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第1節 職人たちのライフコース (町谷 明美)

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 本章では8人のインタビューを元に、テーマ別に職人たちの精神的世界や、職人たちの目から見た高岡漆器の現状と将来などをテーマとして取り上げ、考察する。しかしその前に、8人のライフストーリーから、職人たちのライフコースについてまとめておく必要があるだろう。
 ライフコース(life course)とは、個人が年齢別の役割や出来事を経つつ辿る人生行路をさす。伝統的な共同体から個人を取り出して編成し直すための全国共通の基準は、性と年齢である。年齢に注目することは、個人を空間的な位置ではなく時間的な位置に即して捉えようとすることであるとともに、ある時点での考察に終わらず、時間の推移に伴う加齢に即して個人を観察しようとすることである。(森岡,1996)
 ここで今回のインタビュイーについて考えると、1920年代生まれが1人、1930年代生まれが2人、1940年代生まれが1人、1950年代生まれが1人、1960年代生まれが3人と、戦争体験のある人から、高度経済成長期生まれの人まで、幅広い年齢層の人を対象としている。 ライフコース研究の手法の一つにコーホート別分析がある。コーホート(cohort)とは、がんらい人口学の用語であって、「出生、結婚などの同時発生集団」をさす。個人の加齢過程に注目するライフコース研究では、出生コーホート別に対象をとって、出生年次の異なるコーホート間に存する変化、また同じコーホート内部で学歴・職業・地域等の差異による変化を見出そうとする。
 そこで、本節ではインタビュイーたちのライフコースをまとめたうえで、コーホート別分析の観点を取り入れながら、職人のライフコースについて考察したい。
 今回インタヴューに応えてくれた職人たちは8人全員が高岡出身であり、全員父親は職人である。このうち7人が漆器に携わる職人であり、彼らは全員父親に師事することになる。例外的にOHさんは、祖父は勇助塗りの職人であり、父親もその後継人であったが、他の仕事に転職し、パネル、額を作る仕事をしている。父親が漆器職人であった7人については、現在は自宅と仕事場が別々という場合もあるが、幼少期に関しては自宅が作業場となっていたため、父親の仕事をする姿を見て育ったようだ。父親の職業に対する想いは様々で、好感を持っていたという人もいれば、見ているだけという人もおり、中には仕事ばかりで遊んでもらえず、汚い格好であることから「好きじゃなかった」という人もいる。また、お小遣い稼ぎのかたちで手伝いをしていた人もいれば、当たり前のように手伝いをしていた人、ただ友達と遊ぶだけで仕事には関わらなかった人と、幼少期の過ごし方も人それぞれである。
 最終学歴については中学校が1人、高校が4人、4年生大学が2人、短期大学が1人である。
 中学校ないし高校卒業の後、職人の道へ進んだのは5人である。そのうち4人は漆器職人の道だが、例外として、OHさんは、同じ職人でも漆器ではなく大工の道へ進んだ。というのも、OHさんは8人の中で唯一、父親が漆器職人ではなく、学生時代は漆器には興味はなかったが、何らかの職人にはなりたいと思っており、高校卒業後、建設の世界に入り大工の仕事をするようになったからだ。しかし、仕事中にけがをし、休業している時期があり、そのときにMYさんが家に来たのが縁で、漆器の道に入ったという。漆器職人の道に進んだ4人も、その経緯はさまざまで、例えば、中学校卒業後、漆器店に奉公に出たHTさんは、職人になったのは「仕方なし」だったと語り、奉公の後、デザインスクールに通いながら父親に師事し、その後独立した。SRさんとMKさんは、家業を継ぐことを念頭に定時制高校を選び、高校に通いながら父親に師事した。一方、商業高校に通っていたUAさんは、高校卒業時に、「長男だから家業を継ごう」と決心し、「職人の家へ技術を盗みに」行ったという。彼らは父親の仕事を継ぐのが「当たり前」であったと語っている。
