ホーム :第2章 職人たちのライフ・ヒストリー :第2節 塗師 :

3.変化していけば生き残れるはずだ:MHさんのライフ・ヒストリー (殿村 祐子)

前へ 次へ

 MHさんは1961(昭和36)年、高岡で生まれ現在41歳。小・中・高校時代もずっと高岡で過ごした。MHさんの家は祖父の代から職人で、小さい頃はよく仕事場でいたずらしたり、遊んだりしていた。漆器は当たり前のように身近だったと語っている。「高岡漆器」ということは特に気にしてなかったそうで、漆器は生活の一部だったようだ。
 父親が職人として仕事をしていることに対して、幼い頃はあまり良い印象を抱いていなかったということをMHさんは語っていた。

河原田:お父様のお仕事とかはどういう風にお考えになっていたんですか?
MH :…はっきり言って、あんまり好きじゃあなかったね。
殿村 :え、なんで、そんな・・好きだと思わなかったんですかね?
MH :小さい時からね、あんまり、遊んでもらえんだがやちゃ。こういった自営業って、日曜日も休みなし。…ったら絶えず、夜もずーっと仕事しとるし、まんで(=まるで)仕事仕事ばっかりで、全然遊んでもらえんだし。見とるがは、汚い格好やちゃ、汚れて…こういう手作業みたいがは。服に漆ついたり。だからこんな汚い仕事はせんとこうとは思っとったよ。

(2)進路決定

 高校を卒業するぎりぎりに進路が決まる。本人は就職してサラリーマンになるつもりでいた。先生にもそのように話して就職活動をするつもりだった。しかし、先生と親が本人の知らないうちに話を進め、勝手に職人になることを決められていた。職人になったのは自分の意志ではなかった。家族もそうなる(職人になる)ものだと思っていたようで、特に反応は無かった。
 当初は秋田へ修行に行かせてやるから職人になれという話だった。MHさんは家を出たいとも思っていたので、職人になることを決意。「迷うもなにも、選択肢がそれしか無かった」とも言っている。しかし、いざとなると家の仕事が忙しく秋田には行かせてもらえないまま、結局父親のもとで修行することになる。

(3)修行時代

 修行していたころ、MHさんの家では5人ほど職人を雇っていた。漆器もよく売れ、「儲かって儲かってしゃあないくらい」だったそうだ。しかし、給料については、「俺自身はまだ丁稚やったから、良くないよ、全然。」と言っていた。給料はもらっていたが、本当に微々たるものだったらしく、一度飲みに行けばそれでなくなる程度だった。ちょうど、私たちがインタヴューに訪ねた11月末ごろになると、周りの友人たちはボーナスの話などをし始めるので、当時は飲みに言っても話をするのが嫌だったそうだ。
 見習い時代の最初の苦痛は長時間同じ姿勢で座っている事だった。2時間、3時間あぐらをかいて作業をするわけだが、あぐらでも足がしびれてくるそうだ。そんなときはトイレに行って足を屈伸させてしびれを紛らわすこともあったそうだ。
 見習いがする作業は、「下」の工程ばかりで、仕上げまではさせてもらえなかった。最初はずっと研ぎ(=下地研ぎ:塗りに入る前に木地を砥石やサンドペーパーで研ぐ作業)ばかりやっていた。研ぎでも彫刻の彫っていない裏面の研ぎばかりだった。それを研ぐたびに祖父に点検してもらい、やり直しさせられたこともあった。それがずっと続き半年ほどして、表の研ぎにまわり、次は下塗り…と徐々に「上」の工程を身につけていった。
 子どもの頃は好きになれなかった父親の仕事だが、修行につくようになって、父親の仕事の速さ、きれいさを知り、尊敬し始めた。

