自称「研究家」の書く文章には、どれも同じような雰囲気が漂っています。その「雰囲気」とは、口汚い言葉や人格攻撃がやたら多い、まるで過激派セクトのアジビラのような雰囲気です。
自称「研究家」は自分が前人未到の「画期的な新発見」をしたと思い込んでいます。そして彼らは自分がいかにすばらしいかを訴えようとして、自分に賛成しない者を口を極めて罵倒するという挙に出ます。
彼らは「批判」とは「反対者を罵倒してやっつけること」だと何となく思っているようです。学会の場でも労働組合の団交のような「罵り合い」が行われていると思っているのかもしれません。しかしこのことは、彼らがいかにまっとうな学者の書く学術論文を読んでいないかを如実に示しています。
学者の書く論文には、自称「研究家」の書く文章のような口汚い罵倒は全くありません。他人の説を批判する場合には、感情は一切排して、根拠を挙げて誤りを指摘するのが、論文の「作法」です。批判は相手をへこませるのが目的なのではなく、相手の誤りを指摘して自分の見解を示し、より正しい方向へと結論を導くためにするものです。そのようにして初めて学問は発展していくのです。
感情的な罵倒は、何をも生み出さない不毛なものです。まして相手の説とは無関係な人格攻撃が、学問の発展にはいささかも寄与しない迷惑行為であることは言うまでもありません。相手をあらゆる手段で叩きのめせば、「勝者」としての自分の株が上がると思っているのでしょうが、そのような行為は良識ある人々を自分の周囲から遠ざけることになります。学界では全く相手にされない鼻つまみ者になること必定です。
著名な音楽家であった故黛敏郎氏は、右翼の論客としても知られていました。しかし「右翼だから」という理由で黛氏の「音楽家としての活動」を批判するのは当たりません。彼が右であろうと左であろうと、彼の音楽の芸術性には何のかかわりもないのは、共産党支持者の中にも「政治的主張には賛成できないが優秀な音楽家だった」と言う人がいることからも明らかです。相手の学説を批判するのに、政治信条や行状をあげつらうのも、同じように不当な行為なのであり、学説はあくまで学術的根拠で批判するものなのです。
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