第三章 マンガはどのように語られてきたのか

・「有害コミック」問題の時、マンガはどんなものだと思われていたのか
 では、マンガはどのようなものであると思われているのか、まずは、多くの議論が交わされた最新の例、「有害コミック」問題の時期の言説を中心にみていきたいと思う。問題が全国に広まるきっかけともなった、1990年9月4日付『朝日新聞』の社説「貧しい漫画が多すぎる」をみてみよう。この社説は同年8月の東京都生活文化局婦人計画課が発表した「性の商品化に関する研究」の、「第3章 雑誌メディアにおける性の商品化」における雑誌の内容分析の調査結果をもとに、「今のマンガは性的な描写にあふれている」と訴える文である。(論末に原文を添付、以下この章の他の文も同様)
 そもそも件の調査は非常に幅広い調査対象を持っていたものであったのに、実際にデータが引用されているのはマンガについてだけであるところが、マンガの印象をなお一層悪くしているようにも思える。しかし、それはこの論の主題ではない。「『性』がはんらん」する状況を憂い、「青少年への影響」が心配されているところに今回は着目しよう。先にも述べたように、データとしてはマンガの数字だけを用い、わざわざ手塚治虫まで引き合いに出してマンガの現状を憂いている。すなわちマンガに「『性』がはんらん」していて「青少年へ」悪影響を与える可能性があると言っているわけだが、やはり何のためらいもなく「マンガ→青少年(=子ども)が読む」という連想をしている。
 余談だが、「市販されている332種の週刊誌、月刊誌」のうち、約2/3が成人男性向け(諸橋、1993、213頁)である点や週五百万部出回る週刊誌も月に一万も売れるかどうか分からない月刊エロ劇画誌も同列に扱っている点が、マンガ、規制論者側の互いにとっての不幸であったとも思える。このせいで、ありとあらゆるマンガにいかがわしい性表現があふれているような印象がますます強くなったのではないだろうか。
 また、ほぼ同時期に運動を始め、運動の先駆け的存在として全国的に有名になった和歌山県田辺市で田辺第二小学校の児童の家庭に配布された、「有害図書」追放の要望書の書面からも、何かマンガについての手がかりがないか調べてみた。
 3行目、「子ども向けコミックマンガに混じって明らかに性場面だけを描写したと思われる内容のコミック誌」という表現が出てくる。「子ども向け」というからには「大人向け(コミック誌)」もあるということを解っているようにもみえるが、実際に彼らが両者を区別する仕方というのは、せいぜい絵柄、表紙を見てという程度であり、しかも「イメージ情報のシャワー」(この場合はマンガ情報)を浴びてないゆえに「マンガのリテラシー」が不足しているため、子どもになら「自然にしている」区別ができず(福島、1992、23頁、35頁)、それゆえ「混じって」見えたのではないか。となると、明らかに区別できる絵、例えば「劇画」を除けば、この文章を書いた小学校の教員らには、「劇画」ではない「マンガ」は、全て子ども向けにみえた可能性がある。やはり「『マンガ』は子ども向けである」のだ。

・もっと一般的な人たちの声
 続いて、運動などに特に参加するわけでもない人たちの考えを見るため、1993〜95年の『朝日新聞』朝刊・夕刊の投書欄からキーワード「マンガ」で検索、抽出した。飛び飛びではあるが、古いほうから日付順である。以下に、抜き出した投書のタイトルを挙げた。番号は後の本文に出てくる番号と一致している。
(1)女子に来ない会社案内 堺市大学生22歳
(2)趣味で差別するなんて 大阪市中学生14歳
(3)自分の外にも目向けて 広島県高校3年生17歳
(4)あいまいな言葉・読者の投書から(いま東京語は) /東京
(5)図書館に漫画、子の声聞いて 東京都小学生11歳
(6)漫画も読書も名作楽しもう 駒ケ根市主婦38歳
(7)マンガ生かす学校司書必要 宮城県高校図書館司書45歳
(8)残酷シーンの多いTV漫画 栃木県主婦35歳
(9)「おたく」でも、時代を先取りするのよ 児玉町女子高校生17歳
(10)まんが社説で若者とらえて 熊本市公務員59歳
(11)漫画感覚では何も得られぬ 大阪市建築業27歳
(12)困りものだね、漫画読む大人 厚木市高校生18歳
(13)マンガと小説、佳作は佳作だ 東京都学生19歳
 以上の文から、マンガについて直接語っている所に注目すると、次のような要素が見出された。

