トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :

「研究ごっこ」Q&A



問 「研究ごっこ」の見分け方のポイントを教えてください。

 古代を扱った主な「研究ごっこ」のテーマ「研究ごっこ」のパラドックスの項を見ていただければおおよそわかると思いますが、特に次のような点に当てはまっていれば、用心してかかった方が安全です。
・著者が雑誌に発表した論文がない
 雑誌に発表した論文がなく、自費出版の著書しかなかったり、ウェブサイト上の文章だけしかなかったりするような場合は、眉に唾をつけた方が賢明です。「ちゃんと専門家の目に触れて批評を受けた経験がない」ことを意味するからです。
・著者がその分野について専門的に学んだ経験がない
 これは著書なら奥付を見ればわかりますし、ウェブサイトでもきっちり学んだことのある人ならその経歴を載せているはずです。たとえ著者が大学教授の肩書きを持っていても、専門と全く無関係な領域で発表した「研究」なら疑ってかかった方が安全です。例えばドイツ哲学や都市工学の研究者が書いた日本史の本や、政治学の専門家が書いた中国史の本といった場合です。
・やたらセンセーショナルな文句が多い
 「定説を完全にくつがえす!」「これまでの研究はウソだ!」といった、某スポーツ新聞の見出しのような派手なうたい文句を掲げているものは、羊頭狗肉であることがほとんどです。突っ込みどころを蚤取り眼で探すつもりで臨んだ方がいいでしょう。
・論調が攻撃的である
 プロの学者をやたらと罵ったり、従来の定説を支持する人をバカ呼ばわりするような、攻撃的な雰囲気が感じられたら、コケおどしだと思った方がいいでしょう。アマチュア研究家でも本当に立派な業績を上げている人は、プロの学者を罵倒したりはしないものです。
・引用文献がない
 まっとうな研究なら先人の研究をきっちり引用した上で、それを踏まえて自分の論を展開します。ですから脚注や巻末の参考文献一覧には多くの参考文献が書かれています。ところが「研究ごっこ」の著者は自分の「研究」だけが絶対だと思っていますから、他人の研究をあまり参考にしません。引用文献がほとんどないか、あっても啓蒙書や入門書ばかりだったり、著名な専門書や論文が入っていないようなものは「研究ごっこ」と思った方が安全です。
 なお上に示したのはあくまで「用心して読んだ方がよい」という目安であって、これに当てはまっているから即「研究ごっこ」であるとか、これに当てはまっていないから必ず安全であるとは言えません。最終的な判断は、あくまで中身を見てからすべきです(もっともプロなら最初の数ページを見ただけで判断がつくことも多いのですが)。

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問 プロの学者はアマチュア研究家を見下しすぎではありませんか? 一生懸命研究している熱意をもっと認めてあげるべきではありませんか?
 まず間違えてほしくないことは、「アマチュアだからトンデモ」「プロだから正しい」などと決めつけている学者はいないということです。ただ残念ながら、アマチュアの人の大半は「必要な努力をしていない」か「間違った努力をしている」のが現実なのです。
 アマチュアの人でも学問のルールをきっちり修得して、立派な業績を上げている人はいます。しかしアマチュアが立派な業績を上げるには、むしろプロ以上の努力が必要になります。資料集めには大変なお金がかかりますし、最新の研究の動向をつかむには、人脈も必要ですし、絶え間ない情報収集を続けなければなりません。そうした「研究する環境」をアマチュアが維持するのは、研究費を大学からもらえて、多くの同僚がいて、学会にも参加させてもらえるプロよりもずっと大変なことなのです。
 多くの自称「研究家」は、こうした努力をほとんどしていません。原典や専門書を読めず、啓蒙書を数冊読んでわかったつもりになっているような人がたくさんいます。原典の読みが誤っていることを指摘されれば、読み方を訓練することに努力せず、プロの揚げ足を取って罵倒することに懸命になります。こんな「間違った努力」にいくら必死になっても、認めてもらえるはずはありません。
 プロの学者は「アマチュアだから見下している」のではありません。アマチュアでもプロと同じ土俵で、プロと同じ努力を積んで、同じルールで堂々と渡り合える人なら、大いに尊敬します。大半のアマチュアは「プロが積んだ努力を軽蔑し、自分勝手なルールを振りかざす」から無視されるのです。

