トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :古代を扱った主な「研究ごっこ」のテーマ :

漢文は和文で読める?


■古典中国語(漢文)を知らずして古代研究はできない

 中国古代について知ろうと思えば、古典中国語(いわゆる漢文)を知らなければ関係する文献を読むことができません。中国だけではなく、日本の古代について知ろうと思っても、それは同じです。かな文字のなかった日本古代の文献はすべて漢字で書かれていますし、中国側の史書も参照する必要があるからです。

 古典中国語を読もうと思ったら、中国語の文法はもちろん、漢字の意味や用法、音韻についても通じていなければなりません。ところが我々は日頃から漢字を用いているため、古典中国語をつい安易に考えてしまいがちです。漢字さえ読めたら漢文も読めるとばかりに、気軽に日本古代史に首を突っ込もうとする人が、インターネット上にあふれていますが、彼らの議論には古典中国語のプロから見ると頭が痛くなるようなものがたくさんあります。異体字や通假字がわかっていなかったり、音読みと訓読みの区別すらついていなかったり、初歩の初歩さえ勉強していない人が「処士横議」を繰り広げているのが現状です。ちょうど麻雀のルールはおろか、牌の名前の読み方さえ十分わかっていない人ばかりが集まって麻雀大会を開くようなもので、実りある議論になるはずはありません。

■記紀は漢文ではない?

 さて日本古代を研究する上では避けて通れない『古事記』『日本書紀』も、もちろん漢字だけで書かれています。『古事記』は古典中国語を基本に日本独特の表記を交えた、いわゆる「変体漢文」であり、『日本書紀』は純然たる古典中国語の文体で書かれています。
 古典中国語の知識が全くない人がいきなりこうしたものにぶつかると、時としてあらぬ方向に突っ走ってしまうことがあります。記紀が漢文で書かれていること自体を否定して、「日本人が書いたのだから漢文ではない、和文だ。返り読みをするのは間違っている」という主張を始めるのです。さらには中国の史書まで和文で書かれていると主張する豪の者までいます。
 彼らの手法はおおむね共通していて、漢字を上から順に読んでいって、適当に「てにをは」を補ってつなぎ合わせ、意味が通るようにするというやり方です。しかしこういうやり方には重大な欠陥があります。それは「文法がない」ということです。
 例えば「我は汝を愛す」という文を、彼らの主張する「漢字和文(?)」で表したら「我汝愛」となります。では「我を汝は愛す」を同じように表記したらどうなるでしょうか。返り読みはできないのですから、やはり「我汝愛」とするしかありません。また「我は汝に愛される」でもやはり「我汝愛」と書くしかないでしょう。「我と汝の愛」でも「我汝愛」になります。明らかに意味の違う4つの文が、全く同じ形になってしまうのです。
 これは逆に言うと、「我汝愛」という文があったら、「我は汝を愛す」とも「我を汝は愛す」とも「我は汝に愛される」とも「我と汝の愛」とも読めるということです。つまり「漢字和文」には文法が存在せず、読み方は読む人の恣意に任されているのです。これではまともに意思を疏通することは不可能です。
 一方、古典中国語ならこの4つはちゃんと区別できます。「我は汝を愛す」なら「我愛汝」「我を汝は愛す」なら「我之汝愛」「我は汝に愛される」なら「我為汝愛」「我と汝の愛」なら「我与汝之愛」となります。「我愛汝」は決して「我を汝は愛す」という意味にはなりません。「主語は動詞の前、目的語は動詞の後ろ」という「文法」があるからです。古典中国語に比べれば、「漢字和文」が甚だ出来の悪い、およそ実用にならない表記法であることは明らかです。
 もし「漢字和文」で古典中国語と同じくらい確実に意思を疏通できるようにしようと思えば、例えば「我は汝を愛す」は「我、「我を汝は愛す」は「我、「我は汝に愛される」は「我佐留というように、「てにをは」や送り仮名に当たる漢字を補ってやる必要があります。(こういう書き方は宣命(せんみょう=天皇が口頭で下す命令)の記録に実際に用いられたもので、「宣命書き」と呼ばれ、神官が唱える祝詞は今でもこれで書かれています)。しかし記紀の原文を実際に読んでみれば、このようにはなっていないことはすぐにわかります。古典中国語の文法に従えばほぼ無理なく読める文を、何の法則性もなしに、好き勝手に「てにをは」を補って読み通しても、こじつけや語呂合わせの域を出るものではありません。
 こんな主張が出てくるのも、ひとえに中国語の性質を理解していないからでしょう。日本語には「てにをは」がありますから、少々語順を入れ替えても意味はちゃんと通じます。しかし中国語は古典でも現代でも「てにをは」に相当するものがありませんから、語順で意味が決まってしまいます。日本語では「我は汝を愛す」と「汝を我は愛す」は同じ意味ですが、中国語では「我愛汝」と「汝愛我」は全く逆の意味になります。「汝愛我」は「汝は我を愛す」です。ここがよくわかっていない初学者は、「汝」「愛」「我」という漢字をそれぞれ日本語に置き換えて適当に「てにをは」を補い、「あなたの愛する私」などと訳してしまいますが、これは文法を全く無視した語呂合わせに過ぎません(その意味なら「汝所愛之我」となります)。古典中国語がちゃんと文法にのっとったものであることを理解できず、漢字がでたらめに並んでいるのを好き勝手に返り読みしているだけだと誤解していれば、「漢字和文」のような発想が出てくるのも無理のないことです。

