II 観察対象の同定

 既に、「実証主義」と呼ばれる立場が物理学的探求方法から強い影響を受けていることを確認した。実際、この方法は極めて強力な分析方法であるようにみえる。しかしこれはあくまで、表面上のある種の説明力、すなわち「決定」を与える力が強力である故にそのようにみえているに過ぎない。もし社会理論においてもしこの方法が有効であるならば、喜んで同じ方法を用いればそれでよいのである。しかし実際には、この表面上の説明力を有効なものにするためにはその背後に、非常に多くの満たすべき条件が隠されている。社会理論において問題となるのは、この前提を十分に確認することなく表面上の方法のみを用いている点にある。本章で考察するのは、この前提の問題である。この前提をめぐる問題は、微に入り細に渡って実に多くの論点が有り得るので、ここでは特にその最も本質的な部分をなす、「対象の同定」の問題を中心的に扱うことにする。

1 実証主義の限界

 既に第I章で確認したように、実証主義的な探求方法には「知覚主体に依存しない外界の存在を信じる」という強力な前提が隠されている。このことは、「何時」、「誰が」観察を行ったとしても、常に同一の観察結果が得られる筈だ、ということを意味している。つまり、常に一義的に観察対象を同定できることを仮定しているのである。そして実際に物理学においてはこの仮定は充分な蓋然性を保ち得てきた。水素原子は常に水素原子として同定が可能であり、質量という概念は質量として常に同定可能なのである。これに対して、社会学が扱おうとする対象は決して、常に同一のものとして同定可能ではない。このことは、「何時」の問題と「誰が」の問題の両方を含んでいる。しかし「誰」についてはいうまでもないだろう。
 「何時」の問題とは、ある時点に同定した何らかの対象が再度生起するかどうか、ということに関わる。物理学が扱う対象は、理論的に設定した時間軸のどの点においても同一であることが要求される。実際に3万年前の水素原子と現在の水素原子は同一のものとして扱われる。更に、これから3万年後の水素原子も同一である筈だ、という仮定に従う。それ故に、時間軸上のある点における挙動を予測することが可能になるのである。従って、実証主義的探求の「正しさ」は、「予測」が充分に観測結果と合致するかどうかをめぐって与えられる。
 これに対して社会学における実証主義は、何か充分に有効な予測を生み出すことは出来ない。或いは、ほんの数カ月後の出来事ならある程度の予測が可能である、というかもしれない。しかしこれは期間の問題ではない。少なくとも実証主義的探求において「正しさ」を証明するためには、設定した時間軸上の如何なる点においても同様の「正しさ」が証明されなくてはならないからである。或いは又、「変数が多すぎて予測不可能」という考えもあるかもしれない。しかしこのような方便で予測の正しさを確認する手続きを放棄するならば、実証主義的理論は「正しさ」という安全基準を自ら放棄することになる。このことは、あらゆる局面に自由に恣意を介入させることの出来る契機を与えることをも意味するのである。
 一方で計量的手法のように、人間をある種の質点としてすべて同等として扱う、というかたちで対象を同定する場合がある。十分に多くの母集団に対しては、大数の法則が成立する、という訳である。しかしここでも、「正しさ」の確認の手続きが為されていない現状が明らになる。一般に、計量的手続きによって真に魅力的な部分が平均化されてしまうことにより、実は何も見えていない、という批判が為されることが多いようである。しかしここにはもう一つ、更に根深い問題が隠されているのである。この問題は、「何を同様に確からしいものとして扱うか」という問題をめぐる仮定の蓋然性に対して全く確認されていない、という点にある。
 いうまでもなく、計量的手続きは数学における確率・統計論に依っている。しかし、「'何をもって同等とするか'、の前提を明確にすることなしに、確率を論ずることは出来ない」(小針[1973:9])のである。このことはBertrandの逆説(注8)において示されている。実際に、マクスウェル―ボルツマンの統計、フェルミ―ディラックの統計、ボーズ―アインシュタインの統計等においては、それぞれ、我々の一般的な直感とは全く異なる事態を「同等」と仮定することによってそれぞれの対象領域を説明しているのである。議論の進行のために単純化していうならば、「1」の目だけが異常に多く出現するようなサイコロも有り得る、ということである。そして実際にこのようなサイコロが「正しい」世界も有り得るのである(勿論、サイコロに細工を施す、という意味ではない―細工を施したとしてもそれ程支障はないのだが)。原子や素粒子の世界では多くの場合、我々の直感は全く役に立たない。にも関わらずここで単純な直感から自由たりえたのは、直感によって組み立てた理論が、観察結果と合致しなかったからである。「正しさ」の確認あっての理論なのである。サイコロの各目が1/6の確率で出現するのは事実ではない。そうではなくて、十分に蓋然性の高い仮説である。
 ここに、前提を問うことなく方法のみを輸入してきた落とし穴が明らかになった。これらの問題はすべて、最も根底的な、「対象の同定」の問題を怠ったことによって導かれたものである。では「新しい学」はどのようにこの問題を越えようとしているのかを次に見ていこう。

