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凝ったものも作りたいんだけど…:彫刻師HTさんのライフ・ヒストリー(壬生 裕貴)

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1)幼少期

 1942年(昭和17年)5月、高岡に生まれる。幼少期の家族は祖母、両親、きょうだい5人(上3人が男、下2人が女)。HTさんは真ん中の3番目。小学校も中学校も高岡で過ごし、1974年(昭和49年)に今住んでいるところに移ってきた。
 HTさんは小さい頃から父の仕事を見てきて、かっこいいとかは思ったことがなく、貧乏だなと思っていた。幼い頃は、職人のことをかっこいいと思う人はなく、他の高岡漆器の職人さんもそうだと思うとHTさんは言っていた。「ただホントの職人」で問屋から仕事もらって、こつこつと生活のために働いている程度だったそうだ。
 HTさんはそのころなりたかった職業はなく、小さい頃から親の手伝いをしていたので、そのまま自分も職人になっていくんだなーと思っていた。

2)奉公期

 HTさんは中学を卒業してある漆器店に4年間「奉公」に出た。昔の職人さんは「1回外の飯食ってこい」とよく言われたらしい。その漆器店では番頭見習いのようなことをしたそうだ。今でいう職人さんの家に品物を運んで行ったり、持ってきたり、荷作ったり、というような仕事をした。

3)時代

 HTさんの子供の時分は、まず、生活のほうが優先だった。戦後の昭和30年代だからまず着る物、食う物が先。よくて自転車が1台家にある程度。自転車1台があるだけでも金持ちの家に入るほうだった。漆器店で勤めていたときでさえ、店には自転車が4台あっただけ。それから4、5年すると、どこの店でも景気がよくなってオートバイを買って、そのあとに10年ほどして問屋さんが自動車を買ったりした。大体昭和30年から昭和35、6年にテレビや洗濯機が出てきたのを覚えている。

4)修行時代

 HTさんはお父さんに憧れて彫刻師になったというわけではなく、仕方なしになったという。なろうと決めたというよりも、もうそれで親のひいたレールにのっかった感じだそうだ。そのときの家族の反応は何もなかった。その時分からちょうど職人が華やかな時代に入ってきている時代。HTさんが家で父の横に座ったときは父、兄、外から2人職人がいて、合計5人で仕事をしていた。多いときは6人だった。
 徒弟制度は最低6年と決められている。その後で、木彫会という組織が行う試験を受けて、その試験に合格して初めて一人前とみなされる。一人前にならずに辞めていった人もたくさんいた。
 HTさんの初作品は父親の横で修行しているときに作った。
 HTさんは1967年(昭和42年)に木彫会の試験に合格した。高岡市伝統工芸産業技術者養成スクール(*要確認。「デザインスクールのクラフト科」)に通いながら父の横で仕事をしていた。修行中の弟子たちに、それだけではだめだからと県のほうで技術などを教えていた。皆、家で修行しながら、親方に許しを得てデザインスクールに行っていた。時間帯はさまざまで、例えば午後の1時から行って5時まで、といった例がある。1年間の日程表はあらかじめ組まれていて、1年たったら修了する。
HTさんは1967年(昭和42年)2月19日に結婚する。子供は2人いて、上が男で下が女。長男は職人の道に進まず、自分の判断でデザイン会社に入った。

5)独立

 HTさんは1968年(昭和43年)に父親のところから出て、独立して自分の工房を構えた。
 やはり独立した以上は、父親も、兄も、兄弟弟子も、他の人もみなライバルだと彼は言う。独立したということは、自分で働いて、自分で図案を書いて、問屋さんに持って行って、それで初めて注文が来る。人の仕事をもらってすることではない。他の職人さんが忙しくなれば、その人に注文がどんどん入っているということだから、そうなれば「あいつには負けない」というライバル心が起こり、デザインの良いものを出そうということになる。