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問 素人の「研究ごっこ」にいちいち目くじらを立てるのは大人げないのではありませんか? 
 「研究ごっこ」を「ごっこ」の範囲内で楽しむ分には、いちいち文句を言う必要はありません。プロ野球の選手は草野球の愛好家をわざわざ「下手くそだ」などと批判したりはしません。
 しかし多くの自称「研究家」はアカデミズムやプロの学者を、権威主義に凝り固まった無能な役立たずであるかのように罵倒し、自分こそが「本物」だと声高に主張します。そして学校や教師に対してルサンチマン(怨恨)を抱いている人々の中には、こうした主張に共鳴して「何だ、先公が偉そうに言っていたことはウソだったのか。学校なんてくだらない所だ。勉強なんか役にも立たない」と溜飲を下げようとする人も少なくないのです。これに対してきっちり反論するのが「大人げない」ことでしょうか。
 もし草野球の愛好家が「プロ野球は所詮見世物だ。あんな連中に野球が上手にできるわけがない。わざわざ金を払って見に行く奴はバカだ。自分たちの野球こそが本物だ」などとマスコミで公言したら、プロ野球選手もプロ野球のファンも腹を立てるでしょう。恐らく新聞の読者欄や論壇の欄に誰かが反論を書くはずです。
 もっとも野球の上手下手は、素人が見てもすぐにわかりますから、草野球愛好家のこんな主張に共鳴する人は少ないはずです。無視して放っておいてもあまり問題はないでしょう。しかし研究の出来不出来は、素人が見てもすぐにはわからないものです。ですからその見分け方をきっちり解説することが必要だと私は思います。

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問 アカデミズム罵倒はいけないことのように言っていますが、これこそ「アカデミズムは絶対だ」という権威主義なのではありませんか?
 まず誤解してほしくないのは、「アカデミズムは絶対に正しい」とは誰も言っていないということです。プロの学者の研究でも「絶対に誤りがない」という保証はありません。むしろ「誤りがある可能性がある」からこそ学問は発展していくのです。
 プロの学者の説だからアマチュアが批判してはいけないという道理はもちろんありません。しかし「批判を名乗る罵倒」の項でも述べたように、批判と罵倒は別のものです。学者はすべて「古い説にしがみつく頭の固いバカ」であり、従来の定説はすべて「時代遅れの固定観念」であるといった色眼鏡で、プロの学者個人やアカデミズム全体を罵るのは、誰にとっても何の得にもならない不毛な行為です。
 もちろんアカデミズムにも様々な暗部があります。大学教授のポストを得るにはまだまだコネが幅を利かせていますし、学閥のしがらみが強く自由にものを言いにくい研究分野もあります。そうした面は批判されるべきですが、それと「アカデミズムの言うことはみんな間違い」と決めつけることとは、天地の間ほどの飛躍があります。自称「研究家」のアカデミズム罵倒は、論理的にも完全に破綻しているのであって、それを批判するのは「権威主義」とは全く無縁のことです。

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問 プロの学者はどうして博識を笠にきてアマチュアをいじめるのですか?
 自称「研究家」は自説を批判されると、よくこのようなセリフを口にします。判官びいきな人にはこれを聞いて自称「研究家」に同情してしまう人もいることでしょう
 では出来の悪い生徒が「学校の先生は博識を笠にきて生徒をいじめている」と言ったらどうでしょうか。ぱっとしないスポーツ選手が「監督やコーチは抜群な運動神経を笠にきて選手をいじめている」と言ったらどうでしょうか。なかなか昇進できない会社員が「上司は有能ぶりを笠にきて部下をいじめている」と言ったらどうでしょうか。「かわいそうに」と同情する気になりますか?
 かりにも学説を発表するなら、専門家の容赦ない批判や無視は当然覚悟しなければなりません。これはプロでもアマチュアでも同じことです。今はプロになっている学者も、院生時代には論文の構想を発表しては、指導教員や先輩にコテンパンに叩かれて育ってきたのです。プロの学者でも論文や著書を発表する時には、同業の批判は怖いものですし、反響がなく無視されるのはもっと怖いものです。
 ましてまともに修業していないアマチュアが「学説」を発表して、偉人気分だけを味わおうというのはあまりにも甘すぎます。批判や無視に耐えられないなら、潔く足を洗った方がいいでしょう。

