「差別表現」を考える

差別−被差別関係の「ねじれ」と他者化


1.はじめに

 「差別表現」あるいは「差別語」をめぐる問題は、近年マスコミでも大きく取り上げられ、様々な立場の論者によって活発な議論がくりひろげられてきました。とくに、筒井康隆氏の小説「無人警察」については、筒井氏の「断筆宣言」をきっかけに議論が沸騰し、非常に多くの人が意見を表明しています。
 しかし、これまでの議論の多くは、(差別)表現の規制の是非やその方法、差別への抗議のありかたやマスコミの対応など、どちらかと言えば二次的な問題に終始し、発端となった小説そのものの評価は十分行われてこなかったように思えます(1)
 このように具体的な表現内容についての議論が充分に展開されなかった原因は、「無人警察」における表現の意図と、その小説が差別表現であるか否かが切り離されてしまったことにあると思います。差別であると告発された表現が小説の主題とどのように関っているかは、まったくと言っていいほど論じられてきませんでした。
 しかし、私は差別表現は表現の意図と関連づけて捉える必要があると考えています。表現者がなぜそのような表現をあえて用いるのかが解明されてこそ、差別に抗する有効な戦略が組み得るはずだからです。
 もちろん表現者の意図があいまいであったり、汲み取ることが困難な「差別表現」もあるでしょう。しかし、小説「無人警察」は意図を読み取りやすく、しかも比較的単純な構造を持っており、その意味において典型的な「差別表現」であると私は考えています。 そこで、本稿では小説「無人警察」を題材として分析することによって、「差別表現」に関する理論の発展に寄与したいと思います。

2.筒井康隆「無人警察」をめぐる議論に見られる「差別表現」観

1)「無人警察」とそれをめぐる評価

 まず最初に小説「無人警察」の大まかなストーリーと問題になった箇所を紹介しておきましょう。「無人警察」は20枚に満たない(文庫判では11ページ)大変短い小説です。舞台はエア・カーやロボットなどお馴染みのSFアイテムが町にあふれる未来社会で、登場人物は(ロボット巡査以外は)主人公の「わたし」だけです。物語は「わたし」によって一人称で語られます。
 最初は「わたし」が出勤途上に出会う未来社会の様子が描写されます。安価で誰もが乗っているエア・カー、よごれた空気を処理する「下気道」、酸素供給装置。その中で「わたし」はその社会を肯定的に評価しているらしいことが示されます。
 これらの描写に続いて、「わたし」はロボット巡査と出会います。問題となった箇所の一つめはこのロボット巡査についての描写です。少し長めに引用しておきましょう。
 しかし、そのロボットはよく見ると新型のロボットであり、新しい機能を持っていることを「わたし」は思い出します。このくだりが問題になったもう一つの箇所です。
 このロボットは罪悪感による「思考波の乱れ」を検知して、その人を警察に連行するのですが、「わたし」はやはり「身におぼえなんか何ひとつ」ありません。しかし、ロボット巡査は「わたし」に向かって歩いてきます。
 このあたりから小説の記述は「わたし」の自問自答になります。自分は何か悪いことをしたのだろうか。いや、そんなおぼえはない。もしかしたらこのロボットは超能力を持っていて心の中まで見抜くのかもしれない。しかし、それでも法律をやぶったと言えるほどのことはしていない。ロボット巡査を見たときに嫌な存在だと思ったのが悪かったのか? しかし、ロボットへの賞賛を心の中で思い続けても事態は変わりません。「わたし」は周囲の目に恥ずかしい思いをしながらロボットに追い立てられ、警察署に向かいます。
 警察に着いた「わたし」は「自分は何も悪いことをしていないのに連行された」と取調官に食って掛かります。そこでロボット巡査の「記憶リーダー」を調べて見ると、ロボットは「わたし」の潜在意識にあったロボットへの反感を検知したために「わたし」を連行したということが分かるのです。
 これに激高した「わたし」は「プライバシーの侵害だ」「越権行為だ」「ロボットなど、たたき壊してしまえ!」とどなりちらすと、取調官は「ロボットの悪口を言うのはやめろ!」と「わたし」の胸ぐらをすごい力でつかみます。実は取調官もロボットだったのです。そして、取調官ロボットのコントローラーを持って現れた刑事も「わたし」にはどことなく、ロボットくさく感じられてしまうのです。