2 「外」から「中」へ

 この境界の同定の問題は、「第一世代、第二世代システム」(河本[1995])において、多大な困難をもたらしてきた。少なくとも何かを「システム」として記述するためには、何らかの閉じた境界線(面)によって対象を同定しなければならない、という訳である。しかしこの問題はたちどころに困難に直面することになる。これは例えば、ヒトの体は何処までが体で、何処からが環境なのか?という陳腐な問いを再度繰り返してみるだけでもよい。或いは社会構築主義は、我々の用いる概念が一義的に同定出来ない、という問題をそのひとつの重要な出発点にしているし、ヴィトゲンシュタインがその前半生の写像理論を覆したのも、この問題に依るところが大きいと思われる。例えば「家族」というカテゴリーの例をみてみよう。
 『家族とは何か』(Gubrium & Holstein [1990=1997])においては、その一章を割いて「家族」というカテゴリーの同定不可能性について詳細に論じている[同:1-23]。ここでは先ず、「異星からの訪問者として「家族」を探しに行く」というプロットの元に、「ボーグ君」が地球上を旅することになる。しかしその結果彼女は、「家族など目にしなかった。ただ、たくさんの人間を見ただけだった」[同:5]というのである。そこで多くの書物に当たって「家族」の定義を再確認しようとしたものの、それぞれの書物はそれぞれに異なる定義を与えているし、法律上の位置づけも役に立たない[同:8]。それぞれに全然違うことが書かれているのである。しかも実際に人々の間には実に多様な「家族」が存在していた。ギャングが自身を「家族」として記述し、実際に「家族」としての責任を果たしている例[同:5-6]、自分の家庭を「刑務所」、その住人を「囚人」と呼び、実際にそのようにふるまっている例[同:15]、或いは逆に、刑務所にいる囚人がそこを家庭と呼び、実際に夫婦、兄弟、と呼び合っている例[同:15]、等、実に多様だったのである。そして更に彼女は、「彼ら〈=研究者〉が共通のやり方で家族を定義できなかったのなら、彼らはどうやって家族についての科学的著作を産み出すことができたのだろう。」[同:8-9]と考えるのである。この帰結は当然、我々の用いるあらゆる概念に同様に当てはまるものである。同様の事態をヴィトゲンシュタインは次のように述べている。

 我々は、諸概念を明確に限定する(circumscribe = 境界線で囲い込む)ことは出来ない。それは我々がその概念に対する真の定義を知らないからではなく、真の「定義」なるものが存在しないからである。真の「定義」が存在する筈だ、などと考えるのは、子どもがボールで遊ぶときに、常に厳密なルールに従っていると考えるようなものである。(Wittgenstein = Bogen & Lynch[1993:213]より引用)

 正に境界の同定不可能性の問題である。ではどのようにしてこの問題を乗り越えればよいのか。実は「境界の同定」には、もうひとつの問題が隠されているのである。それは、この操作が「外部から観察する観察者と不可分」(河本[1995:36,96])である点にある。何かを何かとして同定する時の困難はあくまで、観察者の困難であり、対象そのもの(そんなものがあるとすればのはなしだが)にとっては最初からどうでもよいことなのである。このようにして、視点を対象の「外」から「中」へと移すことが要求される。この事態を、社会構築主義の立場から中河は「ゲーム」(中河[1999])という言葉で表現する。これは、何らかの営みを「外」から観察する傍観者の可能性を否定し、観察という営みそのものが既にひとつの「ゲーム」であり、従って「中」に入って共に、ある営みを行うことを主張するものである。このような立場からは「対象」を記述することを放棄し、「作動」を記述することになる。次節ではこのような観察方法を、ルーマンと共にオートポイエーシス・システム理論の構築を目指す河本に依って見てみよう。

