資料:朝日新聞投書欄より
(投稿者の名前は削除した:筆者)

◆我慢にもほどがある(F21・若者たちの開放区) 【大阪】 93.02.16 夕刊

 ○女子に来ない会社案内
 堺市 大学生<22歳>

 私は現在、大学三回生です。そろそろ就職活動がはじまるころとなりましたが、私のところには、ほとんど会社案内の資料が送られてきません。同じ大学の女友だちも同様です。しかし、男子学生には、それこそ山のように資料が送られてきているのです。まるで「女の子なんて、うちの会社にはいらない」と言わんばかりです。
 私には、一つ違いの弟がいます。私が浪人してしまったため、学年は私と同じです。弟あてにはどんどん資料が送られてきて、今では大きな段ボールに二箱近くもあります。私の方は資料を申し込んでも送ってくれる情報会社はごくわずかです。
 私の友人(女子)が、申し込んだ資料が送られてこないので、その就職情報会社に問い合わせると、「今年はとても人気が高くて、十一月に申し込まれた方は、四月にならないと送れない」と言われたそうです。しかし、十一月にその会社に申し込んだ他の友人(男子)には、ちゃんと送付されていて、さらに何も申し込んでいない私の弟にも、その会社から送られてきているのです。それも一度や二度ではありません。
 やっぱり企業は女子労働力は必要ではないのでしょうか。「女性はすぐ辞めてもとがとれないから」といったことはよく耳にします。はじめから活用する気なんてないんじゃないの、と勘ぐりたくもなります。
 また「浪人・下宿・遠距離通学者」は門前払い、ともよく言われます。私は一浪しており、さらに学校まで二時間かかります。「下宿すると就職に不利」ということは入学前から知っていたので、がんばって通学したのに、やるせない気持ちに襲われます。
 どうして男子には何ら問題とされない「下宿・浪人・遠距離通学」が、女子には問題とされるのでしょう。私は同じ働くなら一生働いていきたいし、自分の食べる分ぐらい自分で養っていきたいし、また両親に学費を返していかなければなりません。でも、会社を選択する機会すら与えてもらえない今の状況で、果たして満足のいく就職ができるのでしょうか。
 まじめに大学で学び、優秀な多くの女子学生が無視される。一方で、ほとんど学校にも来ず、女子学生からノートを借りコピーをとりまくって、とりあえず単位をとる男子学生には山のように資料が来る。「男女雇用均等法」なんて形だけじゃないか、と憤りさえ覚えます。
 学内や通学途中、見るからに軽薄そうでマンガ雑誌しか読まないような男子学生を見ると「こんなやつに負けたくない」と思う半面、こんなやつにも負けてしまう現実に悔しさがつのります。みなさん、このような「就職差別の現実」についてどう思われますか。


◆趣味で差別するなんて(フリートーク) 【大阪】 93.03.30 夕刊
 大阪市 中学生<14歳>

 僕の趣味は、釣り・映画・音楽鑑賞・ドライブのナビゲーションです。ナビゲーションとは、車の助手席で地図やガイドブックを調べたり、ラジオをチューニングしたりして、ドライバーに情報を提供することです。また、わが家にある車には、GPSナビゲーションシステムという、強い味方がついています。
 キャリアはまだ二年ほどですが、僕はこれを生きがいのひとつにしています。しかし、去年の四月、二年生になって最初のオリエンテーションの時に行われた自己紹介で、この趣味のことを紹介して以来、“オジンくさい”などという理由で仲間はずれにされたり、“父(と)っちゃん坊や”と呼ばれたりして、からかわれたりしています。
 僕と同じ趣味の人が同じクラスにいないため、ホームルームの時間などは、他の生徒が担任の先生や友だち同士で楽しそうにやっていても、僕は一人ポツンと、むなしくすごさなければならないのです。
 「中学生にもなって、マンガやTVゲームを楽しむなんて…」という僕の考えにも、協調性がないのかもしれません。しかし、趣味はその人の自由です。どうしてこんな差別を受けねばならないのですか。