 この小説が書かれたのは1965年ですが、これが問題にされるのは、角川書店発行の高校一年の教科書『国語I』への収録が決まってからです。マスコミを舞台にした議論の発端は小説の掲載を知った日本てんかん協会が記者会見を開いて発表した声明です。これに対して、角川書店はてんかん協会の要求をはねつけ、筒井康隆氏もほぼ同じ趣旨の「覚書」を出版社や新聞社などに送りました。
 私の見解では、この時点で「無人警察」そのものの「差別性」に関する論点はおおむね出尽くしています。そこで、まず日本てんかん協会、角川書店、筒井康隆氏の(この時点での)小説の評価に関わる主張をまとめてみましょう。
日本てんかん協会の抗議 (3)
筒井康隆の対応 (4)
角川書店の対応(5)

2)3つの「差別表現」観

 上に挙げたそれぞれの主張を分析すると、その背景にはある表現が差別表現であるかどうか(あるいは「不適切」な表現かどうか)を判断する基準が存在していることがわかります。さらに、この基準は、「差別表現」についての特定のイメージと結び付いています。このようなイメージ−「差別表現」観−はおよそ次の3つに集約できるでしょう。

3.差別論の問題点

 しかしながら、私は上に挙げたような「差別表現」観は、それぞれに問題点を持っていると思います。そして、その問題点は、単に「差別表現」に関してだけではなく、差別問題についての理論−差別論が持っている問題点だと私は考えています。

1)「被差別」の論理

 「被差別者を傷つける」という表現に典型的に現れているように、ある表現を「差別表現」だとする論理、「差別表現」は規制されるべきとする論理は、すべてある種の表現が被差別者に「被害」を与える、という論理に支えられています。実際このような論理は、差別問題の社会的解決のために有効な、(現在においては)ほぼ唯一の論理でしょう。
 もちろん「被害」の認定には困難な点がいくつかありますが(6)、具体的な問題において必ずしも社会的に解決不可能なことではありません。現実的には「当事者」の立場を代表するような組織が設けられたり、そのような組織と表現者との間で「対話の場」が設けられることもあるでしょう。「無人警察」を巡る議論でも、オープンな議論、あるいは表現者と告発者の直接の討論を求める意見は多数みられましたし(7)、それは日本てんかん協会と筒井康隆氏の往復書簡という形で実現し、両者の間の「合意」を達成するに至りました。筒井氏は「無人警察」がいじめを引き起こす可能性を認め、そのことを理由に小説の教科書からの削除を求めることに合意し、これを持って一応の「決着」を見たわけです(8)
 このような経緯を見ると、差別表現をめぐる議論は、その表現による「被害」(の可能性)のみを論点にしてなされることが生産的であるように思えます。「無人警察」をめぐる議論も、最初から「教科書問題」として限定し、それを高校生に強制的に読ませることによってどのような影響を及ぼすのか、という論点にしぼって議論がなされれば、もっと早く決着がついていたかもしれません。
 しかし、実際には事態はそのような経過をたどりませんでした。筒井康隆氏はいきなり「断筆」という思い切った行動に出たわけだし、マスコミ関係者や作家などの対応にはいささか感情的なものも見受けられました。
 このような、「過剰な」反応が見られた原因は、「被差別」の論理が必然的に帰結する差別(表現)行為のイメージにあります。
 差別を被差別者の「被害」によって特定する限り、差別(表現)行為は「被害を帰結する行為」、被差別者に対する(意識的な、あるいは無意識の)「攻撃」として捉えざるを得ません。そしてさらに、「攻撃」のイメージはそれを行った者のイメージも決定づけてしまいます。
 「攻撃」のイメージは、それが生じた原因についての説明の違いによって、いくつかのバリエーションがあります。先にあげた「差別表現観」の二つめと三つめはいずれのこの「説明」に関わるものです。

