第4章 インタビュー結果の分析
A:佐倉智美さん
B:中島夕貴さん
C:奥山こと美さん
第1節 情報の獲得とアイデンティティ
この節では自分がトランスである事を発見し、自分の中でアイデンティティ(自分が何者であるかということ)の揺らぎを経験するというストーリーを見ていくことにする。
[1]子供の頃のストーリー
自分の幼い頃の記憶としてベンジャミンが示すようなトランスの典型例が語られている。
<A:何かおかしいしなんか違うなって。やっぱり姉がしているような事がなんかしたいなって。姉がしている、女の子がしている事とか自分もできればいいのになんでできへんのって思いはあった>
<B:(小さい頃)白いサンダルがめちゃくちゃ好きだったとか、エプロンになんであんだけ執念を燃やして執着してたんだろうかとか、なんであんなにお人形が好きだったんだろうとか>
<C:実を言いますと小さい頃、小学校低学年くらいの頃に姉の服だと思うんですけど、着せられたというか、姉にですけど。そういう経験があります。それ一回だけだったんですけど、わたしのほうは忘れなかったというか、その後(女物の服を)何回か着るようになった。(中略)たとえば、従兄弟の家に行って、小さい女の子がいたんですけど、気付いたらいっしょにお人形いじってたりとか、で他の親戚の人からからかわれて、あっと気付いてっていうことはありましたし。小学校低学年くらいまでは、女の子と遊んでるほうが多かったかなぁと。>
この場合、今となって振り返ってみればという前提が付くことになるし、またお人形遊びをする男の子がみなトランスするわけでもないが、たしかにベンジャミンが示したようなストーリーを語ったのである。そして、女性で身近な存在である姉がいたことが、幼くても男女のジェンダー役割を比較し、その違いを目の当たりにするという経験に少なからず影響しているのではないかと思われる。また、このようなことも言っている。
<A:潜在的には女の子やったらいいのになっていうのは有ったかもしれないけど、ちっちゃい頃ってのは語彙も少ないから、自分の考えとかまとめて言えないでしょ。だから何か違うと思いながらも、それよりも親とかまわりからの「男の子なんだから、あんたはこうや」というのに合わせる事を余儀なくされてしまっていたっていうか、何かおかしいと思いながらも社会的なジェンダー圧力に身を任せてしまうみたいな事はあったんじゃないか(中略)逆に男の子は男の子らしくしなければいけないという刷り込みが出来上がってしまっていたから、自分は下手をすると女の子に見えてしまうという自覚もあったから、逆にある時期までは女色(赤やピンクのような色)を避けてた感がある。>
<B:これは男の子を真剣にやらなきゃいけない。それでも所々に(女の子っぽいところが)出てくるんですよ。これはもう絶対隠しとかなきゃならないって。女である自分なんて蓋をして、幾重にも封印しちゃって、男の子にしっかり染まらないと。それで自分自身をマインドコントロールするんですよ。>
<C:男だと思ってたと思います。男の子だからこうしなさいっていうのに強い反発はなかったですね。>
この発言から、自分自身が何者であるかという疑問が起こったことが、そのままトランスを考えることにつながらないというわたしの考えに合致する。幼い頃の情報(語彙)の不足によって、ジェンダー・アイデンティティ自体考えることが不可能な状態にあったのではないかと思う。自分は少し女の子みたいだと思ったとしても、それより両親や周囲からの「男の子はこうしなければいけないんだ」という強固なジェンダー圧力が、逆に女の子っぽい自分自身を自ら覆い隠すようはたらいたのである。そしてなるべく「男の子をしなければならない」という課題を背負って生活していたことをこのケースは語っている。
また周囲からのジェンダー圧力によって自分を出せないままにいるというストレス状態を、自分の本当の姿、すなわち女性である本当の自分を空想することであたかも納得しているかのような発言もあった。
<C:小学校高学年になると内面では女の子でいたいって気持ちがあったのかなぁ。空想の世界で自分が女の子になっているっていう、そういうのを想像してたかなぁ。>
[2]性的マイノリティ情報の入手
次にいわゆるニューハーフブームでテレビ上で性的マイノリティの存在を知ったトランス達は、はたして自分の身に起きている事情をニューハーフ達に重ねていたのだろうか。
<A:それは、うーん、割と心引かれたのは確かやね。テレビでニューハーフの人とか出てて、特にきれいな人なんかがいると、うわー、凄いなって。どうやったらなれるんかなと思いましたね。うーん、だから形にしなくとも無意識のうちに自分がああなるにはどうしたらいいんかなとは思っていたと思いますね。>
