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1.宿命やったから:UAさんのライフ・ヒストリー(板垣 貴紀)

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1)出生・幼年期

 1929年6月10日生まれ。高岡出身で、弟がおり、現在では同じ漆器職人として塗りの仕事を生業としている。父親は農家の出身であり、兄弟が6,7人いたため、生活苦から高岡の有名な漆器職人の家へ丁稚奉公に行った。その後、父親は漆器職人として昔ながらの彫刻塗の仕事をすることとなる。
 UAさんが小学校一年か二年の頃に太平洋戦争を経験する。その頃には富山に空襲があり、高岡へと避難してきた。終戦後、商業高校へ進学。算盤も簿記も嫌いだったらしく、劣等生だった、とUAさんは語っている。高校を卒業後、長男であるため家業を継ごうと決断する。その選択を口では少し後悔してはいる、と冗談めかして言った。表情やしぐさからも、今でも深刻に後悔している、という様子は伺えなかった。本人いわく「宿命やったから。」だそうだ。


2)修行時代

 家業を継ぐと決断した後は、高岡で有名な日展作家へ弟子入りする。修行を始めた時、突然その先生に「スケッチブックに自分の左手を描け」と言われ、実際に五百枚ほど描いた。手の角度や陰影を見るための練習だったのであろう。その練習で感性を磨いたそうだ。その後、県展に品物を作って出品することとなったが、前評判では第一位であったUAさんの作品は二位という結果に終わる。UAさんによれば、審査員として招かれた作家先生には派閥があり、何らかの工作が行われた結果として、自分の作品が二位になったのではないかということだった。UAさんは未だ、審査の公正さに疑問を感じているようだ。その作品はUAさんの娘さんに贈呈されたが、未だにUAさん本人による評価は高い。
 その頃には父親も、UAさんが家業を継いでくれ、実力をつけてきたため、内島さんの自由意志を尊重するようになった。「お前、やりたいことやんがやさかいに、自分の思ったことだけやってみ、と。ほら、お友達全部サラリーマンやから、サラリーマンに変わる思とったんや。やっぱり怖かったんやろね。変わっていくちゅうが。この道継いでくれん思うて。」と、父親の気持ちを述懐している。
 また、修業時代は一月に今の金額で三千円のどしか給金が当たらず、休日も一月に二日だけだった。父親は小遣いをくれず、自分でやりくりをするしかなかった。自分で漆器を塗り、問屋や親戚へ持っていき、売れたお金で次の作品を作る、ということを繰り返していた。いまだにこういった徒弟制度は根強いそうだ。


3)職人として

 家業を継いでから10年ほど、30歳になるまでは家の、父親の仕事をしたくなかったそうだ。父親は彫刻塗の仕事しかせず、これでは仕事が来ないようになると思い、有名な職人の家へ技術を盗みに行った。習得した技術と、これまで自分や父親が駆使していた技術を見比べて、「うちの親父はこの程度かな」「親父、なんちゅう古いことやっとんやな」と思うようになり、技術を見る目も養われた。その姿を見た父親は息子一人でやっていけると思い、それからはUAさんが所帯主となり、父親は組合の仕事や世話の方へ回り扶養家族となった。これがUAさんの独立と言えるだろう。
 彫刻塗だけではなく青貝塗りの仕事も出来るようになり、県外からの仕事の注文も来る様になった。しかし、彫刻塗の技術を捨てると言うわけではなく、父親の使用していた図柄を使用して、今では失われつつある昔ながらの彫刻塗の作品も作ったことがある。UAさんの彫刻塗り技術は大量生産に適さず、現代の生活様式にはマッチしない為、他の職人や企業が真似をしにくい。また、近年では、父親から継承した技術を用いて高岡の曳山の修理も手掛けている。これらの技術は職人の家々での秘密であり、職人はあまり技術を洩らしたがらない、とUAさんは語っていた。
 漆と言う素材の新しい挑戦として、漆塗りの車も手掛けた。本人曰く「あんま漆売れんもんやから自動車に漆塗ったやちゃ」らしい。車という地は塗りの仕事がしにくく、大変な手間がかかるものだそうだ。


4)伝統工芸士

 55歳ごろに伝統工芸士の指定を受ける。当時は、通常70代以上の人に認定がなされていたようだ。高岡市長から指定を受け、名刺を貰った時に「高岡の人間国宝のようだ」と称された。本人はそうは思っていない、と口では言っていたが、その表情は嬉しそうだった。平成15年11月5日には北陸で初の通産大臣賞を受賞している。当人は勲章を貰っても儲けが上がるわけではないと言っていた。パーティを開いて、お金を使って、何も儲からない、と受賞を笑い話にしていた。


5)後継者

 現在高岡漆器業界は慢性的な後継者不足に陥っており、UAさんにも弟子はいない。工芸高校で6年間講師を務めてはいるが、弟子になろうと言うものは一人もいない。弟子に対する教育方法はしっかりとした考えを持っており、従来の徒弟制度に囚われない発想を持っている。弟子の作品のうち、材料費や諸経費は内島さんが、残りは弟子がもらうという形で儲けを折半して作品を作る、というのだ。これまで500人ほどの生徒に教えたが、実際に職人になったのは3人か4人だそうだ。業界内で50代、60代で弟子を持っている人は皆無であり、これらの職人が70代ほどになれば仕事ができなくなる。こういった状況は、現在どの伝統産業でも起こっているそうだ。また、UAさんの技術は業界内でも他に持っているものがいない、滅びつつある技術である。
 UAさんはこう語る。「だからほんとにねぇ、伝統ちゅう名前はやっぱ怖いなぁ、と思うけどねぇ。技術は守ってかんなんからさぁ。むつかしい。むつかしいことはむつかしいかもしれんけど。」日本人がこの先、外国製品と国産製品を比較できるようになるなら、安い製品こそ良い、という考えが問い直されるであろう。
 このように、伝統産業が危機的状況にある理由は、製品の作り手である職人の現象と、消費者たる我々の生活様式の変化や外国製品の流入などの様々な要因が関係していると言えるであろう。



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