第二章 マンガの歴史

 この章では、日本のマンガの歴史をその成り立ちから現代までを社会との関わりにも着目して振り返ってみたいと思う。ちなみに戦後の歴史については、竹内オサム『戦後マンガ50年史』を参考にした。

・日本のマンガの誕生
 マンガを「カリカチュアされた人物などを描いて情景や物事を表現したもの」と定義するなら、古いところでは法隆寺金堂の天井板の裏に鼻の長い戯画風の人物が描かれている。平安時代には絵巻が登場し、「鳥獣人物戯画」などが作られた。しかし、これらは肉筆であるために大量に流布するようなものではなく、一部の人の目にしか触れることがなかった。
 この状況が一変するには、江戸の中期まで待たねばならなかった。この時期に発生した浮世絵(錦絵)は、木版技術の発達によって一般庶民にも広く流布した。これらは内容が多種多様であったが、有名な美人画のような一枚絵だけではなく、本の形式をとったものも多く、今で言うなら「漫画本」と呼びうるものであった。なかでも「鳥羽絵」と呼ばれた本は、世界最古の漫画本の一つと位置づけられるものであり、早い時期から日本では漫画が大衆文化として発達していたといえる。ちなみに「漫画」と言う言葉もこの頃から使われており、有名なものでは『北斎漫画』がよく知られているであろう。但し、表現の技法としてはこれらの漫画達は現代の漫画とは全くと言っていいほどつながりが無い。
 遠い繋がりとはいえ現代の漫画の直接の祖先と呼び得るものは、明治時代になってから日本に登場する。文明開化の時期、日本が半ば無秩序に欧米諸国から輸入した文化の中に風刺漫画があった。当時の日本の漫画界を引っ張った一人、風刺画家のチャールズ・ワーグマンは1862年より横浜の外国人居留地で『ジャパン・パンチ』という風刺雑誌を発行した。この名前のもとはイギリスの風刺雑誌『パンチ』だが、日本での風刺画の呼び名「ポンチ」というのはこれからきている。この他にも風刺雑誌は存在したが、いずれも殆どが文字無しの1コマ漫画であった。
 明治の末期から大正にかけて、さらにスタイルが今のマンガに近づく。絵の中に文が書きこまれ、また「ポンチ絵」に対し、「漫画」という呼び名が使われだした。また、この時期から子供向けの漫画が少年雑誌や新聞に登場する。この頃おもに活躍したのは、北沢楽天、岡本一平、宮尾しげおなどが挙げられる。
 昭和初期、子供向けの漫画は主に少年雑誌や新聞を舞台にして大きく広まった。中でもこの時代のマンガの代表ともいえる作品、「のらくろ」の一連のシリーズが昭和六年に『少年倶楽部』で始まっている。そのほかにも島田啓三、宍戸左行をはじめとして沢山の子供向けマンガがこの時期に出現した。さらにはマンガの単行本がこの時期、飛躍的に増加した。マンガは、子供たちの心をつかんだのである。
 このようにして、マンガは子どもの読み物としての社会的地位を確立するが、早くもこの時代から「マンガは子どもに悪影響を与える」という批判がなされている。
さらに昭和十年代も半ばになると、日本は泥沼の戦争にはまり込んでいく。それに伴いマンガは一時的にとはいえ姿を消す。「一億総火の玉」という言葉で表されるような時代、社会では、「卑猥俗悪ナル漫画」(昭和十三年「児童読物改善ニ関スル指示要綱」)など、国家が存在を許さなかったのだ。マンガが復活するには、終戦を待たねばならない。

・戦後のマンガの成長
 戦争によって社会の表舞台から姿を消したマンガは、戦争の終結の後に再び姿を表す。有名なマンガ雑誌では、1946年末には『少年』が、1947年末には『漫画少年』が創刊されている。これらは後に黄金時代を築くが、この当時人気があったのは「赤本」と呼ばれたマンガ本であった。赤本とは、あらゆる物が不足していたこの時期に粗悪な紙で、数人もしくはそれ以下の人数の俄か出版社が出版した読み切りマンガ本である。当時の雑誌は40〜50ページしかなく、対して赤本は百数十ページで1本のマンガを掲載したので、赤本のほうが人気が出たのは当然であった。今としては考えられないようなアナーキーな出版環境の中から手塚治虫が新たなスタイルのマンガで登場した。ディズニーや映画の手法を取り入れた、それまでとは全く違うコマ割りの彼のマンガは、現代のマンガの直系の祖先と呼べるだろう。他にも何人もの漫画家が活躍し、この赤本ブームは1948年正月頃にピークを迎えた。
