三者関係としての差別

 現代社会には部落差別、人種差別、民族差別、性差別、障害者差別など様々な差別問題が存在する。これらの差別問題はそれぞれ固有の問題を持ちながら、また一方で差別問題としての共通の性格も持っていることは明かである。しかし、それぞれの分野での豊富な研究蓄積と比較して、差別問題としての共通の性格についての研究、言いかえるならば「差別とはいったいどのようなものか」という問題については充分な研究がまだなされていないように思える。
 こういった差別問題の基礎理論とも言える分野について、江原由美子氏の「差別の論理」に関する議論は研究の足がかりを提供してくれる。本稿は江原氏の議論を出発点にして、その位置づけを明確にし、さらに「行為としての差別」への適用を可能にしようとするものである。

1.差別の論理

 江原由美子氏は「『差別の論理』とその批判」1)において、性差別を他の差別と同一の地平で形式的に論じることを試みている。その主要な主張は以下の3点に集約できるだろう。まず第1に、差別は「意識」または「言語」の装置であるととらえなければならない、という点である。現実的な不平等が差別なのではなく、不当性が認識されにくく、告発を困難にするような論理構造それ自体が差別の本質的な問題点であるとしている。第2に、差異は差別の根拠ではなく、被差別者を識別する恣意的な「標識」でしかないのだ、という点である。差別の論理は、それが実在の差異であり、差別の根拠であるかのようにみせかけているのである。第3に、差別は排除行為であり、それゆえ差別によって分けられた2つのカテゴリー、例えば女性と男性、障害者と健全者など、は本質的に非対称なカテゴリーであるという点である。
 江原氏の議論は、差異が差別の根拠ではなく、あたかもそうであるかのように「しくまれている」のであり、本質的な問題は排除行為にあるのだ、ということを明らかにした。これは様々な差別問題に共通する基本的な問題点を明確にしたが、また一方では次のような疑問も生まれてくる。
 まず第一に、例えば女性は「男性でない」という理由で差別されている、とされているが、なぜそれが逆ではないのか。もう少し一般化すれば、どういう人々が差別(排除)されるのか、それを決定する要因は何か、という問題になるだろう。「差別の論理」に関する議論はこういった問題には触れていない。これは江原氏が問題領域を「差別の形式的な記述」に限定して議論しているためであり、議論それ自体の不充分性を示すものではない。しかし、差別を理解する枠組みを完全なものとするためには、ここで触れられていない問題は何か、その問題と排除の問題はどう関連しているのか、といったことが整理されなくてはならないだろう。
 第二に、排除はどのようになされるのか、という疑問である。江原氏によれば排除とは「当該社会の『正当な』成員として認識しない」2)という意味であるが、だれがそれを決定し、どうして他の人はそれを承認するのだろうか。こういったメカニズムを解明するには、差別を三者関係であるとしてとらえることが有効である。1つの行為の中で差別の論理がどのように形成され、人々をどのように巻き込んで行くのか、ということを見きわめることが必要であろう。
 以上のような疑問点と課題について、まず第二節で第一の課題を、第三節では第二の課題を論じようと思う。