2)悪意の差別論

 もっとも単純な考え方は、「攻撃」は意図的に起こされたのだとする見方です。ある属性を持った人々や集団に対して、「悪意」を持っているものが、攻撃の意図をもって差別をするという大変わかりやすい「説明」です。
 筒井康隆氏は差別についてこのような認識を持っているように思います。日本てんかん協会の抗議に対する最初の対応(筒井:1993a)でまず最初に「この作品において、小生がてんかんを持つ人を差別する意図はなかったことを申しておきます」と述べ、子どものころにてんかんを持つ友人がいたことを付け加えるなど(その後で「一応無関係のこととして考えねばならないでしょう」とは書いているが)、「意図」についての弁明が真っ先に来ていることからもそれがうかがわれます。また、「合意」が得られた時点でも「無人警察」が「差別表現」あるいは「差別を助長する表現」であるとも認めていないのは(9)、やはり侮辱や攻撃の意図がないという認識に関連しているのでしょう。
 差別が「悪意」によるものだという認識は、筒井氏だけの特殊な認識ではなく、かなり広く流布したイメージだと思います。もちろん筒井氏もほかの多くの人々も、差別(の被害)が必ずしも意図的な行為によってのみ引き起こされるとは限らないことは、知ってはいるでしょう。それでも典型的な差別は「悪人」である差別者が引き起こすものだというイメージがかなり強固に存在していると思います。
 このようなイメージは、差別告発に対する非常に強い感情的反発を招く一つの原因になっています。「あなたは差別をしている」という告発は,人間性を根本から疑われかねないぐらいの強い意味を持ってしまうがゆえに、告発された者も必死になって防戦しなくてはならなくなるのです。

3)偏見と差別意識の理論

 「悪意の差別論」をもう少し洗練したものが偏見や差別意識の理論です。一口に偏見・差別意識といってもさまざまな考え方がありますが、差別をする側の被差別者に対する認識に焦点を当てた理論という点は共通しています(したがって「悪意」もこれに含むことができます)。「悪意の差別論」と異なるのは、偏見や差別意識が容易に拡散してゆく性質を持ち、(程度の差はあれ)マジョリティ集団にかなり広く共有されていると考える点です。すなわち、特定の「悪人」が差別をするのではなく、かなり多くの人が(場合によってはすべての人が)心の中に持っている偏見や差別意識によって差別をしてしまう可能性を持っていると考えるのです。
 しかし、いくら多くの人が持っているとはいえ、そのことによって偏見や差別意識の持ち主が「悪人」だというイメージはなくなりはしません。むしろ、偏見や差別意識は、心の奥底に無意識のうちに存在しているというような含意を持つことがあるので、場合によっては「悪意の差別論」以上に被告発者に与える動揺は大きいでしょう。
 偏見や差別意識については、もう一つ指摘しておかなければならない点があります。
 偏見や差別意識の内容は一口で言うと被差別者についてのなんからのマイナスイメージです。能力や人間性が劣っているというイメージや、自分と敵対する者であるというイメージ、あるいは漠然とした不快感や忌避感情なども含まれます。重要なことは、これらがいずれも「被差別者についての」イメージや感情であるということです。
 これは偏見や差別意識を被差別者に対する「攻撃」の原因と考える限り当然のことです。しかし、私はこの点に偏見や差別意識に関する理論の大きな問題点があると考えています。これについては後で詳しく述べることにします。

4.差別問題の「ねじれ」構造

 以上のような考察から、差別(表現)に対する告発が紛糾する典型的なパターンとその原因を抽出することができます。
 被差別者による差別(表現)の告発は、被害やその可能性だけでなく、差別だとされる行為が行われた原因についての認識を含んでいるように受け止められます。すなわち被告発者が「差別者=悪人」であるとか、偏見や差別意識の持ち主であるという認識です。これは、告発そのものに明示的に含まれていることもあるでしょうが、そうでないケースもあります。「無人警察」の場合、日本てんかん協会の抗議文にはそのような表現はありませんでしたが、少なくとも筒井氏はそのような受け止め方をしているように思います。これに対して、被告発者は自分が悪意を持っていたとは思わないし、「心の奥底の差別意識」といわれると心許ないが、やはりないと信じたい。第一それは被差別者を意識して、被差別者に対して書いたり言ったりしたことではないのです。言ってみれば予想もしない方角から「いちゃもん」をつけられたように感じてしまうのです。
 また、「『被差別者についての否定的イメージ』を含んでいると言われるが、それは受け止め方の問題である。表現の意図とはあまり関係のない細部にすぎない。被差別者やその属性を示す言葉を使ったかもしれないが、それは単に引き合いに出しただけだ。そんなに細かいことにいちいち文句を付けられてはきりがない」というように感じてしまいます。
 告発された表現者がこのように感じてしまうことには理由があります。それは表現者が表現を通じて取り結ぼうとしている関係性と、被差別者が告発する関係性が「ねじれ」ているためです。
 表現者にとって告発された表現は、被差別者に向けられたものではないし、被差別者を主題にしたものでもありません。想定された読者には被差別者が含まれているかもしれませんが、それは意識されることがありません。表現の中に現れる被差別者はあくまでもあるイメージを喚起するためだけに引き合いに出されるにすぎません(図1)。



