第2章 観光の捉え方
この章では、まず「観光」に関する先行研究についてまとめていく。社会学において一応ながら「観光社会学」なるものがあるのだが、その研究は十分に進んでいるとは言えない。そのため、絶対的な資料の数は少なかったのだが、いくつかの論文で、観光経験の捉え方について論じられているものがあった。それを通して、観光の研究の大きな流れを、ある程度つかむことができたので、第1節では、その辺のことについてまとめてた。さらに、そこで生じた観光の位置づけに関する問題点については、第2節で「遊び」と比較・考察において、明確にしていきたいと思う。
第1節 観光経験の捉え方
観光経験の捉え方として、(1)、(2)の2つの主要な理論がある。初期の頃は、観光経験はその2つのうちのどちらかであるという見方がされていたが、そのように二者択一で捉えるのではなくいくつかの段階を設定して、類型化するべきであるという(3)の見方へと発展していった。
(1)「疑似イベント」
これはもともとダニエル・ブーアスティンによる、マスコミに対しての見解である。まず、「疑似イベント」がどの様なものであるかを簡単に説明しておく。マス・コミュニケーションが発達した現代、ニュースはマスコミによって作られる側面が強い。マスコミが発生させ作り出すニュースを合成事実と解釈し、「本当の」ニュースと区別して、ブーアスティンは「擬似イベント」と呼んだ。その定義は以下のように示されている。
1)自然発生ではなく、計画され、演出されたものである。
2)多くの場合、報道され再現されることを目的としており、マスコミに取材され、報 道されやすいように仕組まれる。
3)現実に対する関係は曖昧であり、その曖昧さが人々の興味をかきたてる。
4)自己成就的的予言として企画されることが多い。
したがってそれは、従来の区別で言えば、本物でなければ偽物でもないという性格を持っており、マスコミにおける報道技術の飛躍的進歩が、より魅力的で、いきいきとした印象が深い、説得的なイメージを提供できるようになったことの所産である。
『幻影の時代』の中でブーアスティンは旅行の不可能性を論じた。そこでは本物を求める旅よりもイメージに基づいた旅が強調されている。例えば、トルコに行き、イスタンブール・ヒルトンに泊まるとしよう。観光客がトルコを「経験する」のは(窓の外には本物のトルコが横たわっているにもかかわらず)何よりもトルコ風の装飾が施されたホテルの部屋においてなのだ。これらの経験は真の経験と言えるのだろうか。真の経験ではなく「疑似イベント」だとブーアスティンは言うのである。(山下、1996、105頁)
(2)「オーセンティシティの追求」
「オーセンティシティ(真正さ、本物)」を求める行為としての観光はディーン・マッカネルが『観光客』の中で展開した論である。これによると、私たちは(マルクスが見抜いたように)近代の疎外された世界に住んでおり、そこでは本当の自分を実現することはできない。そこで「いま・ここ」にいる世界を抜け出し、もう一つの世界を経験し、本当の自分を見つけだそうと人は旅に出る。それゆえ、マッカネルは観光の研究とは革命(フランス革命から産業革命、ロシア革命、インドネシア革命等々にいたるもろもろの革命)の研究に匹敵すると述べている。観光と革命との結びつきは意外ではあるが、近代の疎外された世界からの本来性の回復という点では同一の企てとなると述べられている。(山下、1996、104頁)
また、補足となるが、この考え方の延長上にあるのが「聖なる旅」という観光の捉え方である。観光客は労働から解放され、余暇の時間に身をゆだね、リフレッシュし、再び労働の時間に戻っていく。この時間構造は、「儀礼」(注2)の構造にきわめて類似している点から、ネルソン・グレーバーは観光を「聖なる旅」と捉えた。先述したように、観光の原型である巡礼は儀礼的な旅に他ならず、日本においても同様に、観光は中世の熊野詣や江戸時代のお伊勢まいりをはじめとする巡礼という儀礼的な枠組みにおいて形成されてきたのである。(山下、1996、103頁)
(3)観光の5類型
こうして、観光経験は「オーセンティシティの追求」と「疑似イベント」の間を揺れ動くことになる。だが、観光経験を、その二つのどちらかであると捉えるではなく、いくつかの段階を設定すべきだと提唱したのがエリック・コーエンである。「単なる『娯楽』を求める『表層的な』旅から意味を求める『深層の』旅までの」旅行経験を、彼は(1)「娯楽的(recreational)」、(2)「気晴らし的(diversionary)」、(3)「体験的(experiential)」、(4)「探検的(experimental)」、(5)「実存的(existential)」という五つに類型化する事を試みた。
