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2.自分の子どもみたいな木に囲まれて:木地師HKさんのライフ・ヒストリー (高橋 莉代)

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(1)誕生〜仕事はじめ

 木地師のHKさんは1963年2月、高岡でH家長男として産声をあげた。下に妹が2人いる。幼少期から大学へ進学するまでの多感な時期を高岡で過ごした。
 HKさんは祖父の代から数えて3代目の木地師である。初代だった祖父は井波出身で、木を回転させて作る臼や火鉢といった、どちらかというと大型のものを得意としていたという。HKさんの父は現在、同じ木地師として活躍している。
 中学校へ入学する前までは、祖父と父の仕事場は自宅だった。HKさんは祖父や父の背中を見て育ち、自然に木地師の道へと進んだ。小学校高学年の頃から、あら彫りを手伝い始め、手伝うとお小遣いがもらえた。HKさんは手伝いを通して基礎的な技術を吸収していったようである。
 高校卒業後、ものづくりの道を極めるため、金沢美術工芸大学の彫刻科へ入学。大学卒業後すぐには地元に戻らずに、知り合いの紹介で名古屋の合板化粧板を作る会社へ就職した。なぜすぐに継がなかったかというと、「要はそこで、木の種類とか、どんな木がいいとか、いうのをどっちかっていうと勉強するため」で、2年間という条件付で働かせてもらったとHKさんはいう。祖父や父も、「一回外へ出てきた方がよい」と賛成してくれた。
 初作業は24歳の時で、現在に至るまで自宅から離れたところにある仕事場で作品を世に送り出している。
 HKさんが名古屋で働いていた22歳の頃、職場が年輩の人ばかりだったこともあり、若者と接する機会を作るため、友達を作るような気軽な感じでアマチュア劇団に入った。それまで演劇は経験したこともなかったが、大学にも劇団があり、もともと興味を持っていたこともあって演劇を始めた。高岡に戻ってからも、劇団Hで10年間演劇を続けた。「だから、ま、趣味で、自分で舞台にも立ったし、脚本書いたり演出したりもしてたんですけど」。木地師の仕事の他にも多彩な活動をしていたようである。
 富山へ帰って何年目かに劇団Hの代表も努めたことがあるとHKさんはいう。代表をしているときに、当時高岡短大生だった妻と出会った。「スタッフとしてなんですけど、大道具とか小道具とか衣装とか、そういうのをやりたいっていうので入ってきたのがきっかけ」とHKさんは語る。妻は短大卒業後、群馬県で草木染めをやるために一回富山を離れた。結婚したのは、HKさんが29歳の頃。千葉県出身だった妻は、結婚を機に草木染めをやめて再び富山へ戻ってきた。
 現在、HKさんは両親と同居し、妻と2人の子供に恵まれ、6人家族で生活している。

(2)作品へのこだわり
 材料調達は木材市場で一本一本HKさんの目で選び抜いた丸太の状態から、製材所に依頼して挽いてもらう。
 木材を見てから、インスピレーションで作品をきめていく醍醐味についてHKさんは、「どっちかっていうと、こういうものを作ろうと思って材料を探してくるっていうよりも、この木を見て、何にしようかっていう仕事が多いんですよ。仕事としては、この木をどうすれば活かせるかなっていうところが、非常に面白いっていうか、そういう感じで仕事してる」と語る。
 丸太を製材してもらった後は、倉庫や外のトタンの下で、2〜3年ほど寝かせ、乾燥させる。
 最後に、材料から作品となるまでは最低でも1ヶ月は要するとHKさんはいう。
 一つの作品には職人さんの作風が宿るものである。職人さんによって異なる作品の雰囲気はどこからくるのだろう。HKさんは「職人さんによって道具は微妙に違う」と語る。「道具は変ってきてると思いますねぇ。もちろん、うちのおじいちゃんとかは、要は機械がない時代ですから、木を切るにしても全部のこぎりで切ってた。今は機械でジャーンって切ってしまうから早いですけど、昔はえんしょい、えんしょいってこうやって切ってたわけですから」とHKさんはいう。現在は、機械を使いこそすれ、細かい部分は全てHKさんの手作業によるものである。刃物一つでも角度を変えながら彫り、道具も自分の使いやすいように改良を加えているとHKさんはいう。昔ながらの技法を変え、HKさん独自の工夫が作品に散りばめられている。
 ここで、先代の反応についてHKさんに尋ねると、多少の世代間ギャップがあって当然であるし、HKさんの父親も、どちらかというと伝統的なことにこだわらず、何か新しい方向へ向かって作品を作っていたと話している。高岡漆器を変えていくのはHKさんたちの手にかかっているといっても過言ではない。しかし、特に、重圧は感じていないとHKさんは語る。
 HKさんの場合、問屋さんに卸して作品を売ることが殆どだという。たいていの木地師は受注生産だというが、HKさんはどちらかというと自分の作品を気に入った人が買っていくことが多いという。受注とは異なり、自分が生み出す作品を売り出すことは容易ではないはずだが、そこにHKさんのこだわりが垣間見えるような気がした。
 反面、客に気に入ってもらえなければもちろん売れないというリスクも負うわけである。 HKさんは、人々の反応を見ることが必要なのではないかと考えている。「やっぱりいろんな人にまず見せないことには作っても分からない部分があるので。結局、見た人の反応も知りたいですから」。展示会にはなるべく参加するようにしているというHKさんはいう。