 しかし、被差別者にとってその表現はまさに自分たちを指し示すものだと受け取られます。少なくともある部分だけは自分たちに対して向けられた表現であると受け取るのです。現在の差別論は先に述べたような「被差別」の論理によって構成されており、差別は被差別者に対して向けられた行為であると捉えますので、図2のような構造のみを取り出して、それを差別であると告発することになります。



 ここに「ねじれ」の構造ができあがるのです。
 図1のようなリアリティを持つ表現者にとって図2のようなリアリティを前提にした告発は容易には理解しがたく、受け入れることが困難です。
 言うなれば、表現者は被差別者の方を向いているのでなく、別の方角を見て書いたり言ったりしているのです。図3のように、表現者自身がイメージする表現者の「視線」と、被差別者が想定する、あるいは要請する表現者の「視線」は「ねじれ」てしまっているのです。



 私は、このような「ねじれ」構造は差別問題にとって非常に根本的な問題であると思います。「差別」が認識されにくかったり、解決が困難であることの原因の多くは、このような「ねじれ」構造にあると考えているのです。
 しかし、現在の差別に関する理論枠組みではこのような「ねじれ」構造を把握することはできません。それは、現在の理論枠組みが、「差別−被差別」という二者関係で差別問題をとらえようとしているからです。確かに差別の告発を起点として、被差別者の側から差別問題をとらえれば、そこには差別をした者とされた者しか存在しません。しかし差別を告発された者から見れば、告発者は自分と自分が受け手として想定していた人々や表現の主題との間に割り込んできた第三者なのです。
 二者関係で差別問題を把握する枠組みでは、表現全体の主題と差別だとされる表現を関連づけてとらえることができません。それはすなわち、そのような表現が用いられた理由を、「悪意」や「偏見」以外から説明することができない、ということです。
 そのため、差別を二者関係ではなく、三者関係として把握するための枠組みが必要となります。私はすでに三者関係枠組みに基づいた差別論の提案をしていますが、ここではその詳細には触れずに、差別表現に絞り、「無人警察」を題材にして具体的に議論を進めましょう(10)