(1)と(2)は、現代人の観光の表面的な特徴であり、ブーアスティンに「疑似イベント」と批判されている観光形態である。娯楽的観光は楽しさを、気晴らし的観光は心身の癒しを求めているという区別はあるのだが、特に前者については、この型の観光客は、観光客が期待している、もしくはイメージに基づいて演出された見せかけを信じ、それが本物であるかにはこだわらないため、深みのない経験しかできないという点において、コーエンは基本的にはブーアスティンに同意している。しかし、それに関して、観光客の無知ばかり批判することを肯定しているわけではない。つまり、観光客は演出されたにすぎない見せかけや、偽物をそうと知って、受け入れているのであり、ある意味ゲームの参加者のようなものであるとコーエンは言っている。
また、(3)〜(5)については、簡単に言えばその区別は、観光がもたらす意味の深さの違いによってされる。(3)よりは(4)、(4)よりは(5)の方がより深層な経験であると言える。具体的には、(3)は「中心」(注3)において本物と思われる生活を他の人がしているのを観察する事で安心を得る。(4)はその生活の実現を誓うが、そこに身を留めることはせず、その代わりとなる方法を示し、それと比較しているだけである。(5)については、きわめて巡礼の形態に類似しているのだが、本来自分がいるべき場所は日常の「中心」とは別であることを認識し、期間を限定しそこで生活する。つまり、2つの世界に住んでいるということである。
ここで使われている「中心」という言葉は、ある意味マッカネルの言う「オーセンティシティ(本物)」に通じるものがある。(3)と(4)については観光客は「中心」を探し求める人('seeker')であるのだ。(5)については宗教色が強く、現代の観光の枠組みで捉えるのが難しく、第1章の定義に基づいて考えると、その域を逸脱しているようにも思える。
以上、十分とは言えないかもしれないが観光経験に対する先行研究の大まかな流れをつかむために、特に3人の説をあげた。まず、ブーアスティンとマッカネルについては、前者は観光をどちらかというと批判的に、後者は肯定的に受けとめていると言える。そういう意味では、双方の観光研究に対する姿勢は対立しているとも考えられる。しかし、観光をそのように捉えることに意味があるのだろうか。逆に言えば、多様化する現代観光を考えていく上では、そのような問題の立て方自体意味を失いつつあるように思える。ただ、現代観光にもそういう側面があるかもしれないし、そのこと自体を否定するつもりはない。しかしながら、それはあくまでも側面であって、観光全般を捉える上ではいささか強引と言わざるを得ないだろう。
それを受けて、コーエンは観光を5つに類型化することを提唱した。確かに、観光を「擬似イベント」か「オーセンティシティの追及」のどちらかであるという二者択一ではなくて、段階を設定することで多角的に捉えようとした点においては、コーエンの試みは発展的と言えるだろう。しかし、コーエンの分類は、ある意味対極にあるブーアスティンとマッカネルの説の間に、いくつかの段階を付け足して補足しているに過ぎないとも考えられる。なぜなら、コーエンの類型によると「擬似イベント」も「オーセンティシティの追及」も、意味の深さという尺度で測ったとき、同一直線上に存在し、段階的に区別されていることになるからである。はたして、観光経験をそのように一元的に捉えることができるのであろうか。コーエンの分類とは別の視点から観光を考えていくことはできないだろうかというのが、先行研究をまとめていく過程で生じた問題意識である。
さらに、全ての論に共通することなのだが、観光において、なぜそのような経験で満足しているのか、なぜそのような経験を求めているのか、つまりは本質的に観光経験に何が求められているのかという点についてはあまり言及されていないように感じた。しかし、そのことが、観光経験を捉える上で、最も基本的かつ重要な見方であると思う。
そこで、観光に対する私なりの研究の方向性が明確になってきたところで、観光をどう捉えるべきかを順を追って考察していく。まずは、次節で「遊び」との比較において観光の位置づけについて考えていく。
第2節 観光の位置づけ
ここでは、観光を遊びの範疇で捉えることを前提としているのだが、その根拠を説明しておく。第1章で述べた定義の補足となるのだが、レジャーはレクリエーションとそうでないものに、またレクリエーションは観光とそうでないものに分けられるとされている。また、近年では、観光行動が多様化により、「観光レクリエーション」という呼び名が使われるようになってきており、観光は「レジャー」に属すると考えるのが妥当であると思われる。