2.見下しと差別

1)差別の2つの側面

 福岡安則氏は差別意識を「下に見下す」意識のヴェクトルと「外に遠ざける」意識のヴェクトルの合成であるとした3)。これらはそのまま差別の2つの側面であると考えることができる。江原氏もこれについて言及し、「外に遠ざける」=「ヨコの軸」が差別の本質をより示しているとした4)。しかし、どちらがより本質的か、という議論の前に、それぞれの側面についてもう少し詳しく見てみることが必要だろう。
 「下に見下す」差別意識に対応するのは被差別者が低く見られたり(そのことによって)様々な不利益を被ったりするといった事実であり、差別の「不平等現象としての普遍的側面」であると言うことができる。これは、差別のようにカテゴリー化が行なわれなくても、人々が様々な属性によってなんらかの不利益を受けることがあるからである。例えば、年齢や学歴、能力、収入、家柄などなど様々属性による不平等(な評価)がそうである。場合によってはこれらの事柄も差別と呼ばれることがある。学歴による差別、家柄による差別などである。しかし私はこういった不平等を差別と呼ぶのはあまり適当ではないと思う。それは学歴などの序列的な指標による不平等と、ある決まった人々のみが特に不利益を受ける差別とを同じ概念で表わすことに無理があるからである。差別は序列的なものも含めた広い意味での不平等という現象の、特殊なケースであると考えるべきではないだろうか。
 差別がそのほかの不平等現象と区別されるのは、2番目の側面、すなわち「外に遠ざける」意識と対応する、被差別者の排除という事実によってである。これを差別の「特殊的な側面」と呼ぶことにしよう。江原氏の差別の論理に関する議論はこの側面についての議論である。差別はある評価軸による個人個人の評価づけではなく、被差別者は1つの集団、あるいは社会的カテゴリーとして認知され、いわば「集団」として差別されるのである。ここで注意しなければならないことは、ある特定の集団が差別されるのではなく、差別(排除)によって、社会的カテゴリー(集団)が形成されるのだ、ということである。この被差別集団のカテゴリー化、という事実こそが差別をそれ以外の不平等現象と区別する特殊な側面である。
 これら2つの側面はそれぞれ一定独立した領域として扱われなくてはならないが、また同時に2つの側面の相互の関係についてもきちんとした整理がなされなくてはならない。先に差別は広義の不平等の特殊な形態であると述べたが、差別という概念と不平等という概念には適用できる範囲に違いがある。差別という概念は行為を示す概念(差別行為、差別発言)としても、状況を示す概念(実態的差別)としても用いられている。しかし、差別を含む広い意味の不平等は状況を表わす概念であり、対応する行為を表わす概念はない。そのため差別概念を拡張してこれにあてる、といったことが行なわれてきたのだと思われる。しかし、すでに述べたようにこれはあまり望ましくない。そこで、ここに「見下し」という言葉をあてて表現することにした5)。これを示したのが表1である。
 「見下し」概念は差別の理論化のための戦略的な概念である。これによって行為としての差別をより限定できるとともに、様々な(序列的)不平等を行為という側面からダイナミックにとらえることができる。
 「見下し」とは学歴、年齢、能力、経済力など、自分にとって有利な評価軸を利用することによって、相手をおとしめたりなんらかの不利益を負わせたりする行為である。「見下し」の核心となるのは、ある評価軸が問題になっている局面に別の評価軸を持込み、序列関係を転換させてしまうことである。例えば、特定の能力が問われている場面で、自分や他人の出身階層を持ち出して、能力についての評価を無効にしてしまうといったことがこれにあてはまる。「見下し」はある評価軸の形成、評価軸間の重ね合わせや従属化といったプロセスに関わる行為である。
表1
広義の不平等差別
状況不平等実態的差別
行為「見下し」差別行為

2)差別と見下しの関係

 状況としての差別が不平等の特殊な形態であるように、差別行為は「見下し」行為の特殊な形態であると考えられる。(差別以外の)序列的な「見下し」は「見下す」者と「見下される」者の関係が相対的であるのに対して、差別は「見下される」者が特定の人々に固定されている、という違いはあるが(差別の特殊性)、どちらも「上下関係」を形成し、それに他の評価軸を従属させるという効果は共通している。例えば能力による「見下し」は、「あなたより私の方が能力があるからエライ」、という形で行なわれても、障害者に対する差別という形であっても、能力という評価軸(それ自体が恣意的なものである)を形成し、他の評価軸(例えば年齢など)を無効化し、従属させる6)ことは共通している。こういった共通性を認識し、差別を包括する「見下し」という行為の次元で、評価軸の形成と秩序化、変動をとらえるといった視点も必要であろう。
 差別は、評価軸を形成するという「見下し」としての性質を持っているが、また一方で、それに関連する評価軸のある程度の形成を前提にしている。例えば障害者差別は「能力」という評価軸の存在を前提にしているし、部落差別も「生まれ」によって、その人の人生がある程度決定づけられるということが、その背景にあると考えられる7)。差別はこういった序列関係を前提にして、その最底辺にいる人が差別の標識によって孤立させられ、集中的に「見下される」という社会現象である8)。
 差別はそれ以外の「見下し」に較べて強力な社会的拘束力を持っている。これは江原氏の言うような排除−社会の正当な成員であると認知しないという性質、さらには被差別者の排除によって差別する者の間の葛藤(互いの序列的な「見下し」)を回避するという効果などによるためだと考えられる。すなわち差別は社会の全ての人々を序列化するような評価軸を維持する特に強力で巧妙なメカニズムであるとも言えるだろう。
 江原氏の差別の論理に関する議論は、差別の特殊性に注目したものであり、これはもう一つの側面、すなわち「見下し」としての普遍的な側面と関連づけられることによってその意義はさらに高められるだろう。