5.「無人警察」における「てんかん」の意味

 三者関係枠組を用いて「差別表現」の分析をする上で必要なことは、「読者」を視野に入れることです。作者が「読者」をどのように想定し、どのように作品世界に引き込もうとしているのか、そして、その際に被差別者に関わる表現をどのように用いているかが考慮されねばなりません。
 それでは、まず「無人警察」の構成をもう一度振り返ってみましょう。
 「無人警察」の主題は、(近)未来における管理社会の恐ろしさを描くことにあります。「無人警察」では、これを一人の人物が理不尽な目に遭う様を描いて読者に示そうとしています。この作品が読者に対して訴えかける力を持つためには、いくつかクリアしなければならない条件があります。まず、主人公はどこにでもいるごく普通の人でなくてはなりません。そして、警察のやっかいになるような正当な理由がないことをうまく示さなくてはならないでしょう。長編の小説では人物像を深く描き込んでリアリティを出すことも可能でしょうが、「ショート・ショート」と呼ばれる「無人警察」のスタイルではそれは困難です。むしろ登場人物の描写を極力省略しながら読者を引き込んでいくテクニックこそが眼目だといえるでしょう。
 「無人警察」では、主人公である「わたし」に「〜でない」という形でいくつかの属性を否定させることによって主人公が普通の無垢な人間であることを示す方法をとっています。「酒を飲んでいない」「何も悪いことをした覚えもない」という表現は、「わたし」が自動車を運転したり町を歩いたりする正当な権利のある人物であることを示すと同時に、それが普通のことであり、読者もまたその条件を共有できることを示しています。この2つの条件は読者と「わたし」を同じ立場へくくり込む効果をねらったものだといえるでしょう。「わたし」は読者に向かって、「君たちもわたしと同じだからわたしの気持ちはわかるだろう」と呼びかけているわけです。
 それなら、「わたしはてんかんではないはずだし」という表現はどうして必要だったのでしょうか。まず一つは先の二つの条件を補い、「わたし」の運転・歩行の適格性をより強く印象づけるために用いられたのだと思います。すなわち、肉体的・精神的条件として適格であることを示す記号として用いられているのです。おそらく筒井氏は先の2つの条件では不十分だと感じたのでしょう。飲酒運転の経験があるひとは皆無とはいえないでしょうし、「悪いことをした覚えがあるか」どうかも考えようによってはあやしくなってしまいます。しかし、「てんかん」の場合は、「違う」と確信を持たせることができる条件です。そして、その確信の強さが読者を引き込む強さにつながるのです。
 さらに、「てんかん」は小説の後半でロボットがESPの能力を持ち、潜在意識までも探知してしまうという結末につなげていくための鍵としての役割も持っています。「思考波の乱れのキャッチ」が「読心」「潜在意識の探知」へとスムーズに発展していくためには、当初からロボットが「脳波測定器」を備えているという設定が必要であり、それを正当化する道具立てとして「てんかん」が用いられているわけです。
 しかし、ここでの「てんかん」の位置づけは大変微妙です。最初にロボットの説明をする部分では,物語の構成上ロボットの機能は肯定的に描かれる必要があります(11)。「取り締まり」「病院へ収容」というあまり印象の良くない表現を用いながらもそれを肯定的に評価するためには、読者に取り締まりは正当であり、自分自身は「取り締まり」や「収容」とは無関係だと思って読んでもらう必要があります。また、「わたし」が運転・歩行の適格者であることをより強く示すために「わたし」の特徴をより限定することは、読者を幅広く取り込む可能性を減少させてしまうはずです。それはなんとかして避けねばなりません。
