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2.仲間と磨く:MYさんのライフ・ヒストリー(小池 雄記)

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1.出生と少年時代
 MYさんは1949年(昭和24年)高岡で生まれた。祖父が螺鈿の仕事を始め、両親も漆器に携わっている。きょうだいは姉と弟がいる。親戚と姉は、現在すべて漆器とは無関係の世界にいる。
 小学校の頃は暗くなるまで遊んだ。遊ぶのが好きだった。家に帰ると両親が練炭火鉢のそばで仕事をしていた。当時は両親の仕事に興味は無かったが、手伝いはしていた。当時から絵を描くことが好きだった。絵の大会等で評価されると、だんだん興味もわいた。そのことが模様付けの技術である螺鈿につながっているのかも知れない、とMYさんは語っている。

2.大学時代
 高校を卒業し、東京の大学に進学。経営学部経営学科であった。幅広くものを知りたかったことと、東京の空気を吸いたかった、いろいろなことを吸収したかったというのがその理由である。仕事を継ぐ、継がないの意識はなかった。しかし、東京にはいろいろな資料、図案があり、絵を描くことが好きだったMYさんはそれらを買い込んだのだという。それらは今でも役立っている。2年生のときに継ぐかどうかを考えたくらいで、親も何も言わなかったそうだ。だが、大学では「他のこともやらなきゃ」という意識があったが、その意識の半分は漆器のことだった。
 大学で学んだことは「企業的な考え方」である。こっちに戻ってきて、零細企業に応用できる部分は少なかったが、生産管理、原価計算等の勉強は全般的にしてきた。心理学等のカリキュラムもとり、幅広く学んだ。「いいのか悪いのか、ひとつの商品を開発するにしても、技術面からだけではなく、販売面や、市場の関係でものを見てしまう」とMYさんは語り、こだわりがない部分かもしれない、とも言っていた。自分は社会の一部であり、個性を出していくことよりも社会の変化にどう対応するか(例えば海外製品が入ったときに自分の位置を冷静に見るということ)というようなことも大学時代に学んだことのひとつである。

3. 修行時代
 大学を出て、父親に師事。まわりと比べて技術的に負けていると感じた。そのことが貪欲にあっちもこっちもやろう、という気持ちにさせたのかもしれない。
 MYさんは市の工芸デザイン指導所に6年間、週1回で通った。また、MYさんは漆器、銅器などの職人による高岡伝統産業青年会の発起人の一人として参加していた。そこでは漆器、銅器だけではなく行政関係の人たちとのつきあいもでてきた。いろいろな人たちと知り合い、人脈を築いたことが、今となってみると「財産」であるという。自分のできない部分の仕事を頼まれた時には、当時の連中に頼んでやってもらうことがある。自分も頼まれたときにはやってあげる。自分ひとりで全部できるわけではないので、そのようなつきあいを通して大きくなれるのだとMYさんは語る。青年会では会長もした。高岡クラフトコンペを立ち上げたり、京都の青年会とのつきあいもあったり、全国的な規模で活動していた。その当時は必死であった。毎晩家にいなかったそうだ。しかし自分の選んだ道だから楽しかった、とMYさんは語っている。
 22歳のとき、秋に飾り鉢を初出展した漆芸みどり会の展覧会があった。今考えると拙い作品だが、自分としては「思い」があった。問屋さんが買ってくれたときはうれしかった。売れるというのは金を出してくれるということで、評価してくれるということだ。充実していた、とMYさんは語っている。
 大学を出て2年後の24歳のときにMYさんは結婚している。

4.仕事と商売
 今のほうが厳しいが、やりがいがあると彼は言う。いろんな要求があるからこそ、おもしろい。今までは作れば売れる時代であり、商品アイテムも少なく、問屋さんの注文をうけていればよかった。だが今は商品、技術も多様化し、問屋さんの依頼も少なくなってきているので、自社製品を販売していくことも考えなくてはいけない。
 螺鈿の仕事についても、人によって向き不向きがあり、忍耐力で続けようと思った時点で続かない。作品の加飾はMYさん本人がやる。若い子にかわいいといわれなきゃいけない。例えば、まっすぐではなくいびつな線のほうが「ウケる」。そういうデザインは従業員の女性のほうが得意だし、そもそもこの仕事は女性向きの仕事なのかもしれない、とMYさんは語っている。