壱.マンガは子どもが読むもの(大人になって読むものではない)
 第二章でもふれた視点である。マンガは主に子どもが読むものである、またはそこから発展して子どもはマンガがあれば喜んで読む、もしくは大人になってまで読むものではないといったバリエーションがある。例えば、「そのりゆうが、子どもに、たくさんどく書をしてもらいたいので、マンガをおいて、子どもの気をひくというのです」(5)「子どもをマンガでつる」(5)「マンガ本、絵本、カラフルな雑誌と、生徒の目を引くものが多くなってきた。これらの本は生徒を図書館に呼び込むためになくてはならないものだ」(7)「例えば社説を、若者に人気のあるまんが家につくっていただく。社説の内容をあますところなく伝えて、見事に、若者の心をとらえる工夫。そういう時代だと私は考えます。そうなれば、小学生の読者もふえてくるでしょう」(10)、などいずれもマンガによって子どもの目が図書館なり新聞なりに向けられるという理屈で成り立つ文である。また、「中学生にもなって、マンガやTVゲームを楽しむなんて」(2)、というのは典型的な「マンガは子ども向け」論の意見であろう。しかもこの意見は中学生によってなされているのである。正直なところ、筆者はこのタイプの意見は普段マンガを読まない「大人」から出てくるものだと思いこんでいたので、少々意外であった。「中学生、高校生でさえマンガはあまり読まないのに、それより年長のビジネスマンがマンガでは困りものだ。」(12)・・・・これも未成年、17歳高校生(男)からの意見。本当に中高生はあまりマンガを読まないのだろうか。まあ、本当かどうかはともかく、彼もマンガは子どもの時に読むもので、大人があまり読むものではないと思っているようである。