 このような困難さを解決してしまう(と作者が期待した)のが、「てんかん」の「他者性」です。「わたし」とも読者とも無関係な、この社会の十全なメンバーとは見なされない存在、イメージとしては存在するが生きている人間としての実体がない存在として思い描かれることが、上にあげたような厄介な問題を回避し、期待する効果を生み出すのです。取り締まられ、病院へ収容されるのは、誰か知らないリアリティのない存在でしかないので、そのことについて読者が思い悩む必要はありません。「てんかんではない」という「わたし」の属性は、「あたりまえ」で「普通」のことなので、「わたし」を全く限定することなく運転・歩行の適格性を示すことが可能です。
 「てんかん」がこのように使われているからといって、作者がてんかん者を社会の十全なメンバーとして見なしていないとか、そのようなひとは実際には存在しないなどと考えていることを意味しません。小説で使われている「てんかん」は、むしろてんかん者の生活のリアリティと切り離された「記号」であることによって、物語世界を構築し、作者と読者がそれを共有するための道具立てとして機能するのです。
 このような「てんかん」という言葉の用法を「比喩」として使われていると理解するだけでは全く不十分です。確かに「てんかん」は運転不適格な条件の一つとして例示的に用いられているだけだという見方はできます。しかし、それだけでは作者が「てんかん」という言葉を用いた必然性は理解できません。「わたし」と読者にとっての「他者性」こそがここで「てんかん」という言葉が必要とされた理由です。
 それでは、その「他者性」は何に由来するものなのでしょうか。「てんかん」という言葉自体がもともと持っているものなのでしょうか。
 私はそれは作者と読者の共同作業によって達成されるものだと考えています。そもそも「読者にとっての他者性」というようなものが、言葉そのものに付随しているはずがありません。自分のことを指し示すために用いることも第三者のことを指し示すためにも使われるからです(12)
 「無人警察」の場合も、「てんかん」の「他者性」はおおまかにいって二種類のレトリックによって読者に対して仕掛けられています。まず一つは「病院へ収容される」というような表現や他の「悪いこと」と併記されることによってマイナスイメージで語られていること、そしてもう1つは小説の中で「てんかん」が「わたし」にとっての「他者」として語られることです。この2つは互いに補い合うことによってはじめて「他者性」の構築の仕掛けとして完成します。「わたし」にとって「他者」である「てんかん」は、マイナスイメージを付与されることによって読者にとっても「他者」であることを要請されているのです。
 しかし、作者ができるのは「仕掛け」を作ることだけです。このような仕掛けが読者によって受け入れられ、読者が「てんかん」を「他者」として読む限りにおいて、「てんかん」の「他者性」は完成するのです。仕掛けは必ずしも成功するとは限りません。中には「病院へ収容」のくだりで違和感を感じ、その時点ですでに未来社会をあまり肯定的には受け入れられないような人もいるでしょう。しかし、そのような読者にとってはこの小説はあまり面白くないはずです。すなわち、この仕掛けは「無人警察」という小説にとって生命線とも言えるものです。これまで「無人警察」が一定の支持と評価を受けてきたとするなら、この仕掛けも成功してきたのだと考えて良いでしょう。
 これまで明らかにしてきた「無人警察」における「てんかん」表現の位置づけは、差別表現一般に拡張できるものだと私は考えています。すなわち、「無人警察」はかなり典型的な「差別表現」であるということです。いや、むしろ典型的な「差別表現」「であった」と言った方が正確かもしれません。これまでは成功してきたと考えられる作者の仕掛けがこれからも通用し続けるとは限らないからです。もし、ほとんどの読者が「病院へ収容される」という部分で違和感を感じてしまうようであれば、この小説は「差別表現」であるというよりも、小説として失敗作であると言う方がふさわしいと思うからです(13)
 「無人警察」が「差別表現」として典型的であるという認識は、差別や差別表現について、これまでの理論とは全く異なった視点を提供します。次の節ではその点について考えてみたいと思います。