 4年制大学に進学したのは2人だが、幼少期から父親の職業に好感を持っていたFKさんは、物作りをしたいと感じていたため、大学も美術工芸系に進み、卒業後は「勉強のため」と期限付きで就職している。一方、「継ぐ、継がないの意識」はなかったというMYさんは、経営学部に進んでいるが、意識の半分で職人になることを考えていたという。
 短期大学へ進学したというMHさんは、4年制大学へ進学した2人とは少々事情が異なる。MHさんは、高校卒業後すぐに短期大学へ進学したわけではないのである。というのも、高校時代、「ネクタイ姿に憧れていた」というMHさんは、高校卒業後はサラリーマンになりたいと思っていたのだが、「どっかいって修行せい」という親の意向で修行に行くことになってしまった。このときMHさんは、家を出たいという願望があったため、秋田に行けるのならと修行を決意する。しかし、いざとなると家の仕事が忙しく秋田には行かせてもらえないまま、結局父親のもとで修行することになる。一通りの仕事は出来るようになっていた25歳のときに、もう一度、漆について基本から学ぼうと思い、高岡短期大学漆コースへ進学した。また、それまでは、家では化学塗料ばかりで漆には少ししか触れていなかったため、週一回の組合のスクールにも通って漆の勉強をしたという。そして短大卒業後、独立自営したのである。
 また、独立までの期間としては、最短で6年、最長で31年かかっており、平均期間は15年である。
 ちなみに、独立とは、弟子入り先を離れ自分の工房を持つことを意味しているのが一般的なようであるが、独立までずっと同じ場所にいるというわけではない。むしろ修行の過程で、一度は外へ出るというのが一般的のようである。
 第1に、修行といってもすぐに父親のもとでするとは限らないのだ。例えば、UAさんは家業を継ぐと決断した後、高岡で有名な日展作家のもとへ「有名な職人の家へ技術を盗みに」弟子入りしており、中学卒業後に奉公へ出ているHTさんは、「すぐ父親の横に座ったら、ちょっと自堕落になったり」するため、「昔の職人さんちゃ、一回ソトのめし食ってこいってよく言うたったんがっちゃ」と語る。また、家業を継ぐことに抵抗のなかったFKさんは、「勉強のため」と合板の化粧板を作る会社に就職していおり、このとき、周囲もFKさん自身も「一回外でたほうがいいやろ」と考えていたという。
 第2に、師事したからといってずっと一箇所にいるわけではない。師事を受けながら高岡市伝統工芸産業技術者養成スクールに通っていた人が4人いるのだ。例えば、唯一父親が漆器職人でないOHさんは、基礎・基本から学ぶ必要があり、MYさんに弟子入りすると同時にスクールに通いだし、MYさんのところでは主に螺鈿を習い、そのほかの工程、木地や塗りなどの漆の全体的な流れはこの養成所で習ったという。MHさんは、高校卒業後、秋田へ修行に行く話が流れ、結局父親のもとで修行したわけだが、漆について基本から学ぶために高岡短期大学に通いながらスクールにも通っている。MKさんは、父親に師事した後、彫刻だけではなく、ほかにもたくさんの技術を習得しようという目的から技術者養成スクールに通い、スクールでは技術を教わるだけではなく、そこでいろいろな人と交流を持てたことも重要だったと語っている。1年間クラフト科に通ったHTさんは、「徒弟制度に入っとる子供たちを、そのうちだけではあかんもんで、県のほうで、そういうことを教えとった」と語る。つまり、基礎・基本的なことを学ぶだけでなく、さらなる向上のための知識習得や、他者と関わるという場であったと考えられる。そういう意味では、「外の飯を食う」にあたる面があるといえよう。
 つまり、他人の工房へ行くなり、スクールへ通うなりと、その形は異なるが、ずっと同じ場所にいるのではなく、一度は外へ出るというのが、漆器職人のライフコースにかかせないものだと考えられる。