◆自分の外にも目向けて(フリートーク) 【大阪】 93.04.06 夕刊
 広島県 高校3年生<17歳>

 ドライブのナビゲーションが趣味の大阪市の中学生へ。
 私はあなたの趣味に興味をそそられました。私の趣味は“アニメ、まんが”。そう、一般的に言うと「アニメおたく」です。高校三年生にもなってアニメが好きなのです。あなたはどう思われますか?
 私は、このことでいろいろな差別を受け続けています。陰口、いやみ、そして偏見のまなざし。口でははっきり言われなくても、毎日感じ続けています。まさに「趣味で差別を受けている」のです。あなたと同じです。「何を好きになろうと個人の自由なのに、なぜ、差別を受けなければならないのか」と思っているのです。けれど、あなたはどう書かれましたか。
 「中学生にもなって、まんがやTVゲームを楽しむなんて…」と思われるのも確かに個人の自由ですが、それはあなた自身がTVゲームやまんがを趣味にしている人たちを差別していることにつながりませんか?
 あなたが、ドライブのナビゲーションを好きであるのと同じなのです。私には矛盾があるように思えてしかたありません。よく考えてみて下さい。自分中心主義じゃありませんか?
 自分の内側にばかり目を向けて、外側をおろそかにしていませんか?


◆あいまいな言葉・読者の投書から(いま東京語は) /東京 93.11.05 朝刊

 「いま東京語は」第三部で「あいまいな言葉」を取り上げたところ、多くの読者から投書をいただいた。「あいまいな言葉」は最近、若い人に限らず、使われている。読者が体験したあいまいな言葉を投書から拾ってみた。
(必要なものだけ抜粋:筆者)

 ●というわけ 互いの気分で通じ合う少女マンガ読み過ぎ?
 私が日ごろ、理科を教えている子供たちは視覚に障害を持っていますので、指示を
する時、「あっち、こっち」は使えません。「君の右」「十歩前」など極めて具体的
にいいます。こんな環境で生活していると、中学校の理科系教科書に「遠い星」「長
時間にわたる」など、あいまいな表現が一ページ当たり1―3カ所も出てくるのが気
になります。 (板橋区)
 (係から 掲載した投書は紙面の都合で短縮したり、表現を変えてあります)


◆図書館に漫画、子の声聞いて(声) 94.01.18 朝刊
 東京都 小学生 11歳

 私は、文部省が図書館にマンガをおくことをしりました。
 そのりゆうが、子どもに、たくさんどく書をしてもらいたいので、マンガをおいて、子どもの気をひくというのです。私は、それをきき、とてもおどろいてしまいました。
 私は、とても本をよむのが好きです。本をよむ時は、いつも、楽しく、いきいきとしてきました。それは、この先のお話は、こうなるのかな? ああなると思うなと、思いながらよむからです。本は、マンガと同じ、むしろ、それいじょう楽しい物です。
 なぜ図書館に、マンガをおくのでしょう。マンガをおいたからといって、本当に、私たち子どもが本をよむでしょうか?
 そこで私はこう考えました。本の好きな人をたくさんあつめて、こんどは、大人できめるのではなく、子ども会議をひらき、「どうすれば、本をよもうとしない子どもたちが、本を好きになって、たくさん本をよむか」話し合ってみればいいと思います。
 子どもをマンガでつるのと、子どもたちのだした意見で本を好きになってもらうのでは、よむ心もちがってくるはずです。


