ホーム :第2章 職人たちのライフ・ヒストリー :第4節 青貝師 :

1.本物へのこだわり:OHさんのライフ・ヒストリー(福田 奈央)

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(1)出生

 OHさんは1960(昭和35)年6月29日に高岡で生まれ、祖父、祖母、父、母、兄の6人家族で育った。祖父は勇助塗りの職人であり、父親もその後継人だったが、他の仕事に転職し、パネル、額を作る仕事をしている。
 学生時代は漆器には興味はなかったが、何らかの職人にはなりたいと思っていた。性格的に職人に向いていると自分で考えていた。それで高校卒業後、建設の世界に入り大工の仕事をするようになった。しかし、その仕事中に屋根から落ちけがをして休業している時期があり、そのときにMYさんが家に来てその縁でこの業界に入ることになった。


(2) 弟子入り

 1982(昭和57)年、OHさんが22歳の時にMYさんに弟子入りした。ほとんどやったことがないことばかりだったので、一からMYさんに教えてもらった。約10年そこにいたが、図案を考えたり、絵の勉強をするのがとても大変だった。弟子入りとほぼ同時に夜は高岡市伝統工芸産業技術者養成スクールに通い漆器の勉強をした。MYさんのところでは主に螺鈿を習ったが、そのほかの工程、木地や塗りなどの漆の全体的な流れはこの養成スクールで習った。昼間はMYさんの工房で仕事をし、夜は養成スクールに通うという生活で、卒業作品を作っているときは夜遅くまでかかったそうだ。


(3) 独立について

 1992(平成4)年に自分の工房をもつことになった。これといったきっかけは特にないようだが、MYさんや、一緒に働いていた仲間から、飲み会などでそろそろ10年もたつので独立したらどうだと言われ、考えるようになったようだ。自分でも、自分の品物を作りたい、自分も考えた作品を売ってみたいと思ったため、独立することになった。工房設立にあったての一番の苦労は家族を説得することだった。1985(昭和60)年、OHさんが25歳のときに結婚していたが、奥さんは工房の会社員と結婚したという感覚であり、自営業者の奥さんになる気はなかったため、たくさん話し合いをして独立を決めたようだ。奥さんは工芸高校の出身で、もともと物を作ったりすることは好きだったようだが、商売は趣味とは違うと考えていたようだ。しかし今は協力してくれている。
 独立する前に一年の期間をMYさんにもらって、図案を描いたものを問屋さんにみせたりして準備をしてきた。それまでは展示に出した作品を売っていたりしていたが、そこで品物が売れた喜びと、自分で独立して生活として、商売として品物が売れたときには別の喜びがあったそうだ。5枚組のコーヒートレーを最初に売ったようだが、それが売れたときは一番うれしかったとOHさんは言っている。
 今までで大きな失敗と感じたことは、3,4年前に国の仕事で戦没者記念品に螺鈿を施すという仕事を受けたときだった。3ヶ月で1万個くらいの数の品物の紋章に螺鈿を入れていくのだが、高岡の漆器に貼ったわけではなく、初体験の作業だったのでとても大変だった。また、その仕事だけではなく、通常の仕事もやりながらの作業だったので、夜も寝ずにやっていた。その仕事をやっている最中は絶対に失敗だと思っていたようだが、その仕事のおかげで自分の限界が考えていた以上にもっと上であることが分かったり、2人以上の能力が出せたという結果になり、今では楽しい思い出になっている。


(4) 後継者について

 現在子どもは男の子が2人いるが、自分の仕事を継ぐことに関しては、本人次第だと考えている。しかし、その仕事には興味を持っているようで、ものを作ったり、絵を書いたりすることは好きなようだ。休みの日などは箱詰めなどの仕事を手伝ったりしている。
 高岡漆器の後継者に関しては、青貝の人はいるようだが、木地を作る人や、塗りをする人が高齢になってきて、若い人がいないのが心配である。


(5) 仕事について

 仕事の醍醐味は自分で好きなことができる、自分の思った絵を作ることができるということだ。人のできないことをやっていることが、楽しみでもあり、苦しいことでもあるそうだ。
 この仕事の難しい点は、これらの作品は生活にどうしても必要なものではないということだ。絵は「余暇」というか、実はなくてもいいものなので、そこを客に納得させなければならないところが難しいようだ。ぜいたく品とみられているものなので、買ってもらう努力をしなければならない。そのために作品も時代によって変化していっている。昔は文庫がよく売れていた。丸盆や菓子鉢といったものは今でもよく作っている。記念品や贈答品が多いそうだが、最近では丸盆ではなく、六角形に切ったちょっと違うようなデザインのお盆を作っているようだ。OHさんは女性をターゲットとした作品をよく作っている。

福田:デザインとかもやっぱり、女性向き、向けのものですか。
OH:私はそうです。(福田:あー)完全にそれを狙ってます。(福田:あー)私は基本的にはターゲットは女性です。
福田:最初からそれを狙ってつくってこられたんですか
OH:完全にそれは、狙ってというか、狙ってという言い方はおかしいですけど、やっぱり最終的にお金出すのは女の人ですからねー。
福田:それはお金を出すっていう。
OH:そうです。好きだ好きだって言っておられる、お父さんたち言われますけど、最終的な判断はお母さんたちですね。


 職人というと品物を作るだけというイメージがあるが、ターゲットを定め、デザインを考えているといったことから、商売の事なども考えているということが印象的だった。
 また、東京のデパートなどに行ってどういうものが売れているかを見に行っていたこともあるそうだ。人が集まっているところには、なぜ人が集まっているかという理由があるはずなのでそれを見にいっている。
 OHさんは2001(平成13)年2月25日に伝統工芸士に認定された。認定されたからといって特別なことはないようだが、以前よりも展示会や実演に出ることが多くなったようだ。


(6) 伝統工芸というものについて

 伝統工芸というものに重圧というものはあまり感じていない。売り上げが落ちてきたり、高岡漆器が時代の流れに追いついていないと感じることはあるが、いいもの、本物を作っていけばいいという自負をもって仕事をしている。

OH:だから肩ひじ張って、僕は、伝統工芸士だから、こうやることもないし、今までやってることを、一生懸命やればそれでいいと思ってるし。まわりの人はそう見ない人もおられますけど、やっぱりでも元来自分のやってた仕事をやればそれでいいと思いますよ。

 漆の品物は扱いが難しいなどと思われているが、口当たりがよく、木でできているので熱いものなどを入れても持つときに熱くならないなど、使ってみないと良さは分からない。漆は傷ついても塗りなおせば何度も使えるのでもっと多くの人に使ってほしいと言っていた。
 全体を通して、本物は変わらない、本物のよさという言葉がよく聞かれた。そのよさをもっとさまざまな人に知ってもらうことが大切であると考えているように感じた。


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