トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「辞書に○○と書いてある」というこじつけ


■辞書はまず用例を見ろ

 我々はわからない言葉や文字があると、まず辞書を引きます。そして説明を見て納得します。新聞や書籍にも、「『広辞苑』によると○○と書いてある」式の説明をよく見かけます。日常生活の範囲内ならそれでも一向に差し支えありません。しかし古典や外国語を研究するには、それでは困るのです。

 そもそも辞書に書いてある語釈は、多くの用例をもとに解釈された最大公約数的なものです。どんな文章でもその語釈を当てはめればちゃんとした日本語になるというわけではありません。また語釈には当然編者の考えが入り込んできます。したがって辞書の語釈を鵜呑みにすることは、「編者の考えを無批判に受け入れる」ことに他なりません。ですから研究者が辞書を使う際には、まず語釈の後ろにある用例を見て、今調べようとしているテキストの解釈にふさわしいかどうか判断し、語釈はあくまで参考にしながら最もふさわしい訳語を考えます。「辞書はまず用例を見ろ」が研究者の合い言葉です。

■語釈を代入しただけの奇訳珍訳

 古典や外国語を読む際に、初心者が犯しがちな過ちは、辞書の語釈をよく検討せずに、テキストにそのまま代入し、意味の通らない訳文や誤った訳文を作り上げることです。話をわかりやすくするために、現代日本語の例を挙げてみましょう。例えばこんな文があるとします。
 教室内にカリカリという音が一斉に響き渡った。
ここで「カリカリ」を『広辞苑』で引くと、「堅いものを続けて噛み砕いたり削ったりする軽い音」という語釈が最初に出てきます。そこでこれをそのまま代入すると、
 教室内に堅いものを続けて噛み砕いたり削ったりする軽い音が一斉に響き渡った。……(1)
という文になります。しかしこれではまるで出来の悪い学生の英文和訳のようで、何のことかわかりませんね。もう少し頭のいい人なら、
 教室内に何かをかじっている音が一斉に響き渡った。……(2)
と訳すことでしょう。もしこの例文の前に、「先生が生徒たちにかりんとうを一つずつ配り、」という文があれば、この「カリカリ」はかりんとうをかじっている音と訳して正解です。
 しかしこの例文の前に「試験用紙が配られ、」という文があったらどうでしょうか。(2)のように訳したのでは明らかに誤訳です。『広辞苑』の語釈には「削ったりする軽い音」ともありますから、こちらだとどうでしょうか。
 教室内に何かを削っている音が一斉に響き渡った。……(3)
ではいったい何を削っているのでしょうか。これではさっぱりわかりませんね。試験の時に使うのは鉛筆ですから、鉛筆を削っているのでしょうか。しかし試験開始後にみんなが一斉に鉛筆を削るというのも変ですね。辞書の語釈をただ代入しただけでは、まともな訳を作ることはできないということがこれでおわかりいただけると思います。
 ではどうすればよいのでしょうか。「カリカリ」の様々な用例をもっと集めればよいのです。例えばマンガの擬音を見ると、鉛筆で何か書いているシーンに「カリカリ」という擬音がついている場面はいくらでも挙げることができるでしょう。私が遠い昔に読んだマンガで覚えているだけでも田村信「できんボーイ」(少年サンデー連載)や吉田ゆたか「熱血三四郎」(毎日中学生新聞連載)にありました。これなら例文の解釈にどんぴしゃりです。
 教室内に鉛筆で答案を記入する音が一斉に響き渡った。
と訳すのが、「試験用紙が配られた」という文脈での例文の正しい訳なのです。
 ここで「何だ、『広辞苑』も全然役に立たないじゃないか、谷沢永一が『広辞苑』批判本を書いていたのも当然だ」などと思う人もいるでしょうが、それは早合点です。こんなことになったのは決して『広辞苑』が誤っているからではありません。鉛筆で何か書けば紙にこすれて芯が削れますから、「削ったりする軽い音」という『広辞苑』の語釈は間違いではないのです。ただ語釈が「最大公約数」であることを忘れて、その使い方を誤ったために、妙ちきりんな訳を作る結果になってしまったのです。
 現代日本語は我々が日常的に使ってよく知っている言語ですから、「カリカリ」の意味を取り違える人はまずいません。しかしこれが外国語や古典、漢文になると、上の(1)〜(3)のような誤訳をする人が非常に多いのです。こうなるのは辞書の語釈を絶対視して頼りきっているからです。

■辞書は包丁のようなもの

 辞書は一流の学者たちが精魂込めて作ったものですから、おおむね信頼できるものであり、一から十まで疑う必要はありません。しかし「辞書は常に正しいとは限らない」「辞書の語釈はどんな場合にもぴったり当てはまるものではない」ということは頭に置いておく必要があります。辞書はそれ自体で根拠となるものではありません辞書はあくまで根拠にたどり着くための「道具」にすぎず、根拠となるのは原典の用例です。自分で用例を見て帰納的に意味を判断できるようにならなければ、一人前の研究者とは言えないのです。
 とかく権威を毛嫌いする自称「研究家」も、辞書に関してだけはどういうわけか何の疑いもなく鵜呑みにし、語釈を金科玉条のごとく振りかざす傾向があります。用例をろくに検討もせず、語釈を強引につなぎ合わせて、「新しい解釈」だと威張ってみせても、出来の悪い学生の苦しまぎれな訳文と同じレベルの「こじつけ」にすぎません。しかも一方で権威を罵倒しながら、もう一方で辞書という「権威」にしがみついているのは、実に矛盾した態度といえます。こんなことになるのは、辞書の使い方についての基礎訓練ができていない証です。
 先ほど「辞書は道具だ」と言いましたが、辞書は料理で言えば包丁のようなものです。どんなにいい包丁でも、その持ち方や動かし方をしっかり覚えなければ、肉や刺身を上手に切ることはできません。同じように辞書も使い方を訓練しなければ、誤った使い方をして、とても食えない「新解釈」を量産することになるのです。また「××という辞書を使ったら画期的な解釈ができた」と自慢している「研究ごっこ」をネット上でよく見かけますが、それはあたかも「この料理は××作の包丁を使ったからおいしいですよ」と自慢する料理人のようなものです。あなたはそんな料理人の料理を食べたいですか?

この項のまとめ


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