のウーマン・リブの運動がどれだけニュースとなったかを調査し、幅広い報道をした『サンデー・タイムズ』のように報道価値があると見なす編集者が一人はいたようだが、初期には運動がほとんど黙殺されたと指摘している。Morris (1973b)は、メディアが運動の穏当な部分のみ報道する(社会統制)傾向があることを示した。
 しかしその後、スチュアート・ホールなどのヨーロッパの批判的パラダイムにより、メディアの媒介的役割を一方的な規範の押しつけではなく、さまざまな多元的な価値間のイデオロギー闘争として民衆の合意を作り出す社会的実践ととらえるモデルが台頭する。メディアと国家などの権力の結合は、決して制度的なものではないが、無意識、無自覚的に支配的なイデオロギー的言説の再生産をするのに役立つ過程となっているというものである。社会的争点に参加し、イデオロギー闘争をするなかで、変革の方向性をも合わせ持つという闘争モデルである。フェミニスト・メディア研究においては、資本主義の拡大とともに危機に陥っている民主的公共圏を確立させるためにも、イデオロギー闘争においてマス・メディアがどのような媒介的機能を果たしているか、を分析する必要性が問われている(L. McLaughlin,1993)。
 90年代に入って、そうしたメディアの言論形成機関としての側面に注目した上で、社会(政治)運動とメディアとの関係を改めてとらえ直す視点がでてきた。新しい社会運動であるフェミニズム運動とニュース・メディアとの対話的コミュニケーション実践(dialogical model)ととらえ直し、その関係性が運動とメディア双方にもたらす結果と意味を探るものである(K. F. Kahn , E. N.Goldenberg, 1991、E. A. van Zoonen,1992, B. Barker-Plummer, 1995)。
 Kahn&Goldenbergは、女性運動報道および女性候補者報道のジェンダーに関するパターンが世論にどのように影響しているかを調べ、社会状況によってメディアが運動の目標にとって障害物となる場合と、資源となる場合があることを指摘する。
 ウーマンリブが報道されなかったのは、メディアが社会運動を敬遠、男性のゲートキーパー(編集者)が「女の話題」として無視、イベントではなくイシュウを強調する女性運動は報道の基準にあわず、運動側も記者を敵対していた。そのため、新奇なこと、娯楽性、「絵になる」というニュース価値基準にあった初期のセンセーショナルな報道のみが流され、まじめな議論がなされなかったという。
 一方、1980年代には、女性が政治的な影響力を持ち、メディアとも良好な関係ができていた。女性問題はメディアのルーティンになっていた。NOWなどは「女性票」の重要性を強調するジェンダー・ギャップ強調路線をとり、フェラーロ指名に有利な状況ができた。報道は、女性候補者に良好な環境を作り、女性問題のまじめな討議を進めたが、女性の候補者を性的ステレオタイプに基づいて報道することにもなった。もし有権者が性的ステレオタイプに基づいた考えならば、メディアのジェンダー・ギャップ報道は、有権者に評価され女性候補に有利になるかもしれないが、女性の政治記者が少ない現状では、女性候補の性的ステレオタイプを改善することのほうが後に続く女性候補の道を容易にすることになるだろうと結論づける。
 一方、Barker-Plummerは、ニュースは単なる情報伝達の機関ではなく、ニュース組織としての慣習やロジックを持つ複雑な知の生産システムである、と認識する。ニュースは情報源にもう一つの権力の形態を与え、ニュースの「声」は知の生産システムにおいて正当化された話者の主張となる。メディアが浸透した社会では、ニュースの発言は公領域において話者の「主張が重要である」ように構成する役割を担っている、とする。その上で、ニュースを一方的に運動の資源とみなすのではなく、運動もニュース組織のルーティンやプラクティス、ロジックを学び、運動のフレーミングに自ら参加することだってできるという対話的モデル(dialogical model)を構築しようとする。そして、アメリカの66年から75年のウーマン・リブの運動においては、NOWは現実主義的・戦略的メディア活用方針をとり、一方小さいグループはメディアと敵対し、沈没した。その運動のメディアとの相互作用を彼女らの政治的アイデンティティとの関係から探る。
 Barker-Plummerは、運動が正しく報道されたか否かという従来の問題設定を、運動とニュースとの相互作用が運動のストラテジーや組織の行動にどのような結果をもたらすか、へと課題をシフトさせている。
 筆者は、これらの新たな研究視点に刺激を受け、日本の女性運動を「メディアに描かれた存在」という一面的な見方から救いだし、「マス・メディアとどのような相互作用を行ってきたか」をジェンダー構築との関係から考察する。

