第七章 考察

 

第一節 文化としての成長の背景――オーディエンスの成熟

 

 第一回のFRFは、台風による悪天候、そして主催者・観客の準備不足によって、予想をはるかに超えた悲惨な状況になり、結果的に「大失敗」に終わった。その悲惨な状況は音楽雑誌を超え、新聞など一般情報メディアでも報道され、FRFは「騒ぎ」の記号として社会に受け入れられるようになる。

 

第一回を失敗してしまったFRF主催者はイベントを継続させていくためにも、まずは、都会のライブに行く観客を「フェス」という環境に対応しうるオーディエンスに育てる必要があった。ロック雑誌を出版する出版社も主催者の意思を汲み取り、主催者の意図を代弁するようになる。洋楽ロック雑誌を中心にメディアを媒介して、フェスに見合う「理想のオーディエンスモデル」が構築されていく。

 

フェス参加者は、それを読み取り、フェス・オーディエンスとして成熟していく。フェスを楽しむためには、ただ受身でいるだけでは駄目で、能動的にフェスに参加するために準備を整え、主体的に参加していかなければならないのだ。フェスは、主催者も掲げている通り、主催者だけが運営し作るものではなく、出演者、スポンサー、そしてオーディエンスも参加し、「みんなで作り上げるもの」だ。「自分の面倒は自分で見よう」「Do it Yourself!」を合言葉に、各々が自由に「音楽と自然」=フェスという空気を楽しみ、そのために困難さえ積極的に楽しむ光景も見られる。

 

音楽ファンはロック・フェスでの過ごし方を理解し、97年のような失敗が繰り返されることはなく、誰もが正しくフェスを楽しめるようになっていく。そのとき、ロック・フェスはようやくイベントとしてスタート地点に立つ。一程度コア・オーディエンス層が形成されるようになると、ロック雑誌での「教育」は行われなくなる。ロック雑誌は、「教育」を行なうメディアではなくなり、出演者ラインナップの情報を伝える音楽雑誌本来の機能を担うようになる。一方で、オーディエンス教育が行われなくなるのではなく、他の雑誌メディアへと雑誌系統の範囲が拡大していく。同時にフェス・オーディエンスの構築も、特定の音楽ファンから、より大衆へと範囲が浸透していく。つまり、ロック・フェス文化は、よりポピュラーな文化として社会に受け入れられていくのだ。

 

 

 

第二節 心地よさの背景――オーディエンスの担う役割

 

オーディエンスは、フェスを思う存分楽しむために、当日に考えうるあらゆる状況(風雨、熱さ、寒さ)に対応出来るよう各自で万全の準備を整える。そのために情報を収集し、対策を考え、必要なものを揃える。そしてそれらは、ウェブ上のBBS等で情報交換、アイデアを提供するなど、オーディエンス同士の自主的な経路でお互いに情報が共有される。それまでロック雑誌メディアが担ってきたような役割をオーディエンス同士の自主的な経路もまた担っていく。

 

フェスは毎年の成功を重ねることで、毎年のように参加するリピーターを生み出す。つまりコア・オーディエンス層の成立である。同時にコア層の成立により、フェスの成功が支えられていたともいえる。コア層は、自分たちでフェスをより良くするために、主体的に参加し、高いマナー意識を持ち、フェスの心地よい空間を完成させる一員として存在する。

 

コア層は、自分が心地よく過ごすだけではなく、フェス来場者全員が心地よく過ごせる空間を作りだすため、新たに初めて参加しようとしているフェス初心者へ「教育」的な役割も担う。初心者の質問に答え、自分が行なってきた工夫やアイデアを紹介したりアドバイスをしたりする。初心者にとっても、主催者に質問するよりも、コア・オーディエンスのほうが自分と同じ「観客」という立場で身近な存在であるし、何度もフェスを経験している彼らは、より実践的かつ具体的で有用な情報を与えてくれる存在であるのだ。フェスにおける「心得」はコア・オーディエンスの役割によって伝えられていく。

 

フェスの心地よさはオーディエンスによって作り出されている。「最低限のマナーを守る」「自分の面倒は自分で見る」ことで、人混みで長時間過ごしても煩わしい不快感が少なく過ごせる。それは来場者全員で作り上げなければ成立しない。マナーを守らない自分勝手な、オーディエンスが少しでも存在すれば、フェス空間の心地よさは乱されてしまう。そのためフェスにおける「心得」を全員が守る環境を作るための努力をオーディエンスたちは行なっている。このようなオーディエンスの姿勢があるから、フェスはフェスらしい空間を保てているのだ。

 

 

 

第三節 オーディエンスの抱えるジレンマ

 

 フェス開催前にはオーディエンス同士の情報交換・質問等の自発的なやり取りが、フェスに関するウェブページやBBSの多くで見られる。これらのBBSは、フェス開催後にはライブアクトの感想や、フェスで味わった楽しみなどをお互いに紹介しあい、感動を分かち合う場に変わる。そして、そこでは同時に、フェス会場で感じたごみ分別や喫煙などのマナーに関して感じたことも多く語られる。

 