という意見もあったが、概して3人とも芸能人と同じでテレビの中の出来事としか見ることができないとか、結局は水商売の世界だという意見が見られた。以下はこの意見である。
<A:テレビに出て来た時点では、遠い世界のこと。だからニューハーフになるのとそれこそ芸能人のスターになるのと同じぐらいの事でリアリティのない事。(中略)この人達みたいに性別をかえてきれいな感じになって生きるって凄いいい事なんやけど、でもそれとショービジネスの世界、水商売の世界がセットに、抱き合わせになってるというのは自分がそっちへ行けない壁になってた。>
<B:ニューハーフって職業的なものなんですけどね。もちろんニューハーフの中にもMtFいますよ。MtFいますけどそんな数は多くない。>
<C:あれはでもやっぱり、違う世界の人って感じがあるじゃないですか。言っちゃあ、水商売。でも小さい頃に、やっぱり将来水商売しかないのかなぁと考えたことがあったような気がしますね。でもやっぱりわたしはできないと。>
3人ともニューハーフに自分を重ねてはいないことが分かる。世間の人がトランスとニューハーフを同一視しているのとは対照的に、当事者にとってニューハーフとは自分達からかけ離れた遠い世界の存在なのである。もちろん自分のありのままを生活するために、またそれしか仕事がないという理由で、職業としてニューハーフを選んでいるトランスも存在し、その中にも自分自身について思い悩んでいる人が大勢いることも忘れてはならない。
[3]トランスの決意
そして、トランスに関する情報を入手する時期が訪れ、トランスを決意する日もその後やってくるわけである。今回のインタビューでは、インターネットを使って対象者を選定したこともあり、それぞれインターネットでトランスに関する情報を獲得している。そしてそれがきっかけの一つとなりアイデンティティを考え直すきっかけが訪れたと語っている。しかし、本当の意味でトランスする道を選び取ったのはそれ以後で、本当に自分自身を顧みるようなプライベートな出来事があったときに自己を見つめ直し、性を越えることを決心したようだ。3人がそれぞれトランスし始めた時期というのは、佐倉さんの場合、調査から約3年前、中島さんの場合、約1年前、奥山さんの場合も約1年前となっている。次に引用するのはトランスの情報を発見した時とトランスを決意した時のストーリーである。
<C:中学・高校でも普通だったですね。それで大学入って偶然にもインターネットでとあるTVの人のページを見つけまして、そこからいろいろと見ていくうちにわたしが求めていうと言うか、わたしは本当はこんなんじゃないかと、はっきりと自認するようになって、今こうなってると。>
<B:妻とのセックスのときね、男性としては愛してないんですよね。愛せないんですよ。自分と妻を同一化しちゃってるんですよ。これは不思議な感覚なんですよ。妻のからだが自分の肉体であるみたいに感じちゃうんですよ、あたかも。だからおかしいと思うんですよ。それでうまく男性としてセックスは出来ないんですよ。そういうようないろんな積み重ねがあるからこそ、自分の肉体っていうのは確かに男性かもしれない、だけど心は限りなく女性。少なくても男じゃないって断言できるじゃないですか。だとしたら自分自身を女性と認めることがすなわちトランスの引き金となるわけでしょ。女性が好きなんだけれども全てのメリット、メリットというか男性として生きれば何の問題もないんだけど、それをすべてを投げ捨てて女性として生きなきゃいけないっていう、なんかどうしようもない力っていうか、それに逆らえなくなる日が来たんですよ。それが性的指向が女性の人のトランスする動機ですね。>
[4]性的指向が女性の場合の性自認
ある程度年齢が経ってから自分がトランスである事に気付くケースがある(*注6)が、中島さんの場合もそうだ。ではなぜその時点まで、自分が少し大多数の人と違うことが分からなかったのか。なぜここまで男として生活することができたのだろうか。それには性的指向が関わっていると中島さんは言う。
<B:性的指向が女性の人の場合には一旦、男性として懸命に生きる訳ですよね。でもある日破綻する訳です。もう男では生きられないって。メッキが剥げるっていうか。そうすると実は自分は女だったんだってその時初めて気がつくでしょう。そういえば小さい頃からおかしいことがいっぱいあったよね。わたしは女性が好きだから自分は男性だと思っていたんだ。でも実際は違ったんだ。女性が好きでも女の子として生きるしかない。>
<B:なぜその性自認を錯覚してたかって言うと、そこに性的指向が入ってた。女性が好きだ。女性が好きなのに、まさか自分自身がレズビアンだなんて思わないですよね。思います?男性で生まれながら実はレズビアンの脳なんて、思わないでしょう普通。ひっくり返って、またひっくり返ってんだもん。>