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問 プロの学者の方こそ一つの立場に固執して「狂信的」なのではありませんか?
 自称「研究家」は自説を却下されたり無視されたりすると、すぐに「学者は固定観念に縛られている」「学者は定説に対して狂信的だ」などと罵倒します。それがいかに誤った言説であるかは、本稿を隅々までお読みになった方ならもうおわかりでしょう。
 「狂信」とは、「合理的な根拠がない説を墨守して疑わない」ことです。学者が拠って立つ定説や常識は、長年の研究の積み重ねで、動かしようのないことがほぼ確実だとわかっている説です。たとえば「タコ型火星人は実在しない」という説はさまざまな観測や探査からほぼ疑いのないことであって、それを信じることは当然「狂信」にはなりませんし、「固定観念」でもありません
 もし私が「学者はタコ型火星人はいないという説を狂信している。一つの立場に固執して他の説を頭ごなしに退けるのは間違いだ。タコ型火星人は実在するという説もちゃんと見直せ」と言ったら、あなたはそれを受け入れますか?
 仮にそれを受け入れて、もう一度これまでの学説や観測結果を洗い直してみたとしても、それは必ずしも悪いことではありません。しかし「タコ型火星人実在説」が出てくるたびにいちいちそんなことをするのは、あまりにも無駄が多すぎます。ほぼ確実に動かないと見なされている定説をもとに論を組み立てるのには、そのような無駄を省くという意味もあるのです。もし定説をどうしても動かさなければならなくなったら、まず「自説の方がおかしいのではないか」と謙虚に振り返ってみれば、たいていはどこかに誤りが見つかるものです。
 自称「研究家」の説が退けられるのは、学者の「狂信」のせいではありません。その説を認めるなら、彼らが思っているよりもはるかに膨大な数の、これまで知られているほぼ確実な知見をすべてひっくり返さなければならなくなるので、「ほぼ確実に誤り」と判断されるのです。

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問 自称「研究家」が狂信的になるのは、むしろアマチュアの研究に目もくれようとしないアカデミズムの閉鎖性が原因なのではありませんか?
 「アカデミズムの閉鎖性」はよく批判の的になります。例えばアマチュアが学会へ入会するには、「会員2人以上の推薦を必要とする」といった厳しい条件がつけられます。いかにも閉鎖的なように見えますが、それはプロの学者に伍して研究を発表するには、一定のレベル以上の研究能力を持っていることが求められるからであって、アマチュアに対して無条件に門戸を閉ざしているのではありません。きっちりプロの学者の指導を受けていれば、アマチュアでも学会に参加して活躍することが可能なのです。
 自称「研究家」の中には、大学教員に誰彼なく論文を送り付けて、無視されると「アカデミズムは閉鎖的だ」とますます意固地になる人も少なからずいます。しかしそれは「箸にも棒にもかからないから返事をする値打ちもない」という意味だと受け取るべきです。「研究ごっこ」をきっちり批評しようとすれば、入門書を一冊ものするくらいのエネルギーが必要です。ちゃんと勉強した人なら言わずもがなのはずの、初歩の初歩からいちいち説明しなければならないからです。しかもそんな労力を割いても、研究業績として認められるわけでもなく、一銭の儲けにもなりません。多忙な大学教員にボランティアでそこまでやってくれることを求める方が厚かましいというものです
 (「ではお前のこの文章はどうなのか」と言う人もいるでしょうが、私はこれを全くのボランティアでやっています。この文章を研究業績に数えることはできませんし、出版するつもりも今のところありません。「こんなことをやっているヒマがあったら、もっと勉強してまともな論文を書け!」という声がどこかから聞こえてきそうです。しかし「研究ごっこ」にコロリと騙されてしまう人を黙って見ているのでは、国民の税金が投じられている研究成果を国民に還元したことにならないと思っています。)
 一方アカデミズムが「閉鎖的」になるのは、むしろ自称「研究家」の狂信的な態度がそうさせている面もあります。「研究ごっこ」に対して苦心惨憺して批判したとしても、それが素直に受け入れられることは稀です。自称「研究家」はアカデミズムの側から批判されることが癇にさわるらしく、激昂して何とか揚げ足を取ってやろうとしつこく食い下がることが多いのです。プロの学者は自称「研究家」のそうした習性を知り抜いていますから、少しでも「研究ごっこ」のにおいのする「研究」は初めから相手にしないのです。自称「研究家」のこうした態度のために、まっとうなアマチュア研究家までが色眼鏡で見られて無視されかねないのであり、これはプロとアマチュアの双方にとって不幸なことといえます。