オーディエンス達は、マナーに対する意識を高く持つことで、自分たちのフェス空間を最高のものに作り上げていた。フェスにおいて参加者全員が気持ちよく音楽を楽しむためにマナーを守ることは当然のことだった。しかし、メディア内での変化からも分かるようにフェスの文化は大衆化し、フェス参加が「流行のスタイル」や「一般的なレジャー」としてもとらえられるようになった。そのため、オーディエンスの中には楽しむことだけ考えて、マナーを守らない人達も目立つようになってきたのだ。

 

 フェスのオーディエンスたちは、ライブを見に来るただの「観客」ではなく、自分たちもフェスをつくる「参加者の一員」という意識が強い。主体性の強いフェス・オーディエンスは、参加する全員のオーディエンスに対しても同様に主体性であることを期待する。フェス創始期に主催者がオーディエンス理想モデルを期待したように、現在はオーディエンス自身が、参加する全員のオーディエンスに対してその理想モデルを期待している。しかし、フェスの大衆化により、フェスに行くことが流行のスタイルや一般的な音楽消費行動の一つになったことで、フェス参加者の中には、彼らが求めるような行動をしない者も出てくるようになった。

 

そこには意識の違いもあるとBBS上では語られる。コア・オーディエンスにとってフェスに参加することは、自分達もフェスを作る一員になることだが、流行に乗ってやってくるオーディエンスにとっては、完成されたフェスにやってくる。そのため、「作る」という意識が薄いのではないだろうか、という意見だ。

 

また、FRFは天神山で一度失敗し、東京での妥協を経て、苗場という地で開催できるようになった経緯がある。その経緯を知るオーディエンス層には、「苗場を失っては次にFRFを開催できる場所はない」という危機感にも似た意識が常にあるようだ。実際、SMASHの日高氏自身もさまざまなインタヴューで、「オレがいつ辞めるって言い出すか分からない」等の発言しており、FRFは決して毎年苗場で開催されることが保障されているわけではない。FRFはその危機感から生まれた、強い主体性によって支えられていた部分もある。しかし、苗場での開催も2005年現在で7度目を迎え、FRFは毎年当たり前のように苗場で開催されるという認識をされがちになってきた。BBSでは、イベントの安定により危機感が薄れ、それに伴いオーディエンスのマナー意識も乱れていった、と考えるコア層の書き込みも見られた。存続の「危機感」を忘れないことが、マナーへの意識を高く保っていたのだ。

 

理想のオーディエンスモデルの成熟によって、フェス文化は支えられ文化として昇格し、さらに大衆的なものへと浸透していった。しかしフェスが大衆化していくことによって、マナー・モラルの低下を招く一つの要因にもなった。それは、成熟したオーディエンスたちにとっては「フェスらしさ」を喪失することを意味する。オーディエンスの活動によってフェス文化は浸透していったが、その結果彼らの求める「フェスらしさ」を失ってしまうことに繋がっているのだ。

 

フェスの楽しみ方は自由だ。楽しむのも楽しまないのも参加者の自主性に委ねられている。マナーについても自主性を求めるしかない。だが、マナーを守らないオーディエンスが増えることで、本来の「フェスらしい楽しさ」が薄れてしまっている。FRFが「世界一クリーンなフェス」と言われたとおり、フェスは、音楽が好きなもの同士が集まり、ごみやルール違反などの汚さ・煩わしさが全く無く、誰もが自由にその時間を過ごし、心地よく純粋に音楽を楽しめる空間がフェスの理想の姿だ。ルールや規制を作ることによって、フェスを気持ちよく楽しむことは出来るようになるのかもしれないが、参加者全員が自発的にクリーンで心地よい空間を作り上げることがフェスの目的であるのならば、そのような縛りを作ることはフェスらしくないといえる。コア・オーディエンス達は、主体的にフェスに参加する意識の高さのために、「フェスらしさ」をどのように守っていくかという部分でジレンマに陥っている。自分が自由に楽しむことばかりでクリーンさを考えないオーディエンスが登場したことで、フェスは、自由を犠牲にしなくては、クリーンなフェスを目指せなくなってしまうのだろうか。

 

 「フェスらしさ」を追求し、参加者一人ひとりの自主性を重んじ、意識の高いクリーンなフェス作りを、これまで通りオーディエンスや参加者の力に任せ続けるのか。それが成功していけば、フェスは本当にマナーやモラルの意識の高いクリーンなものになっていくだろう。しかし、FRFで見られるように、1999年の苗場までにオーディエンスのモラルは一度到達点に達したが、その後のフェスの大衆化と共に、マナー意識の低いオーディエンス達も徐々に増えていった。意識の高いオーディエンス達がいくらいても、それ以上にレジャー感覚でやってくるオーディエンス達が増えていったなら、この先フェスのクリーンさはどんどん失われ、再び秩序の乱れた「騒ぎ」に戻ってしまうこともあり得るだろう。オーディエンスの自主性に委ねフェスらしいクリーンな空間を作り続けることが出来るのか。フェスにおける今後の課題がいかに解決されていくのか、その解決の仕方によって、フェス文化の真価が問われるのではないだろうか。

 

 

 

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