2章でもあるようにジェンダー・アイデンティティと性的指向はまったくの別物だ。ジェンダー・アイデンティティが女性だからといって、それがそのまま性的指向が男性である事を決定付けてはいない。性的指向が男性であるMtFの場合、男性の身体をしていながら男性を性的対象として選んだ時点で自分のジェンダー・アイデンティティが女性なのではなかろうかという疑問が自ずと起こってきてもおかしくないのだが、これが性的に女性指向であるMtFの場合は厄介だ。女性を性的対象としているので、女性の相手として男性の性役割を図らずも演じることができたというのである。
[5]トランス以前のアイデンティティ
わたしの当初の疑問に、トランスとして自覚する前というのはどういうアイデンティティを保持していたのか、ということがあった。普段、何気なく生活している人は自分が何者であるかというアイデンティティをいちいち考えながら生きるということはない。しかし、トランスの人が少なからず自分は他の人と違うと感じる機会を持ったのであれば、自分のアイデンティティを思い返す経験もあると思っていたからである。トランスする以前の自分自身について、煮えきらず上手く納得できていない様を語ってくれたのが佐倉さん。まだ年齢的に若い奥山さんは現在もはっきりと自分のジェンダー・アイデンティティを語れないことを話してくれた。
<A:男なのに男らしくない、情けない奴で、女装趣味がある変態でって。にもかかわらずニューハーフにもなりきれないどうしようもないヤローやというのはありますね。>
<C:(自分を)はっきりと女性だとも言えないし、でもやっぱり男性だって言うのも抵抗があるかなぁっていう・・・。まぁどっちって聞かれたらやっぱり女性って言いますね。でもはっきりとは、まだしてないですね。わたし自身、まだ良く分かってないって部分があるんで、どうなんかっていうのははっきりさせたい。だからカウンセリングは受けてみたいですね。>
[6]性同一性障害の発見
そしてそんな折りに埼玉医大の性同一性障害に関する答申についてのニュースが流れると、やはりわたし達とは比べ物にならないほどのインパクトを受けていたようだ。
<A:なんかお墨付きを貰った感じやね。医学的な症状があるんやったら、別にこれおかしい事じゃないやんっていうすごい安心感があった。変態としか世間で認識されてない事なんやけど、そうじゃない別の見方があるってのがわかったのはすごいことやったし。(中略)やっぱりあれはある意味で画期的。あれ以前は日陰の存在やったからね。>
<B:あれー、そんな病気あるんだと思って。それまでも薄々自分のことはおかしいと思ってるんだけど、自分の本当の姿を見てしまったと、鏡に映してみたと、そしたらなーんだ女じゃないか。その瞬間に男の子としてはどう頑張ったって生きられないですよね。>
<C:やっぱり喜びましたね。ここまで進んだんだと思って。今はそこまで(手術まで)やろうとは思ってないですけど、将来どうなるか分からないですからね>
この埼玉医大の答申は図らずも日本のトランスに多大な影響を与えた。それは情報の提供という観点から意義あることである。これまで日陰の存在であったトランスに日本で始めて照明が当てられ、誰もが見聞きする新聞やテレビに報道された意味は大きい。それによって、今まで自分の性に少し疑問を抱えていながらも、情報が無いためにはっきりとしたジェンダー・アイデンティティを見出せなかった人達が、自分は新聞やテレビが言っている性同一性障害なのではないかと考えることが可能になったのである。
しかし、一方で「障害」という病名に抵抗感はないのだろうかという疑問もわたしの中に湧いてきた。勝手に病気とされてトランス達はそれで納得しているのだろうか。
いわゆる病気には大きく分けて2種類の区別があると言われる。一つには、元々心身とも正常であったものが、何らかの原因で正常な状態が欠落してしまったケース。もう一つは、元々異常な状態で生まれてきたケースで、奇形を連想すれば理解しやすい。性同一性障害はどちらかといえば後者の方で不完全な状態で生まれてきた人間ということになる。このような医学の見解にトランス達は憤りを感じないのだろうか。
<A:あまり障害であるという言われ方にはわたしは抵抗感はなくて、それよりもむしろ女装趣味、イコール変態行為でしかなかったものが、そうではない一種の障害に過ぎないんやというところまできた。だから女装趣味の変態やったら凄く蔑まれるけど、障害やったら差別したらいかんやんけとみんな思ってくれるから、そこへ持ってこれたのはこの件に関してはむしろ進歩なんじゃないかな、と。少なくても自分にとってはそういうパラダイムの転換みたいなことがあったから。ただ、障害・病気という言い回しにこだわる人もいるけど、逆に言えば病気というのは言わば誰でもなる事やし、障害というのもたまたま何かのきっかけでなることであって、別に障害を負っているから人間として立場が低いとかそんなことでは決してない訳だし、だからちょっと不便で不幸じゃない訳であって、まぁ一つの個性やと(笑)。>
