トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「固定観念にとらわれてはいけない」という固定観念


■定説や通説は固定観念か?

 自称「研究家」は自説を認めようとしない学者に対して「固定観念にとらわれている」という批判をします。彼らにとって従来信じられて来た「定説」や「通説」はすべて「固定観念」なのです。

 しかしここで注意したいのは、「固定観念を去ったからといって自説が正しいことの証明にはならない」ということです。自称「研究家」は「固定観念に縛られて定説を支持する」か「固定観念を去って自説を支持する」かの二者択一を迫ってきますが、実は「自説も誤っている」というもう一つのあり得る可能性が全く無視されており、いわゆる「誤った二分法」に陥っています。こうした二者択一を迫ってくる「研究」はコケおどしの「研究ごっこ」と思った方が安全です。
 「誤った二分法」は学問に限らず、いろいろな場で目につきます。かつてソ連が崩壊した時、日本共産党は「ソ連流の社会主義は誤っていた。これで我が党の路線の正しさが証明された」と主張しました。しかしこれも「誤った二分法」であることはすぐにわかると思います。「ソ連も誤っていたが、日本共産党の路線も誤っている」という可能性もあり得るのに、それを何の検討も証明もせずに排除しているからです。せめて「我が党がソ連流社会主義を批判してきたことは正しかった」というところでやめておけば、失笑を買う詭弁にならずにすんだのです。

■定説を疑わない学者は悪い奴?

 それはさておき、自称「研究家」が「固定観念」と攻撃する「定説」や「通説」は、そんなに悪いものなのでしょうか。自称「研究家」に声高に力説されると、「定説」を信じて疑わない学者はやはり権威主義に凝り固まった悪い奴なのではと、つい思ってしまう人もいることでしょう。
 そもそも「定説」というのは、それが発表されてから多くの人が矛盾のないことを検証し、動かしようがないことが確かめられたために、人々に信じられているものです。そうして長年にわたって積み上げられてきた「定説」の根拠をすべてひっくり返すのは、並大抵のことではありません。多くの人が「定説」に矛盾がある強固な根拠を積み上げて、ようやく修正が迫られるものです。「定説」が覆るには、「定説」が受け入れられるのと同じくらいの時間を必要とするのです。
 つまり「定説」とは「厳しい検証を経た結果動かし難いと認められている学説」なのであって、「無批判に妄信されている説」では断じてありません。
 ですから「定説」はそれを覆すに足る強固な根拠がない限り、従っておくのが安全なのです。もちろん一度くらいは考え直してみるのもいいことではありますが、それで結論が根底からひっくり返ることはそう滅多にあることではありません。仮に矛盾が出てきたとしても、「定説」の一部が修正されるにとどまることがほとんどです。そもそもほんの思いつきでひっくり返るようなヤワな学説なら、長年にわたって「定説」として信じられるはずはありません。

■定説を誤解している自称「研究家」

 「定説」が誤っていると信じている自称「研究家」は、単にその分野の基礎知識がなくて「定説」を誤解しているか、そうでなければ「定説」が自説にとって都合が悪いから誤っていることにしているだけに過ぎません。甚だしきに至っては、ありもしない「定説」を自分で勝手に作り上げて、それを「批判」して「固定観念を打破した」つもりになっているような人もいます。例えば数百年も前の人物の説に「学者はいまだにしがみついている」と罵ったりしますが、実際にはそんな古い説を鵜呑みにして信じている学者は一人もいなかったりします。まさに風車に向かって突進するドン・キホーテそのもので、最新の研究をちゃんと勉強していないからこういうことになるのです。
 まして「定説」が自分の説に反しているからといって、従来の学問がすべて誤っていると決めつけてしまうのは論外です。誤っていると主張するからには、誤っていると判断するに足るきっちりした根拠を、自説の結論以外からいちいち挙げなければなりません。そうすると膨大な量の仮説を用意しなければならなくなります。恐らく一生どころか十生かかってもまだ足りないでしょう。「同じ事実を説明するなら、少ない仮説で説明できる方がよい」というのは、「オッカムのかみそり」と呼ばれる科学の基本原理で、自分の新説を認めさせたいがために従来の学問のすべてを否定するのは、明らかにこれに反するのです。 
 もちろん定説は絶対ではありません。時には定説と信じられてきた説がひっくり返ることもあります。しかし全く一人だけで定説を覆した人はいないと言っても過言ではありません。多くの人が長い時間をかけて、従来の定説では矛盾が生じる事例を少しずつ論証していった結果、最後にとどめの一撃を加えた人が「定説を覆した人」として名を残すのです。相対性理論もアインシュタインが一から独力で考え出したわけではなく、マクスウェル、ローレンツ、ポアンカレといった人々の研究の上に立って、それらを総合する形で完成したものです。一人で定説を覆そうとする自称「研究家」は、五重の塔を一人で建てようとしているようなもので、それらしきものが建ったとしても、少しけとばせばたちまち崩れてしまうのは目に見えています。

■「定説」と「方法論の常識」は別

 そしてもう一つ大事なことは、「定説」と「方法論の常識」を混同してはいけないということです。学問は「常識」を疑うことから発展してきました。しかしこの「常識」とは「多くの人が支持している定説」のことです。定説を疑うのはまだいいのですが(上述の通りそれで結論が動くことは滅多にありませんが)、その真偽を判断する方法論で「常識」を踏み外しては困るのです。多年の蓄積によって確立された方法論の「常識」を、「そんなものは固定観念だ。オレは頭の固い学者の古くさいやり方には従わない」などと否定しようとするのは論外で、包丁の使い方を習っている新米の板前が「何が『伝統の技』だ、そんなやり方は固定観念だ。オレはそんな古くさい包丁の持ち方には従わない」と息巻くようなものです。そんな思い上がったことを言う板前がおいしい料理を作れると思いますか?
 学問に限らず、およそ芸事には古くから伝えられる決まった「作法」があります。舞踊なら手足の動かし方には一定の決まりがありますし、料理なら材料や作り方には定石があります。もし舞踊のイロハも知らない人が好き勝手に手足をバタバタさせて「固定観念を打破した画期的な舞踊」だと自慢したらどうでしょうか? 料理をしたこともないような人が、鍋物のだしに醤油や味噌を入れるかわりに、マヨネーズやタバスコをぶち込んで「固定観念を打破した新しい鍋」だと自慢したらどうでしょうか? そんな舞踊など誰も感動しませんし、そんな鍋など誰も食べないでしょう。自称「研究家」のいう「固定観念の打破」も、これと同じことをやっているに過ぎないのです。
 こう言われてもなお「言い訳ばかり並べて、学者というのはやっぱり既存のパラダイム(枠組み)から外に出ることのできない臆病者だ」と反撃する人もいるかもしれません。確かに学問のパラダイムは時代に応じて移り変わってきました。しかしどんなにパラダイムが変わっても、「確かな根拠を積み上げて証明する」という学問の基本的な方法は、恐らく変わることはないでしょう(今この世に生きている人が残らず死に絶えた遠い未来にどうなっているかはわかりませんが、そんなことを今から心配しても始まりません)。ニュートン力学は相対性理論に取って代わられましたが、実証主義という基本方法がそれによって変わったわけでは決してありません。実証主義を捨てれば、それはもはや学問ではなく「信仰」になってしまうのです。

この項のまとめ


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