トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「絶対の誤りはない」という絶対の誤り


■「絶対の正解はない」と言われるけれど……

 自称「研究家」は自説を批判されて窮地に陥ると、よくこんな逃げ口上を口にします。

 「絶対に可能性がないと言い切れるのか。文系の学問には絶対の誤りなどない」
 「文系の学問には絶対の誤りなどない」というのは、「文系の学問には絶対の正解はない」とともによく言われることです。しかしこれを批判への逃げ口上に使うのは誤りです。

■何を言っても誤りではない?

 例えば私が次のような説を唱えたとしたらどうでしょうか。
「大と犬と太は同じ字である。」
誰でも「それは違う」と言うことでしょう。しかし「文系の学問には絶対の誤りなどない」のではなかったですか? 「絶対に可能性がない」と言い切れますか?
 厳密にこれを検証しようとすれば、古代から現代に至るまで、大と犬と太を同じ字として通用している用例が見出せないことや、甲骨文や金文でも明らかに字体が異なること、『爾雅』や『説文解字』のような古代の字書でも別字として記していることなどを根拠に挙げる必要があります。しかしそこまでしなくても、よほどのへそ曲がりでない限り、誰でも上の命題は「明白な誤り」であり、「万に一つも真ではあり得ない」と認めることでしょう。

■「明白な誤り」は存在する

 文学研究は数学とは違って、「唯一絶対の解」というのはありません。しかも自然科学のように実験を行って検証することもできません。それ故「文学研究は好き勝手な感想を言えばよい」と誤解する人がたくさんいます。しかし文学研究でも個人の感想や思い込みではなく、誰もが納得できる客観的な結論を得るための方法が、長年にわたって研究されてきているのです。
 自然科学は厳密な実験でデータを集めることによって、そこから普遍的な法則を導き出します。文学研究も文献を虚心に読んで、根拠となる記述を集めることにより、その作品や作者を通して、あるいはその時代・そのジャンルの文学を通して言える「法則」を導き出すのであって、その精神は自然科学と同じです。ただ実験は同じ条件を守れば誰でもできますが、文献を虚心に読むのは誰でも同じようにできるというわけにはいかず、各人の技量とセンスに頼らざるを得ません。それは修練して身につけるしかありませんし、いくら修練しても身につかない人がいるのも残念ながら事実です。修練の足りない人が読書すると、強烈な第一印象や、無知から来る思い込みに引きずられて、根拠の集め方が偏ってしまいます。それはちょうど杜撰な条件で実験を行い、信用できないデータを量産するようなものなのです。
 さて文学作品から無事に「法則」が導き出せたとしても、それは絶対のものとは言えません。人の精神は常に法則通り動いてくれるとは限らないからです。いつの世にも変わり者やへそ曲がりはいますし、皆が皆一糸乱れず同じことを考え、同じものに同じように感動する世の中の方がかえって気持ち悪いでしょう。しかし人の精神の働き方や、それが生み出す言葉や芸術には、その時代や文化に応じてかなりの普遍性が見られることは、長年の研究の蓄積で明らかになっています。ごく少数の変わり者を無視すれば成り立つような「法則」であれば、普遍性をもつと見なしてよいわけです。
 文学研究だけではなく、外国語や古典語などの語学研究も、基本的な方法は同じです。多くの文献や会話の例を集め、そこに共通してみられる法則を「文法」として抽出するのがその重要な仕事です。そうして抽出された文法は、今度は他の文献を読むときにも、かなりの程度適用できるものです。文法に従えばほとんどの文献は無理なく読めるのであって、もしどうしても読めなければ、誤った言葉の使い方をしているか、文字を書き誤った可能性を疑うことになります(そのように判断するにも、「同様の誤りが多く見られる」などの、強固な根拠が必要です。好き勝手に「書き間違い」と決めつけたのでは、どんな内容の文献でもでっち上げられますから、信用できる結論にはなりません)。
 長くなりましたが、要は「多くの場合に適用可能な普遍的な法則」であれば「正しい(正確には「限りなく真実に近い」)」といえるのであり、その場限りにしか適用できないような特殊な説は、これまでの知見と矛盾しない相当強固な根拠を用意しない限り「誤り(正確には「限りなく誤りに近い」)」と判断されるのです。先に挙げた「大と犬と太は同じ字である。」という説も、実際にそれが適用できる例がほとんどない上に、それに反する普遍的な根拠はたくさんあるのですから、「明白な誤り」と言えるわけです。
 極端な言い方をすれば、およそ学説はすべて仮説です。未来永劫にわたってひっくり返らないという保証は誰にもできません(「ひっくり返る可能性が極めて低い」となら断言できる強固な「仮説」はたくさんありますが)。しかし同じ仮説でも、限りなくデタラメに近い「明白な誤り」は厳然と存在します。例えば時代を考慮しない説や、文法に合わない解釈、前後のつじつまが合わない説などは「明白な誤り」なのであり、「絶対の間違いなどない」と逃げられるものではありません。

この項のまとめ


前へ戻る 次へ進む
「研究ごっこ」のパラドックス に戻る