(4)日本での社会運動とコミュニケーション研究

 日本での女性運動とメディアとの相互関係に関する研究は、早くから、井上輝子(1980)、江原由美子(1985)、秋山洋子(1993)などウーマン・リブを対象にしたものがある。井上は新聞、雑誌という報道媒体と内容の差異を析出しつつ、リブが現在のマスコミにとって伝達不能、認識不能な対象なのではないか、と問う。江原は、マスコミがリブ運動を嘲笑し、カリカチュアライズしたが、それが遊びの文脈にあるため、抗議が難しいというその政治的意味をとらえている。秋山は「和製英語「ウーマン・リブ」の誕生として、日本のリブ報道の仕掛人が朝日新聞の蜷川記者であったことを指摘している。メディアと女性運動を長期的スパンにおけるコミュニケーション実践ととらえる視点は、加藤春恵子「女性解放運動のエスノメソドロジー」(1987)から啓発された。運動のコミュニケーション戦略に焦点を当てた加藤の研究に対し、筆者は、メディアの報道過程、すなわちニュース製造過程でのルールやルーティンに注目しつつ双方が作り上げるコミュニケーション実践過程を見ることにしたい。大畑裕嗣「朝鮮独立運動のコミュニケーション戦略ー1920年代の安昌浩と申喝采浩を中心に」(1989)は、社会運動側の「対抗文化・対抗コミュニケーション論理」に焦点を当てた研究として筆者と共通の問題関心を示すものであったた
 なお、世界女性会議の報道を対象とする研究は、内容分析の手法による村松泰子・藤原千賀「「会議」はどう報道されたかー朝日・毎日・読売新聞の紙面分析から」(1996)がある。メディアのニュース価値基準として抗争(対立)やネガティブ記事を選好する傾向があることを指摘し、それがゲートキーパー(編集)レベルのジェンダーや編集過程における問題点、具体的には、ニュース選択の価値観などに起因するのではないか、と示唆している(村松・藤原、pp79-80)。女性運動の報道に関する研究が、メディア機関のゲートキーパー(編集)とジェンダーの問題を分析すべきと示唆している。筆者は、これにより、本研究での女性記者へのインタビューによるニュース制作過程の諸問題を分析することの重要性を再確認することができた。
 一方、女性ジャーナリスト・ペン検証と研究の会(1996)は、男性社会の少数派として女性記者が戦後の50年間に書いた記事を集めたものだが、結果的に女性運動の記事とそれを書いた女性の記者存在を明らかにすることに貢献している。

(5)メディアと公共圏に関する研究

 一方、公共圏とコミュニケーションに関する示唆は、花田達朗『公共圏という名の社会空間』(1996)およびユルゲン・ハバーマス『第2版公共性の構造転換』(1994)から多くを得た。またフェミニストのハバーマスの公共圏概念の評価については、市民社会を平準化してとらえすぎていると批判しつつも、後期資本主義社会の批判理論としては不可欠な概念として期待を寄せてもいる(McLaughlin,1993,pp601-612)。筆者は、ジェンダー、エスニシティなど現行の民主主義社会における平等の限界を理論化できるカテゴリーを産み出すよう、公共圏概念を新たに再構成すべきという立場(N. Fraser,1990,pp.56-80)に立った上で、公共圏議論に期待するものである。実際、周縁化されていた女性が歴史の中で公共圏での主流言説に参加した例として17世紀英国の請願運動や18世紀パリのサロンの政治談義、19世紀アメリカの大統領キャンペーンの世論調査の例を挙げ、女性が公共圏に参加することに成功したコミュニケーションには政治的不安定要因や裏ルートの活用があったと指摘する(S. Herbst,1992,pp381-392)。こうした女性の状況の変革のためのコミュニケーション方法を探る研究に刺激され、必要性に共感したことが筆者の今回の研究テーマの設定に導いた。また、公共圏とハバーマス、フェミニズムに関する阿部潔(1994、1996a, 1996b)の議論は、公共圏議論の限界と可能性を現代の政治状況への適用を検討しつつ提示している点で興味深いで
 筆者は、花田達朗「公的意味空間ノート」(1996)および花田の”Can there be a Public Sphere in Japan? ”(1995)という公共圏概念を日本社会と接合させようとした論考から、女性運動が私的領域の課題を析出するという点で公共圏を作る運動であると位置づける一方、メディアと女性運動を考察する発想を得た。後者では、日本での公共圏概念の成立の必要性を主張し、その際のアプローチとして、マスメディア・システムにおける規範的概念として、および市民社会における文化的公共圏概念の自覚化という2つのアプローチを示唆している。筆者は、本稿において女性運動を接合点とした民主的な市民社会およびそれを前提にした文化・政治的公共圏が構築されているか、もしされているならどのようにして構築されたか、というプロセスを考察するものである。