3 静態的―動態的

 「オートポイエーシスはシステムの作動を中心にして組み立てられたシステム論である。システムは作動することによってみずから境界を区切り、作動することによってみずから存在する。」(河本[1995:170])更に、「オートポイエーシス・システムの作動の必要十分条件は、作動が継続すること(筆者要約)」(河本[1995:180])である。従って、オートポイエーシス・システムは作動し続け、又、作動し続けている限りにおいてシステムとして存在し得る。従って、何か静態的な「形」を想定することは出来ない。このようにして、実証主義が陥る対象の同定の問題は乗り越えられる。そしてこの態度は、社会構築主義においても同様である。構築主義も又、何らかの対象を「在る」ものとして見るのではなく、何らかの対象をめぐる「言説」が生産され、再生産され、交換されていく中で、そして言説が更に再生産され続ける限りにおいて、その過程そのものを対象として見出すからである。
 しかし、オートポイエーシス・システムには入力も出力もない(この点については次章で確認する)。従ってこのシステムは、自己の作動に関わるあらゆるものを、自己の内部で生産しなければならない。自己の作動に関わるどんな要素も、外部から取り入れることは出来ないのである。この点がかつてのシステム観と大きく異なる。嘗てのシステム観によれば、システムは何らかの構成要素を外部から取り入れ、システムがそれを組織化する、という形で記述されてきたからである。
 このような意味で、社会をオートポイエーシス・システムとして捉えることが出来る。その要素は「コミュニケーション」である(Luhmann[1990=1996:11],河本[1995:259])。従って、コミュニケーションが再生産され続ける限りにおいて、社会を社会システムとして記述することが出来るのである。この方法は実際に有効である。何故なら、何か静態的な「形」としての対象の同定を前提として組み立てられた理論は、当該対象の定義に対して明確に回答することが出来ないからである。これに対してオートポイエーシス・システム的な定義によれば、再生産が繰り返される限りにおいてシステムを同定することが出来、又一方でもし再生産が停止すれば、たちどころにシステムは消滅する、という意味において、極めて厳密に対象領域を同定することが出来る。オートポイエーシス・システム理論は、システムの作動の過程そのものを記述するのである。
 同様にして幾つかのシステムを取り出すことが出来る。例えば「経済システム」は「支払い」を、「心的システム」は「思考」を、「学システム」は「真/偽に基づくコミュニケーション」を、「法システム」は「法/不法に基づくコミュニケーション」を、当面は再生産し続けている。このようにして、システムを同定する操作に理論的限定の形式が与えられることになる。
 このようにして、対象の同定は完全に乗り越えられる。それ故、「オートポイエーシス・システムを直接空間内に表象してはいけない(河本[1995:173])」のである。オートポイエーシス・システムを空間内に表象するためには、何らかの線や面で区切ることが必要であり、このような方法で区切ってしまった途端に、システムの作動に関しては何も記述出来なくなってしまうからである。このような事態を河本は、比喩的に次のように表現している。

 システムの境界を導入する際、(省略)認識論的操作によれば、地面に円を描いてシステムの内部と外部を区別すればよい。これに対してオートポイエーシス・システムでは、地面の上を猛スピードで円を描くように走り続ける。疾走者はただ円を描いているだけであるが、観察者からみたときそれはシステムの境界を産出しているようにみえる。疾走者が走りやめば、境界はたちまち消滅する。システムの境界の存在は、システムの作動に依存している。(河本[1995:174])

 そしていうまでもなく、オートポイエーシス・システム理論が観察するのはこの、疾走者の動きそのものであり更に、観察者自身も疾走し続けているのである。
 この点は社会構築主義においても全く同様である。社会構築主義も又、「対象」そのものを同定することを否定し、何かを「対象」として指し示す言説が交換される過程を観察し、記述する。社会構築主義の潮流を生み出すひとつのきっかけとなったスペクターとキツセの『社会問題の構築』(Spector & Kitsuse[1977=1990])は、その最初の4章[同:5-113]を割いて、「社会問題の定義」をめぐる概念の境界同定の問題を詳細に検討している。そしてその検討を通じて、「社会問題」なる概念の「従来の学問」における定義が、実際にその「定義」を用いて観察を行おうとした時に役に立たないことを示していく。「従来の学問」の定義に拠って、「社会問題」を実際に見出すことは出来ないのである。幾つかの例をみてみよう。

 社会問題とは、かなりの人数によって、彼らが大切にする社会規範から逸脱していると定義された状態である。(フラーとマイヤーズ=[同:50]より引用)

 社会問題は、広く共有されている社会基準と、現実の社会生活の状態との重大な剥離である。(マートン=[同]より引用)

 スペクターとキツセはこれらの定義に対して、「方法論上の困難」を先ず指摘する。前者の場合は、もし人数を問題にするならば「「いったい何人の」という問いを招く」[同:51]ことになる。更に「「人々がある状態を問題ともなす」という表現を特定化する」[同]必要があるのである。同様に後者の場合は「広く共有されている」という表現が、同様に問題になるのである。そしてこれらは結局のところ、「社会学者の価値が、定義の背後に今度は科学の外見をとって偽装され、研究を導く役割を果たしている」[同:59]こと、そして「ある規範、合意あるいは価値が存在していると調査者が決定しうるためには、何人の人びとがあれやこれを信じたりしたりしなければならないかという「人数ゲーム」が常に必要」[同:61]であることが問題になるのである。つまり、何らかの恣意(社会学者の価値判断、人数のゲーム)を導入しない限り、「定義」によって「社会問題」を見出すことは出来ないのである。このようにして詳細に、従来の「定義」が不可能であることがひとつひとつ示されてゆく。そして最後に、「われわれは、社会問題の社会学は社会のメンバーのパースペクティヴを研究の出発点とし、とりわけ問題を定義するクレイム申し立て活動に主要な研究対象として焦点を絞るべきである」[同:112]という結論が導かれる。ここでも、既に確認した二つの事態が起こっている。即ち、「社会のメンバーのパースペクティヴを出発点とする」ことで「外」から「中」への移動が主張され、又、個々の「定義」を用いるのではなく、「定義」そのものが作られていく活動を研究対象とすることで、「静態的」な「状態」を特定する方法から「動態的」な「活動」を観察する方法へと移動しているのである。この二点は「新しい学問」を導く主要な特徴とみてよいだろう。

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