2章 女性参政権運動とメディアの相互作用

1 闘争を通じて獲得される女性の権利

 1945年12月17日、衆議院議員選挙法改正により日本の女性の参政権が認められることが決まった。この時期に行われた女性解放の政策は、マッカーサー元帥を最高司令官に頂く占領軍が行った政治・社会・経済改革の一端として制度化されたものである。そのため、女性参政権の実現についても、「占領がもたらした婦選」(上野、1996,p22)という認識が定着している。
 「婦人参政権が実現した。マッカーサーの鶴の一声だった」(朝日新聞社編、1995、p17)と、日本の婦人解放の実現の背景に「マッカーサーのマザーコンプレックス」(朝日新聞社編、p.14)があったという説すらある。
 しかし、占領軍の施策については「検閲そのものができるだけ読者の目につかないような形でおこなわれたから、日本文化の発展は、まさにアメリカ占領軍のおかげであるという印象を日本の民衆に与えることに成功した」(門奈直樹,p31)というほど大規模な検閲が極秘裏に実施されていた事実がある(1)。占領期の政治やメディアに関する研究は、占領軍のメディア政策の影響を抜きに考えるわけにはいかない。
 女性参政権をはじめとする占領期の女性政策については主に米国の資料の渉猟、精査によりさまざまな興味深い知見が蓄積されている(ファー、上村、山崎、依田)。「女性の権利というものはいずこを問わず抗争を通じてしか獲得されえなかった」(ファー、1987、p459)とするファーは、占領軍が日本にもたらした女性の権利政策が、決してマッカーサーのたなぼたではないことを、次のNippon Timesの記事を上げて反論している。マッカーサーが46年の総選挙で当選した女性議員たちと会見した際に、彼女らが「法律制定に影響を及ぼそうとして女性陣営を形成する」ことに対して「強い調子で警告を行った」(ファー、p483)という。そしてファーは、日本の占領軍が女性の権利をめぐる世界でも最も先進的な法律を制定できたのは、日本の戦前からの女性運動家および、占領軍の中で女性の権利問題に個人的な関心をいだいていた下級の職員たちの「女性の政策同盟」の結果であったと結論づける。
 女性が選挙法改正から4カ月という短期間に、投票という新しい行動を受け入れるようになったのもやはり、日本の運動家と占領軍の女性達の連帯によるという指摘がある。「エセル・B・ウィードを中心とする占領軍の比較的低い地位にいた女性達によるイニシャティブと、婦人指導者達との連帯の働きにおうところが大きかった」(山崎紫生、p101)というものである。ウィードは「婦人を投票させるための情報プラン」を作成し、メディア計画を大きな柱として据えている。ラジオが中心ではあるものの、「新聞」という箇所には、以下のような具体的方策が列記されている。
 「新聞課と新聞および通信社の編集者との毎週開かれる会合では、どうしたら新聞が婦人と選挙について最大限の注意を払うことができるかを討議する」、「企画課の担当官は通信社や新聞の編集者と毎週会い、婦人の投票を促すための選挙運動に関する報道について提案する」、政府や婦人その他のグループに「婦人の投票の重要性について新聞に声明を発表したり、また他の方法で婦人や選挙に関するニュースを”作り出す”ことを促す」(2)(山崎、p106)
 一方、これまで女性を周縁化し、記事にしてこなかった新聞各紙も、この「婦人参政権」に関しては様子が違う。敗戦後から翌46年の総選挙まで当時の『朝日』『毎日』『読売報知』は、量と政治的スタンスに差はあれ、「婦人参政権」があたかも時の話題であるかのように多くのニュースが書かれている。とりわけ、『朝日新聞』は敗戦直後からの市川房枝らの婦人参政権運動を早くから詳細にニュース化している。一方、社説は46年初頭から選挙まで月に2回程度「家庭の主婦に」という題で女性と参政権について社論を展開している。この積極的な報道から、新聞社があたかも「婦人参政権」キャンペーンを展開しているようにみえる。果たして、こうした「婦人参政権」のニュース化に、敗戦直後からの新聞への検閲及び新聞の自主規制策、及びCI&E(民間情報教育局)の女性を投票させるための情報プランなど占領期のメディア政策がどのように影響しているのだろうか。
 「女たちが遊郭に上がって五色の酒をのんだ」と興味本位に報じられた青鞜運動から、七〇年代「わたしたちの天下を」、「男をむしるリブ集会」といったからかいのウーマン・リブのニュースまで、女性運動は常にメディアとの闘争を強いられている(3)。これまで、女性を矮小化、周縁化してきたメディアが、この時期だけどうして「婦人参政権」を積極的に後押ししたのだろうか。そこで展開されているジェンダーに関するディスコースはそれにどのように影響しているのだろうか。
 田中寿美子によれば、「それにしても婦人運動の立ち上がりは早かった。(中略)女たちは敗戦という不幸を、婦人解放のチャンスに切りかえた。(中略)そのイニシアチブをとったのは市川房枝であった」(田中、1984、p60)という。市川房枝ら日本の女性運動家は、どのように参政権運動を展開したのか、そしてその行動は、メディアでどのようなニュースとなり、高い投票率や多数の当選議員を産み出すという世論形成に影響を与えたのだろうか。予想を覆す67%という女性の高い投票率(女性の棄権率は、当初4〜5割と報じられていた)と39名の女性議員の誕生に女性運動とメディアはどのような役割を果たしたのであろうか。この数字は50年を経た現在でも更新されていない(4)。
 また、高い投票率と39名もの女性議員に代表される女性の権利の進展がそう長く続かなかったことは、翌1947年の総選挙で女性の議員が15名と3分の1近くまで激減したことによって知られている。短期間に盛り上がった女性の参政権運動は、なぜ急に力を失ってしまうのだろうか。そこにメディアはどのように関与するのだろうか。こうした政治とメディアと女性の相互作用に関する疑問から、「女性参政権運動」に関わる新聞のニュースをディスコース分析により追跡してみることにする。
 占領期のメディア政策に制約された新聞社側の実状については、当時、朝日新聞社論説委員であった広岡友男に、社説「家庭の主婦に」と占領軍との関わりに関して聞き取りを行っている。しかし、占領期のメディア政策が新聞社内でどのようなプラクティスとして実践されていたかに関して具体的な跡付けを行っているわけではなく、その点での限界は否めない。
 あくまで分析は、社会構造、歴史、あるいは文化というマクロな次元がミクロレベルに翻訳され具現化しているニュース・ディスコースに基づいたものである。ニュース・ディスコースから新聞の女性運動への態度や見方を探り、メディアの女性運動への意味付与をめぐるポリティックスをジェンダーという断層線を中心に考察する。
 当時の記事が復刻されている『朝日新聞東京版縮刷版(復刻版)』の記事を中心に、マイクロフィルムの『毎日』『読売報知』の記事も参考にしながら、「女性参政権」に関する女性運動のニュース・ディスコースをみていくことにする(5)。時期を1945年9月からとしたのは、敗戦を迎えた8月は戦争の記事とそうでない記事が混在するため、その翌月からとした。また46年6月という時期までとしたのは、索引が半年ごとでそれ以降の時期から女性に関する記事が激減しているからである。
 なお、筆者が参照した、女性参政権運動と政治に関する記事は、「女性参政権運動と政治に関する参照記事」(参考資料1)として付した。なお同時期の女性と女性運動全般に関する記事は、「女性運動と女性に関する参照記事」(参考資料2)として添付した。また、領域(ジャンル)ごとの記事の増減傾向と全体の記事数については、「領域別・女性運動と女性に関する参照記事表」(表1)を添付した。
 この時期のディスコースを分析するにあたって、選挙前と選挙後のディスコースに著しい変化があるため、第1期:敗戦から選挙までのニュース、第2期:投票日のニュース、第3期:選挙後のニュースという3つの時期に分け、それぞれの代表的ディスコースを分析する。