(4)短大進学

 MHさんは25歳で高岡短期大学漆コースに進学している。修行を6、7年続けていたので、もう一通りの仕事は出来ていた頃だった。それでもMHさんは、漆についてもう一度基本から学ぼうと思い、進学を決心した。それまでは、家では化学塗料ばかりで漆には少ししか触れておらず、組合のスクールに週一回だけ通って漆の勉強をしていた。短大では、デザインや色彩学をしたり、20歳前後の学生と混じって一般教養の授業も受けた。
 この間に、MHさんは結婚し、父親と祖父を亡くしている。父親が亡くなったのは進学を決めた年で、一時、進学をどうしようかと迷ったそうだ。しかしMHさんは、進学することを選んだ。短大入学後は、父親が亡くなったこともあり、仕事と勉強の両立が忙しかった。その後、祖父の体調が悪くなり始め、祖父が亡くなる前に結婚、短大二年目の年に祖父も亡くなる。人手も足りなくなり、仕事が一層忙しくなったそうだ。「本当に大変な時期だったんじゃないですか?」と聞くとMHさんは、「もう…それ以上にひどかった。」と苦笑いをこぼした。それでも、短大の二年間はたくさんの漆仲間ができ、実りも多い時期だったようだ。短大で知り合った仲間とは今でも交流が続いているそうで、グループ展を行ったり、2003(平成15)年には同窓生の展示会を開いたりした。短大の仲間について語るMHさんの表情はとても柔らかだった。

(5)短大卒業後から現在まで

 短大卒業後、独立し自営する。「独立してからは、自分で作る楽しみが出来たかな」と、MHさん。卒業した頃から、「何かをやりたい」という気持ちと、「高岡漆器を変えたい」という気持ちが強くなったそうだ。卒業後は色々な事に取り組んだ。
 卒業後しばらく、短大で学んだ「乾湿」という技法をする。石膏で自分の好きな形に出来るのが面白いそうだ。今は、「鎌倉塗り」の商品を作っている。マコモを使った「古び」の技法を用いる。私たちがインタヴューをするためにお邪魔した作業場に、そのマコモがあったので、インタヴューの途中に見せてもらった。マコモは水辺に群生するイネ科の植物で、その根元を割ると、中から細かい黒褐色の粉が出てくる。その粉を、彫刻を施した部分などに蒔くと、その部分にだけ独特の茶色がつく(写真)。この技法はMHさんの工房では昔からやっていたそうだ。粉を蒔くと部屋が汚れるので他の人はあまりしたがらないと言っていた。
 今は、陶器に漆を塗っていく陶胎漆器というのもやっている。陶器に漆を施すことは父親たちも「香合」などでやっていたが、MHさんはもっと普段から使えるものを作っている。