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問 不利な条件のアマチュアにプロと同じルールで研究しろという方が無理ではありませんか? アマチュアにはハンデを認めてもいいのではありませんか?
 学問はスポーツや将棋のような勝負事ではありません。勝負事でハンデをつけるのは、勝てる回数ができるだけ平等になるようにするための配慮です。しかし学問は学者同士で勝ち負けを競うのではなく、「皆で学識を持ち寄って意見を交換し、より正しい学識を得る」営為です。そこでは「勝てる回数を平等にする」ためのハンデは意味を持ちません。むしろ発表される学識は同じルールで得たものでないと、議論がかみ合わなくなってしまいます。
 例えば一流料亭で出す料理は、厳しい修業を経たプロの板前でなければ作ることは許されません。アマチュアの料理愛好家がいきなり自分の料理を持ち込んで「店のメニューに入れてくれ」と言っても相手にはされません。そこで「アマチュアにはハンデを認めてもいいではないか」などと言って通用するでしょうか。一流料亭で出す料理は一定の水準を満たさなければ客を満足させることができないのであって、作るのがプロだろうとアマチュアだろうと同じことです。学問も同じで、「プロのルール」や「アマチュアのルール」というものはありません。皆が同じルールに従って、同じ水準を満たさなければ学問とは認められないのです。

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問 ロマンあふれる超古代文明を否定する学者は、古代の何が面白くて研究しているのですか? 
 まずはっきりさせておきたいのは、「学者は小説家ではない」ということです。学者の仕事は「真理の探求」であって、「面白い物語を提供する」のは学者ではなく小説家の仕事です。ですから学者は「根拠を積み上げて学説を構築する」ことに面白さを感じているのです。どんなに面白そうに見えても、「根拠のないことを好き勝手に空想する」ことは、少なくとも学問の場ではやってはいけないことです。
 これは茶道にたとえるとわかりやすいでしょう。茶道の作法には厳しい制約があります。いくら面白そうだからといっても、茶室にロックを流したり、ミラーボールを吊るしたり、抹茶のかわりにビールやワインを出したりすることは許されません。しかし「こんなに不自由なお茶の何が面白いのですか?」と茶人に尋ねるのは愚問です。長年の研究で積み重ねられてきた伝統を守り、その制約の中で客人をもてなす心を追求することこそが、茶道の面白さなのです。
 学問も長年にわたって蓄積された知の上に立って、確立されたルールに従い、その中で新たな知を模索していくものです。学者は「真実である」という確かな根拠のあることにこそロマンを感じるのであって、学問を名乗るウソや与太話にロマンがあるとは思いません。見境なくエンターテイメント性を追い求めるのは、学者のすることではありませんし、それはもはや学問とは呼べません。

