トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :古代を扱った主な「研究ごっこ」のテーマ :

古代文献は暗号である?


■「○○の暗号」

 古代文学に関する「研究ごっこ」の一大ジャンルに、「○○の暗号」というたぐいのものがあります。「難解な古典文献は従来の方法では読めない、しかし自分の発見した鍵を使って解読すれば、隠されていた驚くべき真実が明らかになる!」と主張するものです。彼らはさらに「この新発見を認めようとしない学者は、固定観念に凝り固まったアホだ」などと、アカデミズム罵倒を付け加えることを忘れません。「権威」を叩けば「草の根」から自分への支持が広がると思っているのでしょう。

 ではどうして学者はこの画期的な「暗号説」をことごとく退けるのでしょうか。それは「頭が固い」からでも「既得権益を侵される」からでもありません。
 「暗号説」は「学説として成り立ち得ない」からです。

■好き勝手にでっち上げた「鍵」

 暗号を解くにはまず「鍵」が必要です。暗号の「鍵」としてよく使われるものに「替え字」があります。これはカナやアルファベットなどの文字をそれぞれ別の文字や記号に置き換えるもので、エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」や、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものの名作「踊る人形」に出てくる暗号がその代表的なものです。しかしこれらはどちらも「英語で使われる文字の頻度はEがもっとも高い」という事実を根拠に、暗号文の文字や記号の頻度を調べることによって解読されてしまいます。「替え字」は統計的な根拠に基づけば、暗号文自体から「鍵」を発見できるのです。
 スパイの通信用や、戦争に用いられる暗号はこれよりももっと高度で、数字を用いた「替え字」に当事者だけが知っている乱数を加えたり、文字の順序を一定の法則に従って入れ換えたり、重要な単語を他の無関係な単語や文字列に置き換える「コードネーム」を用いたりしています。これらはいずれも暗号文自体に「鍵」が含まれず、「鍵」を持っているのが暗号をやり取りする当事者だけであるため、その解読は非常に困難です。ゾルゲ事件で使われた暗号通信も、ゾルゲのグループが検挙されるまで解読できませんでしたし、太平洋戦争でミッドウェー海戦敗北のきっかけとなったのは日本軍の暗号が米軍に解読されたことでしたが、これも米軍が「ミッドウェー島では真水が不足している」という偽情報を流し、これを傍受した日本軍が「AFでは水不足らしい」という暗号電を打ったために、ようやく「AF」がミッドウェー島を意味することが確かめられたのです。つまり暗号を作った当事者から何らかの方法で「鍵」を聞き出さなければ、こうした暗号を解読することは難しいのです。
 ところが古代文献の「暗号説」論者は、根拠もなしに「何となく思いついた」やり方を勝手に「鍵」にしてしまいます。古代人から「鍵」を聞き出したわけでもなく、別の文献に「鍵」が書かれているわけでもなく、文字の頻度について統計的な分析を行ったわけでもなく、何を「鍵」とするかは全く論者の恣意でしかありません。甚だしくは『万葉集』を読むのに現代朝鮮語を用いるなど、「その当時ありもしなかったもの」を「鍵」に使ったりします。
 さらに「暗号説」論者は、「このように鍵を選べば暗号が読めるのだから、これを鍵にするのが正しいのだ」などと主張します。しかしこれは「循環論法」と呼ばれる詭弁です。「これが鍵だから暗号が読める→暗号が読めるからこれが鍵だ→これが鍵だから暗号が読める」と無間地獄に陥ってしまい、結局何の証明にもなっていません。
 ここで具体例も挙げてみましょう。英国の大劇作家シェークスピアとは実は哲学者フランシス・ベーコンの筆名であるという説が昔からありますが、その根拠の一つとして挙げられるのが、「恋の骨折り損」第五幕第一場のコスタードのセリフに出てくる honorificabilitudinitatibus (面目)という長い単語が実は暗号になっていて、並べ換えると
 Hi ludi F Baconis nati tuiti orbi
(これらの戯曲こそは、F・ベーコンの作りて世に残すものなり)
というラテン語になるというものです。ところがこれを違うように並べ換えると、
 Ubi Italicus ibi Danti honor fit
(イタリア人がいれば、名誉はダンテのもの)
となり、シェークスピアはイタリアの詩人ダンテと同一人物であるということにもなってしまいます。これを見れば、「暗号が読めるから」という説明だけでは、この長い単語を暗号として選んだ根拠にも、その並べ換え方の根拠にもならないことがおわかりでしょう。