 次に注目したいのが、時代背景とのかかわりである。中学校ないし高校卒業後に漆器職人の道へ進んだ4人が、職人になることを「当たり前」とここで考えたのに対し、大学へ進学した3人は、職人になることを少なくとも「当たり前」とは捉えていなかった。別の角度から見てみると、「当たり前」と捉えていないのは1960年台生まれのインタビュイーで、それ以外のインタビュイーの多くが「当たり前」であったと語っている。ここで、今調査のインタビュイーが戦中戦後から高度成長期という幅広い年齢層であることを考えると、時代背景が、進路選択に影響していると考えられるであろう。つまり、コーホート別分析の観点である。そこで出生年次の異なるコーホート間に存する変化、また同じコーホート内部での変化について考察する。
 1960年代以前誕生のインタビュイーたちの話をまとめると、その頃高岡には職人が多く、父親の仕事を継ぐのは当たり前だったという。また、特に長男という存在が意識されていたようである。たとえば、最年長のUAさんは「長男だから」家業を継ごうと決心し、それは「宿命」であったと語り、三男であるHTさんは、「兄貴が一番大事」であり、3男は「どうでもいい人間」と語る。さらに、木彫会では、普通は技術認定の試験を受けることで一人前と認められるが、跡取の長男は受けなくてよいと語った。つまり、長男であるがために家業を継がなければならないという「宿命」と、一方で、長男が優位に扱われるという、当時の独特の社会的背景があったと考えられる。
 また、1960年代以前のインタビュイーたちからは、職人というものに対して、「貧乏」「汚い」と感じていたという話が聞かれ、HTさんの「自分の父親がかっこいい、職人がかっこいいなんて誰も思うとらんわいね。」という発言には戦後不況という時代背景も考えられる。当時を生きていたインタビュイーたちは進路を選択しているというよりは「レールをひかれた」状態であったといえ、それは時代背景の影響だと言えるだろう。
 1960年代生まれの3人について考えてみると、職人が多いということはなく、当然のように家業を継ぐという風習はなかったようだが、2番目に若いMHさんは「ネクタイ姿に憧れていた」にもかかわらず、親の意向で修行に行くことになったと語っており、自分の進路選択について強い意思を持ちながらも、家業を継ぐということにそれぞれの仕方で納得する部分をもっているといえる。
 以上のように、進路選択に関する語り口には年齢層によって差異が見られた。その差異とは、家業を継ぐのが当然であった時代を生きてきた人は、必ずしも自分の意思で進路選択を行ったとは感じておらず、逆に、若い人たちは進路選択に対し自分の意思を持ちながらも、職人になることをそれぞれの仕方で納得している。つまり、高岡漆器職人というものの捉え方として、かつては、家業であり継ぐのが当たり前のものであったが、今日では、それぞれに納得し自らが選ぶもの、と変化していると言える。
 ここで、『現代農民のライフ・ヒストリーと就農行動』の著者、安藤の説を紹介したい。安藤は、現代農民の就農行動を明らかにし、現代社会に求められる農民教育の論理解明を試みた中で、かつて、農村青少年の離農、離村阻止に向けた政策・教育として、農業と農村を賛美し、農業に携わる人間の都市民に対する精神的優越性に充ちた内容を盛り込むことによる「説得論理」が使用されていたという。しかし、今日では「説得論理」ではなく、自分で納得して就農していくという「納得論理」に変わったとし、現代農民教育を「説得論理」から「納得論理」への転換と表現している。(安藤,1999)
 この農民教育の変化を、高岡漆器職人というものの捉え方の変化にも応用すると、高岡漆器職人の道に進むということが、「家業」から「納得」の世代へと変化しているのと言えよう。そしてこの変化は今後も続いていくのではないだろうか。


<参考文献>
・安藤義道,1999『現代農民のライフ・コースと就農行動』御茶の水書房
・森岡清美,1996,「ライフコースの視点」井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉田俊哉『岩波講座現代社会学 9 ライフコースの社会学』岩波書店,1-9



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