 1950年頃にはブームがマスコミにも取り上げられるほどになっていたが、その文脈は否定的なものであった。例えば『週刊朝日』では「俗悪マンガ」という表現をされたり「子供が無意識のうちに犯罪の手口を覚える」と言われたりした。また、戦前から児童漫画を描いている漫画家にも、雑誌の特集に「赤本漫画の共通の欠点は、良識のないことである。ユーモアがない。ロマンチックな夢もない。といってしっかりとした写実もない。ことに絵に愛情のないことは致命的だ」と厳しい発言をよせるものがいた。
 ちなみにこの時期、マンガと同時に戦前からの少年小説も少年雑誌に残っていたが、紙芝居から発展した「絵物語」というものが1950年代半ばまで流行した。これは正しく紙芝居のようにその場面の絵の隣に物語や台詞が添えられているものであり、「黄金バット(戦前のリメイク)」「少年王者」「少年ケニヤ」といったヒット作が生まれたが、この「少年ケニヤ」がまた非難を受ける。おりしも1955年頃は、後にも触れる「悪書追放運動」が盛んであり、異常なまでの人気があった「少年ケニヤ」は、槍玉に挙げられる形でありとあらゆるところを非難されたのである。
 1950年代半ば以降、これまでに触れたような赤本や絵物語はほとんど姿を消す。この時期から、少年雑誌上には絵物語に代わってストーリーマンガが、赤本(1950年過ぎには殆ど無くなっていた)に代わって貸本がマンガの主流になっていた。
 ここでいうストーリーマンガとは、1コマの風刺漫画や数コマによるユーモア物とは違い、数十ページにわたり長編ストーリーを展開する、戦後手塚治虫によって生み出されたマンガのスタイルである。但し、この時期は手塚の創作ペースはダウンしており、むしろ彼の手法を吸収した「月光仮面」(川内康範作・桑田次郎絵)、「赤胴鈴之助」(武内つなよし)、「イガグリくん」(福井英一)といった作品に人気があった。
 1950年代後半は、幾つものマンガが他のメディアに輸出された時期でもあった。「赤胴鈴之助」は、1956年にラジオドラマ化、1957年には映画化された。「月光仮面」は1958年にTVドラマ化、日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」は1963年からである。そのほかには「まぼろし探偵」「鉄人28号」などが有名であろうか。
 一方、貸本マンガをプラットホームにした劇画と呼ばれるスタイルが大阪から発生した。1956年創刊の『影』にルーツをもつこのマンガの形式は、先に記した所謂ストーリーマンガとは内容に開きがあった。その名の通り物語・お話的なストーリーマンガと違い、劇画は実録的な話が多かった。創始者の一人の回想として「中央の雑誌に対するコンプレックス」「どうせ中央の雑誌に描けないなら・・・」といった言葉があるが、大阪を出発した劇画は1950年代末には『影』のメンバーらが東京に進出し、それにつれ劇画はマンガの表現方法に大きな影響を与えるだけの力を持つようになっていった。
 上記の二つの大きな流れをもって、この時期マンガは大きく発展したが、それに伴いマンガに対する世間の風当たりも強くなってくる。例えば、貸本マンガが週刊誌や新聞などで衛生問題を指摘されるということがあった。結果的には全然大きな問題にはならなかったが、ある種神経質な反応が生み出した事件ではあった。ちなみにこの問題の発端は、『産経時事』紙上での母親代表の研究会や地婦連の研修講座で貸本マンガが取り上げられたことによるものであった。しかしこの時期、さらに大きな事件がマンガ界に降りかかった。「悪書追放運動」である。