<C:わたしは別に障害でもいいとは思ってますけど、それでちゃんと直してもらえるっていう。直すって言うのもあれなんですけど。ちゃんと正常な状態(心と身体が一致した状態)に直してもらえるって言うんなら、それでもいいって思ってますけど。>
この言葉を聞いている限りでは障害といわれることに全く憤りは感じてない様だ。医療系の仕事に就く中島さんは、カウンセラーなどは性同一性障害の人をクライアント(顧客)と呼び一概に病気扱いしていないとも主張した。しかし、同性愛を精神病のカテゴリーから外すように求めた運動で、同性愛者が現在の精神病とは見なされない地位を獲得したように、トランスの中にも障害という名称に満足せずにいる人がいることも確かなことなのである。
[7]トランスの苦悩
自分のジェンダー・アイデンティティに気付いたからといってすぐに性を超えて生活する訳にはいかない。性を超えるということがどれほど難しいことなのか、言い換えるなら、この社会が性を超えることをどれほど阻んでいるのかが、当事者達の生活の話から垣間見ることができる。次にトランスの生活がどのようなものかを引用する。奥山さんの場合は、年齢的にまだ若いため、両親と同居していくことの辛さを語ってくれた。
<C:(両親と同居だと大変ですかという問いに対し)ええ、大変ですね。去年3月に見つかる前はこういう物(女性ものの衣服や化粧道具)を隠すというものありますし、同居してますと普段からいろいろと、もう。両親は心配していたと思うんですけど、将来もこんな事していくのかみたいなことをずっと言われたりとか。(両親ともにいわれるのかという問いに対し)いえ、母親だけですね。父はこれ知った当初はすごい落ち込んだらしいんですけど、今は普段どおりにわたしと接してますね。(母には)わたし宛ての郵便物を全部開けられたりとか。変な女装関連のものじゃないのかと心配して、全部開けられちゃいますね。昔はもう引き出しとかも開けて調べられたりとかしたことありましたし。>
トランスの中でもTSの事情はさらに悲惨さを帯びているようだ。今まで築きあげてきた自分というものが、ガラガラと音をたてて破綻してしまうのである。そうなってしまっては道は2つしかないと中島さんは言う。ここでは自らをTSと自認する中島さんの決心の時のエピソードを引用する。中島さんはなぜトランスするのだろうというわたしの疑問に対し、心情を切に訴えるように語ってくれた。
<B:女性の道を選ぶ場合には微かな望みがあるからそっちを選ぶんですよ。もしそこでそのまま男性の道を選んだなら、もう廃人になるか、人格障害を起すか、重度の鬱病になるか。そうすると家族にもっと迷惑かけるじゃないですか。生きながら廃人になるわけだからね。そんなことって耐えられないじゃないですか。そこでもって死の選択が出てくるんですよ。女性になっても、生き恥を晒してまで生きたくないって気持ちはあるんですよ。周囲に迷惑かけるよなって。(中略)家族にも迷惑かけるし。そうなったら自分なんてもう要らないものだって思うのがホントじゃないですか。だからもう死にたい死にたいって気持ちを抱えてる訳なんですよ。だけど死ぬことはやっぱり悪いことだってありますよね。自殺って。その中での葛藤があるんですよ。だから死ぬことより生きることの方がはるかに難しい。だけど女性で生きるしかないんですよね。考えてご覧、そりゃあ男で生きたほうがすごく楽だよ。家族は守れる、財産も捨てなくていい、子ども達とも一緒に暮らせる、世間からのひんしゅくを受けなくていい、祝福されてる、何一つ不自由無い、だけど生きられないんですよ。じゃああなた、損得で考えれば女になって何のメリットが有るの、何にも無い、何もあるわけないじゃない、だけど生きられない。ただ純粋に生きるためにトランスするんですよ。それは欲望とかじゃないんですよ。>
中島さんの場合は、結婚もし子供もいたという状態の後にトランスを決意したため、妻子との別居を余儀なくされたと言う。その自分自身の現状を「針の山を歩いている様だ」と言い表した。それでも生きていくため、ただそれだけのためにトランスを決意したというのだ。このような生活の中、命を絶つのではなく自分自身を保っていくには、確固としたアイデンティティがなくてはならない。それも女性としての新たなアイデンティティが必要となる。なぜなら、一度破綻してしまった男性としてのアイデンティティをパッチワークのようにつなぎ合わせて修復することはとても難しいからだ。その女性としての新たなアイデンティティの形成とその保持についてを次の節で考えていくこととする。