(3)伝統工芸士について
 1975年、HKさんが12歳の頃、高岡漆器は国の伝統的工芸品の指定を受けた。高岡漆器が伝統的芸品に指定されたとき、何か特別な変化はあったのだろうか。HKさんは当時のことをあまり覚えていないという。「指定されたことで、特に変化はなかったのでは」と当時を振り返る。
 HKさんは現時点で、伝統工芸士ではない。伝統工芸士の職人とそうでない人の違いはあるのだろうか。「仕事としては、伝統工芸士になったから仕事が増えるわけではないですね。ただ、伝統工芸士だけの催し物とか、そういうものはあるかもしれないですけど、普段の仕事ではそんなに支障はない」とHKさんはいう。付け加えて、「まあ、もちろん自分の腕に技がないと伝統工芸士にはなれないから、信用という点ではあるかもしれない」とも語っている。あくまでも職人の技は作品に表れてくる、という考えだろうか。
 
(4)漆器の魅力について
 
HKさんは、価格面での中国製の漆器との競争の厳しさについて、こう語っている。「最近は、中国でも、まあまあ見れるものが入ってくるけれども(笑)、最初の頃はやっぱりこっちで手直ししないとできないものしか作れなかった」。しかし、量産体制の中国製品の強みは、やはり何といっても低価格である。100円のお椀が店頭に並んでいるこの時代に、同じ土俵に立って漆器を買ってもらわなければならないという現実が立ちはだかっている。 「結局、大量製品じゃないんで、特に今、中国からも安いのが入ってくるんで、どうしてこっちが安いのにこっちはこんな高いのっていうような感じで見る人が多い」と、HKさんはいう。
 漆器の値段は中国製に比べると、確かに高い。しかし、作品にはその値段に見合った"質"がある。漆器が製品として店頭に並ぶまでの道のりは、長い。HKさんによると、注文を受けて完成品が出来るまで最低でも1ヶ月はかかるという。塗りの場合は、塗って乾かないことには、次の作業が進まない。「普通ならね、ガって機械で削って、どうするんかね、ふきつけでシューって吹きつけとる。漆の場合は、ちゃんとカンナもかけて細かく磨かないと、漆を塗ると表面の粗さがいっぺんに現れてしまうんで」。やはり手間が非常にかかる分だけ値段が張ってしまうというのは仕方がないことなのか。「これだけの手間がかかってるんですよっていうのが分かる人じゃないと、なかなか買ってもらえないんですよ。…(略)…非常に手間がかかる割には、んー、儲からない」と苦笑しながらHKさんはいう。
 また、HKさんは日本独自の文化で築いた漆器の優れた魅力について語ってくれた。
「例えば、お椀の話すると、プラスチックの漆みたいなお椀と、僕らみたい木地でちゃんと塗りをしたものとあったとしますね。そうすると、そのー、プラスチックのは、熱いものを入れたとき、持ったら熱いんです。熱がすぐ伝わるんです。だけど木で作ったやつは熱が伝わりにくいので、もちろん熱湯入れればだんだん熱くなってきますけど、たいがいは手で持って大丈夫」なのだそうだ。また、「もちろん、口当たりもいいし、逆に冷たいものをいれても、ガラスだとすぐ汗をかくけれども、漆器の場合は汗をかかない」と本物の木地ならではの優れた特徴を指摘している。
 漆器には他の国には見られない独特の繊細さや手先の器用さが作品に表れているとHKさんは胸を張る。「ここまで神経を、なんていうか繊細なところはちょっと他の国にはないんじゃないかなって思うんですよね」。手間がかかるので、外国の人にとっては「なんでこんなことしてまで作るんだ」という感覚があるようだと、HKさんはいう。職人一人一人の丹精を込めた手作りだからこそ作品一つ一つに職人の魂が息づいている。そこには、日本人の根気強さと手の器用さが活きてるんじゃないか、とHKさんは考えている。