・マンガの社会問題化
 これまでにも所々で触れたように、マンガ、特に子ども向けのマンガはしばしば非難の対象になってきたが、実際にマンガの出版に影響を受けたのは、戦時中というあらゆる物が規制された特殊な時代だけであった。しかし、この「悪書追放運動」においては運動が盛り上がるにつれて行政機関や警察までが動き、(主に青少年の保護をうたう)法律による規制や取り締まりがおきた。何故この時代にそれだけ大きな運動が起きたかという背景には色々な要因、例えば、この時期の子ども雑誌には大量の別冊マンガ付録が付いていたが、粗製濫造が祟って質の低下を招きそれらのマンガが非難された、というようなことがあったにせよ、これほど強く非難されるほどにマンガの影響力、存在感という物が大きくなってきたということも言えなくもない。
 事の発端としては、1955年3月に二つの出来事が起きている。一つのきっかけは「日本子どもを守る会」と「母の会連合会」や各地のPTAなどがマンガのみならず映画、放送、レコードなど広範囲の物に対して非難の声を挙げたことによる。そしてもう一つは『日本図書新聞』に「児童漫画の実態その一」(以降その五まで続く)という特集が組まれたことである。これらに呼応する形で全国紙がマンガを非難する記事を展開していくわけだが、この新聞報道によって運動(騒ぎ)が大きくなっていったふしがある。まず第一に、「日本子どもを守る会」と「母の会連合会」の主張はマンガのみならずさまざまなメディアに対するものだったのだが、新聞はそのうちからマンガや絵物語(前出)だけを大きく取り上げた点、第二に「悪書追放運動」というセンセーショナルな名前は、どうやら新聞の見出しが名付け親であるという点である。特に第二の点に関して、それまで統一した呼び名のなかったこのタイプの運動及びその対象になっているマンガ本に「悪」書、そして「悪」を追放する運動であるという定義を与えることにより、運動の盛り上がり、先鋭化を招いたと言えよう。一部では運動は魔女狩りの態を示し、焚書すら行われた。「行き過ぎ・大人の一人よがり」という意見・非難も少なくはなかったのだが、「悪」を懲らしめる戦いは行政をも動かすのである。
 運動が一番の盛り上がりを示していた4〜5月という時期の真ん中、4月28日に警視庁防犯部が警官 500名を動員し、特価本の発行所・取次店など42箇所を一斉捜査し、37種の雑誌を押収するという出来事が起きた。また5月9日、中央青少年問題協議会が、青少年に有害な出版物・映画等対策専門委員会の結論に基づき、政府に答申している。そして8月19日、文部省が悪書・映画対策として指導方針を決定し、全国の教育委員会、国立学校長に通達を出した。また、地方でも1955〜56年の間に神奈川県、北海道、大阪府が青少年育成条例を公布している。
 これに対し、非難を受ける側である出版社・編集者・作家達も手をこまねいていた訳ではない。1955年4月15日「日本児童雑誌編集者会」が発足、当時の殆どの主要な児童雑誌の編集者が集まり、機関紙を出版して議論を広める働きをした。その活動は積極的で、父兄や児童文学者・教育者等との討論会なども行っている。ほかにも出版社側からの自主規制をはじめとして、非難をする側の圧力団体に於いてすら、行政・立法による規制を避ける働きがあった。後述する「有害コミック問題」の時との大きな違いである。結局そのかいあってか法的規制は行われず、業界の自主規制によって問題はとにかく沈静化した。この点は「有害コミック問題」と共通する点である。
