トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :古代を扱った主な「研究ごっこ」のテーマ :

古代神話は史実を反映している?


■古代神話が史実だったら……

 世界各地の古代神話や伝説をあたかも史実であるかのように受け取って、超古代文明の存在を主張したり、一般に信じられている歴史を否定したりするのも、古代文学の「研究ごっこ」の定番テーマです。

 中国古代に関するこうしたテーマで、日本人にも関心を抱く人が比較的多いのは、いわゆる徐福東渡の伝説です。「秦の始皇帝の時代、徐福なる人物が三千人の子供とともに東へ船出し、日本へやって来て王となった」という物語で、これを真に受けて徐福を顕彰しようと熱心に活動している人が、日本にも中国にもたくさんいます。
 この話が史実なら、教科書に載っている日本古代の歴史はひっくり返ってしまいますし、日本人と中国人は同じルーツである可能性が出てきます。「すごいことではないか!」と心をときめかせる人もいるかもしれませんが、まずはこの話を記す文献を丁寧に追っていくことにしましょう。

■徐福に関する文献史料

 まず『史記』秦始皇本紀には

 齊人徐巿(注)等上書、言海中有三神山、名曰蓬莱・方丈・瀛洲、僊人居之。請得齋戒、與童男女求之。於遣徐市童男女數千人、入海求僊人。
 斉の人徐巿(福)らが始皇帝に上書して、「海中に蓬莱・方丈・瀛洲の三神山があって、仙人が住んでいます。斎戒して男女の子供を私に与え、探しに行かせてください」と言った。そこで始皇帝は童子童女数千人を与え、徐福を船出させ、仙人を求めさせた。

という記事が見え、『漢書』郊祀志になると、

 秦始皇初并天下、甘心於神僊之道、遣徐福・韓終之屬多齎童男童女入海求神采藥、因逃不還、天下怨恨。
 秦の始皇帝が初めて天下を統一してから、神仙の道にのめり込み、徐福・韓終らの一派に男女の子供をたくさん与え、船出して神仙を求め仙薬を採らせたが、そのまま逃げて戻らず、天下の人々が恨んだ。

という話になります。
 これが徐福に関する最も信頼できる記述ですが、やがてこの話には尾ひれがつくようになります。例えば『史記』淮南衡山列伝では、漢代初期の諸侯王・淮南王劉安が皇帝の自分への処遇に不満を抱き、反乱の意思を口にしたのに対し、伍被が諌めて言った言葉の中に徐福が引き合いに出されます。
 又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰、『臣見海中大神、言曰、「汝西皇之使邪。」臣答曰、「然。」「汝何求。」曰、「願請延年益壽藥。」神曰、「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰、「宜何資以獻。」海神曰、「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。於是百姓悲痛相思、欲為亂者十家而六。
 又使尉佗踰五嶺攻百越。尉佗知中國勞極、止王不來、使人上書、求女無夫家者三萬人、以為士卒衣補。秦皇帝可其萬五千人。於是百姓離心瓦解、欲為亂者十家而七。

 (始皇帝は)また徐福に船出して神仙を求めさせましたが、戻って「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』そこで私を従えて東南の方蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神は『名声ある男子と童女にもろもろの作業にあたらせれば、手に入れることができる』と言いました」とうそを言いました。始皇帝は大喜びして、男女の子供三千人に、五穀を植えることやもろもろの作業を教え込んで行かせました。ところが徐福は平原や広い沼地を手に入れると、そこにとどまって王となり、戻ってきませんでした。そこで庶民は痛み悲しみ、反乱を起こそうとした者は十人中六人にもなりました。
 (始皇帝は)また尉佗に五嶺を越え百越(今の広東省にいた異民族)を攻めさせましたが、尉佗は中国が疲弊しきっているのを知って、そこにとどまって王となり、戻って来ず、人に上書させて、夫のない女三万人を求め、兵卒の衣類の繕い役にしたいと言いました。始皇帝は一万五千人ならよいと許しました。そこで庶民の心は始皇帝から離れてばらばらになり、反乱しようとする者は十人中七人にもなりました。 
徐福が王になったという話はここで初めて出てきますが、注意すべきなのは、伍被は淮南王の弐心を諌めるために、広東の地で王となった尉佗と並べて徐福を引き合いに出しているということです。尉佗は秦末に広東で自立して国号を「南越」と称し、漢の武帝に滅ぼされるまで独立を保ちました。始皇帝の無道ぶりを並べて淮南王を諫めるのに、この尉佗を引き合いに出すだけではなお足りず、徐福まで尾ひれを付けて持ち出したのです。もっとも伍被自身が尾ひれをつけたのか、それとも民間に伝わっていた尾ひれのついた徐福伝説を伍被が利用したのかは断定できませんが、いずれにしてもどこともわからない「平原広沢(野原や沼地)」の王という、尉佗に比べればひどく具体性に欠ける、信憑性の低い話であることは確かです。同じ『史記』の秦始皇本紀は、司馬遷自身の著述ですから、怪しげな話は載せていませんが、ここはあくまで伍被のセリフですから、怪しげな話でもそのまま載せられているわけです。
 さらに後の文献になると、会稽(浙江省)の沖にあるという伝説の島・夷洲と亶洲が徐福のたどり着いたところだという長老の言い伝えが引かれ、よりもっともらしい尾ひれになり(『三国志』呉書・孫権伝)、ついには徐福が日本に来たという伝説になります。