3.差別の三者関係

1)三者関係図式の必要性

 すでに述べたように、差別の特殊性は「カテゴリ−化」という点にあった。すなわち差別では、「見下し」は、差別(排除)される集団−マイノリティに対する、差別する側の集団−マジョリティの「集団的な見下し」として認識されるのである。
 差別によるカテゴリ−化という問題は、これまで、ステレオタイプ、過度の一般化などマイノリティのカテゴリ−化として語られてきた。しかし、江原氏が指摘するように、被差別者は排除によって生じるカテゴリ−である。「女性が男性から排除されるのは男性ではないためにすぎない」9) のである。マイノリティという社会的カテゴリ−はマジョリティからの排除によってのみ定義されるのであれば、「何からの排除か」ということが当然問題とされるべきだろう。女性が「男性でない」カテゴリ−であるとするならば、「男性」がいかに定義されているか、ということが問題になる。しかし、男性というカテゴリ−もまた女性の排除によって成立するカテゴリ−である。マイノリティという社会的カテゴリ−もまた排除行為によってのみ定義されるのである。
 マイノリティとマジョリティというカテゴリ−が共に排除行為に全く依存している、ということは、差別は純粋に排除によってのみ説明されねばならない、ということを意味する。マイノリティの属性や、マジョリティの属性さえも排除の根拠ではなく、排除は全く恣意的な行為である。
 しかし、それでもなお次のような疑問が生じるかもしれない。なんらかの基準がないと排除は行いえないのだから、その基準を満たすカテゴリ−としてのマジョリティは排除の前提として存在していなければならないのでないか、あるいは全く根拠も基準もないところにどうして排除が起こるのか、などといった疑問である。こういった混乱の原因は、あたかもマジョリティ集団が一つの行為者として排除を行うかのように受け取られているところにある。マジョリティがマイノリティを差別(排除)しているという二者関係で捉えているところに問題があるのではないだろうか。
 排除という行為は「排除しない」(同化させる)という行為なくしては存在しない。Aという行為者がBを排除するには、別の行為者Cを同化させるという行為が必要である。排除行為は本質的に三者関係にのみ見られる行為である。差別もまた排除行為であるならば三者関係として捉える必要があるだろう。
 排除はマイノリティ−マジョリティというカテゴリ−を前提にしない、ということは、排除を行うのはそういったカテゴリ−とは本来無関係なある行為者である。その行為者が、一方ではある者を同化させ、共にマジョリティを形成し、他方では別のある者を排除することによってその者をマイノリティと規定する。排除と同化は相補的な関係にあり、それぞれが他方の存在に依存している。そしてこの両者を同時に実現するのが「女性/男性」「障害者/健全者」などの二分法的カテゴリーなのである。