第2節 アイデンティティの構築と保持
[1]パッシング
半陰陽者の参与観察を扱った社会学的研究に、ガーフィンケルの「アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか」がある。そこで使われている概念にパッシングというものがある。ガーフィンケルの言うパッシングの定義とはこうだ。「自分が選んだ性別で生きていく権利を獲得し、それを保持していく一方で、社会生活において男あるいは女として通っていく際に生ずるやもしれない露見や破滅の可能性に備えること、それをわたしは“passing”と呼ぶことにする。」パッシングの日本語訳として通過作業、または身元隠しという言葉が当てられている。このガーフィンケルの調査対象アグネスは、完璧な若い女性のプロポーションをし、強固な女性の性自認を持っていた。しかし、唯一男性の外性器を股間に持っていたのである。なるほど、アグネスにとってのパッシングとは、男性外性器と出生証明という身元隠しであり、強固に自認する女性としてのジェンダー・アイデンティティが欠けてしまうことを避けるための通過作業であったろう。しかし、今回のわたしのインタビューの対象者を始め、過去男性として暮らした経験がある日本のトランス達の使うパッシングは、ガーフィンケルの言うそれとは異なったニュアンス含んでいる。MtFの場合で考えると、他人から見て外見や言動などが女性としてのジェンダーの基準に達していた時、その人は女性としてパス(パッシング)したことになる。このパスは女性として「合格」できたことを意味している。それは試験に「合格」することと同じで、他人からの評価を受け「合格」することによって、何かを得ることができることをも意味している。その獲得できるものこそ女性としてのアイデンティティなのではないだろうか。パッシングという外部からのフィードバックが、「女性としてのわたしを周囲の人が認めてくれた」、「女性として合格基準に達ているのだ」という証拠となって、MtFが女性としてのジェンダー・アイデンティティを形成するのに大きく関与しているのである。
ガーフィンケルのパッシングが、アグネスの元来持ち合わせている女性としての強固なジェンダー・アイデンティティに亀裂が入るのを防ぐという側面を表わしているのに対し、トランス達の間で使われているパッシングは、元々持ち合わせていなかった女性としてのアイデンティティを構築していく過程で重要な役割をするという側面を表わしている。両者の決定的違いはアグネスの場合のパッシングはアイデンティティの保持の役割が強く、トランスの場合はアイデンティティの構築という役割が強いことである。MtFトランス達にとってパッシングできなかった場合、社会的な女性のカテゴリーに入るという試験に不合格したことを意味し、またそれによって女性としてのアイデンティティを外部から否定されることを意味するのだ。これでは女性としての健全なアイデンティティの形成を阻害されてしまうだろう。
このようにパッシングとは女性として「合格」し、そして女性としてのアイデンティティを獲得できるという意味で、トランスにとって非常に大変でもあり、重要なことなのである。ここでインタビュー対象者のパッシングに対する考え方も引用しておきたい。
<A:今の段階ではある程度パスできないと、やっぱりいろいろと問題は起きると思う。トイレなんか入るときは物議を醸し出すやろうし。それは指し当たって問題や。(中略)やっぱりパスできるようになることはある意味重要。>
<B:パッシングはね、あれは難しいです。完璧にパッシングするのは。年齢との関係です。多分わたしね、二十歳前にやってればね(トランスしてれば)結構わかんないと思う。二十歳前だとパーフェクト、二十代でも結構完全かなと思っています、そういう自信あります。でもねー、この年齢でやるとね、やっぱりきついものがありますね。だってそれまで男の子してたんですよ。わたしの場合ね、素質だけなんですよ。>
<C:それはやっぱり気にしますね。その(女性の)格好でコンビニ入ってどっちのボタン押されるかなぁとか見たりとかしてますね(*注7)。TG,TSの人はやっぱりパスしたいと思ってますね。やっぱりパスできないと女性として扱ってもらえないですからね>
[2]カミングアウト
