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補論


 学生からの報告は以上ですが、ここで教員の方から少しだけ補足のお話しをさせてください。
 今日の発表の最初の方で、難病患者にとってこの社会は居場所が狭いのではないかというお話をいたしましたが、実はそのような問題関心の背景には、個人的に知り合って親しくさせていただいていたALS患者さんのことがあります。その方は、家族にばかり頼るまいと努力して自分の居場所を広げようとしておられましたが、限界に突き当たっておられるようにも見えました。その中で、今も耳に離れない言葉があります。「私を受け入れてくれるところなんかない・・・」。
 これを受け入れられなかった施設側の問題としてとらえるのは適切ではありません。個別的に対応するのは施設には現実的に難しいのではないかと思える部分も、実際にはありました。つまり、患者の側にも同時に、施設利用を納得する、あるいは積極的な意味を見出すような変化がある程度は必要と呼びます。
 このような変化を私は患者の「自己物語」の変化と呼んでいるのですが、そのような変化がおきやすいほどに多様な幅の物語が私たちの社会にあるといるでしょうか。デーサービスの場合、1990年代の宅老所等を嚆矢として、優れた事業所も少なからずありますし、また事業所の層も厚くなってはきていると思います。ただ、その中で、利用者本人がその場を居場所としていきやすいような地点に到達しているのか。わかりやすくいえば、そこには依然として、「私は家族のために我慢して施設を利用する」という物語が優勢である(それに頼らざるをえない)現状もあるのではないかと思うわけです。
 このような事態を改善していくには、患者の側が独力で変化すべきととらえるべきではもちろんありません。また、施設を増やせばよいとか、施設側の努力の問題だと言って済ませるべきでもありません。答えはおそらくその両方であり、両者がふれあい、すれ違う接点に重要なポイントがあるのではないかと思います。つまり、常に受け皿となる施設(とその背後にある社会的制度)と、患者との間には何らかの対話的な関係が展開される余地がある。施設は、場として生活の質を高めるチャンスがあるよと呼びかけ、生きましょうと呼びかける。しかしそれと同時に限界も露呈してしまう部分がある。これに対して、患者は、何らかの反応をする。人によっては、そのような場を自分の生にとってのいわば肥しにするような人もいるでしょう。しかし別の人は、まったく反応できず、何の希望も持てないままかもしれない。こういった呼びかけと反応のプロセスは、私たちがそこから多くのことを学ぶことができるものであり、これからよく研究されるべきではないかと思います。
 このように考えたうえで、デイサービス「地球の子」を社会的に位置づけてみましょう。パーキンソン病等難病をもつ人に対して、リハビリを軸としてさまざまなはたらきかけが行われている点では、先にご紹介した「リハビリジム」と似ています。「地球の子」も、主にリハビリを通して、よく生きることを呼び掛ける場なのだ、といえるでしょう。ただし、それを介護保険等の公的支援制度の枠組みの中で実現・持続しようとしている点では、あくまでも私的サークルである「リハビリジム」とは異なります。制度にのった場としてのチャレンジが、ここで今展開されている、ということだと思います。
                           (伊藤智樹)