2)三者関係の構成要素

 差別の三者関係は、「差別者」「被差別者」に「共犯者」を加えた三種類の行為者によって構成される。差別者は被差別者を「見下す」のであるが、その際に二分法的なカテゴリ−を使用する。このカテゴリ−区分は差別者と共犯者が同一カテゴリ−に、被差別者のみが異なるカテゴリ−に属するように恣意的に設定されている。このようなカテゴリ−使用することにより、差別者は三者関係において被差別者を排除し、また、共犯者に対しては差別者と同化させることによって、被差別者に対する「見下し」を「押しつける」のである。すなわち差別者が被差別者との関係を表現する際に用いた二分法的カテゴリ−によれば、共犯者は差別者と同じ側に立たされてしまい、共犯者と被差別者の関係も(二分法的な)「見下し」の関係として「想定されて」しまうのである。以上のことを示したのが図1である。
図1
 簡単な例をあげて考えてみよう。今なお数多く報告されている被差別部落に対する結婚差別は次のような経過をたどることが多い。若い男女が結婚しようとするが、一方が被差別部落出身者であることがなんらかの契機で明らかになる(本人たちはそれを承知で結婚しようとしているケースも多い)。被差別部落出身者でない方の親(あるいは親戚、兄弟など)はそれを知って反対する。この場合、親が「差別者」であり、被差別部落出身者を直接「見下す」とともに、自分の子どもに対して結婚をあきらめるように説得(または強制)する。この説得は通常自分たちと被差別部落の「違い」を強調することによってなされる。これが「見下しの押しつけ」である。子どもは親の説得に対して自分の意志を貫き、逆に親を説得しようとする場合もあれば、最後にはあきらめてしまうケースもあるが、ここで強調しておきたいのは、親の差別行為が子どもを「共犯者」にしたてあげ、子どもから婚約者に向けた「見下し」を想定させてしまうということである。親が結婚しようとする二人の間を被差別部落と「それ以外の人々」という形で「上下に」分断し、二人の関係を「見下し」の関係として規定しようとする権力的介入であると言うことができる。よほど二人の信頼関係が強固であるか、部落差別に関する理解が深くなければこの権力的介入をはねのけるのは困難であり、親に対しての説得を続けていても、だんだんと二人の関係はしっくりこなくなってくる、ということも有りえる。
 この例でもわかるように、「共犯者」とは「見下し」の押しつけを受けて、自らの意志で積極的に「見下し」をする者、という意味ではない。むしろ、差別者によって「共犯者」であると規定され、時には本人も意識しないままに被差別者との間に「見下し」の関係を押しつけられているのである。

3)不完全な三者関係

 この枠組みに含まれるすべての行為者と行為が必ずしも可視的であるとは限らない。むしろ表面的には二者の間で行なわれたり、特定の対象の存在しない単独の行為である場合の方が一般的であるかも知れない。しかし、そのような場合でも、暗黙の、あるいは不特定の第三者が想定されており、これを考慮することによって差別現象をより明快に分析できる。以下、いくつかの場合について考えてみよう。
<被差別者が見えない場合>
 例えば被差別者がいない場での差別発言などがこれにあたる。発言は特定の人物や、部落差別ではある地域を対象にしている場合もあるが、ばくぜんと部落一般、女性一般を対象としている場合もある。「部落は××だ」「女は××だ」といった決めつけなどがそうである。こういった問題に三者関係を適用すると、発言者が差別者、発言の聞き手が共犯者となり、差別発言は発言者から聞き手への「見下しの押しつけ」であると考えられる。被差別者を排除することによって、聞き手は発言者と同化されるのである。
 差別発言はまた、被差別者ではない(と考えられている)者に対していわゆる「差別語」を投げかける、という形でも行なわれる。例えば「どうして私の話をちゃんと聞いていないのか。君はつんぼなのか?」と言うような場合である。この場合も基本的には先の例と同じで、聞き手は共犯者の立場に立たされている。発言者は聴覚障害者を「つんぼ」という言葉で否定的に排除することにより聞き手に聴覚障害者との「見下し」関係を押し付けているのである。この例の場合は、マイノリティ−マジョリティの関係と規範への服従−非服従が巧妙に重ね合わされており、そのために聞き手は発言者の意志に従わざるをえなくなっていることにも注意が必要である。
<共犯者が見えない場合>
 差別者が被差別者に直接面と向かって侮蔑の言葉を投げかけたりする場合、その場に第三者が立ち会っていなくても、二分法的カテゴリーは見えざる共犯者の存在を暗示する。このことによって被差別者は第三者(共犯者)の自分にとって不利な介入を予想し、差別者に大きな脅威を感じてしまうのである。
<被差別者も共犯者もともに見えない場合>
 いわゆる差別落書はがこれにあたる。差別落書きは不特定の相手に向けたメッセージであるが、これを読むものを選別し、異なった影響を与える。被差別者にとっては、それはまぎれもなく自分に向けられた悪意であり、多数による攻撃の脅威である。その他の人にとっては、自分が被差別者でないことを意識させ、共犯者の立場に立たせる「見下しの押しつけ」となる。
 このように一見被差別者や共犯者が見えないケースでも、それは単に不特定の人々を対象にしているというだけで、同じ三者関係の枠組みが適用できることがわかる。標識のもたらす三者関係はそれ自身が差別という行為の持つ強力な「力」の1つの源泉となっているのである。