2 第1期:総選挙前の「女性参政権運動」のニュース

(1)46年総選挙までの「女性参政権運動」に関する『朝日新聞』のニュース

 まず、9月に入り、『朝日新聞』は、女性運動のニュースを詳細に大きく取り上げる。「敗戦から10日目に市川房枝、久布白落実、山高しげり、赤松常子らにより「戦後対策婦人委員会」が組織された」(西、1985,p23)というが、早くも9月12日には、「モンペ常用や食生活の工夫 女史連が戦後婦人問題を論議」と、赤松常子、市川房枝らの「戦後対策婦人委員会」が、食糧増産やふさわしい服装の問題に取り組むと書く。
 ついで9月18日、「婦人参政権 戦時の体験が立派な資格 利用されない独自の立場で」という6段組の記事では、先の「戦後対策婦人委員会」のうち、参政権問題を打ち出している市川房枝、赤松常子らの「政治委員会」の主張を報道する。記事の半分3段が赤松の談話で占められる「運動の主張」のようなニュースである(後にディスコース分析で詳述)。当時は、現在のような30ページ前後の新聞とは異なり表裏2面しかないタブロイド新聞であったことを考えると、こうした運動の前触れ記事に大きな紙面を割くことは特異なことであろう。
 さらに、9月25日の「「二〇歳から婦人に選挙権」初の政治委員会で申合わせ」は、市川房枝らの戦後対策婦人委員会が24日初会合を持ったことを3段組で報じる。女性の選挙権と被選挙権、公民権の賦与、治安維持法と文官任用令の改正を政府、両院、各政党にたいして建議することが決まった、と会合の議題を知らせる。
 10月にはいると、14日の朝日新聞には、「男女とも満20歳 選挙権の年齢ひきさげ政府の方針決まる」、「有権者は一躍三倍、女子有権者二千百万人」、「満二五歳以上か 被選挙権も男女同権」など、政府が13日の臨時閣議で女性に参政権を賦与することを決めたことを報じる。裏の二面のトップには「婦人参政の喜び 今や「女一人前」更に男女平等の教育」との見出しで5段組みの記事が掲載。婦選運動に力をつくした大月照江の喜びの声を中心としたニュースであり、男の目では届かなかった「お台所に直結する政治を推進していきたい」という主張の掲載である。
 11月の女性運動は、記事の扱いは小さくなるものの、2日には、市川房枝らによる民主主義的自主団体として「新日本婦人同盟」が翌3日に会合を開き、婦人の立場より政府、政党に要求する緊急政策及び、総選挙に備えた政治教育について協議することを予告する。4日には、「婦人同盟結成 会長市川女史」という短信の事後報道、次いで11月17日には、「棄権するな女性 男よりも多い票数 「立候補も一県一人主義」で」が二面トップに3段組で「語る市川女史」の写真入りで掲載。内容は、16日から婦人政治講座を始めている市川房枝が参政権の見通しを語るというもので、選挙が行われると女性の有権者が男性より650万名多くなり、「女の投票がキャスチング・ヴォート(ママ)を握る」と女性の関心を呼び起こすように訴えている。堀切内相が福島で「婦人の有権者の内棄権5割、旦那さんと同じ候補者にいれる人が3割、あとの1割は自分の判断で入れる人、最後の1割がおそらく夫を引きずる女性だろう」と聞いた話を引いて、「棄権防止も重大な目標」であると説く。さらに、「ラジオの利用が一番有効ではないか」とし、「婦人の時間」の活用、さらには、「新聞雑誌にも大々的に取り上げていただくよう運動するつもりです」とマスコミを資源として活用する考えを語る(6)。この後も、新日本婦人同盟関連では、12月7日、15日に、「婦人の政策を聴く会」と「婦選実現祝賀会」が開かれるという前触れ短信記事が掲載されている。
 46年に入り『朝日新聞』は元旦に、「欧米諸国の婦選をみる ”主義”よりは”生活”へ」という5段組みの記事と、「婦人候補者月旦 出馬確定すでに10名 起きあがる地方運動家 往年の闘士は見送りか」を6段で紹介する。「婦人参政」を「新春のホープの一つ」とし、積極的な報道を開始する。この時期、社説が「家庭の主婦に」を月2回の割で始める(社説については後述)。
 2月10日「婦人参政にウィード中尉行脚」、12日は、2面のトップに「婦選 働く婦人と学生に聴く 欲しい生活の安定 大衆政党へ味方 天皇制は圧倒的に支持」および「魅力なき婦人代議士 実行の伴わぬ政治へは棄権の一手」、と職場と女子大での女性有権者の動向調査結果を11段組で発表。記事中央に、政治紙芝居に多くの女性が見入る写真が配置される。この面は半分を「女性参政権」が占める。26日、「都で婦選座談会」という6行の前触れ記事が載る。
 3月は、1日、2日の両日「羽仁女史と参政問答を どう使う・女の一票」「上 政治は台所にある 気のつく女心の活用へ」と「下 家庭で政党の批判話 新人は育児の気持ちで選べ」が8段組で掲載される(7)。
 13日「裏切られた”選挙”竹内女史、立候補の感慨 闇と情実の横行に」、18日未曾有の濫立  婦人候補既に69名」、19日「社会党婦人懇談会」、25日「婦人候補に”母”も聴入る」、31日「総選挙と日本女性の立場 5人の目をひらけ ウィード中尉と語る」(8)など選挙関連情報が続く。4月に入ると、10日投票当日は、「個人住宅も一役 託児所も用意してきょう晴れの投票所」など棄権防止を呼びかけている。
 このように45年末までは参政権運動の報道が主流であったが、46年に入り、新聞社の特集記事と社説での有権者への啓発へと変化が見られた。 

(2)「婦人参政権 戦時の体験が立派な資格」(『朝日』45年9月18日)のディスコース

この時期の女性参政権運動は、なぜ周縁化されることなく積極的な報道がなされるのか。この疑問を解くために、『朝日』に「婦人参政権」の意義や主張がまとまった形で紹介された最初の9月18日の「婦人参政権 戦時の体験が立派な資格 利用されない独自の立場で」の記事のディスコース(資料3)から新聞の女性参政権運動に対する見解を考察する。