弐.マンガは格が低い
 いささか抽象的だとは思うが、あえてこういう分類にした。一つ目の分類「マンガは子どもが読むもの」と、関係は深いと思われるが、直接子どもがどうとか言ってないので、あえて別にした。以下に、それぞれの例に個別に触れて見る。
「学内や通学途中、見るからに軽薄そうでマンガ雑誌しか読まないような男子学生を見ると『こんなやつに負けたくない』と思う」(1)・・・・前後関係がないのでいささかわかりにくいが、この前の文で「不真面目な男子に求人があって真面目な女子に求人がない」といったことを言っているので、ろくに勉強しないことを象徴する事例として「マンガ雑誌しか」と書かれたらしい。しかも「軽薄」なのだそうだ。
「実は、私は地元の図書館に『漫画を置いて欲しい』とお願いしたことがあります。手塚治虫や石ノ森章太郎などの名作をあげ、実物やリストを持参したのですが、『漫画はちょっと』と断られました。」(6)・・・・何故「漫画はちょっと」なのかはっきり言われないのは、案外重要な点なのかもしれない。具体的に何がよくないのかはっきりしないが、とにかく漠然と「漫画はちょっと」なのだとしたら、マンガに対する低い評価、悪いイメージが、なかば無意識に存在することになる。
「よい漫画が好きになった人は、本も読まずにはいられないと思います。漫画が入門書となり、文字だけの本も好きになれば、こんなよいことはないではありませんか。」(6)
・・・・この(6)の投稿は全体的にマンガに対して好意的な文なのだが、この最後を締めくくる文には、やはりマンガではなく活字を読んだ方がいいという意識が見え隠れする。詳しくは次の文の説明で。
「しかし、高校生なのだ。最も柔軟な思考力が育つこの時期に、マンガだけで終わらせたくはない。マンガに対する知的好奇心を次の段階へと発展させて欲しい。SFファンタジー、ヤングアダルト、小説、そして文学、評論などへと。」(7)「高校時代がマンガ本だけで終わってしまわないためにも。」(7)・・・・先の文とは違い、若干マンガに対して否定的な投稿である。こちらのほうがはっきり言っているが、結局「マンガだけ読んでいてはいけない」という点では一致している。(6)の人は、「心の書になるくらいの漫画も、今の日本の漫画にはたくさんあるのです」とマンガを持ち上げるが、そのことは結局活字に触れる前段階でしかないような意味の文で締めくくっている。図書館にマンガを置いて子どもを気を引く事に関しての文だから書いたのかもしれないが、活字に触れることが最終目的であるということは、マンガを一人前としては認めてないということではないだろうか。(7)のほうは同じ様な内容を直接的にした文章であるといっていいだろう。細かいことを言うと、まず「最も柔軟な思考力が育つこの時期に、マンガだけで終わらせたくはない」マンガでは柔軟な思考力の発達に寄与しないと思っているらしい。そして「SFファンタジー、ヤングアダルト、小説、そして文学、評論などへと。」これらのものは、マンガには存在しないと思っているのだろうか。昔はともかく今ではマンガというのはあくまで表現手段の一つの分類であって、話の内容を表わす語ではもはや無くなっていると、少なくとも筆者は思うのだが、そう思ってない人もいるということであろう。「マンガというのは・・・・なもので、そんなものは子どもの読むものだ」と。
(12)から2つ。「電車の中で新聞を読む女性の姿が増えてきた。一方でマンガに読みふけっているビジネスマンはそれでいいのだろうか。」・・・・ここではマンガと新聞が対置されている。移動中のあいた時間に、「暇つぶし」にマンガを読むくらいなら(ためになる)新聞でも読めという趣旨らしい。ちなみにビジネスマンに対して「女性」が対置されているのが正直気になるが、それは今回の話とは関係無いのであえて無視する。「それがいやなら文庫本でもいい。マンガとは違った新鮮な面白さが味わえるはずである。」・・・・とにかく活字を読めということらしい。ここでは「マンガ」と「文庫本」はその形態によって内容が分類され、その内容は全く異なるものとされている。どちらが上、とはこの一文だけでは解釈できない(表現形式が違えばその面白さに関して違う楽しみかたもあるかもしれない)が、前後の文脈から言えば文庫本のほうが面白く、ゆえにマンガよりもこちらを読むべきだ、となる。
(13)は、(12)に対する反論である。「マンガの評価が、いまだ不当に低いことを残念に思う。」「マンガというただそれだけで、その作品の持つ価値はとたんに否定されてしまう。それどころか、蔑視(べっし)の対象となることさえある。」・・・・とたんに否定されるかどうかはともかく、このような事はある程度は実際にあるといえよう。詳しくは後述の“参.固定観念”で。
「マンガを読む暇があるなら、小説や新聞を読むべきだ、というのは、凝り固まった固定観念」・・・・「全てのマンガが佳作でないのは、小説に三文小説、新聞にゴシップ記事があるのと同様」を受けての文。つまり、マンガも小説も新聞も内容はピンからキリまであるのは同じなのにどうしてマンガはマンガというだけで評価が低いのか、それはマンガに対して「凝り固まった固定観念」があるからだ、と言っている。マンガというと十把ひとからげにして「〜なもの」として扱う、しかもえてして他のメディアに比べて格下の評価や否定的な評価であることが多い、ということである。
「せめて一面的にマンガを判断せず、もっと、その多面性に目を向けてほしく思う。小説が魅力的なように、マンガもまた魅力的だし、そのどちらも読者を本の中へと誘う不思議な魔力を秘めている。」・・・・先に挙げた文と違い、マンガと小説を全く同列に扱おうとしている。

参.固定観念
 さて、先の(13)で触れられた「固定観念」である。「語尾を省いて互いの気分で分かりあう少女マンガの読み過ぎではないか」(4)、「漫画感覚で読める新聞など役に立つとは思えません。」(11)、「世界中の学者が知恵を出し合っても答えの見つからないような現実を、非現実的な漫画で知り、何が得られるというのでしょう。」(11)、の3つがそれにあたる。あと、壱.でふれた「マンガは子どもが読むもの」というのもここに含まれてもよいものであろう。いずれも、先に述べたことの繰り返しになるが、マンガを単なる表現手段のひとつとは捉えず、「『マンガ』というのはこういうものだ」と、内容までその形態によって規定し、それによってマンガについて述べたり批判したりしている。