自分がトランスであることを自覚したということは、すなわち自分のアイデンティティを見直す機会が訪れたことを意味している。マネーが言うように性自認が「個性の、統一性、一貫性、持続性」をいうのならば、性を超えるという事情は統一性、一貫性、持続性が途切れるということである。つまり、MtFで、ある程度男性として生活経験のある人の場合、男性としての統一性、一貫性、持続性がトランスする時点で途切れ、今度は女性としてのジェンダー・アイデンティティを形成、保持していかねばならない。性自認がマネーがいうように「特に自己洞察と行動という経験を通して身に付けられる」のならば、カミングアウトとはまさにこの行動という側面を持っている。この行動とはそのまま性自認と表裏一体である性役割にもつながっている。カミングアウトは自らの性自認を公に対して表現するという性役割として機能しているのである。また逆に、カミングアウトするという性役割がジェンダー・アイデンティティの形成にフィードバックすることにもなるのだ。次にカミングアウトのストーリーを引用する。カミングアウトの事情もかなりプライバシーに突っ込んだ内容であるため、インタビューにも細心の注意が必要であった。
<A:今のところ親には伏せてあります。昔から知っている人でカムアウトしたって人はあまりいないですね。配偶者とあと昔一緒に仕事してた人とか>
<B:職場の人にもみんな話してありますよ。仲のいい友達はやっぱり話してますよ。>
佐倉さん、中島さんはある程度女性としての社会的地位が出来上がりつつあるという状況なので、「これからまた増えていくでしょうね」と積極的にカミングアウトしていくことを語っている。このことは女性としてのアイデンティティの形成と保持に役立っていくのではないだろうか。しかし佐倉さんは、「もう親も年老いてるし知らせないことの方が親孝行かなって思いもある」と両親へのカミングアウトを渋る。ここにカミングアウトするという目論見が危険性を持っているということが見て取れる。トランスを告白したとしても、そのままの自分を認めてもらえない場合もあるからである。非難、中傷を受けるかもしれない、絶縁されるかもしれないという心配を抱えながらも、ありのままの自分自身を築き上げるために、トランスはカミングアウトというアイデンティティの構築作業を行っているのである。
[3]ホルモンをするということ
インタビュー対象者の中でカウンセリングやホルモン療法の経験があるのは、中島さんだけであった。中島さんはホルモン療法は結果的に身体的特徴を変化させるものだが、その本当の意義は、アイデンティティを作り直せることにあると語っている。
<B:性自認が女性だということがあるからこそ、そこにホルモンを少しずつ使うことによって女性としてのアイデンティティを全部満たしてあげることが出来るでしょう。それがホルモンの作用です。体が女らしくなって丸くなってきただとか、お尻が大きいとか。あと骨格とか筋肉が女性らしくふくよかになってきたとか、胸が大きくなってきたとか。性自認が女性でしょ、身体も女性になることによって統一、一体化する、同一性を持たせることが出来るでしょう。これがホルモンなの。>
またカウンセリングの目的もホルモン同様、自分の辛かったこと悲しかったことを話すことによって、自分との対話を行い、新たにアイデンティティを確立していくことにあると言う。
<B:苦しかったこととか辛かったこととかそういうのを話すことによって、辛さを離すんですよ。辛さを自分から離して行く。話す=離すなんだって。自分の中に閉じ込めておかない。それがカウンセリングの目的なの。で、自分自身のアイデンティティをその中で少しずつ見つけていくのがカウンセリングなの。自分の生きる道を自分自身の中で築きあげていくために、カウンセリングっていうのは必要なの。>
第3節 トランスのジェンダー観
[1]トランスするということは必ずしもジェンダーフリーを意味しない
性を越えるという事情を実行しているトランスのジェンダーへの考え方とは如何なるものなのだろうか。性を越えている事情から、女も男も無いというジェンダーフリーの考えを持っているのではないかと予想され得るが、実はそう簡単なことでは済まない。性を越えるという事情はジェンダーの問題と複雑に絡み合っている。しかし、MtFは女性解放運動に関しては支持する気持ちを積極的に示しており、実際にジェンダーフリーを女性と共に叫んで活動している佐倉さんのような人もいる。以下はそのような意見である。
<B:わたしねこのGID(性同一性障害)の問題ね、社会という大きな枠の中で考えると、女性差別の問題だと思うんですよ。なぜかって言うと、男女っていうのは常に平等でなければいけないよね。でも男性側から女性を見る場合にどうしても下に見てるよね、だから平行移動が出来ないじゃないですか、男性側にとってわたし達みたいな人間っていうのは、「なんだ男のくせにおかしなやつだな」と思うじゃないですか。それが対等な時代がくれば、「男性が女性になった、なんだ単に平行移動しただけじゃないか」って思うじゃない。だからその根っこにある部分ていうのは、女性が男性の性的対象物であるとか、平等の権利を勝ち得てないところにこの問題の根っこってあると思うんだ。フェミニズムじゃないけどね。