2 研究方法

 研究方法は(1)ニュースのディスコース分析(”News as Discourse”, T. A. Van Dijk, 1988) と(2)『朝日』記者へのインタビューの方法を取る。

(1)ニュースのディスコース分析

・ディスコース研究の潮流
 ニュースを一貫した意味(マクロストラクチュア)と構文(スキーマ)を持つディスコースとして分析する方法を開発したアムステル大学のvan Dijkは、日本でもよく知られている言語学者である。近年はカルチュラルスタディーズとの親和性を持ちながら、ニュース・ディスコースの実証的な研究をエスニシティを中心に行っている。
 この潮流は、さまざまな広がりを持って展開されているカルチュラル・スタディーズの三潮流のうち、エスノグラフィ的視点からの歴史社会学的分析、狭義のオーディエンス研究と並ぶ潮流で、内部にさまざまな意見の対立をはらみつつ多様な形で展開されている現代のメディア文化のディスクール分析を志向する理論的潮流(田中義久、1996,p.64)と分類されている。その流れにおいては、「語られる内容」(ディスクール)を分析することによって、メディアが文化的価値の差異を固定化するような「言説の主体」であることを解読する重要な文献が次々に出されている。
 しかしながら、ニュース記事や番組の批判的研究では、グラスゴー大学メディア・グループの研究を除いてニュースのディスコースの構造や制作過程の問題には深入りしていない。一方、Fowler, Hodge, Kress, Trewらの批判的言語学の流れが台頭し、ニュースの言語学的、文法的アプローチが進められてきた。
 1980年代後半からそうしたR. Fowler(1991)らのテクスト・リングイスティックスなどと従来の言語分析や記号論という領域での収斂、統合が進んでいる。最近では、van DijkがText and Practices, Readings in critical Discourse Analysis ( 1966)にもDiscourse, Power and accessの論文を執筆している。また、ディスコース分析の理論書として唯一日本語訳(『談話分析ー自然言語の社会学的分析』(南出康世、内田聖二共訳、研究社、1989)が出ているMichael Stubbsの最新の研究書(1996)は、コンピューターを用いたディスコース分析である。このように欧米でのディスコース分析は、理論的にも実証的成果においても数多くの知見が蓄積、統合されている。
 さらに、van Dijkによる多数の言語によるニュース・ディスコース分析では、ニュースの価値や構造において中国語、スペイン語など使用言語による顕著な差異は見られないとう結果が出ている。Bellによるとそれはニュースが西欧の、特に英米のものを規範としているからだという(Bell,p174)。したがって、筆者は日本語への適用も可能と判断した。ニュースのディスコース分析では、van Dijkがもっとも有能で啓発的な研究をしている(Bell, 1991,p252)と評価されている。
 日本のメディア研究の分野でもディスコース分析には関心が持たれている。「「効果」でなく、「意味」を問う見地に立つ限り、内容分析はおそらくS.ホールの議論も含めて言説分析との一定の交流が必要となるし、そのかかわり方が課題となるに違いない」(佐藤毅、1988,p.24という指摘がある)。しかしながら、方法論(理論)としても、実際の成果についても、J.フィスク、伊藤守・藤田真文他訳『テレビジョン・カルチャーーポピュラー文化の政治学』(梓出版社、1996)が翻訳されている程度で、日本でその分析を用いた実証的な研究もその分析論に関する研究のいずれもまだ成果を見ていない。筆者は、新聞報道の表現に以前から関心を持ち、その分析方法を模索してきた。この分析方法がどのような有用性と課題を持つかを検討するためにもこの方法論を採用するものである。
 もちろん、欧米のメディア研究では、数多く活用されており、評価が定まっている(前述したフィスクの著作など)。一方、フェミニストメディア研究の領域においても、「ディスコース分析は、ジェンダーが日常的なスピーチにおいてどのように構築されているかを検討するのにもっとも有望な方法論である」とvan Dijk(1985)を引用して論じられている( van Zoonen, 1994,pp.140-144)。
 この方法論をメディア研究、特に新聞のニュース分析に用いた成果としては、van Zoonen,E. (1992 )やBybee,C.( 1990) などがある。これらの成果については、「ニュース・ストーリーにおいて文化的抵抗を明快に分析している(P. J. Creedon, 1993,p6)と、妥当なものとして評価されている。この他、テレビ番組、女性雑誌などのディスコース分析は、数多くの成果を生んでいる。トルコのメディア研究も、市民社会形成におけるメディア機能の研究という視点からカルチュラル・スタディーズの積極的導入が行われており、チュルレル前首相のフェミニスト・ディスコース分析など、ニュース報道のディスコース分析手法として盛んに活用されている(トルコから東大にメディア研究のため留学中のビナルク・フェ・ムトゥルさんのジェンダー&コミュニケーション・ネットワーク例会:1996年7月20日における報告)。