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問 アマチュア研究家が盛んに甲論乙駁している邪馬台国論争についてはどのようにお考えですか?
 まず「邪馬台国はどこにあったのか」ということについては、正直のところあまり関心はありません。どこにあったとしても私の専門にはさほど影響しませんし、現時点で決定的な史料がない以上、どことも決めがたいからです。「中国側から邪馬台国と呼ばれた国の、同じく卑弥呼と呼ばれた女王が、周囲の国々をまとめ上げて、魏と国交を開き、親魏倭王の称号を与えられた。その当時の日本には、立派な王都を持った国がいくつもあったことが、考古学的にわかっている。」というあたりまでが、現時点でも確かに言えることであって、私にとってはそれで十分なのです。(私は近畿の出身ですから、近畿であってほしいという気持ちはないわけでもありませんが、それはあくまで願望でしかありませんし、それを理由に九州説を否定するものでもありません。)
 専門の学者の中にも畿内説をとる人や九州説をとる人がいますが、どちらも「現時点で推定できること」を語っているだけであって、それに固執しているわけではありません。もし将来誰の目にも決定的な資料が出土し、徹底的な検証が加えられて、もはや間違いはないということになったら、多くの研究者は潔くそれを認めることでしょう。
 さてアマチュアの人々の中にも、邪馬台国に関する諸問題についてまじめに勉強している人はたくさんいます。学ぼうとする努力は大変よいことですし、いろいろな考えを出し合うのも結構なことです。ところが残念なことに、史料を読むための「技術」を習得しないまま、いきなり大それたことをしようとする人も多く、こうした人は際限なく暴走してしまう可能性が高いのです。
 とりわけ古典中国語(いわゆる漢文)を十分学ばないまま、『後漢書』や『三国志』魏書(いわゆる『魏志』)などの原書にぶつかり、文法的にあり得ない読み方や、誤解の上に曲解やこじつけを重ねた珍解釈をひねり出す人が見受けられるのは、中国古典を専門とする者としては大いに憂慮されることです。
 たとえば英語を全く知らない人がいきなりシェイクスピアを原書で読んだり、古代ギリシャ語を全く知らない人がプラトンを原書で読んだりすることは考えられません。ところが古典中国語には訓読という翻訳技法がありますから、中国語を知らなくても中国の古典が読めてしまいます。そこで漢文で書かれた史書も、漢字さえ読めればわかるとばかりに、安易に考えてしまう人が多いのです。しかし中国の正史は、高校の漢文程度の知識で読みこなせるほど生やさしくはありません。多くの文章を読んで訓練を積み、さらにその背景にある中国語の性質や、中国の文化についても知っておかなければ、文章独特の「呼吸」や「文脈」をつかむことは難しいのです
 そしてもう一つ問題なのは、邪馬台国にのめり込む自称「研究家」には、邪馬台国以外には関心を示さず、何も知ろうとしない人が多いことです。土台となる幅広い教養を持つことなく、いきなり高い塔を建てようとしても、すぐに倒れてしまいます。こうした人が発表する「学説」は、それだけを見れば筋が通っているようでも、たとえば中国語学や言語学や版本学の見地から見れば無理があったりして、脇が甘いことが多いのです。しかもこの種の人に限って、他者の批判は一切受け入れようとせず、異なる考えの人を攻撃し続けるもので、こういう人々がいるおかげで、プロの学者も「また邪馬台国屋か」と相手にしたがらなくなるわけです。
 プロの学者にもそれぞれ専門があります。しかしたとえば弥生時代が専門だからといって、弥生時代のことだけを学べば学者になれるわけではありません。その基礎となる教養や、研究に必要な「技術」を身につけるのはもちろん、いろいろな研究テーマを手がけて幅を広げていかなければ、深みのある研究もできないのです。邪馬台国に限らず、一つの狭いテーマや一つの文献だけにしか目を向けないのでは、「ヲタク」にはなれても、研究家として大成するのは難しいでしょう。

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問 一般の読者にとっては、「研究ごっこ」と否定されようとも、面白く読めるアマチュアの著作の方が価値があるのではないでしょうか。
 人の嗜好は人それぞれですから、「ウソでもいいからロマンがある方がいい」と言うなら仕方がありません。しかし忘れてはならないのは、そうした「研究ごっこ」の中に「これはエンターテイメントです」「これはフィクションです」と銘打っているものは皆無であるということです。
 「研究ごっこ」だと知った上で、それに突っ込みを入れて楽しむという読み方ができる人なら、何も問題はありません。しかし「研究ごっこ」をそれと見抜けずに、「画期的な新事実」だと勘違いして信じ込んでしまう人も少なくはないのです。そうした人々にとって「研究ごっこ」に「エンターテイメントとしての価値がある」とは言えないでしょう。今となっては徹頭徹尾デタラメだと証明された五島勉の「ノストラダムスの大予言」シリーズが、当時の青少年にどれだけ悪影響を与えたかを考えてみてください。
 古美術鑑定家の中島誠之助氏も言っているように、「偽物を見抜くには、良い作品をたくさん見ること」が必要です。エンターテイメントではなく知的快楽を得るために「本当のこと」を知りたいなら、「原典やすぐれた研究書をたくさん読むこと」が大切なのです。まがい物の「研究ごっこ」ばかり読んでいたのでは、偽物を本物と思い込み、本物を偽物と思い込む、ゆがんだ思考回路が出来上がってしまいます。