 1950年代後半はまた、出版全体で週刊誌の創刊ラッシュでもあった。例えば1956年、日本初の週刊誌『週刊新潮』、58年『週刊明星』、59年『朝日ジャーナル』『週刊文春』『週刊平凡』といった具合である。そのころまで主流だった月刊マンガ誌は児童数の減少により衰退しつつあり、出版社はその対策として週刊のマンガ誌を創刊したのだった。1959年3月17日、『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が同時に創刊する。どちらも元々はマンガ雑誌ではなかったが、子どもに人気のあるマンガに力を入れていたことは確かだ。そしてそれにとどめを刺される形で月刊誌が部数を落とす。特に1961年、『日の丸』『少女』『少年クラブ』『少女クラブ』といった一時期を築いた雑誌が次々と休刊した。当然入れ替わりに週刊誌が部数を伸ばした。そして63年、少女週刊誌も『週刊少女フレンド』が創刊する。しかし少年誌と違い、少女誌は月刊誌が主流になっていき、現在週刊少女誌は存在しない。それに対して週刊少年誌の隆盛は周知の事実である。
 さて、子ども向けの週刊誌が部数を伸ばすと、また掲載されるマンガが批判を受けるようになる。やれ少女誌のおしゃれ特集は少女たちに「すでに、女であることを強い」ているだの、少年誌では「忠実なサラリーマン」の予備軍を育てるだのという批判もあった。あと少年マンガがめくるめく「激しい勝負と暴力の世界」であるというものもあった。しかしこの時代、1960年代前半から半ばに大きく取り上げられたのは少年誌での戦記ブームであった。62〜63年頃一番盛んだったが、これにより戦争肯定論・愛国主義が子どもに植え付けられるのでは、と危惧された。さらには67年末から『週刊少年サンデー』で連載の「あかつき戦闘隊」の翌年3月での「あかつき戦闘隊大懸賞」が問題になる。ピストルのおもちゃから果ては1等は日本海軍兵学校の制服のセット(刀帯・短剣までも)が当たるという代物であり、全国紙でも取り上げられ、多方面から小学館に非難が集まった。
 ほかにも、1960年代後半になると非常に大きな非難を浴びたマンガが登場する。1968年創刊の『少年ジャンプ』で連載された、永井豪の「ハレンチ学園」(68年8月開始)である。ちょうど時代的にはTVで野球拳が話題になっていた頃であったが、「ハレンチ学園」ではスカートめくりなどの性の遊戯化や、権力と性の亡者である教師が描かれ、特に70年のTV化以降に大きく非難されることになる。70年1月8日(朝日)9日(毎日)に新聞の記事になったが、この時は非難のトーンは少なかった。しかしこの記事をきっかけに議論の輪は広がりを見せる。『週刊新潮』『週刊文春』やNHKの報道番組でも取り上げられ、また三重県四日市の中学校長会が追放を決定、県青少年保護条例審議会に有害図書に指定するよう働きかけた。その一方で『毎日新聞』では大人の性急な価値観で規制することに疑問を投げかける社説やハレンチ・マンガと精神発達の阻害との関連性が薄いという調査結果を掲載している。
 1970年代に入ると、少女マンガに新しい流れが生まれ育ってくる。それまでのタイプの少女マンガは、手塚治虫をはじめ石森章太郎・横山光輝ら、少年向けのマンガでも活躍していた男性のマンガ家や、「虚構性の高い大衆受けする素材選択」(竹内、1995、140頁)という点において手塚の流れを受けた作風の女性のマンガ家、たとえばこの時期なら里中満智子・池田理代子・美内すずえなどによるものであった。しかしこの新しい流れを形作った若いマンガ家達、俗に「花の24年組」と呼ばれた萩尾望都・樹村みのり・大島弓子・竹宮惠子・山岸涼子などは、独自の感性を前面に押し出した、極めて個性的で、これまでの少女マンガにないスタイルと問題意識をもった作品群を生み出していった。やがて少女マンガはブームになっていくが、全国紙にも取り上げられたり(『朝日新聞』75年11月2日〜「少女マンガの世界」)する一方で男同士の同性愛を描く点がマスコミに注目されたりした。一般にはきわどい退廃趣味に移ったが、以降「少年愛」は少女マンガ会の流行ともなっていく。