■解読方法も好き勝手

 そして「暗号説」論者の暗号解読方法もお粗末なもので、「鍵」を使って文献のすべてが「有意な文章」になったのならまだしも、人名などの「一見有意な文字列」が偶然いくつか出てきただけで、「暗号が解読できた」と有頂天になってしまいます。そして「一見有意な文字列」が読み取れないその他多くの部分は都合よく切り捨ててしまいます。その上切れ切れの「一見有意な文字列」をどう解釈するかは全くその場限りの恣意であり、何の法則性もありません。これでは学問的とは到底呼べない単なるこじつけであり、「鍵さえ適当にでっち上げれば何でも読み取れてしまう」ことになってしまいます。「何でも読み取れる」というのは結局「何も読み取れない」のと同じことです。
 しかもそうした「解読」で人名や地名がいくつか出てきたとしても、有頂天になっているのは本人だけで、実ははた目には何の面白みもないのです。例えば『枕草子』冒頭の
るはあけぼの。うやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、……
で、最初の字は「は」、8字目は「や」、16字目と17字目は「なり」ですから、続けると「はやなり」となります。そこで「これは橘逸勢(たちばなのはやなり)のことだ。『枕草子』にも暗号があった!」と言ってみたところで、大多数の人は「ふーん、だから何?」という感想しか持たないでしょう。そもそも清少納言より100年以上も前の能書家であった橘逸勢が『枕草子』といったい何のかかわりがあるのか、清少納言が橘逸勢の何を訴えようとしたのか、これではさっぱりわかりません。空想でなら「清少納言は橘逸勢の子孫だった」「謀反の疑いをかけられた橘逸勢の無実を晴らす証拠を清少納言が握っていた」などといくらでも言うことはできますが、それで納得する人は皆無でしょう。古代文献に関する「暗号説」は大方こんな程度のもので、人名が出てくるように文献を適当にいじくり回し、空想した物語をそれにこじつけるだけにすぎないのです。

■古代文献はそもそも暗号であり得るか?

 以上は百歩譲って「古代文献が暗号である」という前提を認めた上での批判です。しかし実はまだ根本的な問題があります。それは
 「古代文献が暗号である可能性自体が限りなくゼロに近い」
ということです。もしそれが暗号だとしたら、いったい誰が何の目的で作ったのでしょうか。もし為政者の目をくらます形で政治的陰謀を公にしたいのなら、遠い未来の、それも世界で約一名の人にやっとわかってもらったところで何の意味もありません。普段使っている言葉で書いて、それを厳封した上でひそかにしかるべき所へ持っていく方が、よほど確実に「読んでほしい人に読んでわかってもらえる」のではないでしょうか。もし当事者以外にばれては困る秘密情報を伝えたかったのなら、文学作品として広く読まれる形で発表することはまず考えられません。極秘情報を伝えるために詩歌や小説を発表して、その中に暗号を混ぜ込むような、危険な上に手間とひまのかかることをするスパイはいないでしょう。
 もし仮に、あなたが勤めている会社の上層部の不正を、あなたが何かの拍子に知ってしまったとします。それが上層部の知るところとなり、口封じに命を狙われそうになったとします。それを多くの人に何とか伝えたいと思ったとき、あなたは「一見普通の文章のように見えて、実は暗号が隠されている」詩歌や散文を一生懸命こしらえようとするでしょうか? そして千年後の人に会社の不正を知ってもらうことを期待するでしょうか? 私ならそんな悠長なことにうつつを抜かすより先に、匿名で警察や新聞社に投書したりするでしょう。もちろん暗号ではなく「平文」で。このように状況からして「暗号説」には疑問が尽きません。
 さらに重大な問題は、暗号説論者が「暗号」だと称する文献は、ほとんどすべて通常の読み方で読んでも問題なく読めるものだということです。全体を通して一言も文意が通じないのであれば、通常の読み方に問題があることになりますが、「暗号」だと称される文献はせいぜいごく一部に難解な箇所がある程度で、通常の言語だと見なして問題はないものなのです。それを「暗号」と見なすからには、相応の根拠を挙げる必要がありますが、暗号説論者が挙げるのはたいてい空想を並べただけの政治的陰謀の物語です。「暗号として読めば政治的陰謀が浮かび上がる。故にこれは暗号だ」という説明は、「これは暗号だ」というこれから証明すべき結論を、証明のための前提に用いており、「論点先取の誤り」と呼ばれる詭弁です。

■古代文献は「普通の言葉」

 古代の文献は現代とは異なる言葉で書かれていますから、現代人にはそれ自体が暗号のように見えてきます。だからといって「古代人が暗号を書いた」と早合点してはいけません。現代人にとっては暗号のようでも、古代人にとっては普通の言葉で書かれたものなのです。文献とはまず「同時代の人々に何かを伝える」ために書かれるものです。紙がまだなかったり、貴重品であったりして、文献を作ること自体容易ではなかった時代ならばなおのことで、普通の人なら千年後の人に誰も読めないような暗号を(それも解読のための鍵もなしで)残すような能天気な道楽のために貴重な努力を費やすことはまず考えられません。
 この当たり前のことを思い起こせば、ありもしない「暗号」を古文献から掘り出そうとする努力がいかにむなしいものかがよくわかることと思います。最初に挙げた「『雪国』の暗号?!」で、どんなデタラメでも言えてしまう「暗号説」のバカバカしさを戯画化してみせたつもりですが、東海大学の春田晴郎氏のサイトもっとよくできた例がありますから、併せて御覧になるといいでしょう。「暗号説」のベストセラー・ドロズニン『聖書の暗号』の手法で聖書を読み解くと、アメリカ元大統領ケネディの弟R・F・ケネディも、イスラエル元首相イツハク・ラビンも、ゴルゴ13が暗殺したことになってしまうのです!
 あなたはそれでも「暗号説」を信じますか? 

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