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問 天動説を否定したコペルニクスもガリレイも、大陸移動説を唱えたウェゲナーも、初めは無視され、異端扱いされました。今は「研究ごっこ」と否定されていても、将来には広く支持されるようになる「研究」もないとは言えないのではありませんか?
 自称「研究家」の中には、自分は未来のコペルニクスやガリレイだと信じている人も少なくありません。しかし本当に自称「研究家」の中から未来のコペルニクスやガリレイが出てくる可能性は、残念ながら「ゼロとは言えないが極めて低い」のです。
 コペルニクスは確かに笑われました。しかし「笑われたから自分はコペルニクスだ」という命題は成り立ちません。なぜなら「大勢のトンデモ『研究家』もまた笑われた」からです。逆は必ずしも真ではありません。
 笑われた自分が天才である可能性と、トンデモ「研究家」である可能性とはどちらが高いでしょうか。誰が見てもトンデモ「研究家」である可能性の方でしょう。トンデモ「研究家」は天才よりもはるかに数が多いからです。
 一方でコペルニクスもガリレイもウェゲナーも、「きっちり訓練を受けて、努力を積んできた学者」であったことを忘れてはなりません。彼らはちゃんと必要な努力を積んできたからこそ、天才的な業績を残せたのです。プロの学者の努力を軽蔑しながら「コペルニクスも笑われた」などと言っても、何の説得力もありません。それに本当の天才は、決して自分を天才だとは思っていないものです。
 コペルニクスらの学説は、異端視されたとはいっても学問のルールにのっとっていたからこそ、後になって認められたのです。それに対して学問のルールを踏み外している「研究ごっこ」をまともに評価しようとする奇特な学者が現れることは、恐らく期待できないでしょう。
 「いや、それでも地球は回っている。それでも自分は天才だ」と言う方は、どうぞご自由に。但し一生報われなくても周囲に当たり散らしたりせず、恬淡としているだけの覚悟はしておくことをおすすめします。認めてもらえないからといって恨み言や泣き言を言えば「おお、よしよし、かわいそうに」とかまってくれるほど、学界は甘くはありません。

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問 「研究ごっこ」にのめり込んでいる人を見かけたら、どう対処したらよいでしょうか。
 もし掲示板などで「研究ごっこ」を宣伝する書き込みをする人がいた場合は、相手にせず無視するか、皮肉や当てこすりで軽く笑い飛ばすくらいの対応にとどめておくのがいいでしょう。真面目に批判しても、果てしない揚げ足の取り合いに巻き込まれる可能性大です。ウェブ上で「研究ごっこ」サイトを見つけた時も、直接批判するのは避けて、某匿名掲示板に紹介するくらいにしておくのが賢明です。とにかくまともな議論は成り立たない相手ですから、真っ向から相手にしないことです。
 家族など身近な人が「研究ごっこ」にのめり込んでどうしようもないという場合は、カルト宗教やマルチ商法にはまった人の場合と同じく、とても難しい問題です。私自身もあまり経験のないことですし、これで万全というノウハウを持っているわけではありませんが、とりあえず思いつくところを提案します。
 「研究ごっこ」へののめり込み具合が、本人の社会生活や、家族の生活にあまり影響がないような程度のものなら、突き放してほうっておくのも一つの手でしょう。もし周囲に深刻な迷惑をもたらしているのであれば、粘り強く説得を試みるしかありません。相手は「研究ごっこ」に自分の全存在をかけていますから、頭ごなしに決めつけたのではますます意固地になります。相手の話をひとまず聞いてから、理性的にさりげなく矛盾を指摘していくことを気長に続けるのがよいのではないかと思います。カルト宗教から脱会させるためのノウハウは、ある程度蓄積されていますし、本としても出版されていますから(統一協会やオウム真理教をキーワードに探すと見つかるでしょう)、そちらを参考にするのもよいでしょう。

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