◇マクロストラクチュア

この記事は9月18日2面の中央に6段組みで報道されている。このニュースのスキーマ構造を見ると、1背景:女性が戦争で国家に盲目的に協力(戦争協力)および現在の諸問題(食糧、住宅、配給、教育、乳幼児)解決に女性の協力必要、2メインイベント:戦後の婦人運動として「戦後対策婦人委員会」結成の予定 3結果(赤松常子女史の談話)「すべての女性の希望」という構成である。
 一方、見出しに表示されているのは、「婦人参政権」は「戦時体験」を理由に十分与えられる「立派な資格」という命題と、(参政権が実現すれば)「女性は利用されない独自の立場」で参政権を行使せよ、という2つの命題である。これを削除、一般化、再構築のマクロルールの実践として考察すると、メインイベントの「戦後対策婦人委員会」発足予定よりも「婦人参政権」を新たな命題としてマクロストラクチュア(全体のテーマ)を再構築したことがわかる。
 このテーマの構築は、対立する何かを持ち込んで女性運動をとらえるというマイノリティのディスコースによくあるフレームとは異なり、女性運動の主張する「婦人参政権」という命題を正面からとらえようとしたものである。テーマを「婦人参政権」としたので、それを得る「資格」とそれを得た後に行使する際の(有権者として望ましい)「資格」として「利用されないこと」という条件を赤松常子の談話の中から抜き出している。ここから女性読者を想定したニュース・ディスコースであることが示唆される。
 この見出しは、主体が表示されていないために、あたかも、新聞があたかも女性運動家に代わって「婦人参政権」を語っ(主張し)ているように見える。なお、新聞制作に関しての大著・日本新聞連盟(9)(1977)は、見出しを客観見出しと主観見出しに分類している。主観見出しをさらに「ムード見出し」「呼びかけ見出し」「語感見出し」に分けて、「呼びかけ見出し」については、「忘れるな、今夜の正零時」(国勢調査に関する『読売』大正9年9・30)「軍を信頼・職場を守れ」などのように、警告記事とかキャンペーンには当然のことながら、この種のものが多い(1977、p717)と指摘している。第2次世界大戦中には「呼びかけ見出し」が多かったことも記されているが、敗戦後のこの時期も「棄権するな女性」(『朝日』45年11月17日)、「古い教育の禍根、今こそ根絶」(45年10月10日)など参政権キャンペーンに限らず「呼びかけ見出し」が多用されている。

◇フレーム

この記事のフレームは、女性運動を男性との対立の枠組みで見るニュース・フレームではない。女性運動がいつ、どこで、何をした、という出来事をとらえる社会面のフレームではなく、女性運動が主張する「婦人参政権」をまな板に載せ、なぜそれを主張するのか、どのような背景があって、実現したらどのように行使すべきか、という「婦人参政権論」の行程が展開されている。これはマイノリティのディスコースとの共通性はなく、むしろ3章で述べる家庭面でのリブ・ニュースと共通する。

◇ジャンル

 女性の参政権問題をその背景から方向性へと議論を展開する政治ニュースである。

◇スピーカー

 女性運動家の赤松常子が単独で主張を述べている。彼女の談話をそのまま引用し、記事の半分を占めている。マクロストラクチュアを示す見出しでも労働問題に詳しい赤松の労働者の権利として政治に参加せよ、という主張を取り上げている。
 これらテーマ、フレーム、ニュース・バリュー、ジャンル、スピーカーのいずれもマイノリティ・ディスコースの特徴をまったく示していない。

(3)「女性参政権運動」のニュース・ディスコース

 この時期の他のニュース・ディスコースについても、記事で誰がどのように引用されているかに注目して分析したが、マイノリティ・ディスコースの特徴はこの時期の女性運動のニュースには見られない。スピーカー、フレーム、ジャンルから確認してみよう。敗戦から45年末までのニュースのスピーカーは、市川房枝を中心に、赤松常子、大月照江など参政権運動の活動家である。市川ら女性運動家がスピーカーとして登場するのは、女性運動のニュースだけに留まらない。市川は、8月20日「新日本の婦人 自主的な行動を」という7段のコラムや、10月10日「古い教育の禍根 いまこそ根絶」という上野高女での学校の不正への抗議ストに関する談話にも登場している。羽仁説子は、9月18日”比島の暴行を詫びる”で島田衆議院議長と並んで「女性にも責任」という談話が掲載されている。それらの談話は、いずれも今日のものよりはるかに長く3段に及ぶ(10)。
 記事に登場するアクターについては、一般に、記者は「公の機関を中心としたニュース網を通じて知った情報源を優先する」(タックマン,1991、p125)。そして、マイノリティをたいして信頼できない存在とみなす(van Dijk、1995,p93)が、市川は講座を開いたというだけでトップに写真付きで3段に渡って自説を語ることを許されている。赤松、大月も写真はないものの、3段組のトップという優先的アクセスが許されている。ニュースの「声」は知のシステムにおいて正当化された話者の主張となる。メディアが浸透した社会では、ニュースの発言は公領域において話者の「主張が重要である」ように構成する役割を担っている。市川や羽仁など参政権運動論者の声がこの時期、正当化された重要な主張として世論形成に影響を与えた可能性は否定できないのではないだろうか。
 また、少数派は、宗教や文化、伝統や文化全般など、特に「ソフト」で「危険が少ない」話題で引用される、マジョリティの集団のリーダーとは異なり、マイノリティはめったに一人で話すことが認められない(van Dijk、1995,p93)は、占領期参政権運動のディスコースには敷衍できない。単独で意見を語るのが、参政権運動のアクターの女性リーダーの談話の特徴である。
 社会運動の参加者は不適切なときに不適切な場所で活動をしなければニュースとして取り上げられない(タックマン、1991、p182)。マイノリティに直接関係するイシュウやトッピクスは、あまり報道されないし、目立つようには報道されない。マイノリティの主張が語られる際には、対立する問題として扱う(van Dijk、1995、p95)と言われるが、女性参政権運動は、どうだろうか。この時期の9件の女性運動のニュースのトピック(マクロストラクチュア)は、「婦人参政権」「婦人に選挙権」や新日本婦人同盟などの女性運動グループであるが、対立フレームを利用したディスコースは全くみられなかった。これは後に展開するリブ運動と際だった対比である。この時期の参政権運動が、マイノリティ・ディスコースでないのはなぜだろうか、政治運動に関する断層線(Norris,1997,p.ク)であるというジェンダーその他の要素から検討を加えてみたい。