6)みどり会

HTさんは現在みどり会の会長をしている。みどり会は漆器の職人だけで結成されている研究団体である。1919年(大正8年)から始まって、現在(2003年)で84年目。本当の職人の会でこれだけ長く続いているのは、日本中で高岡のみどり会だけだと彼は胸を張る。年に1回、職人が自分で作った品物を美術館などで発表する。昔は、展覧会に集まった何百点の中から、いい品物を問屋さんが来て買っていった。問屋さんは買ってきたものを自分のところの商売にして、注文が入ったらその職人のところに依頼する。そうした職人と問屋の媒介をみどり会が担っていた。現在も、年に1回の発表会は続いているが、これだけ不景気になると問屋はまず買わず、逆に一般の消費者が買っていく傾向にあるという。その他には、高岡市のデザインセンターなどで勉強会を開催している。勉強会は、昔は中川にあった高岡市デザイン工芸センターの前身である高岡奨励会が行っていて、職人さんが夜デザインなどの勉強していた。みどり会も外部から講師を招いて、主に夜間、絵を描いたり模写したりといろいろな勉強会を開催している。
 今は見本を作ったりするのはみな問屋さんだという。問屋の番頭さんたちは大阪に行ったり、デパートに行ったり、一般の人の話を聞いて、今はどのようなものが売れているかが分かる。職人は朝から晩まで家で座っているから外のことは分からない。問屋の番頭さんから話を聞いて、それで自分で見本を作り作品を作っていく。しかし、問屋さんだけに頼ってはいられないということで、みどり会でも東京や大阪に視察に行ったりしている。ちょっとでも外に出たりして、いい年になっても未だに研究をしている。そうしないことには職人は成り立っていかない、とHTさんは語った。

7)職人観

 HTさんは職人について次のように語る。職人は生涯現役、生涯研究で、死んでから一人前になる。生きている間は勉強。あの職人が良かったか悪かったかは死んでからの評価。死んでから残された人に評価を任す。生きている間は自分で納得しない。職人は全部そういうふうに思っているだろう。他の人は、あのおっさんはいい腕持っているとか、一人前だとか、名人だとか言ってくれるかもしれないが、本人は絶対にそう思っていない。前の作品よりもいいもの作りたいと思っている。だから職人は発展していく。それを途中でやめてしまったら二束三文の職人になる。職人はみんな真剣で毎日が勉強のため、若い人と話しているときでも、若い人は今こういうの着ているんだな、今度はこういう品物作ろうかなとすぐに考えてしまう。
 HTさんは伝統という言葉に、重圧はなく、誇りをもっていると言っている。伝統工芸士として認定され、2003年(平成15年)3月26日には高岡市の技術保持者(高岡漆器の彫刻師の名人だという証)にも指定された。職人の誰もがこういうものに認定してほしくてがんばっているのだから、とても誇りに思っている、と彼は言った。

8)ノミ

 ノミはよく切れればいい。昔の人は、いろいろなノミの研究をして、いろいろなノミを作ったため、もう自分たちが新しく作ることはないとHTさんは語った。ノミの種類はへらノミ、丸ノミ、三角ノミがあって、三角ノミというのは、HTさんの先輩の職人が発明した。ノミは木でできた取っ手と先端の金具の部分があり、この金具の部分がノミによって全部違う。さきに述べた3種類のノミは基本的なものだが、その他にたたきノミというものがある。これは固いケヤキなどを彫るときに使われ、井波の欄間作りにも使われている。HTさんの家には大体300本以上のノミがある。取っ手の木の部分は全部自分で作る。自分の身体に合ったような作りをする。だから自分のノミを他人が使っても使いにくい。高岡漆器は基本の3種類のノミだけあれば十分だが、HTさんは欄間や銅器の木型も作るのでたたきノミも持っている。

9)挑戦

 HTさんは、今は彫刻だけでなく、塗りにも挑戦している。今は研究に一生懸命で、塗りは10年間ずっとやっている。HTさんは塗り師のところに行って、相談しながら自分で塗っている。自分の作品を売りたいときは自分で塗れば一応自分の思い通りになる。商品になるものは塗り師に任せて、自分用や見本などは自分で塗るそうだ。
 また、HTさんは20年以上前から井波に毎日遊びに行って、欄間を彫っているところを眺めて技を盗んでいる。そうしているうちに何年かして自分で欄間も作れるようになり、商売までした。高岡の問屋の人は、HTさんのところに持って行けば何でも彫ってくれると言っているらしい。「自分はこれとこれしかできないと言っていたら、仕事の量が減っていく。親方に習っただけで1人前と言っていたら、芽の発展がとまってしまう。独立した後もどんどん勉強しなければならない。だから自分は木であれば何でも彫刻する。」とHTさんは語る。

10)出品者の名前

 漆器には制作の発案をした人の名前がでる。彫刻師の人が発案した場合は、自分で彫って、後は塗り師の人に塗ってもらう。塗り師の人が発案した場合は、彫刻師の人に彫ってもらって、後は自分で塗る。要するに発案した人はその人の担当の仕事をし、後は違う人に任せる。けれども発案した人の名前しか作品には載らない。しかし、みどり会では製作に関わった皆の名前を載せている。まず発案者の名前を一番上に書いて、その下に木地師、塗り師、加飾師というふうに名前を書いている。その方が、お客様に対して安心して品物を届けられるという。他の産地でも大体そういう方向になってきており、高岡でも段々義務になってくると思う、とHTさんは話す。自分が作った作品には自分で責任を持てということのようだ。