4)三者関係と序列関係

 差別が三者関係を通じてその効力を発揮するには、「見下しの押し付け」がどれほど共犯者を拘束するか、ということが鍵となる。差別者が全く恣意的に設定したカテゴリ−に、なぜ共犯者はとらわれてしまうのか。また、被差別者はどうして共犯者からの「見下し」を想定するのだろうか。結論から先に言うと、なんらかの序列的な上下関係を前提にして、それをある箇所で切断するような形でカテゴリ−化が行われるため、共犯者は「見下し」を押し付けられてしまうのである。
 前提となる序列関係は差別者>被差別者、共犯者>被差別者という形で設定されている(または、このような序列関係になるように共犯者、差別者やカテゴリー設定が選択される)。共犯者は被差別者を序列的に「見下す」立場に立たされるために、カテゴリー設定に異議申し立てする動機づけを欠く。
 さらにこのような仕組みは共犯者や被差別者の反差別の言説を困難にする要因にもなっている。カテゴリーとしての表現は、その背後にある序列関係を覆い隠しているために、序列関係そのものについての議論を困難にしている。それ自体が恣意的である序列関係を前提にして、さらに恣意的なカテゴリー設定が行われており、いうならば二重の恣意性の上に差別的関係が形づくられているのである。カテゴリー化は序列関係を覆い隠しているが、決してそれを無効にしているのではなく、むしろ維持し、強化する働きを持っている。そのため、相対的に「弱い」評価軸(序列関係)であっても、それがカテゴリー化され、三者関係が形成されると、他の評価軸を従属させるほど強力なものになりえるのである。
 例えば障害者差別について考えてみよう。障害者差別の前提となっているのは、「能力」という評価軸である。この場合の「能力」とは「聞く」「見る」「歩く」などの具体的なものではなく、「個人の資質」とでもいうような、恣意的ではあるが、しかし現実の機会や資源の配分と関連づけられているものである。こういった「能力」によって得をしたり損をしたりする経験は、おそらく全ての人に共有されているために、共犯者が「健全者」というカテゴリーを付与された場合に、「障害者」との「上下」関係を意識せずにはいられない。「障害者」と「健全者」の「上下」関係は、「能力」の否定なくしては否定されないが、あたかも「障害者」だけが異なっているかのように「仕組まれている」ために、「能力」の否定を提起することが困難になっているのである。このように巧妙に仕組まれている差別の論理を打ち破る「反差別の論理」は、「みんな平等(であるべき)」といった単純な論理ではなく、「みんな異なっている(前提となる評価軸が存在する)」ことを明らかにした上で、それを否定する、といった二段構えの論理でなくてはならないだろう。
 三者関係によるカテゴリー化では、差別者と被差別者、共犯者と被差別者の序列関係は、カテゴリー間の序列として表現されているが、差別者と共犯者の序列関係は、同一のカテゴリーに属するために隠ぺいされている。通常は意識化されない差別者と共犯者の序列関係を明らかにすることもまた三者関係のメカニズムを解明するためには必要であろう。
 まず考えられるのは差別者が共犯者より優勢な場合である(差別者>共犯者)。典型的なものとしては、企業による就職差別や公的機関による差別などが考えられる。この場合は排除による(評価軸の)秩序の形成・維持といった目的あるいは効果が明確に読み取れる場合が多い。また、もっと小規模なものとしては、差別者が被差別者を排除することによって都合のいい評価軸を導入し、共犯者より優位に立とうとするような場合もこれにあたる。どちらの場合も焦点となっているのは差別者と共犯者の序列化(またはマジョリティ集団の秩序形成)である。
 次に共犯者が差別者より優勢な場合(共犯者>差別者)であるが、これは差別者と共犯者の関係を考えれば差別者にとって決して有利であるとは言えない。しかし、次のような場合にはこの種のタイプの差別が存在しうる。まず、すでに差別関係が存在していて、その中で被差別者とされた人々(の一部)が、そこから抜け出そうとして、より「下」の者を排除する三者関係をつくりだす場合である。また、対抗関係にある二者のうち一方が、自分より優勢な第三者の援助を、カテゴリー化という手段で手に入れる場合もこれにあたる。これらは差別者と被差別者の序列化の方に力点が置かれている。
 このような2つのタイプは互いに呼応し合って生起するが、前者の方が基礎的、後者は派生的な差別であると考えられる。差別の呼応関係、連鎖関係をとらえることは、反差別の戦略を考える上で非常に重要である。