5.独立、弟子たち
 仕事は父親と2人でやっていたが、ひとつ、ひとつ個性が出る。父親は「自分の世界のものづくり」をしていて、自分とは違っていたが、ほとんど任せてくれていた。36歳で工房を建てたときも、経営はすぐ自分にゆずり、作業場も別にした。当時はつくれば売れる時代。寝る間もなかった。10の問屋が客であった。若いので寝なくてもよかった。いかに短時間でたくさんつくるかという技術はのびた。もうけたが、たくさんお金を遣った。
 33歳で初めて弟子を持った。父親と仕事をしていたが、自分のところに弟子入りにきた。地域や人によって弟子の育て方もいろいろである。住み込みで給料は月5万円程度のところもある。MYさんの工房では、弟子を従業員として扱っているのが特徴である。従業員は現在女性2名である。高岡短大卒と工芸高校卒の人に募集をかけた。当時は2年にひとりぐらい従業員をいれていたが、最近は募集をかけていないということであった。MYさんは弟子たちについてこう述べている。従業員という形は安定的な面もあるので、ここの人たちは楽に仕事をしていて、早く独立したい等という貪欲さがない。だがそれぞれに欲求はあるはずなので、感性をだしてあげたい。個性にあったものづくりをさせたい。もちろん、この仕事は伝統産業として伝えていけるものであり、先代から受け継いできたものでもある。伝えることが伝統産業の義務だと思う。基本は教えて、あとは個性、いい面をのばすことだ。40代までの若いほうが、勢いがあり、根気がある。
 自分と弟子との感覚の違いは、弟子は漆器職人を「職業のひとつ」だととらえているところだともMYさんは語っている。自分たちの代はちょうど境目ぐらいで、自分たちより上の世代は仕事をつぐことが当然という意識だが、下はそうではない。
 16年前、MYさんは自分の工房を法人化した。商売には苦戦しているという。売り上げも減少しているが、3年前にホームページを立ち上げてから問い合わせはたくさんくる。螺鈿の技術を紹介しているものなので、個人ではなく企業から仕事の依頼がくる。螺鈿を施しためがねケースもそのひとつである。加飾で2パターン、色が3種類(黒、グリーン、ワインレッド)のものをつくった。塗りの面ではより安価に、そしてきれいに塗ってくれるところに頼んだ。このようなところで、人脈は生きてくるようである。普段よりも大量の数をつくったが、全部売れ、再度生産している。価格についても最初の設定では高いかと思ったが、消費者にとっては安いものであったらしい。商売は難しいものである、とMYさんは語っている。

6.仕事の醍醐味と難しいところ
 MYさんにとっての仕事の醍醐味は、素材の良さ、7色に光る貝の自然の輝きである。これらは圧倒感がある。そうした素材の良さが見えるときこそが、醍醐味といえる。
 しかし「慣れ」はおそろしいとも彼は感じている。緊張感が大事である。素材は天然物なので、季節により変わるところがある。これにはとても気を遣う。
 また、ガツーンと仕事を批判されたり、能力がなくて思ったものができないときはくやしい、とMYさんは語っている。

7.職人としての現在
 MYさんは、現在伝統工芸士の認定を受けている。そのことについて、「誇り」はあるが「重圧」は感じないと彼はいう。昔からほとんど変わらないスタイルを貫いている。「歴史」があるというのは「安心感」があり、「よろこび」につながる。また、他の伝統工芸士に対してライバル意識はまったくないとMYさんは語っている。ものづくりは個々の人間が行うことだし、むしろ展覧会などではほんとに仲間だなあと感じる。苦労するところは同じだからである。仲間の現状に甘んじず勉強、実験しているところは「すごい」と思っている。しかし技術を教え合ったりはしない。そこのあたりは厳しい。「やってみたら?」と言うくらいである。やってみないとわからないからね、とMYさんは語っている。
 今は自分の勉強していない部分で、今の子達の感覚についていけない、と彼は笑った。デザインなど、自分にも技術的にはできても、今の子達の考えていることがわからないところもある。時代の感性、デザインは「なまもの」だという。
 現在娘は28歳、息子は26歳と22歳。22歳の息子は輪島漆芸研修所に通っている。そこは「人間国宝養成所」みたいなところであり、人間国宝の先生がいる。基礎が2年、専門が3年。今年の4月から工房に入る予定である。下の息子は絵が好きだったようで、ほとんど教えるということもなかった。息子の作品について、技術的なレベルは自分より上だと感想を述べていた。

8. 高岡漆器の特徴と今後
 螺鈿の「塗りの技術」は全国どこでもだいたい同じであり、似たようなものであるが、技術的な特色、産地の流れがある。高岡の漆器は全国的に見ると「中級品」だとMYさんは見ている。例えば輪島には「世界の輪島」という意識がある。つまり高価であり、レベルが上というイメージである。これに対して高岡漆器は、製造システムや技術も違うし、高級なイメージも定着してはいない。しかし「中級品」だからこそできる色々な面もある、とMYさんは語る。高岡漆器は「器用」であり、「あれもこれもやる」といったことができる。以前、高岡銅器ともコラボレートしたことがある黒川雅之氏(建築、デザイン)と組んで、「百の盆」のデザインをしてもらって東京で発表したこともあった。
 東京での勉強会などで知ったことだが、みなの漆器に対する考えは、「普段使い」は外国製でいいが、贈り物は外国製ではだめ、ということだとMYさんはいう。そこに、高価でも安価でもない、自分(高岡漆器)のポジションがあるかもしれない。そうしたポジションをいかに守るかが大事だと彼は考えている。
 今は客の個人的要求が強い時代である。生活スタイルがかわってきても、日本の文化である漆器をおきたい、という要求はでてくる。和室や床の間がなくなって、フローリングであっても、漆器のようなものは求められる。いかに現代の生活に生かすかが大事であり、建築でもなんでも活路を見出せるところには見出していく、というのがMYさんのヴィジョンである。

付記:この節(あるいは第3章第5節)を読んで興味をもたれた方は、MYさんの工房が開設しているホームページ「RADEN」をご覧下さい。


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