(4)構築されるジェンダー:マルチ・ロール・モデル

 そこで、再び9月18日の「婦人参政権 戦時の体験が立派な資格」の記事ディスコースを詳しく分析することにしよう。
 記事が描くジェンダーを検討するために、記事の前半に書かれている記者のニュース・テキストを見ると、女についてはまず「女性は男子以上に何も知らされずただ盲目的に闘わされてきただけである」とある。その次に「ここに敗戦後の新しい政治運動に婦人参政権実現の声が聞こえるのも理由のないことではない」と続く。
 この含意は、女性は(盲目的に )戦争参加したために参政権の有資格者となった、ということにあるように見える。ここでは女性の権利として政治参加を認めるというのでは決してないことが示唆されている。さらに先に進むと「しかも戦後の食糧、住宅、配給統制、教育の諸問題、戦争のためにとみに低下した乳幼児の体位、浮浪児の増加等々、女性の協力なしには解決の困難な課題が山積みしている現在である。」とある。食糧や育児、子育てなどの女性に参加してもらわないと解決がつかない、いわゆる家庭、生活領域の問題が山積みしている、だから「婦人参政権」をという主張が展開されているのである。
 ここで新聞が構築するのは、敗戦後の混乱により切実な課題として生じている家庭・生活領域の問題を妻、母、主婦としての豊富な経験、すなわち女性の力によって解決に尽力せよ、というジェンダー認識である。つまり、「戦前の家庭を女性の生活の場とした良妻賢母主義(one-role ideology)から家庭を足場として社会活動や職業活動を行う型(multi-role ideology)」(上村、1992、p25)にあたる。
 ここでいうロール・モデルとは、女性がメディアをはじめとする社会との相互作用の中で属性アイデンティティとして構築する役割モデルのことである。マルチ・ロール・モデルは女性の家庭責任に挑戦せず、男は公(政治)領域、女は家庭領域という2元論を前提に、女性の力が社会から要請されれば、社会参加もするというジェンダー弁別肯定路線である。女性の力を男性とは別の特性とみなすところはジェンダー・ギャップ強調路線ということもできよう。それは、当時の支配体制にとって火種とならない断層線である。但し、この時、家庭責任を不問にしたまま、女性が社会参加もするというマルチ・ロール・モデルに女性運動家もアイデンティティを持っているように見えるが、それは長期的に見れば、パート化や低賃金化など女性労働の周縁化をもたらす多くの問題を生んでいくことになる。
 なお、女性の参政について当時の男性政治家はどのようにとらえていたかを示す資料がある。第89回帝国議会衆議院委員会にて、女性の参政が「主婦は家庭を守る」という日本の根本基底としての家族制度の維持と矛盾するのではないか、という反対意見が展開されている。それを見ると、マルチロール・モデルですら、前の良妻賢母主義(one-role ideology)からすると格段の変化だったことが理解できる。多少長くなるが引用する。
 「日本では俗に普通の女のことを主婦、家の中に居る、家のことを守って家族の生活、子弟の教育、小さい子どもの教育養護というようなことが主婦の一番大きな任務でなければならぬ、併し、世間で家内というのだから、今度の選挙をやったら家外さんになるのだから、私は反対だといえば封建思想だといわれるかもしれませぬ、けれども政治運動だといって頻りに政治運動が行われ、選挙運動というので女房も親父も手をつないで、あるいは別々に行くかわかりませぬが、演説会を聞きに行かなければならぬということになると、に家を守らなければならぬ主婦の立場というものも、この間の調節ということについて、相当の考慮を要すると思うのです」(田村(秀)委員の質問、市川、1977、pp.619−621)
 田村議員の女性観を、当時の男性支配層の意見として見てみると、家の中に居て、子供の世話をするのが女性という認識は相当強力なものだったようだ。選挙演説会にいくことすら、女性の家庭との調整が必要というほど、女性は家に釘付けされていたのだろうか。マルチロール・モデルでさえ、敗戦という混乱期ゆえの変化といえるのではないか。仮に社会条件が変われば、再び良妻賢母主義に戻るのもなんら不思議なことではない、と思える。

(5)「参政権効用論」と社説

 この記事の、主要な出来事は、市川、赤松らの戦後対策婦人委員会結成、参政権運動を展開にあるはずだが、それは全体のマクロストラクチュア(テーマ)を示す見出しにはでてこない。このニュース・ディスコースは、参政権の「立派な資格」となる「戦時体験」をもっとも重要なテーマとしている。
 しかも、発話効力(illocutionary  force)は「利用されない独自の立場で(行使せよ)」という行為指示型である。女性の読者を想定しているようだ。11月17日の「語る市川女史」という写真付きの記事「棄権するな女性」にも同様の命令形の発話行為形態が見られた。このニュースは、対立フレームでないどころか、引用符なしで運動の主張を見出しで述べている。見出しで述べている「婦人参政権」の主張があたかも新聞の声であるかのように見える。なぜ、新聞がこれだけ女性運動に同調的なのだろうか。
 女性参政権運動と社会のジェンダー認識を分析した舎官かおるによると、1925年の普通選挙法の可決を前にした婦人参政に対する『朝日新聞』の紙上討論での女性参政権賛成論は、<参政権権利獲得論>と<参政権手段論>と<参政権効用論>の3つに分けられるという。そして、反対論者や議会説得の際の論法としてよく使われたのが、「息詰まった男子の政治を打破するため」などといった女性の政治参加の効用論であったという(舎官、1993、p132ー133)。
 マッカーサー元帥の日本民主化に関する5大改革(市川、1977、p613)においても、参政権の付与による日本婦人の解放で始まる文は、「日本女性は政治体の一員たることによって家庭の福祉に直接役立つ新しい政治概念を日本に招来するであろう」と結局その目的が「家庭の福祉に効用=参政権効用論」というロジックで組み立てられている。
 舎官の戦前の参政権運動に関する報告によると、「一般に女性参政権運動とは、主に第一の男女同権論に基づく権利獲得そのものが目的であったとみなされることが多い。だが、参政権の獲得は女性の要求を実現するための手段という認識がかなり明確に存在していた」(舎官、1994、p133)ということである。
 筆者もこれまで権利という文字を中に含む参政権運動が同権論として展開されているものと想定していたが、それは全くの誤解であった。戦前から手段論で進められ、敗戦後はその混乱の解決の一助としての女性の参政効用論が展開されたようなのである。女性の参政が社会全体の功利につながるという認識だからこそ、女性参政権運動へのこれだけの同調支持があったのではないだろうか。男女同権論という闘争を経ずに獲得した日本の女性参政権、政治参画のその後の展開が気になるところである。
 この記事ディスコースから結論を導くのは早計にすぎるが、新聞が参政権効用論によって当時の世論を婦人参政権支持へと導いた可能性はある。社論がどのあたりにあるかを探るために、46年1月から『朝日』で継続的に展開される女性参政権と政治に関する社説に目を向けてみよう。
 『朝日新聞』は、20年1月から「家庭の主婦に」という題の社説を選挙前の3月まで月2回ずつ繰り返し掲載している(11)。これ以外にも、女性と選挙に関する社説は3月5日「婦人の選挙への関心」、4月7日「婦人参政権の目標」、4月15日「婦人と教育者の当選」がある。それらの社説で展開されているトピックは以下の通りである。食糧問題(1月19日)、家計と政治の仕組み(1月27日)、物価(2月4日)、インフレと経済(2月23日)、婦人の投票への不安(3月5日)、婦人の感情を政治へ(3月26日)、婦人の棄権憂慮(4月7日)、婦人議員、体系的・具体的政策欠く(3月15日)。
 最初、社説が女性を対象にしたキャンペーンを行っていることは筆者には意外であった。どうしてこの時期、女性に向けた社説を展開したのか。なお、『読売報知』『毎日』には女性と政治に関する連続した社説は書かれていない。『朝日新聞社史』には、次のような説明がなされている。
 「このころの朝日の社説には、あたらしい空気がかよいはじめていた。論説委員室の首脳は、主幹本多助太郎、副主幹派益田豊彦と戦後復社した田中慎次郎(12)、という顔ぶれであった。当時をふり返って田中は「民主主義革命のためにマッカーサーは人民の中に民主主義的自覚を発酵させようとしていた。社説はこの発酵を促すため力をそそいだ。実働論説委員の数が少なかったのでみんな忙しい思いをした。しかし、民主主義革命の激しい発酵状態の中にいて、私たちもどうやら”発酵”していたので多忙は苦痛ではなかった。ただし、この”発酵”は決して酩酊ではなかった」と述べている」というくだりである。
 これは占領軍の「情報プラン」その他のメディア政策とどのように関わっているのだろうか。詳しい実状が知りたかった。『朝日』論説室の方に調べていただいた結果、当時の論説委員で存命の方が2人おられることがわかり、紹介された江幡清及び広岡友男両氏に手紙で@GHQから婦人参政権問題を扱うようにという指示などあったか、A女性運動の側から取り上げてほしいというコンタクトがあったか、を中心に質問をした。
 その結果広岡は、1942年から論説室にいる古参であったことを前置きして、次のように答えている。「家庭の主婦に」は、数年前に尾崎秀実の親友だったためにゾルゲ事件で疑惑を持たれて退社した田中慎次郎が復社していた。彼の提案により、「家庭の主婦にも社説を読んでもらうほうがよい」「これからの時代は女の人にも社会のことを知って責任ももってもらうことが必要」と論説に種がない時に、田中が2回、広岡1回程度の割合で「幅広いことをわかりやすく書いた」(13)。
 占領軍の指導については、「命令的に言ったことはない。論説には直接的な接触はなかった」という答えであった。女性運動からの働きかけも「出先の記者はあったかもしれないが、直接論説にはなかった」ということである。広岡の解説と田中の社史に収録されている文章をつきあわせ、またウィードの情報プランの実施状況や占領軍の膨大な資料を渉猟した有山、山本などの分析なども総合的に考えると、田中ら論説委員が一方では民主主義を希求し、かつ占領軍の自主検閲がらみでの示唆の意向を先取りした形でこうした参政権を女性に啓蒙する社説を展開したと考えるのがもっとも妥当のように思える。この点は、今後、考察を必要とする検討課題である。
 第1回の「家庭の主婦に」社説(46年1月19日)は、「われわれの食膳に供せられる1杯の飯の中には、大きな政治の問題が含まれている。(中略)家庭の主婦はこの投票を通じて、自分たちの考えを日本の政治に反映させるのである」とこれからの女性は、家庭、生活領域が広く政治につながっていることに気づいて政治に関心を持つようになってほしいというものである。そして、政治を決めるのは政党選びであるというのが隠れたテーマのごとく繰り返されている(14)。
 田中が自ら回顧して述べている「民主主義的自覚の発酵」だが、この時期の日本の新聞社と占領軍との相互作用について占領軍資料から読み解いた山本によると、次のように解釈される。「時局の水位を敏感に読みとり、その推移につれて立場を変え、時の権力からにらまれぬ安全地帯に身を置くことに日本のメディアは習熟していた。何はともあれ。企業としての存続を考えるのが、メディアの姿勢であった。そのメディアのリーダーには、そのために必要な風見鶏的な方向感覚が必要であった。またメディアのイデオロギーを象徴する「不偏不党」の編集方針は、権力から自らのメディアを守るための格好の保護色であった」(山本、1996,p569)。 
 社説および社会部の「女性参政権運動」の記事が占領軍の意向をどれだけ反映したものだったか、その判断は現在の筆者の能力を越えている。いずれにしても、新聞は、女性が政治に参加することを「海につかることが水泳を覚える第1歩である」(4月11日社説「総選挙からの教訓」)などと一貫して歓迎する。しかしながら、その主張は家計や食糧など家庭を基盤にし、社会が必要とするところで参加せよ、という「参政権効用論」に基づくものである。そのため、家庭領域は女性というジェンダー弁別に沿った女性の一時的社会参加という「マルチロール・モデル」を前提にしている。そういうメディアに対し、女性参政権運動も、公領域からの排除というジェンダー弁別に意義を唱える公共圏拡張の運動を展開することはなかった。それが、この時期の女性参政権運動のニュースがマイノリティ・ディスコースにならなかった大きな理由と想定できる。

