トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「わからないことは悪いこと」という無知


■わからないことは「わからない」とするのが正しい

 「学者」といえば「その道のことなら何でも知っている人」というイメージを持つ人が多いと思います。もし学者が「それはわからない」と言うと、意外な感じがするのではないでしょうか。大学の先生に「そのことはわからない」と言われ、尊敬の念が一気に失せたという話もよく耳にします。

 しかし学者とて「何でも知っている」わけではありません。「何もかも分かっている」のならそれこそ飯の食い上げで、まだわからないことがあるからこそ、一生懸命研究をしているわけです。そして現段階でまだわかっていないことは、正直に「わからない」と言うのが、学者として正しい態度なのです。わからないことを無理にわかった風に取り繕うのは「知ったかぶり」であり、学者として取るべき態度ではありません。

■「わからない」と言ったら負け?

 上の理由から、学者の書いた専門書や訳注本でも、「……については未詳」「……についてはわからない」「……の箇所は難解である」という記述を目にすることは、決して珍しくはありません。
 ところが自称「研究家」が権威ある学術書の中にこうした記述を見つけると、鬼の首を取ったように大喜びします。
 「○○は大学者のように言われているが、自分の本で『わからない』と告白しているではないか。○○の説が間違っているからこんなことになるのだ」
そして自分の「研究ごっこ」を示して、「自分は○○がわからないと言った問題を解決した、だから自分は正しいのだ、○○はバカだ、○○の言うことを信じている学者たちもみんなバカだ」と声高に主張します。
 どうやら彼らは「わからない」と言ったら即負けだと勘違いしているようです。1か所わからない箇所があるからと言って、他の箇所まですべて間違いだという根拠にはなりませんし、ましてその人の頭の悪さを示す根拠にもなりません。考えてもわからないことを「わからない」と言うのは決して悪いことではありません。いけないのは「初めから考えようとしない」ことや「知ったかぶりをする」ことです。
 あるいは自称「研究家」には、学校で先生に指されて「わかりません」と答えて叱られた経験が、ルサンチマン(怨恨)となってくすぶっているのかもしれません。それで「わからない」ことは悪いことだと思い込んでいるのだとしたら、ある意味不幸なことだと言えるでしょう。せめて大学では「考えてわからないことは決して悪いことではない。悪いのは考えようとしないことだ」ということをちゃんと教育したいものです。

■「知らない」と「わからない」は別のこと

 ところで「わからないことは悪いことではない」と言うと、「そうか、知識が少ないのは別に悪いことではないのだ。プロが『こんなことさえ知らない、あんなことさえ知らない』と批判するのも間違っているのだ」と早合点する人がいますが、「知らない」のと「わからない」のとは全く別のことです。基本的な知識をちゃんと身につけた上で、「考えてもなおわからない」のなら致し方ありませんが、その分野の基本的な知識を何も知らないのでは、その分野を「わかる」ことができるはずはありません。こう言うと「なまじ知識をたくさん持っていたら、固定観念に邪魔されて自由な発想ができない」などと開き直る人もいますが、それは「自由」の意味を完全に履き違えています。基礎知識をちゃんと身につけてこそ、それを土台に真に自由な発想を広げられのは、学問でも職人仕事でも芸事でも同じです。基礎知識を持たずに好き勝手にやろうとするのは、「自由」ではなく「独り善がり」です。

■何でも白黒はつけられない

 そして基本を知らない人ほど、何でも白黒をつけようとしたがりますが、こうした態度も学問にとってはあだになることがあります。こう言うと「わからないことに白黒をつけるのが学者ではないのか」と意外に思う人も多いことでしょう。しかし世の中には「白黒のつけようがない問題」もたくさんあります。根拠となる資料がなかったり、少なすぎたりして結論の出しようがない問題もありますし、どちらともはっきり決めようのない、どちらとも取れるような曖昧な問題もあります。そうした問題に無理やり結論をつけて「わかったつもりになる」ことは簡単です。しかし根拠のない空想を並べていくら「わかった」と唱えても、本当にわかったことにはなりません。それよりも「わかりようのない」ことは「わからない」としておく方が、ずっとその問題を「わかっている」と言えるのです。『論語』為政篇に「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」と言う通りです。

この項のまとめ


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