■古代日本語の漢字表記

 古代の日本語を、全く異なる言語である中国語を表記するための漢字で書き表そうとすれば、当然無理が出てきます。今日の我々は当たり前のように漢字仮名交じり文を用いて、日本語を不自由なく書き表していますが、そこにたどり着くまでには気の遠くなるような道のりがありました。
 「古代神話は史実を反映している?」の項でも述べたとおり、日本に漢字が伝わった形跡は紀元前1世紀頃からありますが、それが本格的に文章の書記に用いられるようになるのは5世紀頃からです。当初は朝鮮半島から渡来した書記官が古典中国語によって書記を行っていましたが、日本語の固有名詞を漢字で書き表すには、「獲加多支鹵(ワカタケル)」のように漢字の音を用いた当て字(音仮名)が行われました。
 これが6世紀以降になると、古典中国語のスタイルが日本語に引きずられて崩れていき、より日本語の文法に適した表記法が考えられるようになります。まず漢字にその意味に該当する日本語を当てて読む訓読みが行われるようになり、7世紀に入ると漢字の用法や語順も日本語の影響で崩れた表記法が生まれてきます。こうしたものは仏像に刻まれた銘文に例が多く、本格的な書物ではなく事務的な文書に多く用いられたと考えられています。
 この「崩れた漢文」がより進むと、固有名詞の当て字にも「額田部(ヌカタベ)」のように音読みではなく訓読みを用いるようになり、さらには「受日鶴鴨(うけひつるかも)」のように、助動詞や助詞にも訓読みによる当て字をするようになります。こうして訓仮名が生まれ、『万葉集』で大きく展開していきます。
 さて『古事記』は、本文は日本語に引きずられてやや不自然な表現の見られる変体漢文(和製英語のようなものと思えばいいでしょう)ですが、「〜を」という目的語は動詞の後ろに置かれるなど、古典中国語の文法のごく基本的なところはよく守られています。ですから少し手を入れれば、そのまま中国語訳として使えるくらいです。序文は4字と6字の対句で構成された完璧な古典中国語の美文(駢文あるいは四六駢儷文と呼ばれます)で、中国人が読んでも日本人が書いたとは信じないほどのものです。しかし歌謡などどうしても日本語の音のまま伝えたい箇所は、音仮名による表記が行われています。そして太安万侶は音仮名で書いた箇所にはその旨古典中国語の文で注をつけ、固有名詞の部分も訓仮名を基本としながら、音仮名を用いたところや、訓仮名でも一般名詞や動詞と間違えそうな箇所にはその旨注をつけるという配慮を忘れていません。これは言うまでもなく読者の便宜を図ってのことです。
 これが『万葉集』になると、様々な表記法が試みられています。初期の作品には
 東野炎立所見而返見為者月西渡 
のような訓仮名が使われていますが(注)、この解読は困難を極めました。古典中国語の文法では読めませんし、宣命書きのような「てにをは」に当たる漢字がほとんど使われていませんから、これをどう補えば作者の意図に近づけるのか、議論が定まらなかったのです。
 しかし幸いなことに、後期の作品や東歌・防人歌には音仮名が多く用いられています。これは例えば
 多麻河泊尓左良須弖豆久利佐良左良尓奈仁曽許能児乃己許太可奈之伎
 たまがはにさらすてづくりさらさらになにそこのこのここだかなしき
 (多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの子の ここだ愛しき)
のような漢字一字につきかな一文字という当て字の仕方で、これなら読む人によって読みがぶれることが少なくなります。これによって当時の語彙や句法を調べれば、それをもとに訓仮名の分析を行うことができます。短歌は字数が31文字で一定していることも、解読の助けとなります。その結果、「東野炎立所見而返見為者月西渡」は
 ひむかしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ
 (東の 野に炎の 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ)
という読みに落ち着いたのです。これは「漢字和文」そのものではないかと思うかもしれませんが、「所見」は古典中国語では「見られる」という受け身の意味で、これを「見える」という自発の意味に転用したのであり、要所には古典中国語の句法を用いて、意味が紛れないようにしているのです。
 しかしこうした訓仮名は、やはり読むのに不便が大きいため、後の文献には用いられなくなっていきました。このことも漢文の方が訓仮名よりもずっと確実に意思を疏通できた証といえます。(なお古代日本の漢字表記については、沖森卓也『日本語の誕生』(吉川弘文館)や加藤徹『漢文の素養』(光文社新書)にわかりやすく説明されています。) 字数の一定している短歌でさえ読むのに困難を伴うのですから、『古事記』のような字数の決まっていない散文に「訓がな」を用いたら、収拾がつかなくなるのは目に見えています。
 あなたはそれでも「漢文は和文で読める」と信じますか?

(注)『万葉集』での万葉仮名には、言語遊戯の要素を帯びたものも見られます。「山上復有山」で「山の上にまた山有り」から「いづ(出)」と読ませたり、「こひ(恋)」を「孤悲」と書いて「独りの悲しみ」という意味を含ませたりといった具合です。しかしこうしたものは詩歌ならではのお遊びであり、公式な文書ではまず用いられない性格のものです。ですから「『古事記』も表向きは漢文だが実は文字遊戯で別の意味が隠れているのだ」といった議論をするのは無理です。現代でも「2ちゃんねる」では、ヤツ→ヤシ→香具師という連想で「奴」を「香具師」と書いたり、プロクシサーバーを「串鯖」と書いたりといった文字遊戯が盛んに行われますし、店の名前でも「樹庭夢(ジュテーム)」「来夢来人(ライムライト)」といった万葉仮名風の当て字が多く見られますが、学術論文や新聞、公文書でこんな漢字の使い方をする人はいません。あくまで「お遊び」の域を出ないからです。

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