ラツァルス・・・それ自体自由で、無目的で、面白く楽しい活動
デューイ・・・・何らかの結果を目的として意識的に行われることのない活動
ギューリック・・やりたいから行う行動
シュテルン・・・自発的な自己充足的活動
パトリック・・・自由で自発的に、それ自体のために追求される人間の活動。
レインウオーター・・行動の一様式であり、どんなものであれ楽しい活動を含む。
活動そのもの以外の報酬のために企てられない。
パングバーン・・それ自体のためになされる活動
最初に7人の学者が唱えたいわゆる「遊びの定義」なるものを紹介した。かれらの定義づけだけで遊びを理解するのは不可能だということが解ると思う。「遊び」を定義するというのはここでは論を進めていく上である意味都合の好いように自分なりの解釈を与えることを意味する。
「遊びとはなにか」簡単なようでなかなかスンナリとはいかないテーマである。多くの人たちにとって遊びとは些細で、実益を伴わない、日頃あるあらゆる統制に縛られない活動であると認識しているように思われる。それは「ただの遊びだよ。」という言葉を使うことからもよくわかる。そもそも、「遊びとはなにか」という問いの難しさはどこから来るのだろうか。それは、遊びそのものの行為自体を人間だけに限らずそれ以外の種においてさえ容易に認識されているということである。勿論、認識という”言葉”で捉えているのは人間だけであろうが他の動物においても本能的に”遊び”という行為をし、遊びと生きていくための活動はきちっと分けて生きている。
このように、単純なようで複雑な遊びに対する定義づけの草分けとなったのがヨハン・ホイジンガーとロジェ・カイヨワであろう。
ヨハン・ホイジンガー(1872〜1945)はオランダの歴史家で主著『中世の秋』は14、15世紀のフランスとネーデルラントの社会に中世文化の持続と変容の様子を観察しようとしたもので、ブルクハルトの捲き起こした「ルネサンス論争」への一つの、そしてまた決定的な解答であった。『エラスムス』(1924)、『朝の影のなかに』(1935)などの著書を残した彼が1938年に発表したのが中世史家ならではの現代文明批評がなされている『ホモ・ルーデンス』である。
この論文の第1章の中で論じられている彼なりの遊びに対する捉え方はこれまで考えられていた定義では遊びを説明するのには不十分であるというものであった。まず彼は、遊びを、余剰エネルギーの放出、将来の実生活のための予備学習、不満足な現実の補償など何らかの外的な原因や目的から説明する従来の考え方の不十分さを指摘した。なぜならそれは人を夢中にさせる「遊び」それ自体の持つ「面白さ」を軽視していることになり、しかもその面白さのなかにこそ遊びの本質があると主張したのである。遊びは、「それ自体のうちに目的を持つ」活動、ほかの何物にも還元できない「無条件に根源的な生の範疇」なのだという考え方に基づきホイジンガーは遊びという活動の形式的特徴の検討を進めていく。遊びは先ず何よりも「自由な活動」であり、命令される遊びはすでに遊びではないと指摘し、一応の結論として「その外形から観察したとき、我々は遊びを総括して<本気でそうしているのではないもの>、<日常生活の外にあるもの>と感じているようだが、それにもかかわらず遊んでいる人を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能な一つの自由な活動であると呼ぶことが出来る。この行為はどんな物理的利害関係とも結びつかず、それからは利益も得られることはない。遊びは規定された時間、空間、の中で決められた規則に従い、秩序正しく進行していくものだ。」と述べている。
この1章に始まり、3章までがいわゆる総論のようにまとめられており以降の章が機能分野に即した各論のようにまとめられている。この『ホモ・ルーデンス』は、独創的な発想と博識に満ち、単純にレジャーやスポーツの社会学だけでなく、広く文明と人間に関する社会学的考察にも有益な示唆をあたえた。
1938年に出版されたホイジンガーの『ホモ・ルーデンス』とならんで今日に至る遊びを論じる上で必ず引用されるのがこれから紹介するロジェ・カイヨワの『遊びと人間』である。ロジェ・カイヨワはフランスの社会学者で神話、聖なるもの、遊びなどの眩惑的な超現実世界を主題に鋭い分析を展開した。デュルケーム的伝統を継承し1937年にモースの直接の影響を受けてバタイヤやレスリと「社会学研究会」を組織し、『人間と聖なるもの』を著した。『遊びと人間』はそんな彼が1958年に著したもので、今回の卒業論文でおもにとりあげるのは彼が示した遊びの四つの基本的範疇(競争・偶然・模擬・眩暈)についてである。カイヨワはホイジンガーが、人間がつくりだした文化の中でそれ以前にはだれも遊びの存在や影響を認めなかったところに遊びを発見した点でこれを高く評価している。だが一方でカイヨワは、ホイジンガがあつかったのはもっぱら「競技」の遊びでしかなかったと批判している。カイヨワは自ら示した遊びの四つの基本範疇によって遊びの多様性を包括的に把握しようと試みたのである。
