「物語」と「真実」


  「竹内文書」という知る人ぞ知る「古文献」がある。新興宗教天津教を開いた竹内巨麿が、代々伝わるものと称して昭和10年に公開した文書で、漢字伝来以前に日本にあった「神代文字」だという面妖な文字がびっしり書き込まれている。その内容は神武天皇以前にウガヤフキアエズ73代の王朝が数千万年も続いていて、そのいます場所は太古世界の中心で、モーゼ、キリスト、マホメット、釈迦、孔子といった聖人がみなそこを目指してやってきたという途方もないものであった。天津教はこの文書の信奉者を取り込んで、軍部にまで浸透していったが、その記事が皇国史観に反するものであるとして官憲が動き出し、竹内巨麿は不敬罪で逮捕される。竹内巨麿自身は最終的に無罪になったものの、竹内文書は狩野亨吉や橋本進吉ら国語学・古文書学の権威によって徹底的な検証が行われた結果、近代の語彙が混じっていることなどを根拠に偽作と断定された。
 かくてこの恐るべき「古文献」は葬り去られた……かに見えたが、実はそう簡単にはいかなかった。学問の世界では確かにこの「文書」の真贋は決着ずみのことであり、その結論を見直そうというのは、地球は本当に丸いかどうか考え直そうというに等しいことである。故にこれを古代史の「史料」として扱おうとする学者は一人もいない。それにもかかわらず、この「文書」の信者は今に至るまで後を絶たないのである。「竹内文書」で検索をかけてみれば、信者のサイトは山ほど見つかる。
 富山県は竹内巨麿の出身地で、ウガヤフキアエズ王朝の所在地ともされていただけに、竹内文書の熱心な信奉者がとりわけ多いらしい。学界では完全に否定されていることは彼らも無論承知しているが、それでも「ロマンがあっていいではないか」というのが彼らの言い分である。
 私はここで竹内文書そのものについて立ち入るつもりはない。むしろ気になるのは、偽物と断定されながら「ロマンがあるから」それを信じるという人々の心理である。
 彼らの言う「ロマン」とはいったい何だろうか。恐らく「古代日本は世界の中心であって、世界中の聖人がそこにひれ伏した」という「物語」のことであろう。「古代日本はこんなにすごい国だった」という「物語」があれば、それを信じることで、その末裔である自分も偉くなったような気がしてくる。これこそ自尊心を回復できる妙薬なのであり、麻薬のように陶酔させてくれる「ロマン」なのではあるまいか。
 そうであるならば、その「物語」が史実であったかどうかは、彼らにとってどうでもいいことである。ただ「信じ」さえすれば、それで陶酔できるのである。そうなるといくら学者が根拠を挙げて「それはウソだ」と言ったところで、もはや聞き入れてはもらえない。つまりここでいう「物語」とはそれを信じる人々の「心象における現実」なのであり、小説やドラマのような「フィクションと知りつつ楽しむためのお話」とは似て非なるものである。
 竹内文書ばかりではない。現代社会では似たような「物語」はいくらでも見つかる。曰く「南京大虐殺はなかった」「中国は古代から残虐行為を繰り返してきた」「太平洋戦争は聖戦だった」……。
 これらの命題の真偽はどちらであろうとこの際関係ない。己の不遇や鬱屈を国家に投影して、「強くすぐれた正しい国」の「物語」を渇望する人々は、いつの世にもどこの国にも一定数存在する。彼らにとってはこうした「物語」を「信じる」ことが、自尊心回復の手段なのである。こういう人々の前では、学者の説く「真実」は全く無力である。自分に都合のよい「真実」だけを信じ込み、都合の悪い「真実」は「左翼」だ「右翼」だとレッテルを貼って終わりにするか、「学者先生は頭が固い」という便利な殺し文句で切り捨てるだけである。
 日本人ばかりではない。中国の一般大衆も「日本の文化はすべて中国の借り物」という「物語」を深い考えもなく信じているし、アメリカの退役軍人は原爆投下後の悲惨な映像をどれだけ見せようと「原爆投下は正しかった」の一点張りであることはよく知られている。かく考えると、太平洋戦争が「聖戦」だったという考えには到底賛同はできないけれども、それを主張する遺族会の人々を頭ごなしに責め立てても仕方がないであろう。彼らにとって身内が「敗軍の兵」となって指弾されるのは一生ついて回る苦難なのであり、最も手っ取り早い自尊心回復の特効薬は「あの戦争は正しかった」という「物語」なのである。それを力ずくで取り上げても禁断症状に陥るだけで、そうした「麻薬」に頼らなくても自尊心を保てるような「癒し」の手段を考える方が大切である。
 古代における神話もまた「物語」であった。現代の我々から見るといかにも荒唐無稽な話であっても、古代人は初めからそれらを「虚構」として語り伝えたわけではない。神話はそれが史実か否かに関係なく、古代人の「心象における現実」なのであり、彼らはそれを「信じて」大切に伝えたのである。科学のなかった時代、神話は科学に代わってこの世の成り立ちや自然現象の原理を説明するよりどころだったのであり、また政権の成り立ちとその正統性を説明するよりどころであった。それを「信じる」ことによって、人々は恐ろしい自然の猛威に安心して立ち向かえたのであり、強盛な氏族や国の一員としての自信を持つことができたのである。してみると現代において自尊心を得る手段として「物語」を渇望する人々は、まさに古代的な精神の持ち主であると言えよう。
 そして民衆の求める「物語」と国家の政策がシンクロナイズした時、悲劇が起きる。ナチスドイツの惨劇は言うに及ばず、世の宗教紛争や民族紛争と称されるものはおおむね異なる「物語」を信じる人々同士の衝突であり、ブッシュ米大統領は「世界一強く正しい民主主義の国」という「物語」に衝き動かされるまま、世界中に迷惑をばらまいている。「物語」の持つ力はかくも恐ろしい。
 さて学者は「真実」を探求するのが仕事である。私のしていることも誤解されやすいが、古書を信じろと説くのではなく、古書に記された「物語」の性質や、その人々に与えた影響を探ることである。
 「物語」を信じる人々の前には「真実」も無力であるとすれば、学者のすることは全くの無駄骨なのであろうか。決してそうではない。コペルニクスやガリレイの説いた「真実」は、最終的には天動説という「物語」を圧倒し、人々に受け入れられた。ダーウィンの進化論もまた然り。「真実」はやはり地道に説かれ続けなければならないのである。それはやがて人々に「物語」の持つ力への自覚を促し、「真実」を受け入れる強靭な精神を育てることであろう。「物語」からの覚醒を一歩一歩繰り返しながら、人々は近代的精神を獲得したのである。
 とはいえ学者も人間である。特に人文系の学問では、自らが「物語」に足をすくわれないよう細心の注意を払わなければならない。ことに歴史の門外漢が書いた歴史の本は、いちいち書名は挙げないが、たとえ著者が大学教授の肩書きを持っていたとしても、自身が「物語」にからめ取られてしまっていることに全く無自覚であることがほとんどである。初めに結論ありきで、その結論を何とか証明しようと都合のよい史料だけを選び、こじつけにこじつけを重ね、誤解に曲解を上塗りする、自分の本来の専門では決してやらないであろうことを平然と行っているのが、こうした本の実態である。「物語」は学問のプロでさえ惑わせるものであることを、我々は心しなければならない。
 常に自らを厳しく律しながら、「物語」を超える「真実」を人々に提供する。まことに困難な道ではあるが、それが学者の務めである。

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