 1970年代ののもう一つのマンガ界の動きとして、70年代後半にはエロ劇画ブームが訪れる。掲載される雑誌は月刊が主流で最盛期には40〜50誌にもなった。単に卑猥なものが受けたという訳ではなく、力量ある作家が多数出現し、作家の個性が評価されての人気がブームを支えた。78年の夏から秋にかけて、大阪の情報誌での特集記事やTVの深夜番組への雑誌編集者や劇画家の出演などエロ劇画が大きな話題になったが、78年11月6日に海潮社『漫画エロジェニカ』が、翌年2月5日には笠倉出版社『別冊ユートピア・唇の誘惑』がそれぞれ警視庁防犯部保安一課に”ワイセツ”として摘発された。『週刊朝日』『週刊新潮』『噂の真相』などのマスコミにも当然取り上げられるが、その反社会性を攻撃するでもなくむしろ編集者に「新左翼崩れ」らしくもっと反骨の姿勢を見せて欲しいと注文を付ける記事であったり、表現の自由といったきれいごと抜きの仕事だという制作側の意見を掲載したりと、同じ性的な表現が問題になった「ハレンチ学園」や後の「有害コミック問題」とは違う対応を見せている。
 さて、エロ劇画の次には、1980年代前〜中期にロリコンマンガのブームが訪れる。吾妻ひでお、内山亜紀といった作家が代表的といえるが、彼らの作品は少年誌にも掲載され、問題視された。彼らの登場の数年前のアメリカでロリコン写真ブームをうけてのブームであったが、以降は『漫画ブリッコ』(82・白夜書房)『漫画ロリポップ』(86・笠倉出版社)など専門誌でその世界を展開した。これらの動きは後に同人誌のエロパロや「有害コミック問題」を生み出す遠因にもなっていく。
 さて、その「有害コミック問題」であるが、事の発端を挙げるとすると、1990年8月に東京都生活文化局婦人計画課が発表した「性の商品化に関する研究」と、9月頃から和歌山県田辺市を中心に起きた住民運動の二つということになろう。前者は色々なメディアに取り上げられた女性蔑視的な表現を調査したものであるが、第3章で触れられた「マンガの内容分析」が、『朝日新聞』で翌日「(マンガの)半数にセックス描写」と、大きく取り上げた。また後者は、8月初頭に地元の新聞の投書欄に取り上げられた「出版物の行き過ぎを規制するよう行政当局の対策を強く促したい」という内容の2通の投書をきっかけに、「コミック本から子供を守る会」を結成し、地元紙や市とも連携して運動を展開し、これも大きく取り上げられた。また、9月4日には『朝日新聞』に、先の調査をもとにした「貧しい漫画が多すぎる」という社説が掲載された。そうでなくとも地域ごとに問題視されていた性的な表現を含むマンガの問題は、これらの記事をきっかけに一気に全国規模に広がった。
 この運動の大きな特徴は、世論が法規制を容認する流れに傾きつつあったという点であろう。以前の例、例えば1955年頃の「悪書追放運動」では、問題提起した側も行政も法規制を避けるために業界の自主規制を強く求めていったが、「有害コミック問題」ではまずきっかけになった田辺市の団体が出版社よりも先に行政に働き掛けて規制を求めたし、マスコミも擁護せず、国会議員も「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」を設立したり、規制を求める市民からの「請願」への対応の雛形の準備するなど、できることなら法規制したいという姿勢が見られた。その理由として、1988〜89年にかけてマスコミを賑わせた少女連続誘拐殺人事件の犯人の部屋から大量のホラービデオと共にロリコンマンガ等が出てきたため、そのような本は規制すべしといった考えをその事件の時からずっと引っ張っていて、この「有害コミック」騒動の時に花開いたという背景があるのではないかという説もある(大塚、1991、80頁)。また、1989年9月には、岐阜県の青少年保護育成条例による有害図書の規制に関して最高裁が「合憲」の判断を下している。このことが自治体や警察にとって規制に対する「お墨付き」になったという背景もあった(中河、1993、80頁)。