遊びとは強制されない「自由」な活動であり、日常生活とは時間的・空間的に区別された「分離した」活動であり、またあらかじめ結果が決められていない「不確定」な活動であり、財貨や富をつくりださない「非生産的」な活動であり、それはさらに現実の社会生活のルールとは異なった、その遊び特有の「ルール」を持った活動であり、ルールを持たない場合でも非現実の意識を伴う「虚構的」活動として現実とははっきりと対立するという定義に沿いながらもカイヨワの遊び論の独自性はむしろ、一般的に遊びと呼ばれる多様な現象に対して彼が試みた分類にみることができる。
カイヨワが遊びの多様性を分類するために用意した四つの基本範疇は前述した(1)競争、(2)偶然、(3)模擬、(4)眩暈である。彼はさらに遊び行動の様態の違いに注目して、決まったルールもなく、たんに気晴らし、熱狂、自由な即興、気ままな発散に基づく無秩序で気まぐれな遊びとしてのパイディア(子どもらしさを意味するラテン語)と、こうした無秩序な行動に一定のルールを課して、このルールの窮屈な障害のもとで望みの結果を得ることを目的とするルドウス(遊びを意味するラテン語)とを区別している。
パイディアとルドウスは、競争、偶然、模擬、眩暈という4つのカテゴリーそれぞれの内部で、ふたつの対立する極をなしているとしている。カイヨワはそれぞれの遊びに見られるパイディアからルドウスへの展開、洗練に、子どもから大人へ、個人から社会存在へ、そして遊戯本能から文明への進化、発達をみているのである。さらにカイヨワは、文化と遊びとの間に見られるある種の構造的同質性に注目し、一定の社会を構成する原動力が同じである以上、遊びを通じて表現されるものは、文化を通じて表現されるものと同一であるという自分の考えに基づき「ひとつの文明の診断を、そこで特に好まれている遊びによってこころみる」というテーマを企てた。
このテーマを簡単に説明するとそれぞれの社会が競争、偶然、模擬、眩暈という4つの遊びの原理のうちのいずれかにあてはめてその社会の型を見極めるという類型論的試みである。これを説明するための例として彼はゴルフを挙げている。ゴルフはいつでもインチキ可能なスポーツだが、インチキせずに遊ぶというふるまいはちょうど高度に発達した市民社会における市民の国家に対するフェアな義務に対応しているというのである。ゴルフに限らずテニスなどのアングロ・サクソン系スポーツに見られるルール上の特性を社会に照らし合わせた彼の考え方は現在での我が国のゴルフやテニスの市民権の獲得を説明するのは難しいだろう。我々の文化がアングロ・サクソンの市民社会に近づいたというよりは遊びというものが文化の中心という考えではなく、むしろ文化の周辺的なことがらであるために、遊びこそは文化の特殊性を構成する要素から切り離され様々に異なった文化間であっても容易に受け入れられる融通性を持っていると考えられないだろうか。遊びの持つ融通性、言い換えれば全ての人間が簡単に行うことができる「遊び」の波及力を注目するべきではないかと思われる。
ここまでヨハン・ホイジンガーとロジェ・カイヨワ、ふたりの学者の「遊び」に対しての考え方を紹介してきた。彼らはいわゆる遊び論の先駆け的存在とされており、特にカイヨワに関しては遊びに反映されたその時代やその状況の集団的無意識や欲望、歪みを読み解く試みの可能性を開くものとして現在でも高く評価されている。
自らの著書、『遊びと人間』のなかでカイヨワは、四つの基本範疇とは別に遊びの条件として先ず大きく五つほどにまとめて述べている。一つ目は「遊びとは自由な行動である」ということである。つまり、遊びとは自発性に基づいてやるものであり、それの主体である人間が「これはおもしろそうだ。」とか「やってみよう。」という気持ちを持った時に初めて遊びは遊びになるのである。人から遊べと言われてするのは遊びではないということになる。例えば日本の企業会社でよくみられる”接待ゴルフ”等がその顕著な例である。この類のいわゆるつきあいは命令ではないのだがなんらかの強制を伴った遊び行動ということができ、この種の自由さのない行動はたとえ第三者から見れば楽しそうな行動でも遊びではないということである。二つ目はおよそ遊びというものは隔離された行動であるということである。要するに、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内で限定されているのが遊びだということである。それから外れたものがレジャーであり遊びではないと先ず一定の取り決めをしてしまうのである。この点はホイジンガーとも一致している。これで言うなら目的のない散歩や昼寝、おしゃべりなども遊びではないということになる。