トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「可能性はないとは言えない」という極めてあり得ない可能性


■都合の悪い記述は「書き間違い」だと言えばいい?

 前項で挙げた「絶対の誤りはない」という言い逃れとよく似たケースとして、文献の中の都合の悪い記述は「書き間違い」のせいにして、「絶対に書き間違いの可能性がないと言えるのか」と強弁する人もよくいます。

 例えば今でも一部の古代マニアが絶大な支持を寄せる「竹内文書」という「古文献」があります。超古代の日本は世界の中心で、神武天皇以前にウガヤフキアエズ73代の王朝が数千万年も続いていて、モーゼ、キリスト、マホメット、釈迦、孔子といった聖人がみなそこを目指してやってきたという途方もない内容です。しかし「竹内文書」は学界では現代の偽作として完全に否定されています。文体が他の古文書とはおよそかけ離れた卑俗なものであったり、竹内氏の祖先の名を列挙した部分に実在しない官位が付けられていたり、近代以後の語彙が混じっていたり(ボストンやヨハネスブルグ、オセアニアやメルボルンといった新しい地名まで登場します)という具合で、一見して虚構とわかる代物だからです。詳しくは狩野亨吉「天津教古文書の批判」(「思想」昭和11年6月号)を御覧下さい。こちらでダウンロードもできます。
 しかし何としてもこれが本物だと信じたい人々の中には、次のように言う人もいます。
 「官位の違いは単に書き間違えただけかも知れないではないか。絶対に偽作だと言いきれるのか。近代以後の地名も、古代以前に存在しなかったと断言できるのか。」
 一見もっともらしい反論のようですね。しかしそれでは「ニセの文書はこの世に存在しない」ことになってしまうのです。

■「検非違使庁」からの出頭命令

 例えば私が交通違反の出頭命令を偽造して、あなたの所に送り付けたとします。もしあなたが交通違反の反則金を踏み倒していたとしたら、ギクッとすることでしょう。ところがその差出人を見ると、何と「検非違使庁」と書いてあります。するとあなたは恐らく「なんだイタズラか」と安心するでしょう。なぜなら「検非違使庁」は平安時代の警察組織で、現代の日本には存在しないのですから。
 しかしちょっと待ってください。こうは考えられないでしょうか。「けいしちょう」は「けいしちょう」とたった一字の違いです。「警視庁」と書くべきところを、事務官がうっかりタイプミスをしてしまっただけではないでしょうか。その可能性がないとは言いきれますか?
 そう言われたらあなたは恐らくこう反論するでしょう。
 「警視庁の事務官が自分の勤める役所の名前を間違えるとは常識的に考えにくいではないか。偽物に決まっている!」
 あなたは「常識的な判断」で、私の偽造した出頭命令を無事に偽物と断定できました。それなら「竹内文書」も同じことです。大宝律令以来明治まで変わることのなかった朝廷の官位を書き間違えるなど、極めて可能性の低いことで、「官位について何一つ知識のない者が偽作した」と疑うのが理にかなった「常識的な判断」です。もちろん「書き間違いの可能性」はゼロというわけではありません。しかしそれはほとんどゼロに近い、極めて低い数字です。それをもとに偽作を否定しようとするのは、「極めて低い可能性がある」を「確実にそうだ」と理由もなく勝手に言い換えているのであり、卑怯な論法であると言えます。
 つまり何でもかんでも「書き間違いでないといえるのか」で言い逃れようとしたら、私が偽造した出頭命令でさえも偽物とは判断できなくなってしまうのです。「書き間違い」を主張できるのは、他の文献でも同じような誤記が多く見られるとか、系統の違うテキストや他書に引用された箇所ではみな違う表記になっているなど、確かな根拠があるときだけであって、場当たり的に好き勝手に主張することは許されません。そして「可能性がないとは言えない」を即「確実にそうだ」の意味に曲解するのも、学問上の手続としては許されない強弁なのです。
 また「近代以後の地名も、古代以前に存在しなかったと断言できるのか。」という「反論」についても、他に確かな記録や物証がない以上、「可能性はゼロではないが極めて低い」ことであり、これを「確実にそうだ」と強弁するのは通りません。「ないとは言えない」は決して「ある」の同義語ではないのです。

■「ギャル語で書かれた警察の文書」は誰が見ても偽物

 ついでですから「文体の卑俗さ」という批判についても触れておきましょう。これは古典の研究書を読み慣れていない人にはピンとこないかもしれませんが、平たく言えばこういうことです。先に挙げたニセ出頭命令が、差出人が「検非違使庁」となっているのに加えて、その内容も
 「ねぇぉぢさぁん、半測金まだでしょ、はやく払ってね(はぁと)」
といった調子で書かれていたとしたら、あなたはますます「ふざけるな!」と怒り出すことでしょう。警視庁の出頭命令書がこんな誤字混じりのギャル語で書かれることはまずないからです。これは反則金を踏み倒そうとする悪質な人に、少しでも払う気を起こさせるための警視庁のお色気作戦だという可能性も、全くゼロとはいえません。しかし偽物であるよりははるかに低い、ほとんどゼロに近い可能性なのは確実でしょう。結局ギャル語という、警察の文書とはおよそかけ離れた「文体の卑俗さ」によって、このニセ出頭命令は無事に偽物と断定できたわけです。
 「竹内文書」を擁護する人も、この「文体の卑俗さ」の問題についてはほとんどの人が無視しています(というより「何が問題なのか理解不能」なのかもしれませんが)。しかし「竹内文書」は「差出人が違っている上、ギャル語で書かれている警察の文書」のような、およそ本物とは信じ難いものだと批判されているのですから、これは決して「重箱の隅をつつく、取るに足らないいちゃもん」などではありません。「差出人の違い」は「書き間違い」で言い逃れたとしても、「文体の卑俗さ」は文全体の問題ですから、「書き間違い」などでは到底逃げられません。

■その場しのぎの言い訳を並べても証明にならない

 このように「文体の卑俗さ」「官名の違い」「近代の語彙」という矛盾のどれを取っても、矛盾であることを否定しようとすれば、可能性の極めて低い、根拠に乏しい仮説を持ち出さざるを得なくなるのであり、偽作でない可能性は「極めて」の3乗低いといえるのです。これを「偽作でない」と言い張るのは、「白いカラスも全くいないとはいえない。故にカラスは白い」と主張するようなものです。
 「同じ事実を説明するなら、仮説が少ない方が良い説明である」というのは哲学や科学の基本原理の一つで、「オッカムのかみそり」と呼ばれています。「竹内文書」が多くの矛盾を含んでいるという事実に対して、その場しのぎの仮説をいくつも持ち出すよりも、「偽物」だという仮説の方がはるかにエレガントですっきりと説明できるのですから、「偽物」説の方がより真実に近い、良い説明だと言えるのです。「ないとは言えない」あやふやな可能性をどんなにたくさん並べても、それは真実味を増すどころか、怪しさを倍増させるだけです。

この項のまとめ


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