トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「自分の頭で考えなければならない」という独り善がり


■研究書にはなぜ引用が多いのか

 「自分の頭で考える」ことの大切さは、いろいろなところで盛んに説かれています。それは大変結構なことなのですが、「自分の頭で考える」ことは決して「独り善がりになる」ことではないことに気をつけなければなりません。

 例えば研究書を読むと、「○○氏は『……』と言う。また××氏は『……』と言う。」という風に、他人の意見がたくさん引用されています。末尾の注を見ても、その引用文献の多さに驚く人も多いでしょう。
 自称「研究家」の中にはこれを見て、
「学者は他人の意見ばかり受け売りして、自分の頭で考えていないではないか。師匠に可愛がられたいばかりに、その言うことを鵜呑みにしているに違いない」
と非難する人もいます。
 しかし学者が他人の学説を引用するのは、決して他人のふんどしで相撲を取りたいからではありません。研究したい問題について、今までどんな学説が発表されていて、それぞれにどんな問題点があるのかをきっちり整理しておくことが、自分のオリジナルな見解を述べるための基礎となるからです。ですからまともな研究論文なら、他人の説を引用した後で、必ずそれに対する自分の見解を述べているはずです。引用文献の多さは、むしろその問題についてよく勉強していることのバロメーターなのです。どんな学者も重視するような有名な学説を全く引用していない論文の方が、かえって独り善がりな「研究ごっこ」である可能性が高いといえます。もし自分の考えが有名な学説に反しているのであれば、それを無視するのではなく、それをきっちり引用して反論を加えておくのが学問のルールです。
 また古典や外国文学の注釈書を読むと、「○○氏の説に従う」という注釈を多く見かけます。自称「研究家」の中には、これにも「自分の頭が悪いから他人の受け売りしかできないのだ。」とかみつく人がいますが、「○○氏の説に従う」というのは、「いくつもの説を比較検討した結果、○○氏の説が最も妥当と判断する」ということなのであって、決して「何も考えていない」ということではありません。先人たちの説を比較検討することも、立派に「自分の頭で考える」ことなのです。むしろ自称「研究家」の方が、自分に都合のよい一つの説だけに固執して、その他の説を初めから一切考慮に入れず独善に凝り固まっていることが多いものです。

■他人の説を学ばずに否定する自称「研究家」

 自称「研究家」がこのように独り善がりな態度をとる原因の一つとして、「他人の説を学ぶ」ことは「他人の軍門にくだる」ことだと勘違いしていることが挙げられます。しかし「学ぶ」ことと「信じる」ことはイコールではありません。これまで発表された有名な学説は、それが正しかろうと間違っていようと、どんな内容の説かを学んでおかなければ、的確に評価することはできません。ひとまずは虚心に「学んだ」上で、信じるに足るかどうか検討すればよいのであって、内容を知りもしないで間違いだと決めつけるのは、単なる言いがかりです。
 自称「研究家」は自分に都合の悪い説はその内容をろくに検討もしないで「間違っている、間違っている」とヒステリックに繰り返します。しかしその説のどこにどんな問題があるのか、具体的なことを彼らはほとんど語ってくれません。彼らが「間違っている」と言う根拠はただ一つ、「自分の説とは違う」ということだけです。これではどんな説でも「自分の考えと違う」とさえ言えば否定できることになりますから、てんでお話になりません。「間違っている」と繰り返す自称「研究家」を見て、定説に果敢に挑む勇気ある態度だと誤解する人も少なからずいますが、具体的にどこがどうおかしいのか、きっちりした根拠を挙げて説明していなければ、それはコケおどしに過ぎません。

■思いて学ばざれば則ち殆し

 『論語』為政篇に次のような一節があります。
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」
「師や書物の言うことをただ覚えるだけで、それを自分でよく考えないのでは、学識が暗くて真理が見えてこない。自分勝手に思索するだけで、師や書物から学ぼうとしないのでは、独り善がりに陥って危険である」という意味です。他人の説を全く勉強しようとせずに、自分の意見ばかり声高に唱える自称「研究家」は、まさに「思って学ばない」典型です。学者が他人の学説を引用するのは、独り善がりに陥らないための努力でもあるのです。

この項のまとめ


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