望郷の詩


李白の「静夜思」といえば、望郷の詩の傑作として古来有名である。  
牀前看月光 牀前 月光を看る、
疑是地上霜 疑うらくは是れ地上の霜かと。
擧頭望山月 頭を挙げて山月を望み、
低頭思故郷 頭を低(た)れて故郷を思う。
――ベッドの前に月の光がさすのが見えた。まるで地上の霜のように寒々としている。ふと頭を上げては山の上の月を眺め、頭を垂れては故郷のことを思った。
 「頭を低れて故郷を思う」という、飾り気がなくすこぶるわかりやすい表現が、中国人のみならず日本人にも好まれている。私が中国に留学していた頃も、留学生のための夜会が催されると、日本人留学生がよくこの詩を朗唱してみせたものである。
一方杜甫の「絶句」と題する五言絶句も、望郷の詩として愛唱される。
江碧鳥逾白 江(かわ)は碧にして鳥は逾(いよい)よ白く、
山青花欲然 山は青く花は然(も)えんと欲す。
今春看又過 今春 看(み)すみす又た過ぐ、
何日是歸年 何れの日か是れ帰年。
――川は深緑に、鳥はますます白く、山は緑に、花は燃えんばかりに咲こうとしている。今年の春も見ている間に過ぎてしまおうとしている。いったいいつになったら故郷へ帰れるのだろう。
「何れの日か是れ帰年」という表現もまた非常にわかりやすく、家族を抱えての流浪を強いられていた杜甫の苦渋がよく伝わってくる作品である。春の美しい風景も、彼にとっては新たな愁いを呼び起こす触媒だったのである。
 ところが中国の名詩の中で、このようにストレートに望郷の気持ちをうたった詩がむしろ少数派であることは、一般の日本人にはあまり知られていないようである。中国最古の詩集である『詩経』には、望郷の詩はないわけではないが、それは例えば出征した兵士の父母への思いのように、あくまで一時的に故郷を離れている人の心情である。漢代の「古詩十九首」其一は、
行行重行行   行き行きて重ねて行き行き、
與君生別離   君と生きて別離す。
相去萬餘里   相い去ること万余里、
各在天一涯   各おの天の一涯に在り。
道路阻且長   道路 阻しく且つ長く、
會面安可知   会面 安くんぞ知るべけん。
――どこまでも旅路は続き、君と生きながら離ればなれになってしまった。互いに万里あまりも離れてしまい、それぞれ天の両端にいるかのようだ。道は険しく長く、いつになったらまた会えるのかもわからない。
という哀切極まる出だしであるが、これとて旅に出た夫が妻を思う心情であり、生活の基盤そのものが他郷にある李白や杜甫の望郷とは事情が異なる。
 唐代になると、左遷されて他郷に任官した人の詩も多くなるが、あまりストレートに望郷の念を表そうとはしない。例えば白居易の「重題」。
日高睡足猶慵起  日は高く睡(ねむ)り足りて猶お起くるに慵(ものう)し、
小閣重衾不怕寒  小閣に衾(ふすま)を重ねて寒きを怕(おそ)れず。
遺愛寺鐘敧枕聽  遺愛寺の鐘は枕を敧(そばだ)てて聴き、
香爐峰雪撥簾看  香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る。
匡廬便是逃名地  匡廬は便(すなわ)ち是れ名を逃るるの地、
司馬仍爲送老官  司馬は仍(な)お老を送るの官為(た)り。
心泰身寧是歸處  心は泰(やす)く身も寧(やす)く是れ帰する処(ところ)、
故郷何獨在長安  故郷 何ぞ独り長安にのみ在らん。
――日は高く昇り眠りも十分足りたのにまだ起きるのが物憂い。小さな中二階で布団を重ねて寝ているから寒さの心配もない。遺愛寺の鐘の音は枕を斜めに傾けて聞き、香炉峰の雪は寝たまま簾をはね上げて見る。廬山は俗世間の名誉や利益を逃れるための場所であり、(今自分が就いている)司馬の官はやはり老後を送るための(ひまな)位である。身も心も安らかに居られる所が落ち着く所なのであり、故郷は何も長安ばかりにあるものではない。