11)時代によるデザインの変化

 昔のデザインは凝っていたが、今のデザインはシンプルだとHTさんは言う。凝ったものは売れなくなり、ワンポイントのものやパッと目の引くものが売れている。デザインも概してお客さんのニーズに合わせたようなものになっていく。現代の家には銅器や漆器の置物が少なくなってきている。そういう置物を買うお金があるなら、旅行に行ったり、おいしいものを食べに行ったりして、他のものに使ったほうがいいというふうになってきた。「まぁ日本人ちゅうもんか、徐々にそういうような性格になってきたのかね。一回また元にもどいて(戻って)ほしいがやけどね。ハハハ。」とHTさんは語る。今、経済産業省で指定された伝統工芸の産地といえども、仕事が減ってきている。昔は、技術さえ良ければ死ぬまでどれだけでも仕事が入ってくると言われたが、今はそうはいかない。だから伝統工芸は行き詰っていくだろうとHTさんは言う。
 デザインの変化が一番目に付くのが展覧会だそうだ。昔は賞に入ったりするのは凝ったものだったが、今はやはりシンプルなものだという。今凝ったものを作っても「骨董物」になってしまう。
 HTさんに、自分ではシンプルなデザインか、凝ったデザインか、どっちを作りたいかを聞いてみると、次のように言っていた。「やっぱ凝った(もの)が作りたいわ。そりゃ、どこの職人も誰も一緒や思う。やっぱ自分のめいっぱいのことやりたい。それは職人やわ。そんなシンプルな、手抜いたねえ、簡単なものやりたいと思わん。だけど、今の時代は、それやっとってちゃあ、売れもせんし(笑)、生活できんようになるからね。やっぱ職人やさけ、まず生活せんなんからね。日本のね、戦後の政治が悪いがか教育が悪いがか(笑)、日本人がそういうような生活水準なって、考え方もそういうがになってきたからねー。」

12)後継者問題と職人の高齢化

 HTさんは子供に継いでほしいとは思わなかった。まず生活ができない。HTさんは高岡の職人はみなそう思っていると言っている。後継者「問題」というよりも、実際は「無理」らしい。後継者を育てたい気持ちはあるが、育てたらかわいそうだとHTさんは言う。親方自身が生活できないのに、弟子の責任までも持つことができないからだ。伝統工芸に後継者がいないということの核心は、そこにあるらしい。若い人は全部やめていくため、HTさんが彫刻師では一番若い。後継者や弟子を育てたいという気持ちがあるため、市や組合、小学校などから頼まれたらHTさんは喜んで教えに行く。高岡の工芸高校にも1年に1、2回教えに行ったり、カルチャーセンターやデザインセンターにも行ったりする。1人でも多くの人に自分の持っている技術を教えたいとHTさんは言う。まず生活できるとしたら、職人さんは誰も彼も自分の子供に継がせたい、ともHTさんは言っていた。
 HTさんが父親のところで仕事をしたときには、職人は死ぬまで仕事があると言われていた。それが昭和40、50年代から逆転して、そのような簡単なものではなくなってきて、若い人がどんどん仕事を変わっていった。彫刻師はみな60代、70代で、50代は「若手」。塗り師はみな40代、50代で、30代が「若手」。職人の世界全体で高齢化が進んでいるが、彫刻師は特に顕著であるようだ。若い人たちは今、「作家」の道へ進もうとしている。問屋さんに頼まないで、個展を開いたりして自分で売っている。そうしないと生活できないらしい。

13)職人気質と環境の変化

 HTさんは職人たちの付き合い方が変わったと感じている。昔なら職人どうしが打ち明けて、一緒に研究などをしていた。今は競争だから、まずそういうことはしない。喋るとマネをする人がいるため、自分の思ったことは絶対に喋らず、言っても差し支えないことだけを喋るそうだ。今の職人さんは昔と違って、せこせこしていてオーラがないとHTさんは言っている。オーラがあるということは、それだけ仕事があり、余裕を持って仕事をしていたということである。今の時代は昔のように余裕を持って仕事をする人はいないそうだ。問屋さん自身もそういうふうになってきて、自分のところの主力作品は大規模なフェアなどには出さず、自分のお店だけで売る、ということであった。


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