三つ目は遊びというには未確認の要素を含んでいなければならないということである。はじめから筋道がきまっているもの、それがどうなるのか分かっているものは遊びにはならない。例えばスポーツの結果が最初から分かってしまったら面白くない。競輪・競馬などの見物するスポーツにも同じ事が言えるだろう。つまり、未確定の要素が残されているから遊びというものは面白いわけで、トランプ、麻雀、ジャンケンなど最後に誰が、どういう手で勝つかわからないところが特徴なのであろう。四つ目の条件としてカイヨワは遊びとは非生産的な活動であるということを挙げている。遊びによってものは生産されない、しかし、その間での金銭の動きはありえるというものである。非合法の領域でいえば賭け麻雀、合法の領域でいえばパチンコ・競馬などが代表的な例であろう。これらの遊びに使われたお金の移動によってとくに何かの生産が行われるということはない。パチンコ、競馬などは少なからず国民総生産性に貢献してはいるがそれによって物質的な生産は行われないのである。一般に言われる物的生産から離れた非生産的な活動が四つ目の遊びの条件だと彼は言っているのである。最後は、遊びは規則性のあるものだという考えである。どんな簡単な遊びでも必ず約束事が存在する。要するに遊びにはどんな形であれルールが存在するということである。そのルールは必ずしも全世界で認められたものである必要はなく、その場だけ、当事者が作ったルールであっても構わないのである。ただし、オリンピック、ワールドカップなどの世界規模で行われているスポーツは長い年月をかけてルールを普遍化したものであり、全地球規模でおこなわれているスポーツの祭典であるため、この場合は規則(ルール)は普遍的なものを持っていなくてはならない。一番大きな規則というのがこのような全世界共通の類のものであり、一番小さいレベルが当事者間の一回きりの約束事なのであろうが程度の違いこそあれ遊びには必ず規則が存在するというのがカイヨワの主張なのである。
ここまで紹介した五つの条件を備えた遊びにはどのような種類のものがあるかと考え、カイヨワが導き出したのが何度か紹介した『遊びの四つの基本範疇』である。次節からはこの四つに関してさらに詳しく考えていきたい。
彼は遊びと一般に呼ばれるものを四つのカテゴリーに分類した。
一つ目はアゴン(競争のあそび)である。「そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件の下で対抗することになる」というのがカイヨワのアゴンに対する定義であり、これに相当するのがスポーツ全般であろう。スポーツはあらゆる平等が最初に大前提として存在する。例えば陸上競技などはトラック競技の場合まずスタートラインが決められ、参加している選手はピストルの合図とともに一斉にスタートを切る。最初の時点でチャンスは平等に分配されているのである。他の例を挙げるとすれば、テニスのコートチェンジ、そしてゴルフのハンディキャップなどもチャンスを均等にするための工夫であろう。これは技能の差が明らかにある者同士の格差を除くため工夫である。これらの例からもわかるように同一の条件の下で競うのがアゴンなのだが、アゴンの遊びをする時、もっとも重要なのが日ごろの訓練であり技能なのである。つまり、訓練をすればするほど、経験を積めば積むほど上達するのがアゴンの遊びであり、その鍛練した腕を競うのがアゴンの遊びの本質なのである。この背景にはあらゆる平等への努力があるけれどもそれはあくまでもチャンスの平等であって能力の平等ではないということである。この背景が伴わないとアゴンがアゴンとして存在し得なくなり、チャンスの平等という原則がアゴンの基礎になっていると言えるだろう。カイヨワはこのアゴンの遊びは人間の中だけでなく動物の間でも見ることが出来ると述べている。
二つ目はアレア(偶然のあそび)である。これはいわゆる運のゲームで、アレアはラテン語で『さいころ』という意味がある。「アゴンとは正反対に遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上になりたつ全ての遊びを示すためにこのことばを借用した」とカイヨワは述べている。要するに原点はサイコロ博打なのである。この遊びでは熟練はものをいわず、運命こそ勝利を作り出す唯一のファクターとなり、相手のある場合には、勝者は敗者より運に恵まれていただけに過ぎないことになる。アゴンとアレアを比較してカイヨワは「アゴンは個人の責任を引き受けることであり、アレアは意志を放棄し、運命に身を委ねることである」と述べているが、共通な部分が全くないわけではない。アゴンとアレアは一見相反する、対照的な性格を持つけれども、どちらの遊びも共通の掟『ルール』に従って進行するという点をもつ。アレアの中の『ルール』とは現実にはありえない純粋に平等な条件を、遊戯者の間に人為的に創造するという『ルール』なのである。この点はアゴンで例を挙げれば陸上競技のスタートライン、アレアの場合のサイコロ博打になり、これらは共通してそこに参加する人間心理の前提になっていると言える。アレアの遊びは非常に人間的な遊びと言え、こういう遊びは動物の世界などでは見ることが出来ない。