 本稿では、差別の「仕組み」の巧妙さ、反差別の戦略の困難性を強調し過ぎたきらいがあるかもしれない。「それではいったいどうすればいいのか」といった問いに明快に答えることはまだまだ困難であるが、現段階ではっきり言えることを一つだけ書き記して締めくくりたいと思う。
 差別の「仕組み」は確かに非常に巧妙かつ強力であり、被差別者の置かれている立場は苦しく、困難である。むしろ(誤解を招く言い方かも知れないが、意図されたものではない、という意味で)「必要以上に」困難である。それゆえ被差別者の傷みは多くの人に差別の不当性を直感させる力を持つ。差別の「仕組み」は排除によって被差別者を見えなくすることにより、これを回避しているが、完全に見えない、存在がわからない、という状態でも三者関係は成立しない。差別は排除によって成り立つが、被差別者を完全に排除することもできない。これは差別という「仕組み」の基本的な弱点の一つではないだろうか。完全には排除され得ない被差別者が、「ここに存在すること」こそが差別の不当性を最も説得力をもって語っている。必ず存在する共犯者と被差別者の接触の機会、これをどう活かし、共犯者を三者関係から取り除くのか、ということが重要であると思う。
 きわめて当り前の事を述べたにすぎないようだが、やはり原点はここなのだという確認は常に必要だろう。

  1. 江原由美子、「『差別の論理』とその批判」、『女性解放という思想』、勁草書房、1985
  2. 同書、p84
  3. 福岡安則、『現代社会の差別意識』、明石書店、1985、p136
  4. 江原由美子、前掲書、p88
  5. 「見下し」については以下の文献を参考にしてほしい。本稿とはまた異なった観点から 「見下し」概念の提案を試みている。
    佐藤裕、「『見下し』の理論と差別意識」、年報人間科学 10、1989
  6. 障害者は言葉遣い、身体接触などの点で「子ども扱い」される場合がある。
  7. 女性差別の場合は評価軸の形成を差別と切り放して論じることは困難である。これは「性」という評価軸がそもそも2つのカテゴリーから成り立っている、ということに由来する。しかし、この点に注意しさえすれば、以下の議論(最後の節だけはそのままでは難しいかも知れないが)は女性差別についても適用できるはずである。
  8. なぜ序列化が排除に先行するか、という点については最後の節でもう一度詳しく議論する。
  9. 江原由美子、前掲書、p90

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