6.差別論のオールタナティブ

 前にも述べたように、これまでの「差別」の元型的なイメージは被差別者に対する直接的・意図的な攻撃であったと思います。しかし、「無人警察」を典型であるとみなすことは、むしろ被差別者「不在」の(すなわち「他者化」されている)状況こそが問題の中心なのだと考えることを要請します。
 直接の攻撃が差別の元型的なイメージであったのは、「差別」が被差別者によって「発見」されてきたからです。直接被差別者にむけられたあからさまな侮辱、露骨な排除、暴力、極端な格差などが、なによりもまず闘わねばならない相手であったでしょうし、多くの差別において現在でもそのような課題が消失したとは思えません。
 しかし、これらの課題が今なお反差別運動の中心課題であるとしても、「差別」という社会現象をより根本的に解明するためには、そしてより大きなビジョンに基づいた運動を構築するためにも、被差別者「不在」の状況は決定的な重要性を持っていると思います。
 「差別」を被差別者の「他者化」から考える視点は、とりわけ偏見・差別意識の理論に根本的な修正を要求します。
 差別意識なるものがあるとしても、それは被差別者についてのイメージではなく、「他者」として被差別者をネガとして参照することによって「われわれ」を形成してゆく言語技術が社会の成員に共有されている状態が、「集合意識としての差別」なのです。被差別者カテゴリーを、侮辱の言葉として使うのではなく、(「無人警察」のように)「適切に」用いれば聞き手/読み手に対して大きな効果を上げることができるという知識こそが、あえて言うならば「差別意識」なのです。
 差別行為や差別表現をする者の視線と被差別者の視線は互いに正面からぶつかりあっているのではなく、「ねじれ」ているのです。
 このような視点は、これまでの差別論が充分に説明できなかった問題にきわめて明快な答えを与えてくれると思います。
 例えば、「なぜ差別や偏見はなかなかなくならないのか」という問いに対しては、差別や偏見が「本来」被差別者にむけられたものではないからだという答えが与えられます。「てんかんではない」という表現と同様に、「かたわ」や「めくら」などの言葉もしばしば否定形で用いられ、あるいは否定を前提にして用いられます。その時それらの言葉を使う者の視線の先にあるのは身体障害者や視覚障害者ではありません。そのため侮辱の意図など意識しないし、罪悪観を感じさせられることもありません。
 被差別者に向けられない差別は、個々の被差別者に対する好意や同情と違和感なく同居できてしまいます。筒井康隆氏にとって、記号としての「てんかん」を使用することと、子ども時代の「てんかんを持つ友人」に対する思いはまったく矛盾するものではないのです。これまではこのような状態について、しばしば「本音とたてまえ」の使い分けという説明がなされてきました。しかし、上の2つは(いかに「論理的に」矛盾していようとも)いずれも「本音」として共存しうるものなのです。記号としての「被差別者」は言葉の意味としては被差別者を指し示してはいても、実際にはそれ以外の「われわれ」を指し示すために使われるわけですから、現実に生きている個々の「被差別者」のイメージとは直接ぶつかりあわないのです。
 それゆえ、偏見や差別意識を被差別者についてのイメージであるとだけ捉えて、それを修正しようとする試みはしばしば失敗に終ります。それは「主要な関心事」ではなく、必要に応じて作り出されるイメージなのですから、どうしてそのようなイメージが必要であったかを問わなければ、根本的な解決にはならないからです。
 また、「ねじれ」構造は被差別者からの差別告発を困難にしています。被差別者に向けられていない差別を被差別者の側から告発するには、それを被差別者に対して向けられたものであると「再解釈」する必要があります。すなわち、もともとよその方角を向いていた「差別者」を被差別者と向き合わせる作業が必要になるのです。この作業はしばしば非常に困難であり、「すれ違った」ままに終る可能性も大きいだけでなく、かりに向き合ったとしても、その時の「差別者」と被差別者の関係はもともとの文脈とは異なったものですから、再度もともとの行為へとフィードバックさせる作業が必要になります。実際部落解放運動などで行われる「糾弾」において、運動側の努力の大部分はこの二つのプロセスに費やされるのだと思います。
 さらに、このような視点は被差別者の「痛み」の言語化にも有効であると思います。差別表現が被差別者を「傷つける」のは、それが侮辱であったり排除を正当化するからだけではなく、「他者化」されることによって被差別者が引き裂かれるからでもあると思います。
 てんかんをもつ高校生が「無人警察」を教材として読まされるとき、その小説としての「おもしろさ」を理解するためには「てんかん」の他者化を作中の「わたし」と共有する必要があります。そうでなくてはこの小説は「正しく」読めないからです。しかし小説の中では「他者」として描かれる「てんかん」も彼/彼女にとっては自らを指し示している言葉として降りかかってきます。その結果、彼/彼女は自らが「てんかん」であるところの自己と「てんかん」を「他者」とすることによって物語世界への入場を許可された自己とに引き裂かれてしまうのです。もちろんこれは考えられる帰結の一つにすぎません。小説の「正しい」理解ができなくなる場合もあるでしょうし、逆に「てんかん」をもつということを自らのアイデンティティから追い出そうとするのかもしれません。しかし、いずれにせよ彼/彼女にとっては望ましいことではありません。
 このようなことは、いたるところで起こっていると考えられます。被差別部落出身であることや在日朝鮮人であることを知らない周囲の人たちがなにげなく引き合いに出す「他者」としての「部落」や「朝鮮人」。その「なにげなさ」こそが被差別者を「引き裂く」のだと思います。

7.おわりに

 これまで説明してきた理論枠組は、まだ基本的な骨組みが示された段階であり、今後もより精緻なものとしてゆく努力が必要だと感じています。
 そこで、最後に今後の課題として私が考えていることをいくつか示しておきたいと思います。
 まず一つは「他者化」のプロセスのより詳細な理論化です。今回は小説という題材を扱いましたが、日常的な対面的相互作用における「他者化」を、例えば会話分析などの手法を用いて分析することが有効かもしれません。また、よりマクロな制度も基本的に同じ枠組で分析することが可能であると私は考えています(14)
 もう一つは、理論的な問題です。ここで示したような理論枠組は、社会学理論の基本的な枠組に対しても重要な問題提起を含んでいると私は考えています。私はこの論文の中で「視線」とか「ねじれ」などのやや厳密さにかける表現を多用しましたが、これはそれ以外に説明したいことをうまく表現することばを見つけられなかったからです。また、「読者」を理論枠組の中に位置づけることは、社会現象の主観性を前提にした社会理論を構築することを意味します。被差別者にとっての「差別」とそれ以外の人にとっての「差別」は異なったリアリティを持ています。そのようなリアリティの相違(すなわち「ねじれ」)こそが差別という社会現象の重要な特徴だとするなら、社会現象の主観性を前提にした理論枠組が、少なくとも差別の分析には不可欠だと思います。