3 第2期:総選挙「投票するねんねこ姿の女性」(『朝日』1946・4・11)のニュース・ディスコース

 投票の模様や棄権率に関しては、「大勢判明は今夜半 婦人出足良」(4月11日)、「相乗りで駆けつけ 投票は夫婦独自 いかめしいのは立会人」(4月11日)、「男に負けた女の成績 都下の棄権・最悪は麹町区」(4月12日)などこの総選挙が「男と女」というフレームで見られ始めたことを示唆する見出しが見られる。
 ジェンダー以外の民族、国籍、エスニシティなどの要素について系統的に見たわけではないが、『読売報知』4月11日に「アイヌ婦人初の投票」という写真が掲載されていることが注目された。同時に、3人のアイヌの立候補者のうち1人がほぼ当選確実という記事も添えられている。
 この総選挙における女性の姿を象徴するのが、『朝日』(46.4.11)2面(資料4)に掲載された「ねんねこ姿で投票する女性」であろう。「孫を背負って一票」というキャプションがついた原宿投票場の写真である。「投票するねんねこ姿の女性」の写真は、『読売報知』『毎日』にも揃って掲載されていることが注目される(15)。『読売報知』(46.4.11)(資料5)は、ねんねこ姿の女性が晴れやかな顔で投票する一枚を一面に大きく掲載している。『毎日』(46.4.11)(資料6)は「赤ん坊を背負って投票」という一枚で中年の女性の写真が掲載されている。「坊や背に母も出かける投票日」という見出しが「棄権してまたも招くなあの犠牲」という見出しと並んで『読売報知』10日に見られる。これらの写真の女性像が表しているのは、あくまで子供と家庭を基盤にしたものである
 4月11日の『朝日』1面で大きく掲載されているのは、「一票を初行使 婦人も出足よくぞくぞく投票所へ」という杉並区妙法寺で投票する女性の写真である。この写真は、いそいそとして投票を待つ女性の姿と、親の投票の間託児所で遊ぶ子供たちを映す。子どもと母親のセットでこの総選挙が表象されている。男性や高齢者は視野には入ってこない。現在、託児所が設置された投票所は少ない。裏面の「新日本建設への審判下る」という記事にも託児所を設置したことがニュースとされている。ワン・ロール・イデオロギーの強かった時代、女性参政権は、女性に付随した子供をどうする、という発想につながり託児所を設置したのだろうか。
 子どもを背負って、あるいは仮設託児所に預けけて投票する女性の姿に何が表象されているだろうか。総選挙を代表する写真として各社が揃って使用した「投票するねんねこ姿の女性像」は、社会が必要な時は、子供を背負ったまま、あるいは仮設託児所に預けて、一時的に政治に参加する、というマルチロール(多元的役割)・モデルを表象している。それは政治は男性、家庭は女性という公・私の領域区分を交錯させる公共圏拡張行為などでは決してないことを示している。投票に際して新聞が切り取った女性像は、あくまで「家庭を背負った女性の姿」である。

4 第3期:総選挙後の『朝日』女性と政治に関するニュース

(1)ニュースの流れ(46年4月〜6月)