ただ昔ウーマンリブって運動もあったじゃないですか、真の意味でね、男女雇用機会均等法とか女性差別が無くなってくれば、トランスセクシュアルに対する偏見とか差別も無くなっていくでしょう。今とはまったく違うようになるでしょう。そういう意味でわたし達はね女性を応援してかなきゃいけないんだと思う。>
<A:今のいわゆる性別の枠組みがすべてこれで良いとは思わないから、そういう意味でジェンダーフリーを目指すような運動とか、流れは支持する。>
しかし、ジェンダーフリーを支持しながら、逆にMtFトランスの事情は男女を明確に区別し、男性はもちろんのことトランスでもなく完全な女性として暮らしたいという強固なジェンダー観を持っていることも見出すことができる。このことがフェミニズムとも一線を隔さざるを得ない事態を引き起こしている原因と考えられる。実際、一部のフェミニストはフェミニズムの活動にトランスが参加することを快く思っていないという話しもある。
<A:今の男女の枠組みの中では女性に属したいっていうのは絶対あるし、その上で自分のしたいこととかを考えていくと、やっぱりいわゆる女性的な好みとかはあると思う。理想としては女性として、女の子らしい小物も持ちながら、ちょっと男社会を糾弾するような女性、というのが理想的なキャラクターですね。>
<C:完全にもうトランスであることは書いてない女性としてのホームページも持ってるんですよ。やっぱり奥山こと美としてのページは「そういう人なんだ」っていうので、トランスなんだっていうので見られて、そして来る人もそういうトランスの人中心になりますから、それじゃちょっとわたしは満足できなかったのかなぁ。女性としてのページを持ちたかった。>
<B:TSは極端な話をすると、二元論の中できっちり分けてるんですよ。矛盾するようだけど。性を越えてるって事ではジェンダーフリーなのかもしれないけど、実際にそれが確定した段階では、「女だ」「男だ」っていう強固なアイデンティティがある。それにこだわりがあるのがTS。体へのこだわりが強いんですよ。こだわらなければこんな事しないですよ、大体。こだわらなければTGの段階で止まってますよ。そのこだわりがどうしようもないからこそ、TSなんじゃない。TSたるTSなんじゃない。身体違和が強くて、生きるか死ぬかの瀬戸際で、そこに妥協っていうものはないでしょう。真ん中で生きるなんてそんな曖昧なこと出来る訳ない。わたしは出来ない。これがTGとTSの違いですよ。>
次に2章で触れたように、トランスは訳の分からないものとして同性愛者としばしば混同されてしまうことがある。では当事者としてはそのような世の中の認識をどのように感じているのかを聞いてみた。
<A:あたしなんかもたまに「あぁ、ゲイなんですか」とか言われたらちょっとムッとしますね。>
<B:でもねGID(性同一性障害)の人って結構同性愛って嫌うんだよね。いがみ合うっていうか、嫌しちゃうんですよね。わたし同性愛じゃないもんって。>
<C:やっぱりちょっと嫌ですね。わたし自身(性的指向が)両方なんで、わたし自身が同性愛者だと言われても、まあ別にどうって事はないんですけど、やっぱり一色単に見られるっていう。希望としてはもっと知って欲しいかなっていうふうに思うんですけどね。ただ世間一般の人にとっては知っても知らなくてもどうでもいいことですからね。難しいかなぁと思う。>
大多数の異性愛の人は自分が同性愛者に見られることを嫌悪する。それこそが同性愛者の差別につながるのだが、トランスにとっても同性愛者と同一視されることは不快なことであるようだ。中島さん佐倉さんの場合は、性的指向が女性に向けられているので、男性同性愛の心情というのは対極に位置し分からないというのもなおさらかもしれない。
[2]性的指向の重要性
