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第1節 歴史・主な技法・伝統工芸士 (森田 真由子)

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(1)高岡漆器の歴史

 高岡漆器は1605年(慶長10年)に金沢から隠居した前田利長公が富山(4年後に高岡市へ移る)へ移る際の同行者として、細工人数人を引き連れてやってきたことから始まると伝えられている。高岡町由緒聞書によると「檜物屋町(現在の川原本町)新川郡大場村百姓庄右衛門引移り、指物屋初め候につき、初めは指物屋町とも唄ひたること有之候由に御座候」とある。まず指物(家具類)を製造する町ができ、それに漆を塗ることから高岡漆器が始まったらしい。そして、庄左衛門を草分けとして、多くの指物を業とする者が集まり、それ以来高岡漆器は町人工芸として現在に至っているのである。
 高岡漆器は、1975年(昭和50年)9月伝統的工芸品に指定された。
 昭和時代は生産量の半分が海外に輸出される。漆器は「japan」と呼ばれ、評価が高い。インタビュイーの1人であるMYさんは漆器は明治時代は外貨を一番かせいでいたので英語で「japan」というのだと語っている。             
 1973年(昭和48年)ごろからインテリアや文具としての漆器の開発を始め、現在の漆器製品には、電機スタンド、帽子置き、宝箱、筆記用具などさまざまな種類がある。

(2)高岡漆器の技法

 高岡漆器は工程にあわせて三種類ある。

・勇助塗
 江戸末期、初代石井勇助が当時唐物として珍重されていた中国、明時代の漆器の研究を重ね、生み出した技法。
 特徴としては、唐物の雰囲気をもつ意匠に花鳥・山水・人物などの錆絵や箔絵を描き、要所に青貝、玉石などを施すなどの総合技法によって作り出されるもので、繊細で優美な味わいがある。
 ・彫刻塗
 江戸中期に活躍した名工、辻丹甫の技巧を元祖としており、その代表的なものは高岡御車山に見ることができる。木地に彫刻を施し漆を塗る。
 木彫堆朱、堆黒などによる雷紋や、亀甲の地紋の上に草花鳥獣、青海波、牡丹、孔雀などを掘り出したものが多く、立体感と独特の艶を出しているのが特徴。
 ・青貝塗
 鮑貝、夜光貝、蝶貝、孔雀貝などの貝を刀・針等を用いて細片をつくり、これを組み合わせて山水・花鳥を表現する技法。
 高岡の青貝塗は、唐漆器から始まった薄貝技術と、朝鮮半島より渡来した工人や奈良から習得し改良された厚貝技術とがあり、いずれも工人達の意匠・技術の開発努力によって今日の技法が確立された。

 その工程の中で漆器に彩りを加えるのが以下の技法である。

・蒔絵−まきえ−
 漆工芸加飾法の代表的なもの。漆で模様を描き、乾かないうちに金・銀・錫などの粉や色粉を蒔き付け、文様を表現したもの。
・螺鈿−らでん−
 貝殻を平らに磨き、任意の模様の形に切り抜いて漆器や木地に貼り付け装飾したもの。
・錆絵−さびえ−
 漆に硯の粉を混ぜた錆漆に水分を適度に加えて柔らかくし、筆に付けて文様を描いたもの。肉付きが厚く、筆勢やタッチに現われ絵画的な趣がある。

(3)職人に関わる資格

 職人に関わる資格として大きなものは経済産業省が認定する伝統工芸士の資格である。伝統的工芸品の高度な製作技術・技法を将来に向けて継承するのが目的であり、全国的に試験を実施され、伝産協会会長が「伝統工芸士」を認定している。これは1973年(昭和48年)からできた制度である。受験資格として、経済産業大臣指定伝統的工芸品の製造に現在も直接従事し、12年以上の実務経験を有し、原則として産地内に居住していることが条件となっている。筆記と実地の試験を受け、5年ごとに更新する。ほとんど筆記で、意志の確認程度である。もうこの仕事は無理と思ったら返還もする。今回インタビューした8人の職人のうち6人はこの資格を持っている。この資格については誇りであると感じている人や、「今までやってきたことが認められたんやから、それでいいがやないかな(SR、T29)」と思い、それ以上のプレッシャー等はないという人もいれば、プラスになることはなくむしろ負担が大きくなったという人もいる。資格に対しての思いは人それぞれであるようだ。


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