 46年4月10日の第22回衆議院議員総選挙以降6月までの『朝日』の記事は、大きく分けると直後の選挙結果報道と4月末から6月にかけての女性議員の選挙違反に関する報道とに大別される。それ以外の女性議員の議場での活動を報告する記事は数件しかない。
 『朝日』は、女性の投票率67%と39名もの女性議員が当選したことを次のように報じる。4月12日には、「女代議士颯爽と産声 苦闘を裏切る夫と栄冠の日に離別 ”主張に生きる”山崎女史」「喜びより悲哀 語る山崎女史 」「今夜から勉強ですわ 加藤シヅエ女史」「まづ牛乳問題の解決 竹内女史 素人ばかりで戦った」などと女性議員の喜びの声を「颯爽と産声」という見出しで報道する。但し、「颯爽と産声」とは矛盾する山崎道子の離婚スキャンダルをトップ記事とする。
 翌13日には、「三七名に達せん 躍進する婦人当選者」「二十八歳で独身 餓死防衛の松谷天光光さん」「夫婦代議士 加藤勘十氏とシヅエ夫人電話対談」「私たちの主張 女代議士各氏談」「案外浮動な投票心理」など、今度の選挙結果をどう判断するか、学者や外国人記者など多彩な顔ぶれの見解が展開されている。だが、選挙前にあれほど登場した女性運動家は、『朝日』にはまったく登場しなくなる。それと並行して、多数の女性議員誕生に対して批判的な報道が出始める。
 一方、『毎日』と『読売報知』はどうか。『毎日』が市川房枝の「新代議士に望む」(4月12日 )「林芙美子女史の印象」(13日)を掲載し、『読売報知』も「婦人代議士に告ぐ 羽仁説子女史」で「早く公民権をとろう」という提起を報道する。市川房枝が「どんな内閣を望むか」(4月15日)を寄せる。羽仁説子は『読売報知』「政局はどうなる」という座談会(4月17〜21日)に出席するなど、『毎日』『読売報知』両紙は女性運動家の登場を継続させる。
 『読売報知』『毎日』の『朝日』との方針の差はその後も継続し、『読売』(注:『読売報知』羽5月より『読売』に紙名を変更)は5月15日「傍聴席も男女同権」、『毎日』には4月16日「女だけの政談会」、19日「「婦人代議士初顔合わせ」25日「政変をどう見る 婦人代議士に聴く 除け者にされる婦人」、「自家用車を繰り出す山口女史」、26日「議事堂で婦人代議士顔合わせ 食糧危機線突破へ 党派を超えて結ぶ」、16日「ただ一人尾崎さん 婦人議席の仲間入り」と女性代議士の動向に関心を注ぐ。5月1日「女代議士と嘘の学歴 裸で通らぬ世間身を飾りたい女心」で今井、木村、三木代議士の学歴詐称問題も扱る。
 『朝日』は、女性代議士に関しては、当選率の高さを指摘する「婦人代議士39名 当選率実に4割8分」(4月14日)、「婦人代議士講演会」(4月25日)、「女代議士でクラブフォーラム 結成 たちまち論戦の花(写真)」(4月26日)という議会での活躍を予測させるような記事がでたところで、「今 井はつ代議士辞任」(27日)「学歴にうそ 今井はつ代議士」(29日)「富田氏戸別訪問か」(29日)などと選挙違反報道に関心を集中させる。
 5月に入っても、「富田ふさ代議士起訴」(24日)「三木代議士(大阪)起訴」(26日)、6月も「夢心地で偽称 三木代議士公判」から「三木代議士(大阪)控訴」(15日)まで報道が続き、それ以外のことは紙面からは消える。
 『朝日』が議会活動について報じたのは、「裾模様代議士へ抗議文 ”教養では腹は膨れぬ”」(5月22日)、「あわや乱闘に婦人の一声 暑さに野次乱れ飛ぶ 議会雑観」(6月23日)「”憲法”を子守歌に 居眠る民主選良 また着物論議の婦人代議士(写真)」(27日)、「婦人議員初の登壇 衆院 引き上げ促進を決議 」(30日)「婦人議員に傾聴 憲法委員会、仮室で審議」(30日)と周辺的話題が多い。

(2)「案外浮動な投票心理」(『朝日』46.4.13)のディスコース

 46年4月の総選挙後の『朝日』の女性と政治に関する記事が、一変したことを(1)ニュースの流れで示した。『読売』『毎日』が、女性運動家の政治家への期待を書き、国会での女性の政治家の動向を政治の全体状況の中でとらえようとするのに対し、『朝日』の報道は女性政治家の選挙違反の雑報に集中する。
 そこで、こうした変化の契機となる『朝日』4月13日2面のトップ記事「案外不同な投票心理 春の晴着買う心か 女性へ”連記の得” 街頭演説は確かに成功」のディスコース(資料7)を分析する。

◇スピーカー

 この記事は、男性心理学者波多野完治の談話のみから構成されており、これまでの同紙の女性と政治に関するニュースのスピーカーのように女性と政治の専門家ではない。彼の発言は、男性心理によるもので「連記3人ともなれば男でも一人くらい女性を書きたい気になる」「未婚婦人の紅唇は大きな魅力」などと述べている。
 また、「女性は春の晴れ着を求めるような気持ちで同性の名を並べた」などが「私が尋ねた多くの人」の「正直な告白」だとする。こうしたスピーカーの主張も見出しでの主体隠しにより、新聞社の声のように聞こえる

◇マクロストラクチュア

 リードで、「保守勢力の強さ、八五人の婦人候補が三〇数名も脚光を浴び、危ぶまれた女の棄権が意外にくい止められた」と、こうした選挙結果が「意外なことばかり」と分析し、「”水もの”といわれる選挙については社会心理専門の波多野完治氏は次のように語る」という波多野談話のテーマ設定をしている。そうした意外な結果の理由が見出しに示されているマクロストラクチュアである。
 「女性へ”連記の得”」は、選挙が連記性であったため、「一人くらい女性を書きたい気になる」というあたかも「春の晴着(若い女性)を買う心」によって生じたものだという。
 選挙で「婦人候補が30数名も脚光を浴び、棄権が意外にくい止められた」ことを「買い物」のメタファーを使って、女性が「未婚婦人の紅唇」のおかげで春の晴れ着(若い独身女性候補)を買う心で投票した結果である、と結論づける。女性は家庭の買い物をする、すなわち「基本は家庭」で「政治は晴着(たまにしか着ないもの)」というマルチロール・モデルを示す。その含意は、女の脚光は選挙制度がもたらした”水もの”(偶然)であり、「女の脚光」(当選)は一時的な「晴れ着」であって、「ジャンヌ・ダーク」(政治家)たるにはまだ永い歳月が心理的に要る」という点にあろう。
 女性が政治に参入することを、家庭に軸足を置いた上で、一時的に社会参加もするというマルチロール・モデルで理解する新聞は、松谷、山口両氏を家庭持ちでない独身、すなわち若い女の属性の強調により、晴れ着、買い物というフレームを形成する。
 こうした女性の認識は、隣接した「夫婦代議士 電話対談」の記事で、加藤シヅエに娘・多喜子(2つ)のことを語らせ、「政治プラス家族」というマルチロール・モデルのフレームで切り取っている。そうした女性のマルチ・ロール化は、「夫婦代議士」「独身」など代議士の見出しでの家庭内属性の強調にからも示唆される。

◇フレーム

 選挙では「女性が得をした」、すなわち、男性が損をしたという含意によって、男女の対立フレームをとる。また、「(投票)心理」「春の晴着買う」「得」などという非・政治の語彙でこのニュースを「非・政治ニュース」としている。67%という「意外に多い」投票率と39名という「意外に多い」当選議員という選挙結果の二大「意外性」がこの男性心理学者の手にかかって「水もの」(偶然)だった、と解題された。その後の『朝日』の女性と政治ニュースは、選挙前の女性参政権キャンペーンへの熱意を急に消失させる。
 最後に、この日の二面は半分以上が女性と政治に関する記事から構成されているので、隣接する記事にも触れる。当選議員の中から、「28歳で独身 松谷さん」を写真つきで登場させた点との関連性は、「未婚婦人の紅唇」、若い女性という点にあろう。女性を紙面の飾りとしてアイキャッチャーに使い、政治の次元から「男対女」という次元にフレームをずらしてしまった。
 「教えられた女の力 今度の活躍に期待 長谷川如是閑氏談」という記事があるが、「日本の女性は、判断が足りないが、これまで女性を見くびりすぎていた男性は今回の選挙で女の力を教えられたはず」というのが大意である。従って「教えられた」の主語は男性となる。この記事は主語隠しによって「男女フレーム」を隠蔽している。
 また、「投票心理」の下に、加藤勘十と加藤シヅエの「夫婦代議士電話対談 「女は余程反省して.....」」の記事があるが、これも、男が「女は余程反省」がもっとも大きい活字とされ、男対女フレームがとられている。加藤勘十の「女が興味本位の票で当選したから反省せよ」と妻に説教する「反省」が全体のテーマとして構成されている。
 この前日、「女代議士颯爽と産声」(4月12日)というほぼ一面を使った女性代議士の当選記事が、当選議員の離婚問題をトップに扱ったが、この日を境に「女代議士報道」を女と政治の課題として扱わなくなるように見える。「政治フレーム」から「女、男の対立フレーム」への転換である。その理由付けに波多野完治の心理分析が活用されたと見るのはうがちすぎであろうか。
 いずれにせよ、その後の『朝日』の紙面からは、市川房枝、羽仁説子、赤松常子といった女性のスピーカーが消え、学歴詐称、選挙違反といったネガティブな不祥事のニュースが大半を占め、女性議員が揃ってマッカーサー元帥を訪問した事件や、帝国憲法改正審議で女性代議士がどのような議論を展開したのか、という女性と政治の関わりのニュースは公的意味空間から排除され、読者に届かなくなっていく。