「レジャー」という言葉は1960年代の初頭から使われはじめ、その研究も盛んになった。60年代に盛んになったレジャー論を背景に、70年代の遊び論が発展してきた。その移行の過程の具体的な説明はここでは省略する。レジャーは本来余暇時間あるいは自由時間を示す「時間的」な概念である。確かにレジャーという言葉によってレジャー活動を示す場合もあるが、レジャー活動とは余暇時間または自由時間に行われる活動のことであり、活動そのものの属性を示す概念としては使いにくい面がある。レジャーの概念は数量的な実態分析などには適しているが、その質的な問題になると、活動そのものの属性を問う「遊び」の概念の方が有効である場面が多くある。
また、レジャーが基本的には「労働」の対概念であるのに対し、遊びの概念は必ずしも労働だけに対置されるわけではないく、労働−余暇の文脈に拘束されない広い展開が可能であった。
以上のことより、観光を考察するにあたり「遊び」の概念を用いることは、それほど無理なことではないと考えられる。ここで、「遊び」とは何かを明確にするため、その分野において代表的な説を簡単にまとめておく。
まず、ヨハン・ホイジンガであるが、その著書『ホモ・ルーイデンス』の中で、次のように述べている。「遊びとは、フィクションである、日常の枠外にある、と知りながら、遊ぶ人を全面的に捕らえうる自由な活動、いかなる物質的利害も、いかなる効用も持たず、明確に限定された時空の中で完了し、与えられたルールに従って整然と進行し、好んで自己を神秘で取り囲んだり、仮装によって日常生活に対する自己の無縁を強調したりする集団関係を人生の中に出現させる活動である。」
さらに、その説を批判的に継承し、『遊びと人間』の著者であるロジェ・カイヨワが、遊びを本質的に以下のように定義している。
1:自由な活動(遊ぶ人がそれを強要されれば、たちまち遊びは魅力的で楽しい気晴らし という性格を失ってしまう)
2:分離した活動(あらかじめ定められた厳密な時間及び空間に限定される)
3:不確定な活動(ある程度の自由が、遊ぶ人のイニシアティブにゆだねられるから、あ らかじめ成り行きが分かっていたり、結果が得られたりすることがな い)
4:非生産的な活動(財産も富も、いかなる種類の新しい要素も作り出さない)
5:ルールのある活動(通常の法律を停止し、変わってそれだけが通用する新しい決まり を一時的にたてる約束に従う)
6:虚構的活動(現実と対立する第二の現実あるいはあるいは全く非現実という特有の意 識を伴う)
「遊び」の研究においては、この2人の見解は通説として認められている。ここでは、特に後者のカイヨワの提唱した「遊び」を定義づける6項目について、「観光」に当てはまるか考えていきたい。
1,観光は、どこへ行くにも、何をするにも個人のの自由意志によるものであるから、それは「自由な活動」であると言えよう。
2,観光はその定義において、一時的に日常生活圏を離れるものの、再びもとの場所に戻ってくることを前提とし、あらかじめ定められた余暇時間と日常生活圏以外のある場所の中で行われる。そういう意味で「分離した活動」である。
3,日常生活圏と比較すると観光に出かけた場所では予想できない状況が起こりうる。さらに、日課のように時間に拘束されたりもせず、全てが自分の意志に任されているところから、そういう意味で「不確定な活動」と言えよう。
4,観光そのものは消費活動であるという側面も持ち合わせているから、観光地にしてみれば生産的でもあるかもしれないが、観光客自身にしてみると労働とは無縁の行為であるから「非生産的な活動」であると言える。
5,そして、通常の法律とは日常生活圏での規則やルールと考えられるが、そこを離れても旅行先ではまた別のルールを守って行動しなければならない。だから「ルールのある活動」と言えよう。
6,観光は時間・空間において日常と明確に区別されている。そう言った意味で、日常と一時的に遮断された非日常であるという見方もできることから、「虚構的活動」である。
以上のことから、観光は「遊び」の定義においても当てはまると言えよう。つまり、観光は「遊び」の範疇に位置づけることができ、言い方を変えると観光行動そのものが「遊び」という枠組みの中で捉えられるべきでもあるのだ。
そのことを念頭に置き、次章からは観光をどう捉えるべきか、さらに、観光に何が求められているのかという点を特に意識して考察を深めていく。
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