・分析手法

 ニュースのディスコース分析の方法をヴァン・ディーク(van Dijk, Teun A.)の「ニュースとしてのディスコース("News as Discourse")」(1988)に沿って簡潔に説明する。
 ヴァン・ディークは、ニュースのディスコース構造と、制作者及び読者の解釈の認知枠組みに焦点を当てた学際的なニュース理論を提示している。それによると、ニュースは、個々の単語や文から成り立つが、それをテクスト(ディスコース)としてとらえる時にもっとも重要なのは、トピック、テーマである。彼はそれを意味的「マクロストラクチュア」(テーマを表す理論的概念)で説明する。また、構文的には、ニュースは、「語り」のスキーマ(知識のネットワークの束)を持ったディスコースの一形態ととらえる。

■マクロストラクチュア(テーマ)

 van Dijk によると、テーマは、ディスコース全体の意味、あるいは内容を表すもので、個々の発話の最重要情報であるという。あるニュースがカバーするテーマは、ローカルな場での命題の集まりとしてヒエラルキーを形成している。そうして一つのニュース・ディスコースは大きな一つのテーマに結束しているという。
 van Dijk は、ディスコースが一つのまとまりを持った構成体であるのは、次の3つ要素からなる「マクロルール(要約の法則)」によると説明する。@残りのテクストに無関係なものを「削除」、A犬、猫、カナリアをペットになどの「一般化」による置き換え、B命題の連続を全体の行為を表すマクロ命題として「構築」する。
 ディスコースにもっとも明確に表われるのが「マクロストラクチュア」であり、「見出し」と「リード」という目立つスキーマ・カテゴリーに表現されるという。「マクロストラクチュア」として表される表現は、ニュースの全文から「マクロ・ルール」を使って削除、一般化、構築する過程で、できごとや世界情勢がどのように組織されているか、という知識や価値体系を前提とする。そして、そうした状況の定義をニュースのディスコースとして再提示し、読者にニュースの「優先的意味」を示す、という。
 ニュースのテーマ分析では、見出しなどで表象される「マクロストラクチュア」の偏りと新聞の世界観との関係を査定する。たとえば、「シュルツ(米国務長官) インドネシアの統治を批判 東チモールの苦境」(タイムズ,1984. 7.14)のニュースでは、文中にあったオーストラリア労働党の決議や米国の国会議員の行動などは見出しで表示される「マクロストラクチュア」から削除される。東チモールでのインドネシア軍による被害者の数も削除され、シュルツ国務長官だけがメイン・アクターとなって登場している。そこから、現地で行動している人や決議より大国アメリカの役人重視というメディアの前提枠組みが分析できる。このように、「マクロ・ルール」を使用した「マクロストラクチュア」の編成から新聞に埋め込まれている世界観、価値体系を分析できるというのがDijkの分析手法である。
 また、「マクロストラクチュア」は、語彙、文体、構文、レトリック、スピーチ・アクト(発話行為)などと連関して一つのまとまりをもって成立している。ニュースの構文のシステマティクな分析によって、書き手は構文を通じて行為者(agent)を表に表したり、隠したりし、行為の肯定や否定行為をしていることを明るみに出した。「ゲリラ(guerilla)」ではなく、「テロリスト(terrorist)」を用いる、「混乱(disturbances)」や「抵抗(resistance)」ではなく「暴動(riot)」にするなどの語彙の選択は、そうした行為者にたいして新聞が批判的見方を持っていることを表示するものであるという。