「枕草子」にこれを踏まえた謎かけが出てくることで知られる詩であるが、「何も長安ばかりが故郷でもなし」と開き直ってみせている。この当時44歳の白居易は江州司馬に左遷されていて、長安は彼の生まれ故郷ではないけれども、16歳の頃から住んでいたから、ほとんど故郷のようなものであった。
 宋代になると、この傾向はいっそう顕著になる。宋代随一の詩人蘇軾が黄州(現湖北省)に左遷されたときに歌った傑作「初到黄州(初めて黄州に到る)」に
自笑平生爲口忙  自ら笑う 平生 口の為に忙しきを、
老來事業轉荒唐  老来 事業 転(うた)た荒唐。
長江繞郭知魚美  長江 郭を繞(めぐ)って魚の美なるを知り、
好竹連山覺筍香  好竹 山に連なり筍の香(かんば)しきを覚ゆ。
逐客不妨員外置  逐客は妨げず 員外の置かるるを、
詩人例作水曹郎  詩人は例として水曹郎と作(な)る。
只慙無補絲毫事  只だ慙(は)ず 糸毫の事をも補う無く、
尚費官家壓酒嚢  尚お官家の圧酒嚢を費やすを。
――自分の平生が口のおかげで(舌禍のために、口に糊するために)忙しいのは我ながらおかしいことだ。年老いてからというもの自分の仕事はいよいよでたらめになっていく。長江が城郭をめぐって流れているので魚のうまさを知り、立派な竹薮が山に連なっているので筍の香しさを感ずる。島流しの身なら定員外の官への任命もかまわない。(梁の何遜、唐の張籍のように)詩人は水曹郎の位に就くのが慣例のようだ。ただ国にはいささかの役にも立っていないのに、それでも政府から給料代わりに酒こし袋をいただいているのだけが恥ずかしいことだ。
と言い、左遷の境遇を嘆くどころか、左遷先の味覚や風物を積極的に楽しみ、他郷の人となろうとしている。その上「国のために働きたいのに、こんな所で給料泥棒をしているのは恥ずかしいことでございます」などと嫌味を言われては、左遷した側も立つ瀬があるまい。蘇軾の弟子であった黄庭堅も黔州(現四川省)に左遷されたとき、「竹枝詞二首」で次のように歌っている。
其一 
撐崖拄谷蝮蛇愁  崖を撐(ささ)え谷を拄(ささ)えんとして蝮蛇(ふくだ)は愁い
入箐攀天猿掉頭  箐(もり)に入り天を攀(よ)じんとして猿は頭を掉(ふ)る
鬼門關外莫言遠  鬼門関外 遠しと言う莫(な)かれ
五十三驛是皇州  五十三駅 是れ皇州
――(今にも倒れそうな)断崖や谷を支えようと蝮さえも心配し、森に入って天まで届くばかりの頂上に登ろうとしても、猿は登りきれず頭を振るばかり。鬼門関の外を遠いなどとは言うな。都からここまでの五十三次の宿駅は、みな天子さまのお膝元なのだから。
蝮蛇愁・猿掉頭……長江の三峡にある地名「蝮蛇退(「まむしも引き返す」意)」「猢猻愁(「猿も登れずに愁える」意)」と掛けている
鬼門関……峡州にあった関所。これを越えれば生きて帰れないという意味を含む。
其二
浮雲一百八盤縈  浮雲は一百八盤に縈(まと)い
落日四十八渡明  落日は四十八渡に明るし
鬼門關外莫言遠  鬼門関外 遠しと言う莫かれ
四海一家皆弟兄  四海は一家 皆な弟兄
――浮雲は百八曲がりの険しい山道にまといつき、夕日は四十八の渡し場の一つ一つを赤く照らし出す。鬼門関の外を遠いなどとは言うな。天下の内は一家であり、人はみな兄弟なのだから。
開き直りもここまで来たら見事と言うほかない。まるで黄庭堅の高笑いが聞えてきそうだが、しかしそれが心底からの笑いであったかどうかとなると、やはり疑問符がつく。左遷された詩人が望郷の念を歌わないのはあくまで表向きのことであって、プライベートになると事情は違っていたようである。例えば白居易が左遷されていた当時に盟友の元稹(字は微之)に送った手紙「微之に与うるの書」は、
 四月十日夜、樂天白。微之微之、不見足下面已三年矣、不得足下書欲二年矣。人生幾何、離闊如此。況以膠漆之心、置於胡越之身、進不得相合、退不能相忘、牽攣乖隔、各欲白首。微之微之、如何如何。天實為之、謂之奈何。