  1. 当事者以外では(生瀬:1994)などに詳細な詳細な検討が見られる程度です。
  2. 引用は(月刊『創』編集部編:1995)収録の教科書版によるものです。細部の表現はオリジナルの小説と異なっています。以下の引用も同じです。
  3. (月刊『創』編集部編:1995)に収録された日本てんかん協会の抗議文(p23)と声明(pp23-25)を参照して下さい。
  4. (筒井:1993a)及び(筒井:1993b)を参照して下さい。
  5. (月刊『創』編集部編:1995)に収録された角川書店の回答書(pp25-29)を参照して下さい。
  6. 特に「差別表現」の場合、「被害」は主観的な要素を持つ場合が多いために、より一層の困難があります。
  7. 例えば(灘本:1993)、(本多:1993)などです。
  8. この経緯は(月刊『創』編集部編:1995)収録の往復書簡(pp64-72)を参照して下さい。
  9. (月刊『創』編集部編:1995)に収録された「合意」記者会見(pp72-85)を参照して下さい。
  10. (佐藤:1990)及び(佐藤:1993)を参照して下さい。
  11. 言うまでもなく、最初に管理社会を持ち上げてからあとで引き下ろす、その落差が生み出す効果を期待しているからです。
  12. 言葉によっては自分のことを指し示す場合にはめったに使われないようなものもあります。しかし、その場合もそれは言葉そのものの属性ではなく、「使われ方」の問題だと考えるべきでしょう。
  13. 「無人警察」を「差別表現」とみなすかどうかと、いわゆる「表現規制」一般の是非とは分けて論じられるべきだと私は考えています。ただこの小説を教科書に採用すべきかどうかという問題に限って言えば、これまでの考察から結論は明らかだと思います。著者の仕掛けを受け入れる読み方を生徒たちに強制することは(あるいは許容することも)教育の場としてはあってはならないことでしょう。もし「反面教師」として活用が可能ならば、それはそれでおもしろい教材だと私は思いますが、実現可能かどうかは難しいでしょう。
  14. 小説における被差別者の「他者化」プロセスについては、本稿の他にもすでに有力な研究があります。(Morrison:1992)はアメリカ文学の中で「他者としてのアフリカ人」がどのようにして「文学的価値」を生み出してきたかを詳細に検討しています。取り上げた事例が非常に豊富であるだけでなく、随所に文学者ならではの鋭い認識が感じられ、今後より詳細に検討すべき課題を数多く提起していると思います。

参考文献

  • 岡庭昇、1994、『メディアと差別』、解放出版社
  • 月刊『創』編集部編、1995、『筒井康隆「断筆」めぐる大論争』、創出版
  • 佐藤裕、1990、「三者関係としての差別」、解放社会学研究4
  • 佐藤裕、1990、「「差別する側」の視点からの差別論」、ソシオロゴスNo.18
  • 塩見鮮一郎、1993、『作家と差別語』、明石書店
  • すが秀美、1994、『「超」言葉狩り宣言』、太田出版
  • 週刊文春編集部、1994、『「言葉狩り」と差別』、文藝春秋
  • 筒井康隆、1993a、「日本てんかん協会に関する覚書」、筒井康隆『断筆宣言への軌跡』(1993年、高文社)、初出は『噂の真相』1993年9月号
  • 筒井康隆、1993b、「断筆宣言」、筒井康隆『断筆宣言への軌跡』(1993年、高文社)、初出は『噂の真相』1993年10月号
  • 灘本昌久、1993、「プロセス重視の差別論議を」、『創』1993年12月号、(月刊『創』編集部編:1995)に収録
  • 生瀬克己、1994、『障害者と差別表現』、明石書店
  • 本多勝一、1993、「正面から対決を」、『創』1993年12月号、(月刊『創』編集部編:1995)に収録
  • 八木晃介、1994、『差別表現の社会学』、法政出版
  • Morrison,Toni, 1992, Playing in the Dark: Whiteness and the Literary Imagination, International Creative Management
    (大社淑子訳『白さと想像力−アメリカ文学の黒人像』、1994年、朝日選書)
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