■徐福は来日したか

 以上より判断すれば、徐福なる人物が仙人を求めようと始皇帝を言いくるめたのは恐らく史実でしょうが(無論100パーセントとは言えません)、それが実際に船出して日本にまでやってきたというのはずっと後の文献にやっと現れる話で、確たる文献的・考古学的証拠はありません。日本には徐福の墓と称するものが各地にたくさんあることも、この伝説の不確かさを物語っていといえます。
 普通ならそこまでで終わりになりますが、熱心な徐福ファンは、「稲作や漢字をはじめ数々の先進文化を日本に伝えたのは徐福だ」とか、「日本人は徐福の子孫だ」とか主張します。しかし日本最古の稲作遺跡である佐賀県の菜畑遺跡は紀元前500~600年のもので、始皇帝や徐福の時代より200年以上も前のものです。また現在発見されている、漢字が書かれた最古の出土物は、吉野ヶ里遺跡出土の紀元前1世紀の前漢時代の銅鏡ですが(これでも徐福の時代からは100年も後です)、その後4世紀頃までの出土品には1字の漢字が書かれているものがあるだけで、単なる装飾以上の意味はなかったとされています。本格的な文章を書いた最古の遺物は、今のところ4世紀後半のものとされる奈良県石上神宮所蔵の七支刀の銘文で、5世紀頃から日本も本格的に漢字を用いる時代になったと考えられています。つまり徐福の時代から800年も漢字文化が日本に根付いていなかったわけで、日本の漢字文化の発祥を徐福に求めるのは無理がありすぎます。また仮に日本人のルーツが中国大陸から渡来した人であったとしても、それを徐福一人に帰するだけの物証は何もありません
 さらに徐福が連れて行ったのが「童男童女数千人」であることからも、徐福が移民をもくろんで船出したとは考えられません。移民したら統治機構も必要ですし、建設土木や農耕狩猟など様々な作業を行わなければなりません。こういう目的なら子供ばかり連れて行くより、大人を連れて行った方がずっと効率がよいはずです。子供だけを連れていったのは、やはり清浄な子供を神仙への供物にするという宗教的な意図があったためであり、徐福は神仙術を使うと称した方士であり、不老長寿を求めた始皇帝に神仙術によって取り入ったという文脈を無視してはならないでしょう。こうしたことから、「行き着いた先で王になった」云々は後になってついた尾ひれと考えられるのです。
 『三国志』に見える亶洲こそが日本だという説も古くからありますが、これも確たる根拠のない話です。会稽の東には舟山群島の多くの島々がありますし、琉球も台湾もフィリピンもあります。その上亶洲を確かに日本のこととして記している文献も見当たりません。種子島で中国風の紋様をつけた貝札が出土していることから、これは三国呉の文化が影響したもので、亶洲も種子島のことではないかとする説もありますが(杉本憲司『中国の古代都市文明』思文閣出版、pp299)、無論徐福よりはずっと後の時代のことであり、これを徐福来航の根拠とするのは飛躍のしすぎです。
 このように徐福が日本へ来たと主張する人の『史記』などの読み方は、資料自体の性格を考慮せず、前後の文脈を無視して都合のよいところだけを切り取ってくる我田引水なやり方で、こういうのを「断章取義」といいます。「断章取義」を大々的にやればどんなデタラメでもでっち上げられますから、学問ではやってはならない禁じ手とされているのです。
 中国側の文献だけでは足りないと、『古事記』や『万葉集』の中から徐福に関係のありそうな記述を懸命に掘り出そうとする人もいますが、よしんば徐福に関係のありそうな記述が見つかったとしても(それ自体ほとんどこじつけとしか言いようのないものですが)、『古事記』や『万葉集』は徐福の時代から900年も隔たっているのですから、それだけでは徐福が日本に実在した根拠とするには弱すぎます。ちょうど北宋期を舞台にした『水滸伝』に小石投げを得意技とした「没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)」が登場し、それから900年を経た現代日本の映画やテレビドラマにも投げ銭でおなじみの銭形平次が登場することだけを根拠に、「張清は日本に渡ってきて小石投げを伝授した。銭形平次はその子孫だ」と主張するようなものです。
 このように一片の文章の記述(それも徐福が日本に行った・日本を目指したとはどこにも書かれていない)だけでは根拠薄弱である上に、徐福が日本にいたという確かな物証は何も出ていないのですから、徐福が日本に来た可能性は残念ながら「極めて低い」と判断せざるを得ませんし、たとえ日本に漂着していたとしても、当時の日本の文化や政治には何らの影響も残さず、単なる漂着民で終わったことはほぼ間違いないでしょう。(将来よほど画期的な考古遺物でも出土すれば話は別ですが、私はその可能性は低いと見ています。)

