トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編 :中間目次 :「研究ごっこ」のパラドックス :

「信じる」者は救われない


■自説を「信仰」する自称「研究家」

 自称「研究家」の発表する「研究ごっこ」の中には、「自分の学説こそが世界を救う!」などといったうたい文句を掲げていて、変に宗教じみたものもたくさんあります。こういう人は自称「研究家」の中でも最も頑固で、もし批判などしようものなら、「あなたは救済の邪魔をするのか!」「この崇高な理念がわからない者には何を言っても無駄だ」などと宗教論争にすり替えられてしまいますから、彼らを説得するのは、カルト教団にはまった信者を脱会させるのと同じくらい困難です。

 そこまで極端でなくても、自称「研究家」は自分の「研究ごっこ」を多かれ少なかれ「信仰」している面があります。彼らにとって自分の「学説」はまさに自分の全存在をかけたよりどころですから、それを批判されることは、自分のすべてを否定されるに等しいことなのです。ですから彼らは自分の「研究ごっこ」を否定されると、それこそ自分の全存在をかけて、手段を選ばず批判者を叩きのめそうとするのです。もし批判した相手に少しでもそんなそぶりがうかがえたら、むきになって折伏しようとせずにさっさと逃げるのが得策です。

■初めに結論ありきの「研究ごっこ」

 古典文学の場合、研究の出発点になるのは「××はどうして○○なのだろうか」という疑問です。まっとうな学者は研究対象の文献の中からさらにいくつもの事例を探し、そこから帰納的に結論を見つけ出します。事例を探している間にある程度結論の見当をつけていることも多いのですが(この場合の結論を作業仮説といいます)、もしその仮説に反する事例が出てきたら、当初思っていた仮説を引っ込めて、さらに良い説明ができないか考えます。あくまで「積み上げた根拠から結論を導く」のです。
 ところが自称「研究家」は、疑問から一足飛びに「これは△△だからに違いない」という結論を「発見」してしまいます。甚だしきに至っては、疑問が動機ですらなく、「○○であることを証明したい」「××の説が間違っていることを証明したい」という具合に、結論そのものが研究の動機になっていたりします。そして一度「発見」した結論は、まるで神の啓示であるかのように墨守して譲りません。するとその結論にふさわしい根拠だけを探し、都合の悪い事例は見なかったことにするか、論理的に破綻した苦し紛れな言い訳をすることになってしまいます。要するに「初めに結論ありき」なのであって、その結論は彼らにとって「なりふり構わず守り抜かなければならないもの」なのです。そうなるともはや学問ではなく「信仰」になってしまいます。
 わが国では信教の自由が保証されていますから、「宗教を」信仰している分には全く自由です。聖書や仏典に非科学的なことが書いてあるからといって、それを「宗教として」信仰する人々が文句を言われる筋合いはありません。しかし宗教と科学を混同して、宗教的信念から学問を攻撃するようでは困るのです。合理的根拠のないことを真実であるかのように思い込むのは、どんなに学問の装いをまとっていても、「信仰」以外の何物でもありません。

■君子は豹変す

 まっとうな学者は自分の学説にはもちろん一定の自信を持っていますが、それは合理的根拠があるから正しいと思うのであって、決して自分の学説を「信仰」しているわけではありません(中には「信仰」している人もいるようですが、そういう人の評判は概して良くありません)。研究を進めるうちに新しい事実がわかったら、自分の考えを改めることに躊躇しないものですし、批判を受けても、妥当な批判ならそれを素直に受け入れるもので、「自分の全人格を否定された」などと騒ぐことはありません。私自身も学界デビューの頃の論文は今読み返しても赤面するくらいで、すぐにでも書き改めたい箇所がたくさんあります。研究を続けるにつれて、考え方も自然に変わっていくものなのです。
 「信じる」者は救われない――これが学問に携わる者の心構えです。

この項のまとめ


前へ戻る 「研究ごっこ」のパラドックス へ戻る