今回のインタビューでは思いがけず、とても興味深い視点を発見することができた。それは性的指向を根拠にトランスするという現象である。ニューハーフの性的指向は男性だというステレオタイプを、今度は角度を変えて考えてみよう。男性が男性を好きになってしまったとしよう。しかし自分は同性愛者だと思われるのはすごく嫌だと思う人は、自分は女性なんだと自分自身をマインドコントロールすることで異性愛の型にはまろうとすることが可能なのではないだろうか。すなわち「わたしは男性が好きだから女性なんだ」という性的指向からの発想である。それは本当の意味でトランスと言えるのだろうか。性同一性障害と言えるのだろうか。確かに性同一性障害の診断において性的指向を基準に考えることは危険なこととされている。それは性同一性障害はあくまでジェンダー・アイデンティティを中心に考え、セクシュアル・オリエンテーションはほとんど関係ないからだ。しかし、中島さんのような性的指向が女性であるMtFTSが、女性を愛するが故に、本来の女性としてのアイデンティティに抗ってまで男性として生きようと努力するのと同じように、反対に男性指向であるが故に女性のアイデンティティを作り出すこともできるのでなかいかと考えられる。しかしその場合の女性としてのアイデンティティは、仮初めのアイデンティティであるため、いずれ起こるであろう破綻という時限爆弾を抱えているのである。仮初めの女性のアイデンティティの破綻という時限爆弾は、そのまま自殺という結果につながることをわたしに予想させるに十分な威力を持っている。ニューハーフに自殺者が多いのもこの性的指向からのジェンダー・アイデンティティの誤認が一つの原因ではないのだろうか。
しかし、この悲劇はカウンセリングを受けることによって回避できる。性同一性障害治療の第1段階としてカウンセリングが位置づけられているのはこのためである。カウンセリングによって、とてもあやふやで曖昧な自分のジェンダー・アイデンティティを発見し、再構築するのである。その意味でカウンセリングはとても重要で、この段階を経ずに不可逆的なホルモン療法や手術を行うことは、新たな2次的性同一性障害を起こしてしまう危険をはらんでいる。カウンセリングによるジェンダー・アイデンティティの確認がないまま、性的指向からの不可逆的なトランスをしてしまっては、元々一致していたはずのジェンダー・アイデンティティと身体的性を、人為的に分断し、新たな悲劇を生み出してしまうことになってしまう。このようなことを起こさないためにも、専門のカウンセラーを増やしていくことが急務と言えるだろう。
第4節 まとめ
第4章ではインタビューの分析を行ってきたが、ここで当初の疑問とインタビュー結果とを照らし合わせてまとめておこう。
始めの疑問は、トランスに関する情報の入手がトランスするという事情にきっかけを与えているのでないかということである。
やはり、情報の獲得によって自分の心の深層に潜むジェンダー・アイデンティティに目を向けるようになったようだ。子供の頃に違和感を感じていないわけではないが、それよりも社会や大人達が強く期待する「男の子はこうでなくてはいけない」(MtFの場合)というジェンダー規範が強く染み付いており、それに抗うことは周囲との関係性を不利な状況へと誘なってしまうことを意味していたようだ。だから、自分は周囲が言うように、「男の子なのだ」と思い込むしか仕方なかったのである。
2つ目の疑問は、トランスのアイデンティティの構築と保持に関してである。
アイデンティティの構築、それは他人との相互作用によって行われる行為であると言えるだろう。パッシングは不特定多数の人との間で交わされる相互作用である。MtFの場合、女性として「合格(パッシング)」することによって、女性としての新たなアイデンティティ構築の材料を手に入れることができるのである。
またカミングアウトは身近な親族や友人との相互作用であって、トランスにとってはかなりの危険性を持っている反面、カミングアウトで成功することも自分の女性としてのアイデンティティの再構築に役立っているのである。
最後にトランス達のジェンダー観についてまとめよう。
性を越えるという事情から性別を超越した存在と考えられがちなトランスだが、逆に「女はこうで、男はこう」という既存のジェンダー観に捕らわれている感もあることが分かった。特にTSに言えることなのだが、MtFトランスはできることなら完全な女性になりたいと願っており、男でもなく女でもないトランスとして生きることは彼女たちにとってやむを得ないことなのである。ではトランスの指す女性とは何か。それは女らしい女性なのではないか。それを求めるが故の行動が、パッシングでありカミングアウトであり、自分のストーリーを語ることなのではないだろうか。
このように、トランスを取り巻く状況について述べてきたが、トランスに共通するのは悩み苦しんでいることではないだろうか。「わたしは何者なのだろう」「なぜ人から中傷されなければならないのか」「親族や知人にばれたらどうしよう」「わたしに合うパートナーはいるのだろうか」「将来はどうやって生きていくことになるのだろう」「就職することができるのだろうか」など心配は尽きず、また個人の事情によって悩みは大きく違ってくるだろう。そのような状況を少しでも世に知らしめるために、トランスについての多方面からの研究が進むことを願って止まないのである。