5 ジェンダーと公共圏

 占領期の参政権運動とメディアの闘争は、選挙前については、奇妙なほどに闘いの跡がない。新聞が運動の声に成り代わって拡声器の働きをしている。その理由として考えられる占領軍のメディア政策については、女性参政権を対象にした先行研究が山崎(1988)のみであり、本稿では深く検討することができなかった。今後の研究課題としたい。ここでは、限界は重々承知しながら、ひとまず占領軍のメディア政策はかっこにいれて報道されたニュースディスコースからジェンダーの問題を論じている。
 女性の参政は、女性の排除されていた公領域への参入ととらえるなら、公/私領域の境界線を越える行為と考えられる。しかし、『朝日』『毎日』『読売報知』三紙の総選挙報道の写真がそろって、背中に赤ん坊を負ぶって「一票を投じるねんねこ姿の女性」であったことは、社会がどのようなジェンダー認識を持ったことを表しているだろうか。これは、背中の子供を放棄することなく(家庭領域の責任者を維持したまま)、必要とあれば、あいた手で社会的参加もするという女性の「多元役割(マルチ・ロール)モデル」の出現を示している。
 戦争中の女性像と比較すると変化が明白になる。女性を戦争に動員するために使われた雑誌の女性イメージを研究した若桑みどり(1995)と対照してみよう。戦時期女性に期待された役割を「母性」とする若桑によると、『主婦の友』昭和16年5月号口絵に掲載された女性は、靖国神社の鳥居を背景に、戦死した夫の霊前に祈る母子像(資料8)である。自身が教師だというこの女性は、夫を戦地に捧げ、男子を生み、かつ少国民を育成している模範的存在として図像化された(若桑、1995)という。夫と男児を通じて国家に貢献する女性の姿が強調され、そのことが靖国の鳥居と戦死者の霊を鎮める黒い着物で象徴されている。彼女が教壇に立つ姿は間違っても描かれない。黒い着物を着て、両手で男児をしっかりと抱えるその姿に、妻、母役割を通じて国家に貢献する戦争時の女性役割像が明示されている。それは、子供を産むという生物学的機能を根拠として、そこから、子供を育て、家族の世話をし、家事が女性の天職であるという良妻賢母(ワン・ロール)イデオロギーである。
 参政権が女性に付与された国会での議論や新聞の報道の言説からみれば、敗戦の混乱期に女性の力は必要とされた。いやむしろ、女性の力がなければ社会が統治できない、という状況に陥っていたということができるのではないだろうか。食糧、配給、乳幼児、浮浪児など家庭領域の問題が深刻化していた敗戦後の混乱期の政府や支配層からすれば、女性が「台所の政治」(婦選獲得同盟のスローガン)に参加してくれるのは、願ってもないことだったのは想像に難くない。単純に考えても、戦争から復員していない男性も多く、女性の力が必要だったことは間違いない。
 それは、女性が「家庭責任を担うことを前提とした」多元役割(マルチ・ロール)イデオロギー)だからこそ成立した合意であり、そのことはその後の女性と政治に大きな影響を及ぼすことになる。結局、男性に割り振られている公領域/女性に割り振られている家庭、私領域の区分領域に双方が踏みとどまる考え方である。それは激動の社会にあっては、新聞や政府にとって許容できる女性モデルであったたため、新聞は女性参政権運動に大きな紙面を割き、さながら「女性参政権キャンペーン」を展開したのではないだろうか。占領軍の意向がどのように絡んだかは今後の課題であるが。
 メディア報道のジェンダー差異と有権者の性別ステレオタイプが選挙キャンペーンで女性の候補者にどのように働くかという米国の研究によると、女性の力を強調するジェンダー・ギャップ強調路線を取ることが選挙において女性にプラスになるのは、女性の問題が社会問題として突出しており、同時に有権者が性的ステレオタイプを持つと想定される場合に限る(Kahn 1994pp.190-191、Kahn & Goldenberg、1990、pp.104-113)という。
 女性参政権は、当時社会の主要トピックになっていた。また、敗戦の混乱期で女性の力を必要としている社会があった。複数の候補者を記名できる連記制が効を奏したことももちろんだが、新聞の影響力が現在より大きかったこの時期、新聞の「婦人参政権」キャンペーンが選挙に対する関心を高め、女性の高い投票率と多数の女性候補者を議会に持ち上げる力として働いたという想定は、あながち無茶な論理と唾棄することもできないのではないか。
 同時に、この女性のマルチ・ロール・モデルは、女性が家庭役割にノーを突きつける70年代のリブとは違い、新聞など当時の支配層からも受け入れられるロール・モデルであったため、マイノリティの逸脱パターン報道とはならなかった。しかし、67%という高い投票率と39名の女性代議士という選挙結果が新聞にとっては予想以上の「意外な結果」と受けとめられたのであろう。その分析において「水もの(偶然)」と軽視する構えを見せつつ、女性読者には「反省」を促すスタンスという2段構えで対処し、実際の紙面においては、女性と政治の報道にブレーキをかけたのではないか、と想像される。
 別段『朝日』だけが意図的な女性叩きをしたというつもりはない。当時の政治的空気に女性の進出への嫌悪があったことを推察させる文書がある。文部省が21年5月21日に出した「婦人団体のつくり方育て方」(千野,1996,pp.87〜93)に、婦人団体の活動内容の事例として「総選挙の結果を反省すること」(16)という一文が見られる。
 メディアや大衆文化の形をとって「平等を求める運動がまさにその目的を達成しそうになると、バックラッシュはそれを阻むかのように出現するのだ」(ファルーディ、p19)と言うのはアメリカのジャーナリスト、スーザン・ファルーディである。彼女のアメリカでのフェミニズムへのバックラッシュの報告で興味深いのは、それが起きる時期である。参政権を獲得した直後、第2次世界大戦の終結直後、1980年代といずれも運動の成果が出始めた時に反撃されることを指摘する。
 また、その後、女性代議士が衆議院15名、参議院10名と急激に減少し、参政権運動の熱い炎がすぐに消えてしまったかにみえる要因の一端(17)を「参政権活動家達は支持をとりつけるため余儀なく譲歩を重ねる中で「女は家庭」の通念に挑むことを回避するところまで追い込まれてしまう。その一方で、参政権が女性の問題の万能薬であるかのような神話がつくりだされた」(藤枝、1985)ことに求める見方がある。
 筆者は、藤枝のこの分析に同意し、さらに公と私の領域区分とそれが性別により排他的に割り振られているこのジェンダー弁別システムの再構築が鍵であることを指摘したい。公・私領域のジェンダー弁別を崩すことなしには、女性の労働権も男性の生活権も十分には確立しえないと考える。その点で、女性参政権運動が女性の力が必要という「参政権効用論」に則り、「マルチ・ロール・モデル」の女性属性を承認した形で「女性参政」したことは、ジェンダー弁別システムを温存する運動として機能したことを指摘しておきたい。
 一方、『朝日』の選挙後の「閉じられた」女性と政治ニュースを振り返ると、「異なる他者との共同性」を存在原理とする「公開された言説空間」(花田,1996,p293)という公共圏を構築しえなかったことがわかる。女性運動も新聞メディアも戦後のこの動乱期に公・私の二元論、ジェンダーの弁別という社会の枢軸には触れない形の戦後改革運動を展開している。
 最後に当時の『朝日』の女性記者について付記しておく。1946年7月時朝日新聞社員名簿には社会部に小池初枝さんの名がある。小池さんについては、宇野智子元『朝日』記者の「小池さんはパスがあって始終国会にいらっしゃる」という記述(春原昭彦、1994、p104)もある。小池は「婦人に向けられた封建的な思想、制度、および慣習に対し、その解放のために闘う」ことを目的とする羽仁説子、加藤静枝らの「婦人民主クラブ」の発起人にも名を連ねている(市川、1977、pp.776−777)。これらから女性運動とのネットワークがあることもうかがえるが、実際にどのような相互作用があり、どのようなニュースが生まれていたのかは知ることができなかった。