■古代研究の難しさ

 徐福来日説を熱心に唱えるこうした人々は、神話や伝説はすべて事実を反映したものだと思い込んでしまっているところに問題があります。神話や伝説とはあくまで「心象における事実」であり、客観的事実がどうであるかに関係なく、人々が心で現実だと信じている物語のことです。幼児はしばしばありもしない話をさも見てきたかのように滔々と語ることがあります。これは決して人を騙そうとしているのではなく、「心の中の現実」と「客観的現実」の区別がついていないからで、神話もそういう性格のものなのです。他の歴史文献や考古遺物に確かな根拠があるのならいざ知らず、神話や伝説だけを根拠に古代史を説明しようとするのは、物証によらず自白だけで犯罪事実を証明しようとするに等しい暴挙といえます。
 その上中国や日本の古代文献は、神話と歴史がない交ぜになっているのが特徴であり、どこで線を引くかは慎重の上にも慎重を期さなければなりません。単に「書いてあるから」というだけで鵜呑みにしてしまうのは、古代史の研究では厳に慎まなければなりません。いくつもの文献と突き合わせたり、考古資料と対照したりしながら、その記述が本当に信用できるのか慎重に吟味しなければ、信用に値する学説にはならないのです。徐福の周囲にはこういう史料批判の精神がすっぽり抜け落ちている、安易な議論ばかりが渦巻いているので、プロの学者はそれを嫌って近づこうとはしないのです。
 上の理由から、古代の詩歌などの文学作品を古代史の根拠に用いることにも、慎重になる必要があります。文学作品はある程度当時の社会を反映したものではありますが、細部にわたった事実の記録を目的としたものではありませんから、そのすべてが史料として使えるわけではありませんプロローグその2で挙げた「TOKIO」の例は、文学作品を無批判に史実の記録として扱うとどんな滑稽なことになるかを示したものです。

■古代神話や伝説とどう向き合うか

 もし「TOKIO」を研究材料にするのなら、その歌詞が当時の社会の気分をどのように反映しているかという方向で考えるのがまっとうな研究のあり方です。そしてその「社会の気分」は、「TOKIO」自身からだけではなく、別のもっと確かな史料からも探らなければなりません。徐福伝説ならそれがどういう背景から生まれ、時代とともにどのように変化したかを考えるのが、学問としてのアプローチの仕方です。
 いま徐福伝説を例に挙げましたが、結局神話や伝説はそれが語り伝えられた時代の社会や、語り伝えた人々とのかかわりにおいて考えるべきものであって、他の根拠もなくそれ自体を史実と見なすのは極めて危険な行為なのです。神話や伝説から歴史を組み立てようとしても、それは新たな神話を生むだけです。
 あなたはそれでも「神話や伝説は史実だ」と信じますか?

(おことわり)徐福伝説の伝わる地方では、徐福で町おこしや村おこしをしようと活動している方々もたくさんおられますが、別にそのような活動を妨害しようという意図はありません。神話伝説が史実でなかったとしても、それは値打ちがないことを意味するのではありません。「お話」として人々の心を楽しませ、豊かにする効用はちゃんとあるのですから。本当かウソかにこだわらなくても、伝説は伝説のままでも十分楽しめるではありませんか? どうか躍起にならず、心のゆとりを持って活動していただけたらと切に願います。


(注)この「巿」は「巾」の縦線が「一」を突き抜けている形で、音は「フツ」で「福」と音が通じ、「亠の下に巾」の「市」(シ)とは別字です。「徐福来日説」を唱える人々の中にはこのことすら分かっていない人も多いようです。


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