ホーム :第2章 職人たちのライフ・ヒストリー :第1節 木地師 :

1.伝統工芸の活路 (横谷 望)

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1)出生・幼年期

 1938(昭和13)年、高岡生まれ高岡育ち。木地師として初代の祖父、二代目の父を見て育ったが、幼いときはまったく将来のことは考えなかったという。だが、中学を卒業する時期を迎えると、だんだんその問題と向かい合うようになる。当時、高岡には職人が多く、家業があればそれを継ぐのが当たり前という世界であったから、そのまま自然に木地師の世界へと入っていった。また、それ以外の職業を選択する気もなく、定時制高校に通いながら、家業を継いだ。


2)修行時代

 二代目の父に師事して木地を学んだ。外に出ることはなく、父のもとで修業をしている。技術を完全に習得するには、5年10年の長い歳月を要した。不況で漆器が売れなくなった時には、数ヶ月外で働いていたこともあるという。彼の苦労がうかがえた。


3)職人として

 SRさんはみどり会にも所属しており、年に一度行われる展示会にも出品している。みどり会の展示会では、一人でアイディア・コンセプトを練り上げ、それをもとに木地を作り、主に自分の考えを伝えて思うように塗ってもらい出品するが、携わった人間全ての名を明記するというスタイルをとっている。だが、みどり会以外の展示会出品作品には出品者の名のみが冠されることが多い。
 SRさんは、かつてバブル最盛期には、有名デザイナー達のデザインした、いわゆる「ブランド志向」の漆器が飛ぶように売れたという事実があったという。しかし、バブルがはじけた今、そうしたものも売れなくなったともSRさんは言った。私が思うに、高度経済成長の中で多くの人々が忘れてきた、自然への懐古や手仕事の大切さや美を今われわれは思い出してもよいのではないだろうか。経済成長の裏にあった、環境破壊や汚染。そして過剰装飾の生活用具。しかし、次第次第に世の中は、自然志向といわれるものに目覚め、手仕事の確実さ、美しさ、といったかつて周りにあって気にもとめなかったものたちに目を向け始めたのかもしれない。だからこそ、そうした今求められるのは、職人による雑器の美、つまり時代を経て磨かれた普段使いの中に生まれた美ではないだろうかと、私は思うのである。


4)伝統工芸士として

 1987(昭和62)年に伝統工芸士に認定された。雑用は増えたが、付き合いが広がり情報は集まってくるとSRさんはいう。メリットもデメリットもあるが、彼は現状には満足しているようである。それに、「伝統工芸士だから」云々はなく、自分の品物に責任を持つ、そういう基本的なことだけを考えるのだという。背伸びはしないし、する必要はまったくない。ただ立ち止まってはならない。それは伝統工芸士だからではなく、一個の職人だからである。
 SRさんは、認定に関しては、今までの自分が認められたというただそれだけのことで、それ以上でも以下でもないという。でも、仕事ができなくなってはもう終わりなのだそうだ。仕事ができるまでは伝統工芸士である前に職人としていられる。職人としての仕事ができなくなったら、伝統工芸士ではない。実力の積み重ねがものをいう世界なのだ。


5)後継者問題

 娘が二人いる。かつては婿を取って家業を継がせることも考えたが、今はかつてのように羽振りのいい商売でもなくなってしまったため、娘は二人とも嫁に出してしまった。世間の考える後継者問題は人材不足からくるものだと思われがちだが、そうではないとSRさんは言う。たとえ、後継者を育てたとしても、その人間の将来に責任がもてないのだ。だから色々な所から人材募集の要請がきても応えられないのだという。人一人の将来は重い。今の伝統工芸にそれを担うだけの余力はもはや残ってはいないのが現状だ。これが本当の、伝統工芸に携わる人々が抱える後継者問題なのである。


6)生き残る漆器

 今、高岡漆器は未来への生き残りをかけ、消費者ニーズに応え新製品を開発し、そして様々なデモンストレーションを試み、現代美術に漆器の技術を取り入れた作品を展開している。その作品にはいろんな人々に見てほしい、注目してほしいという思惑が詰まっているのだ。
 今まで漆器が用いられなかった製品へと変化していき、その変化が今の伝統工芸に活路を示すとSRさんは考えているようだった。SRさん自身も祖父の代からやっていた木製火鉢をやめ、丸盆という全く違うものへの転換を果たし、成功を収めた。そういう転換期に伝統工芸全体が迫られているといっても過言ではないだろう。


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