■スキーマ

 van Dijk のもう一つの分析概念は、「スキーマ」(ニュースの「語り」の構文)である。ニュースは、「要約」(見出しとリード)、「主要イベント」(できごと)、「背景」(コンテクストと歴史)、「結果(結果として生じるできごとや行動及び談話による反応)とコメント」(評価と予測)というスキーマ・カテゴリーにより構成されていることを指摘する。ニュースは、報道全体の内容(テーマとマクロストラクチュア)を構成し、そうした内容を「見出し」「リード」というスキーマ・カテゴリーにのせることによってニュースの「語り」を効果的に行うことができるという。
 ニュースの構文では、もっとも重要な情報が最初に来る。次に重要なレベルが、リードという要約で示され、個々の「主要イベント」「背景」などのカテゴリーではその詳細を伝えるというトップ・ダウン方式をとる。この関連性構造は、ニュース制作のストラテジー、記者のニュースのできごとに持つモデルの構造、ニュースは流し読みするというその特徴などと密接に絡み合っている。
 そうしたディスコース構造に焦点を当てることで、認知・社会・歴史・文化・政治的文脈(コンテクスト)から「(それらの文脈を解釈する)フレーム」(解釈枠組み)を引き出すことができるという。彼の分析は、表面的な構造や個々の文の意味に止まるのではなく、文脈(コンテクスト)との関係を探るプロセスであり、ディークは、実際のデコーディング過程やその解釈、また(人間の)記憶や記憶の再現前化に注目し、また、読者の知識や価値観がニュースの理解にどのような役割を果たしているか、に注目している。
 一方、ディスコース分析はミクロな日常世界とマクロな社会を接続するという視点を持つ。社会構造、歴史、あるいは文化というマクロな次元が、ニュース・ディスコースやその加工といったミクロレベルにどのように翻訳されているかを示すものでもある。これにより、ニュース・メディアの再生産という重要な機能を説明することができる。ニュースメディアは、ある面では独自に文化的再生産を行っているように見えるが、より大きな社会構造と価値体系に依拠し、監視されているということもできる。ニュースメディアは、そうした社会構造とイデオロギーをニュース制作という日々のルーティンおよび、ニュースの慣習的なディスコース構造という具体的な形に即して表わされている。エリート・アクターと行政・警察など権威ある情報源が中心に情報は構成される。そして記者の理解できる範囲の出来事でしかも、世界観が一致するものをニュースとして選択し、それ以外の出来事を排除するというニュースの制作のルーティンを持つ。
 そうしたディスコースの解読からvan Dijkは、ニュースメディアの機能は、公的言論の中心的な担い手として、公的なトピックやディスカッションにおける「アジェンダ(議題)設定機能」以上の働きをしているとみなす。ニュースという公共的ディスコースは、単に何が重要かという議題設定に留まらず、社会事象全般について、社会、政治、文化、経済的形態がどのように構成されているかのモデルや概要を提供する。同時に、読者がそこで提示している社会形態(モデル)を理解するために、現社会に支配的な知識や価値観を広く提供するという働きをしている。ニュース報道の構造は多くのレベルで読者にそうした解釈枠組みを開発するための条件付けをしているのである。メディアの影響は、(従来考えられていたより)間接的で構造的なものである。
 van Dijk は、社会的権力が主要な支配領域で実行され、正当化され、再生産される方法を詳細に検討するために、白人集団の民族的マイノリティ、移民などに対する権力行使の方法を日常会話、新聞報道、議会、研究者集団などのディスコースによって調査している。メディアは、マイノリティの状況の公共的定義に係わるが、ヨーロッパでは、マイノリティのジャーナリストは実質的にゼロに等しく、ニューズルームはほぼ白人ばかりで構成されている。その結果、ニュースの生産、書き方、情報源、視点などにおいてマイノリティにとって深刻な結果を招いていると結論づけた。多数の言語のメディア分析によりマイノリティのメディア・ディスコースは、次のような排除と周縁化の特徴を持つことを指摘している(van Dijk、1996、pp.92-94)。
 これらをニュースの制作過程に即して整理すると、マイノリティのニュース・ディスコースは、@ニュース・フレーム:対立フレーム(「われわれ/彼ら」:マイノリティを敵視) Aニュース・バリュー:ネガティブ Bジャンル:リスクの少ない領域(文化、宗教)のニュース Cスピーカー(登場人物):マイノリティを引用しない(穏当な人・一人では話さない・ラディカルな人はからかい対象)という特徴を持っている。
 現在でも女性は、日本のメディア制度のマイノリティである。筆者が対象とした戦後の時期(1945〜46年)の女性記者の数は把握されていない。70年頃のデータとしては、日本新聞協会の従業員調査が女性記者をカウントし始めた74年の32社161人という数値があるが、管理・総務部門も含めた編集部門の1%にも達していない。1%に到達するのは263人になる84年である。その後、雇用機会均等法の施行により、毎年一定数の新規採用が定着し現在に至る(女性の記者の割合は8.6 %:日本新聞協会調査、1996年)。
 本稿では、女性はメディア制度のマイノリティであるとし、マイノリティ・ディスコースの特徴を軸にニュースの分析を行うものである。特に、ニュースのフレームやニュース・バリューとの関係を考察する。
 なお、本稿で使用する「ニュース・フレーム(枠組み)」について説明する。van Dijk はニュースが一貫したまとまりのある物語として意味をなすのはニュースの「語り」スキーマがあるからと述べているが、出来事を認識するための共通の方法をフレーム(van Dijkはスキーマと呼んでいる)と呼ぶ。その考えを最初に提示したのは、Goffman , E.(1974)である。Goffmanは「フレーム」を次のように定義している。「状況の定義は、出来事、特に社会的な出来事とそれへのわれわれの主観的な関与を決定する組織化の法則に従って組み立てられる。フレームという語は、私が同定しうるところのそうした基本的な要素を指すために用いる」(Goffman, 1974(1986),pp.10-11)
 さらに、タックマンはニュースが記者によって枠組み(フレーム)を与えられることによって意味をなすことに注目し、ニュースにも「枠組み」の視点を導入した(タックマン、pp.260-262)。なお、フレームはガンスが指摘するように、「特定の文化のなかに位置づけられるものであり、情報源とメディアとオーディエンスとの複雑な相互作用の産物である( Norris, 1997, p7) 。
 用語について補足すると、ある学習会で報道の問題を論じていた記者が、女性初の最高裁判事など「女性初」ニュースの「切り口」への疑問を述べ、どのような「切り口」でニュースに仕立てるが問題、という指摘をしていた。筆者は、タックマンの言うニュースのフレームは、記者たちの制作ルーティンの中では「切り口」と呼ばれているものと同義であると考え、本稿でも「フレーム」あるいは「切り口」という用語を用いている。