四.マンガ「オタク」
「私の趣味は“アニメ、まんが”。そう、一般的に言うと『アニメおたく』です。高校三年生にもなってアニメが好きなのです。」(8)、「私は、このことでいろいろな差別を受け続けています。陰口、いやみ、そして偏見のまなざし。口でははっきり言われなくても、毎日感じ続けています。まさに『趣味で差別を受けている』のです。」(3)、「ある分野で他の人より精通している人を『おたく』と呼ぶのなら、アニメやパソコンなどだけに『おたく』の暗い、いやなイメージがあるのはどうも納得いかない。」(9)、「漫研て聞くだけで、どうしてみんな変な目で見るんだよォー。」(9)、の4つ。すでに(9)で述べられているが、1989年の幼女連続誘拐殺人事件をきっかけに有名になった「オタク」という言葉、この頃までにはずいぶん殺菌されて結構広い意味で使われていたが、なお暗いイメージを残す部分もあった。「アニメやパソコンだけに」とあるが、「だけ」かどうかはともかく「オタク」という言葉が似合う趣味、というものは当時のイメージとして確かにあったとおもう。そしてマンガもその中に入っていたとおもう。

五.子どもに大きな影響を与えるもの
 “壱.マンガは子どもが読むもの”とも関係あるのだが、「子どもが見るのにこんな内容では子どもによくない」という考え方は、「有害コミック」問題をはじめとして、マンガに対するありとあらゆる批判の根拠になっているといっていい。今回抽出した投書の中にもこの考え方に基づく意見が出されていた。
「この戦闘シーンだけの漫画がゴールデンタイムに放映されることを疑問に思う。心が育つ重要な幼児期の純粋な子供たちに見せられる番組だろうか。テレビ局も視聴率のことだけではなく、子供たちの将来を少しは担っているのだということを熟慮してほしい。また漫画家にももっとテーマのある心のこもった作品を作り出していってほしい。現にそのキャラクターのまねをして意味もなくたたいたりかみついたりする幼児も何人か見たことがある。」(8)
マンガ批判の雛形ともいえる文である。このようなマンガを「純粋な子供」に見せると、「子供たちの将来」に悪影響を及ぼす、現に自分はそういう子どもを目撃したのだ、という文だ。この「純粋な子供」という子ども像は、マンガに限らず子どもに関する環境に大人が干渉するさい、非常に重要な要素を担っている。
 「有害コミック」規制は、規制反対派からは「子どもの人権宣言」を引用して「子どもの知る権利を侵すものだ」との批判があったが、それに対する規制推進派は「子どもを有害な環境から守るため」にやっていることだ、という反論をよく行なった。この、「ある者のために」、その「ある者」に干渉することを、「パターナリズム」と呼ぶ。言い方を変えると、他者Aに干渉する理由付けとして、Aが他者Bの利益を侵害したり非道徳的であったりするわけでもないが、干渉される人、即ちAの利益になるから、という理由付けがパターナリズムと呼ばれるのである。(澤登、1997、14頁)そして今回の場合他者Aにあたるのは「純粋な」子どもである。「純粋」で「無垢」であり、またそうあるべきとされる子どもは、大人が守らねば「健全」に「育成」されないので、大人によって読む本を制限され、またそれが正当化されるのである。
 最後にもう一度まとめよう。3つの媒体(新聞社説、学校からの要望書、新聞投書)から文を抜き出したわけだが、やはりマンガは子どもが読むということを大前提にしている事例が多く見うけられた。そのほかのものでも、マンガを読むということを活字を読むことの前段階として捉える人や趣味として追求するうちに「オタク」呼ばわりされた人、果ては「非現実的」と一刀両断な人といったように、どこかしら低い評価が多かった。しかしそれと同時に、心を動かすマンガもある、とか表現媒体によって差別すべきではないといった意見も散見された。
 次の章からは、こういった積極的な発言ではなくもっと無作為な声を集めるために行なった、マンガについての質問紙調査を分析したいと思う。


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