 四月十日夜、楽天白(もう)す。微之よ微之よ、足下の面を見ざること已に三年なり、足下の書を得ざること二年ならんと欲す。人生幾何ぞ、離闊すること此(か)くの如し。況(ま)して膠漆の心を以て、胡越の身に置き、進みては相い合うを得ず、退いては相い忘るる能わず、牽攣乖隔し、各おの白首ならんと欲す。微之よ微之よ、如何せん如何せん。天は実に之を為せり、之を奈何と謂わん。
――四月十日夜、楽天申し上げます。微之君、微之君、もう3年もあなたのお顔を見ず、2年近くもあなたのお手紙を見ておりません。人生はいかほどの長さだというのでしょうか、それなのにこんな風に長い間離ればなれになっているとは。まして私たちは漆やにかわのように固く結びついた友情でありながら、その身は胡と越のように遠く離れた地にあり、進んでも会うことはかなわず、退いても忘れることはできず、心は引かれながらも身は隔てられ、お互いに年老いてしまおうとしているのです。微之君、微之君、どうすればいいのでしょうか。天がこんな運命をもたらしたとは、いったい何と言えばいいのでしょうか。
と、今にも慟哭の声が聞えてきそうなストレートな表現で、都の友人に会えない悲しみをつづっている。しかし彼はただ嘆き悲しむばかりではなく、この後で「江州は気候もよく、疫病もなく、蛇や害虫も少なく、魚も酒もうまいし、食べ物も都とあまり変わらない」と言い、さらに「晩年までここで過ごしてもいい」とも言っている。友人をあまり心配させまいとする気遣いも忘れてはいない。
 蘇軾もやはり故郷を思わないわけではなかったであろうし、高笑いする黄庭堅の目にもさぞかし涙が浮かんでいたことであろう。しかしそのそぶりも見せずに開き直ることが、左遷した側に対する最大の当てつけだったのである。李白や杜甫がストレートに望郷を表現できたのは、恐らく彼らが無位無官だったからであろう。
 ところで日本の望郷の歌と言えば、もっとも人口に膾炙しているのは文部省唱歌「故郷」であろう。あれはあれでいい歌だけれども、私にはあまりしっくり来ない。町育ちの私の故郷にはごみごみした下町とメタンの泡が浮かぶどぶ川があるだけで、「兎追いしかの山」も「小鮒釣りしかの川」もないからである。子供の頃は「田舎へ帰る」という言葉の意味も長い間わからなかった。帰るべき「田舎」がないのだから。
 日本では「ふるさと」は「田舎」とほぼ同義語になってしまっているし、望郷といえば田舎から都会へ出てきた人が田舎をしのぶことと相場が決まっている。そして望郷の詩歌もまた都会に住んでいる者が田舎を思う内容がほとんどである。
 一旗揚げようと田舎から都会へ出てきて、故郷を思いながら懸命に生きる。これが歌になる「望郷」の決まりきった図式である。もし都会から田舎へ出て行く者があれば、それはほとんど「失敗者」「敗残者」のイメージになってしまう。そんな中で桑名正博の「スウィート・ホーム大阪」は、やはり何かに失敗して大阪を離れる若者の歌なのではあるが、惨めたらしさを少しも感じさせないところがいい。「♪ほんまに世間は広おまんなあ わいも若いしまだこれからや そんでついに大阪を離れまんねん」「♪スウィート・ホーム大阪 スウィート・ホーム大阪 スウィート・ホーム大阪 わいはたぶんもう帰りまへん」……。「たぶん」と言っているのが味噌で、「帰らないくらいの覚悟でいつか錦を飾ることを期する」意味だと受け取りたい。文部省唱歌の「志を果たして、いつの日にか帰らん」もいいけれども、やはりこちらの方が私にはずっとしっくり来る。
 「静夜思」も「絶句」も名作ではあるけれども、私にとってはあまり愛唱する気にはなれない。想像を絶するつらさがあったであろう左遷先での暮らしを笑い飛ばしてしまう蘇軾や黄庭堅のしたたかさにこそ、都会を離れて地方に奉職する者には学ぶところが多いように思う。

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