・対象紙と期間

具体的には、女性運動が盛んであった1945年から46年の「婦人参政権運動」の時期(2章)と1970年代初めの「ウーマン・リブ運動」の時期(3章)を選び、新聞のニュースのディスコース分析をする。調査対象は、全国紙の『朝日新聞』の縮刷版(東京版)を中心に、『毎日新聞』、『読売新聞』(1945年調査時は『読売報知新聞』)を参照する。『朝日新聞』を選択した理由は、発行部数、影響力などから長期的に安定して日本の公的意味空間として機能したと考えられるためである。また、実務的な理由として、この時期全部の記事を索引のついた縮刷版で見ることができるのは『朝日』のみであることも挙げられる。1945年〜46年の『毎日』、『読売報知』はマイクロフィルム版を参照した。

(3)『朝日新聞』記者へのインタビュー

 占領期『朝日』の社説を書いた論説委員には手紙と電話で聞き取りを行った。また、70年代のリブ運動を取材し、ニュースを報道した男性記者1名及び女性記者2名にはそれぞれ直接会ってインタビューした。それらはディスコースのコンテクストを最大限補うための補助作業として行ったものである。聞き取りは、女性運動とメディアの相互作用について、実際にどのニュースを制作したかなどの確認とニュース・バリューなどニュース制作ルーティンに関して行った。
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