(6)高岡漆器業界の低迷と新しい活動

 MHさんが30歳ぐらいの頃、高岡漆器業界全体が低迷し始めた。MHさんは転職を考えたこともあったそうだ。家の仕事は忙しくても、業界全体が下がってきているのを感じ、このまま長く続けていける仕事なのだろうかと悩んだ。また、「転職するなら30歳の今のうち」という考えもあったようだ。そして、ちょうどそのとき、漆器の若い者だけで展示会をすることになり、MHさんの作品がその展示会で高い評価を受けた。それでMHさんは漆器を続けていこうを決めた。
 高岡漆器は今も厳しい状況が続いているが、MHさんは意欲的に新しい活動にも取り組み、なんとかこの状況を変えようとしている。高岡漆器が今このような状況になってしまったのも、こうなるまで何もしないで来てしまったためだとMHさんは言う。「大変わりしないまま、ここまで来てしまって、今になって皆焦っている。生活様式もどんどん変わってきているのだから、それに合わせて変化していけば生き残れるはずだ。もっと以前から手を打っておけば高岡漆器は変われたはずだ。」とMHさんは力強く語る。例えば商品のデザインでも、何十年もの間「花鳥風月」が主流としてある。それは対象にしている年齢を50代より上だと最初から決め付けてしまっているからだ。そういう所から漆器を変えていかなくてはならない。
 2003(平成15)年10月、漆器問屋のAさんが発起人となってt[j]r(=takaoka japan refiners)が結成された。漆器青年会の中から4人の有志が集まった。MHさんもその一人である。t[j]rは2003(平成15)年10月に東京で開催されたTDW(=TOKYO DESINER'S WEEK)CONTAINER EXHIBITIONにデザイナーの佐藤康三さんと組んで参加した。シキイタと商品を並べ音楽とフュージョンさせた展示で、若い人もたくさん訪れた。1週間の展示期間で、5000人の出入りがあったそうだ。
 ちょうどt[j]rの活動についてインタヴューをしていた所、その発起人であるAさんがMHさんの工房に訪ねてきた。そこで、Aさんに途中からインタヴューに参加してもらった。私たちは、問屋であるAさんの立場からも貴重な話を聞く事が出来た。Aさんは現在31歳で、漆器問屋の家に生まれた。今は家の仕事を継ぎ、問屋の仕事をしている。漆器についてはまだまだ勉強中なのだそうだ。
 t[j]rは今後、世界進出も視野に入れて活動していく予定だ。現在、アメリカ・ヨーロッパに漆器の輸出はほとんどされていない。輸出されているとしても、数百万円もするタンスが限定10個といったような高級品で、ほんの一部だけである。漆は英語で「japan」と言うが、今、外国人に「japan」と言っても、もう通じないとAさんは言っていた。TDWには大勢の外国人も訪れたが、なかなか「漆」について分かってもらえなかったそうだ。漆はアジアにしかない植物で、ヨーロッパには漆の木がない。欧米人は漆の存在自体を知らないのだ。訪れた外国人からは「漆とは何だ?」「なぜ漆で塗らなくてはならないのか?」「他の塗料ではだめなのか?」といったような質問をされてしまったそうだ。デザイナーの佐藤さんはヨーロッパでも仕事をしていた方なので、佐藤さんの協力も受けながらt[j]rは世界進出を目指していく。
 しかし、このようなMHさんらの活動に対し、上の世代の職人さんの中には励ましてくれる人もいるが、なかなか良く思ってくれない人もいるようだ。塗り物をするにも、「これはこう塗らなくてはならない」「これがすごいんだ」と決めつける頑固な人がいる。だが逆に、上の世代に理解される事ばかりやっていてはいつまで経っても変われないのだ。世代ごとに価値観が違うのは当然のことである。「多少ぶつかってでも結果を出して、上の世代の人たちを認めさせたい」とMHさんもAさんも意欲的だ。

(7)後継者問題

 高岡の漆器業界は現在、全国的に見ても特に深刻な後継者問題も抱えている。だがそれは単純に後継者が不足しているという問題だけではなく、現在の高岡漆器業界では後継者を雇うほどの仕事が無いという問題もある。MHさんが母校である高岡短期大学を訪ねると、そこの学生たちも就職先が見つからないでいたそうだ。MHさんは出来ることなら後輩である彼らを自分の工房で雇ってやりたいと言っていたが、今はまだ難しいようだ。以前はアルバイトの形で雇ったこともあったそうだが、今は、人は雇わず一人で作業している。「高岡でみんな受け入れられれば一番いいんだけど…」と残念そうに語った。
 MHさんには娘さんと息子さんがいて、娘さんが今15歳で進路決定の時期にあるそうだ。MHさん自身は子供に特に継いで欲しいという気持ちはないそうだが、娘さんは漆器職人への道を目指しているようである。「継いで欲しいとは思わない」という気持ちには、やはり現在の漆器業界の不景気が関係しているのだろうか。

(8)将来

 MHさんは将来像としては作家になるのではなく、あくまで職人でいたいと考えているようだ。将来的に作っていきたいと考えている品物がたくさんあるそうだ。今後も古い形式にとらわれることなく、現代の生活様式にもマッチした漆器作りを目指していく。MHさんは「伝統」に対して重みなどは特に感じておらず、どんどん新しいことに挑戦していきたいと語っていた。「伝統」は守っていかなければならないが、新しいことに挑戦し、時代に合わせて変化が出来なければ、「伝統」とは呼べないと言っていた。「『高岡漆器』を産地全体でずっと守っていきたい。」MHさんはそう願い、活動を続けている。
 これからまた「漆」も素材として、本物志向が強まり復活していくのではないかとMHさんは考えている。「漆の良いところを世間の人にまた見直してもらいたいし、そうしてもらえるよう自分たちも努力していきたい」とMHさんは語った。


第2節 塗師 に戻る