(5)これからの高岡漆器について語る
これからの高岡漆器は「今が転換のとき」とHKさんは語る。刻々と変りゆく人々の嗜好は、時代の流れと共にますます多様化してきている。他国製品との競争の厳しさの中、高岡漆器は今、まさに転換のときを迎えている。
 HKさんは、高岡漆器の変化について次のように語っている。「なんか、ちょっとまだ中途半端な感じかなっていうふうには思ってますね。いわゆる今はまだどっちつかずの状態かなぁっていうような印象。変るんなら、もっと思いっきり変ればどうかな(笑)っていう、気がしてるっていうか…」。
 MYさんが建築家でプロダクトデザイナーでもある黒川雅之氏とのコラボレーションを実現させたことについて、HKさんは高く評価している。あくまでも漆器"japan"として世界に認められるような作品作りが求められている。

(6)跡継ぎに関する葛藤
 高岡漆器が抱える問題は深刻だとHKさんはいう。高岡漆器の職人は高齢化している。「全体的に人数は、やっぱり減ってきているんですけど、…やっぱり、木地師が一番少なくなってるんじゃあないかなあと思いますねぇ」。
 木地組合の中でもHKさんは若い部類に入る。高岡漆器としての木地組合で跡を継いでいるのはHKさんだけかもしれないという。他に漆器青年会があるが、HKさんより2歳年下の人がいるだけで、あとはみな高齢であるのが現状だ。
 今が転換期のこの大切な時期に、高岡漆器は後継者不足で悩まされている。高岡漆器の職人の数は時代の流れと共に減ってきている。昔は丁稚奉公というのがあって、弟子入りという形で親方の家に住み込みで技術を習得し、一人前になっていくというスタイルであった。しかし、HKさんによれば、今の時代ではそうしたスタイルはまれであるという。
 話は自然とHKさん自身の跡継ぎの話題に移っていった。HKさんは、小学3年生と1年生の2児の父親でもある。HKさんは自分の代で木地師の仕事が途絶えてしまうことに対して、少しだけ抵抗を感じているが、「本人任せで。特に、どうしても継いで欲しいってことはないですねぇ」と、あくまでも本人次第を強調した。
 現在、伝統工芸に指定されているのは、螺鈿の青貝塗り、彫刻塗り、勇助塗りの3つである。「特にもう勇助塗りはやる人が、もう、いないですね」と寂しそうにHKさんは語った。

(7)変化とジレンマ
 高岡伝統工芸の歴史は明治45年に遡る。転換期を経て新しく生まれ変わるということは、決して容易なことではない。今に至るまで先代が積み重ねてきた殻を打ち破って、高岡漆器は新たな出発点に立っている。「伝統工芸をもちろん活かしつつも、それを引き継いで同じことをするっていうよりも、新しいことをやっていきたいっていう方が強いんで」とHKさんは自身のことを語る。
 前述したように、HKさんは受注生産よりも、気に入ってもらえるような作品を売り出すようにしている。彼が作品を作る際には、当然、デザインも購買層の嗜好に合わせたものになる。しかしこのことは同時に、HKさんのジレンマにもつながる。「そこが、なんていうか、ちょっと親父とのズレがあるっていうか。ジレンマというか、悩むところなんですけど。いざ買うとなると、どっちかっていうと若い人じゃなくて、僕らの父親の世代というか、年上の人の方に売れるが、その辺が難しい(笑)」。つまり、若年層向けの商品を作ろうすると、今度は大半を占めていた年配層の顧客にうけないという問題が出てくる。購買層が限られるというジレンマだ。「いずれ僕らも、そういう世代になったときに、せめて買ってもらえるような風にしておかないと…」というHKさんは、揺れる気持ちの中でまだ整理がついていないようにも感じられた。
現在の高岡漆器の流れとしては、今までの限られた購買層を若年層にも広げていこうという動きであるのは確かなようだ。ただ、そうした流れの中で、HKさんと同じようにジレンマを抱えている職人も少なくないのかもしれない。

(8)HKさんが語る高岡漆器の理想像
「高岡漆器っていっても、やっぱり知らない人がいっぱいいるんですよね。まず、そこからじゃないですかね。高岡漆器っていえば、なんか富山県のあそこで…っていう風に、大体の人にとってイメージが湧くようなところまでいくことが理想」とHKさんは語っている。
 以前私が高岡伝統工芸ふれあい広場見学に行った際、疑問に感じたことがある。一つの作品が完成するまでには、いくつもの工程、何人かの職人の手間を経ている。それにもかかわらず、一人の職人の名前しか出ないのはなぜなのか。HKさんは、通常、作品の下には最後に仕上げた方の名前しかでないと教えてくれた。「どっちかいうたら、木地師は縁の下の力持ち」とHKさんは語る。
「自分の子どもみたいな木に囲まれ…」。――私はHKさんのこの言葉が一番印象的だった。この一言には、HKさんがなぜこの職人の道を選んだのかが集約されているように感じられたからである。


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