三つ目はミミクリ(模擬のあそび)である。「人が自分を自分以外のなにかであると信じたり、自分に信じ込ませたり、あるいは他人に信じさせたりして遊ぶ」ことであるとカイヨワは述べている。子供達のおままごと、『〜ごっこ』などもこの類であり、一種の模擬的な架空の状態をつくって楽しむ遊びを指す。最近で言えばテレビの「ものまね番組」などはまさにミミクリの権化であろう。ものまねをする人(ミミクリの遊びをする人)は、その対象になったつもりになるか、あるいは他人をそう思わせるか、あるいは自分自身をそう納得させるか、という行為を自分でしているわけであるからこれはカイヨワの言うミミクリの現代映像文明の中でのひとつの事例である。あと、身近な例を挙げれば大学祭などの「模擬店」なども学生達がその日だけはやきそば屋の主人になったりするところから立派なミミクリである。このミミクリの中で原始時代から続いている最も典型的なものは仮面であるとカイヨワは述べている。自分が違った人間になるために一番手っ取り早いのが古来より仮面をつけることであった。現在の生活の中で言えば学校では真面目ぶってる生徒も家に帰ればきっと違う顔をしているはずであり、その場合学校でのその人はいわゆる「仮面」をつけているといえる。これは社会心理学的な考えであるが現代社会における変身願望もこれと深い関係がある。
自分が不満に思ったり、不足していると感じる部分を補うために自分を変えていく。この行為も現在の自分からの逸脱、つまりミミクリなのである。学生服を着込むだけで、もしくは職場のユニフォームに着替えるだけでその人の人柄とか存在の仕方が自分自身にとっても、それをみる他人にとっても変化する、つまり『変身』する。これがミミクリの遊びなのであろう。このような模擬の遊びは人類固有のものではなく昆虫から脊椎動物に至る全ての動物の間で観察され、特に人間でいえば前述した社会心理的な現象による全ての行為のなかに現れる。
四つ目がイリンクス(眩暈のあそび)である。「一時的に知覚の安定を破壊し、明晰であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態に陥れようとするものである」とカイヨワは述べている。例を挙げるとすればサーフィンなどはそうであろう。波の中でボードが不規則に縦横に暴れるのをコントロールし、波を乗り分けなければならない。また、ディスコもイリンクスのあそびと言えるだろう。ディスコには一時的に感覚をパニックに陥れる仕掛けがたくさん存在する。耳を劈く大音量の中、レーザー光線が飛び交いミラーボールが回転し、あたりは真っ暗で隣の人が何をしているかわからない。これは非常に特殊な空間であり、イリンクスの空間であろう。一番手軽にイリンクスを体験できるとすればジェットコースターであろう。ジェットコースターに関してはこの眩暈のあそびの中でも最も例に挙げられており、一番端的にイリンクスを説明できる、そして体感できるアトラクションであるといわれている。自分の内部に混乱・狼狽の状態を作り出すこの眩暈の遊びも多くの動物の行為の中で見とめることが出来る。
カイヨワの『遊びの四つの基本範疇』を詳しく見てきたわけだが、四十年経った現在でもしっかりと枠組みをはめ込むことが出来るところにカイヨワの感覚の鋭さを認めることが出来る。特に最後の(眩暈のあそび)に着目したところなどは彼の最大の功績だと思う。 この四つの分類なのだがあらゆる組み合わせが可能であり、現代のあそびはその組み合わせがさらに複雑化してたくさんのジャンルの遊びを生み出しているのであるが、今回の卒業論文の中ではアゴン(競争のあそび)とアレア(偶然のあそび)、ミミクリ(模擬のあそび)とイリンクス(眩暈のあそび)をそれぞれペアとして考え、前者を『ルールのあそび』 、後者を『変身のあそび』と呼ぶことにする。
先にも述べたがこの四つはどのようにでも組み合わせが可能であり、その多様性が現在のあそびを形成しているのだがその中でも最も根底のつながりがこの分け方ではなかろうか。アゴンにしてもアレアにしても一番強い制約が『ルール』である。ミミクリに関しては言うまでもなくイリンクスの世界を人間が求めているということは現代社会からの脱出、変化を求めているとは考えられないだろうか。そしてこの『変身願望』が一番強い位置をこの二つのカテゴリーでは占めていると考えたい。
次章以降では分類というアプローチではなく遊びを引き起こす要因と考えられている事象を取り上げながら遊びというテーマで語られたさまざまな時代背景を含んだ理論を紹介していくことで人と遊びの関係をさらに深く考えてみたい。