トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「話せばわかる」と言うわからず屋


■議論は大切、だが……

 民主主義社会においては、「議論を尽くして意見を一致させる」ことが、政策を決める上で最も重要なこととされています。学問の場でも、一堂に会したり論文を発表し合ったりして議論し、意見を交換することは、より新しい学識を得るための重要な手段です。

 自称「研究家」もしばしば学者に論文を送り付けたり、学者のウェブサイトの掲示板で自説を展開したりして、論戦を挑みます。ところがほとんどの場合は門前払いされてしまい、「議論せずに逃げるのか」と食い下がっても、「卑怯だぞ」と痛罵を浴びせても、学者は一顧だにせず無視し続けます。
 学問の上で議論は大切なはずなのに、学者はどうして自称「研究家」とは議論を避けるのでしょうか。学者は自分の都合の悪い議論からは逃げ続ける卑怯者だと思う人もいることでしょう。しかしこれには理由があります。ただ話し合いさえすれば何でもうまくいくとは限らないからです。

■前提を共有しないで議論はできない

 話し合いが議論として成り立つには、まず「同じ前提を共有している」ことが必要です。例えば愛煙家と嫌煙家とが「喫煙の楽しみとは何か」を議論しても、そもそも「タバコをたしなむ」という姿勢を共有していないのですから、水掛け論になるだけで、実りある結果は出てこないでしょう。学問ならどんな分野でも相応の基礎知識と方法論がありますから、学者同士ではそれを身につけていることを当然の前提として議論が行われます。
 そうした「前提」を持たない一般人と学者とが議論をするのはとても大変なことです。前提となるべき基礎知識や方法の常識を、一般人にも分かるように説明することから始めなければならないからです。それは本来なら大学で何年もかけて教育されるような内容なのですから、自分の学生でもない人を「議論」が可能なレベルにまで引き上げることをボランティアでやろうという奇特な研究者はほとんどいません。わざわざそんなことをするくらいなら、入門書や啓蒙書を著して、「それを読んで勉強してください」と言う方がずっと簡単な上に、印税も稼げて一石二鳥です。
 それでも「前提」を共有しようと素直に勉強してくれる人ならまだいい方です。自称「研究家」の多くは、そうした当然の前提を共有することさえも拒みます。自分の考えにとって都合が悪い「前提」は「固定観念だ」などと言って退けようとしますし、自分が理解できない「前提」には「学者は難しい理屈ばかり振りかざす」などと言って、不勉強を棚に上げてひたすら自分を正当化しようとします。ちょうど足し算や引き算も知らないでフェルマーの最終定理の証明について議論しようとし、「足し算くらい勉強して出直せ」とたしなめられると、「そんなくだらないものを学ぶ必要はない」と居直るようなものです。同じ前提を共有しない人同士でまともな議論が成り立たないのは、いわゆる「日中の歴史認識」や「靖国問題」で、「右派」と「左派」とが果てしない罵り合いを繰り返している様子を見れば明らかでしょう。

■「話せばわかる」とは限らない

 学者は相手が議論するに値するかどうかをちゃんと見ています。当然持っているはずの基礎知識がないだけならまだしも、それを学ぶことを拒んだり、自分勝手な思い込みに染まりきっていたりする相手とは、議論しても徒労に終わることは目に見えていますから、相手にせず門前払いすることになります。暴投ばかり投げてくるノーコンピッチャー(しかも本人は暴投とは思っていない)の球を真面目に打ち返せという方が無理な注文です。
 このように言うと、多くの自称「研究家」は、「いや、お前らの言う『基礎知識』こそが間違っているのだ。前提を共有しろというなら、お前らこそ俺の言う『正しい前提』をちゃんと聞け!」と反撃します。しかし彼らの多くは、「基礎知識」をろくに理解しないままで、自分一人だけの「前提」を好き勝手に作り上げているだけです。その上自分の無知さ加減を認めることはプライドが許しませんから、どんなに説明しても聞く耳を持たないわけです。例えば野球のルールをまともに知らない人が、レフト線ぎりぎりでスタンドに入ったファウルボールを見て、こんな会話になったらどうでしょうか。
 「あんなに遠くまで打ったのになぜ点が入らないんだ?」
 「レフト線より外側に飛んだらファウルボールと言って、ホームランではなくストライクになるんですよ」
 「ストライク? そんなバカな話があるか! せっかく遠くまで打ったのに、それが無駄になるどころか、余計悪いことになるなんて!」
 「野球のルールはそうなっているんですから」
 「いや、そんなルールはおかしい。遠くに打った人ほど報われないと不公平だ!」
 「遠くに飛ばせばいいってもんじゃないんです」
 「いいや、俺はそんなおかしいルールは認めんぞ。これからの野球はもっと公平なルールでやるべきだ!」
……こんなことをまくし立てられたら、誰でも「このわからず屋!」と怒鳴りたくなるでしょう。そしてその場から逃げ出したくなるでしょう。学者にケンカを売ってくる自称「研究家」も、それと同じ思いを学者に味わわせているのです。
 「無知や無学からまっとうな学説は生まれない」――この至極当たり前の前提さえ共有できないような自称「研究家」は、相手にしても時間と労力を失うだけで、得るものは何もありません(しいて言えば罵詈雑言のかわし方や皮肉の言い方の練習にはなるかも知れませんが)。「世の中には話してもわからない人もいる」という事実を、養老孟司氏は「バカの壁」と表現して大当たりしましたが、けだし言い得て妙でしょう。「バカの壁」は無理に乗り越えようとするよりも、さっさと引き返す方がずっと得策です。自称「研究家」がどんなに騒ごうと、少なくとも学界の趨勢にはいささかの影響も与えないのですから(むしろ憂慮すべきは、一般の人々の間に「学問とはお手軽なものだ」という誤解が蔓延することの方です)。

■「無手勝流」の教訓

 室町時代末期の剣豪塚原卜伝が、旅の途中で渡し船に乗ったところ、乗り合わせた客の中に血の気の多そうな荒武者がいて、我こそは天下無敵と剣術自慢を始めました。あまりにうるさいので寝たふりをしていた卜伝も、ついに耐えかねてたしなめると、荒武者は逆ギレして「お前は何流だ」とからんで来ました。そこで卜伝は
「それがしの剣は人に勝とうとするものではなく、ただ人に負けぬためのもので、『無手勝流』と申す。」
と答えます。これを聞いた荒武者はいよいよいきり立って、「手が無くて勝つというなら、わしと真剣勝負を願いたい」と迫りました。卜伝は陸では見物人が集まってうるさいからと、船頭に命じて船を小島に向けさせ、島に着くと荒武者は待ちかねたように飛び移り、太刀を抜いて「さあ早く来い」と叫び立てます。すると卜伝は船頭から棹を借り、それで小島に飛び移るかと思いきや、なんと船を島から突き離してしまいました。「こら、なぜ逃げる。勝負しろ!」とわめく荒武者に、卜伝は船をどんどん進めながら笑って言い放ちました。
「これが無手勝流じゃ! 悔しければここまで泳いで来い、お手前にも伝授いたそうぞ!」
 勝負せずに逃げた塚原卜伝は果たして卑怯でしょうか。彼は勝ってもさほど名誉にならない、つまらない相手にはむやみに剣を抜かなかったのであり、無用の戦いをしない用心深さこそが「負けないことで勝つ」秘訣だったのです。ネット上でケンカの泥沼にのめり込まないためにも、「無手勝流」は大いに学ぶべき教訓でしょう。

この項のまとめ


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