<注>

1:占領期メディア政策については、アメリカ側の情報公開が進み、近年その膨大な資料の渉猟による成果が山本武利(1996)、有山輝雄(1996)などとして刊行されている。
2:婦人参政権行使のための占領軍側の実施計画を占領軍の資料を利用して解明する山崎の報告によると、占領軍の民政局(GS)が12月15日には、民間情報教育局(CI&E)と協議の上、日本政府に対し選挙を実施させること、CI&Eは選挙運動について指導することが決定したという。また、山崎がウイードの行動について調べたところでは、45年10月に着任したウィードは、11月5日に市川房枝と藤田たきと会談し、戦前からの婦人参政権運動や大衆に働きかけるための方法などの情報を得たという。その後、12月1日から4月初めまで女性向けのラジオ番組の放送を始めている。
4:「西におけるデモクラシー運動の旗手をもって任じ、(中略)女性問題にも関心が強かった『大阪朝日新聞』(鈴木、1996、p44)は、1925年3月16日社説「政治家と婦人問題」で、「嘲笑や、迫害にさらされるのは、すべて先駆運動、覚醒運動に予定された運命である」「かかる境涯を切り抜けて、自らの新しい道を拓くことが並大抵のことではない」とし、「現在の男性政治家をして、婦人問題につき誠意ある討論の熱を発せしめんとするのは、湿りたる火薬に点火するようなものである」と同情を見せている。新聞の立場が運動の周縁化に固定していないことを示す一文である。
4:それどころか、96年10月の衆議院選挙でやっと23名という当時の約半数に到達し、史上2位の躍進と言われている。
5:新聞資料の表記法については、漢字の旧字体は新字体に、旧仮名づかいは新仮名つかいに改めたが、送り仮名はそのままとした。
6:市川の発想は、エセル・ウイード中尉の情報プランの考えと一致する。但し、情報プランで指導されたからと単純に見ることもできない。ウイードも元新聞記者であったが、市川も元『名古屋新聞』記者(江刺、1985、p273)であり、マスメディアのニュースを資源と考えたことは想像に難くない。なお、ウイードが着任したのは45年10月、情報プランは46年2月3日に上司のダイクCI&E局長の覚え書きに添付されているが、市川の女性参政権運動のニュースは9月から報道されている。一方、山崎は情報プランによるラジオ番組として、1月8日以降選挙前までの番組を挙げている。
7:ちなみに羽仁説子は、『読売報知』でも、45年10月1〜4日、46年4月17日など選挙前と選挙後とも多く登場し、市川房枝と並んで新聞社に正当な情報源と見なされていることがわかる。
8:これはウイード中尉の情報プランに即した新聞への啓発キャンペーンの可能性が高い。
9:日本新聞公社は、戦後の1945年10月、新しい国家体制にふさわしく日本新聞連盟へと名称を変えたが、さらに46年7月、日本新聞協会へと衣替えした。この1977年刊行の『新聞大観』がなぜ旧名を使ったかは疑問だが、新聞の制作に関しては、新聞協会発行の一連の参考書に拠った、と編集後記に記されている。新聞協会の方針に沿った内容であることは確かのようである
10:ただし、「である」調の男性のスピーカーとは異なり、女性の大半は「です・ます」調で語っるなど男女の差異が文体にも明示されている。
11:「家庭の主婦に」は、1月19日と27日、2月4日と23日、3月13日と26日に取り上げている。これ以外の女性と選挙に関する社説は、3月5日「婦人の選挙への関心」、4月7日「婦人参政権の目標」、4月15日「婦人と教育者の当選」がある。
12:田中慎次郎は、『朝日新聞社史』によれば、1948年にはできたばかりの調査研究室長になり、1959年出版局長の時には、念願だった高度の知識層を対象とする『朝日ジャーナル』を発刊するなど進取の気性に富んだ人物のようである。
13:1996年10月9日に筆者が行った広岡友男氏との電話インタビューでの発言。
14:政党選びについて触れている社説には、1月27日、2月4日、2月23日、3月5日、3月13日、3月26日、4月15日がある。
15:関西大学の掛川トミ子教授(マス・コミュニケーション史)の筆者への御教示によると、GHQのウィード中尉に面談した際にウイード氏は掛川氏に選挙報道ではねんねこ姿の女性の写真を撮るよう記者に話したということをもらされたそうである。それは指導か、という質問に掛川氏は決してそうではない、記者も何を撮っていいかわからないので、あうんの呼吸で示すのだ、と話された。どこまでが占領軍の意向で、どこからが日本のメディアの判断なのか、その境界線を引く作業は、データの裏付けなどが難かしい作業となろうが、今後の検討課題としたい。掛川教授のご教示に感謝している。
16:他に、「総選挙で政治家を送りだしたまま政策だけを待ち望んで手をこまねいているのではなしに、婦人の大きな意志と目覚めと力を裏付けしなければなりません」と婦人団体をつくる趣旨の中に書かれている。一方、最後のまとめに、当時の文部省の役人のジェンダーに関する所信が書かれているので引用する。「元来私共は日本婦人としての短所を反省する点で極めて不十分でした。温順、貞淑、家庭的、妻母としての献身など。長所のみ聞かされ、自らの教養の水準の低さ、創造的科学性の乏しさをあえて取り上げずに古い家庭生活の枠内にのみ黙従する生活を美徳として来ました。したがって、個人主義を欧米人のみの通有性と考えて自らの利己的な性格に気がつかないでいたようです。これが国自身の封建制と結びついて、公共精神が失われ自主性や共同性が進歩しなかった原因とも言えます。」文部省は、女性を封建制の被害者とみるのではなく、原因とみなしているようなのである。
17:田中寿美子(1977、p693)によると女がでにくくなっていったのは、「当初のラディカルな変化と混乱状態の中」と「連記制」で新人がたくさんでられたが、その後公職を追放されていた戦前の政・財界の大物が解除されてカム・バックし、選挙制度を変えたことが大きいという。その結果、戦前は政党に入ることもできなかった女性は淘汰されていったという。
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