 他の相違点としては、「悪書追放運動」が主に中央の動きが全国に広まっていったのに対して「有害コミック問題」は地方から起こった運動が中央に押し寄せた、「悪書追放運動」では出版側では編集者だけが頑張っていたが「有害コミック問題」では92年3月にマンガ家達がコミック表現の自由を考える会」を結成、マスコミに活動が取り上げられたりして一定の成果を挙げた、「悪書追放運動」では個別のマンガが名指しで批判されたが「有害コミック問題」では「性表現を含む子ども向けマンガ」というジャンル全体で非難された、などがある。3つ目の件に関して、特に槍玉に挙げられたマンガを1つ挙げるとすれば「ANGEL」(遊人、『ヤングサンデー』小学館)であろうか。「ANGEL」は大手出版社である小学館の雑誌で連載され、絵柄も可愛らしくその点が規制推進派に「子ども向けと見分けが付かない」と言われた原因でもあろう。このマンガは10月12日発行の『ヤングサンデー』の掲載をもって休載に追い込まれる。しかし、誌上では翌月に「有害コミックってナンなんだよ〜!? 『ANGEL』問題を考える!」という連載企画がスタート、読者とともに問題を考える姿勢を見せた。
 これに限らず、当然出版社側としては法による規制だけは何としても避けねば、と自己防衛策に乗り出す。出版倫理協議会・雑誌編集倫理協議会は自主規制として、内容のトーンダウンの他に、「成年コミック」マークをつけ、そのような本が子どもの手に入らないようにという手段をとった。しかしこれが実行に移された後にも出倫協・雑協への抗議は止むことはなく、しかも「成年コミック」マークが付いた図書に「有害」指定がなされるという事態も起きた。だが、最悪の事態である「中央法制化」だけは回避された。

・「マンガ事件」の共通点
 以上、マンガの歴史を特に社会問題化したものに注目しながら振り返ってきたが、ほぼいずれの場合にも共通する点がある。それは、暴力表現にしても性的表現にしても「道徳的にけしからん」というのではなくて「子どもが悪影響を受ける」という視点からのクレイムがほとんどであるという点である。確かに日本のマンガは子ども向けのものから大きく発展してきた。しかし第一章でも述べたように現在では大人が読むためのマンガというものも多数存在しており、現実に大人も読んでいる。このこと自体は「子どもにとって〜」という視点を否定しない(大人も読めば子どもも読むから)が、何故マンガだけが「子どもにとって〜」という視点で見られるのであろうか。子どもがアクセスしうるメディアはマンガだけではない。だが例えば小説などその気になれば、推理小説か何かのような表紙・タイトルにも関わらず内容には性的な描写を含むもの、それこそ「有害コミック」問題のとき叫ばれたように「一見表紙では見分けがつかない」小説はいくらでもある。しかし小説が「いやらしいものが子どもでも気軽に買える、けしからん」と言われたためしはないと思われる。活字的メディアと映像的メディアという違いこそあれ、どちらも同じ店で買う事のできる刊行物である。それは、「マンガは子どもが、小説は大人が読むもの」という不文律があるからなのではないだろうか。「小説は子どもはあまり読まないから多少の事は安心。マンガはほとんどの子どもが読んでいるから危ない」という関係である。次の章では、これらのことを念頭に置きながら「『有害コミック』問題」の最中やそれ以降、すなわち1990年以降に活字になったもの、新聞記事・投書・社説、マンガについての書籍などからマンガについてどのように捉えているか、ということの読み取りを試みたいと思う。


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