◆漫画も読書も名作楽しもう(声) 94.01.25 朝刊 5頁
 駒ケ根市 主婦 38歳

 (個人名が入っているので前略:筆者)私は、本も大好きだし、漫画も大好きです。文部省が図書館に漫画をおいてもよいと言った時には、大喜びしました。
 実は、私は地元の図書館に「漫画を置いて欲しい」とお願いしたことがあります。手塚治虫や石ノ森章太郎などの名作をあげ、実物やリストを持参したのですが、「漫画はちょっと」と断られました。
 朝日新聞の「心の書」という欄に萩尾望都の「トーマの心臓」という本をあげられた方がいらっしゃいました。漫画なのです。心の書になるくらいの漫画も、今の日本の漫画にはたくさんあるのです。
 よい漫画が好きになった人は、本も読まずにはいられないと思います。漫画が入門書となり、文字だけの本も好きになれば、こんなよいことはないではありませんか。
 漫画も本も、名作を読んで楽しみましょう。


◆マンガ生かす学校司書必要(声) 94.02.08 朝刊 5頁
 宮城県 高校図書館司書 45歳

 一月三十一日本紙きょういく探検隊「学校図書館にマンガ本」を読んで、学校図書館に携わる一人として一言述べたいと思う。
 たしかに学校図書館はここ数年で明るくにぎやかになった。マンガ本、絵本、カラフルな雑誌と、生徒の目を引くものが多くなってきた。これらの本は生徒を図書館に呼び込むためになくてはならないものだ。
 しかし、高校生なのだ。最も柔軟な思考力が育つこの時期に、マンガだけで終わらせたくはない。マンガに対する知的好奇心を次の段階へと発展させて欲しい。SFファンタジー、ヤングアダルト、小説、そして文学、評論などへと。
 だが今の学校図書館では、発展的、発達的読書指導は難しい。図書館にそれらを指導する専門職としての司書が必ずいるとは限らないからだ。「次、なに読んだらいい」という生徒の素朴な質問にすぐに答えてくれる司書がいない。せっかくわいてきた知的好奇心は、いつのまにかしぼんでしまう。これが現状なのだ。
 どの学校図書館にも、適切なアドバイスをしてくれる専門職の司書がいる学校づくりが望まれる。高校時代がマンガ本だけで終わってしまわないためにも。


◆残酷シーンの多いTV漫画(声)94.03.02 朝刊 5頁
 栃木県 主婦 35歳

 私は危惧(きぐ)する。近ごろのテレビ漫画のことである。漫画世代に育ち、我を忘れて漫画本を読みふけり、漫画家になろうという夢を抱いていたのは、私一人ではないと思う。
 夕方から夜にかけて主婦は家事に追われて忙しい。つい子供たちにテレビを見せっ放しという状態になる日も時々ある。ある種の罪悪感を感じながらも、それは安易で楽だからである。
 ところがある日夕食の支度を早く終え子供たちと一緒にテレビ漫画を見ていると、あまりにも残酷なシーンが多いのに驚いた。戦闘シーンが多いのだが、血をだらだらと流している半死半生の相手を執拗(しつよう)に打ちのめすこの残酷さは何だろう。
 この戦闘シーンだけの漫画がゴールデンタイムに放映されることを疑問に思う。心が育つ重要な幼児期の純粋な子供たちに見せられる番組だろうか。テレビ局も視聴率のことだけではなく、子供たちの将来を少しは担っているのだということを熟慮してほしい。また漫画家にももっとテーマのある心のこもった作品を作り出していってほしい。現にそのキャラクターのまねをして意味もなくたたいたりかみついたりする幼児も何人か見たことがある。
 人間愛というものを大事にしていってほしいと近ごろよく思うのである。


◆「はまってます」(わいわいヤング) /埼玉 94.03.18 朝刊

 ■「おたく」でも、時代を先取りするのよ
 児玉町 女子高校生 17歳

 私は漫画研究部員。漫画やアニメはもちろん大好きで、その他、テレビゲームやパソコンにもはまってます。「おたく」と呼んでもらって結構です、ハイ。
 でも何か変だと思いません? ある分野で他の人より精通している人を「おたく」と呼ぶのなら、アニメやパソコンなどだけに「おたく」の暗い、いやなイメージがあるのはどうも納得いかない。何かに精通していることって、すごいことだと自慢できると思うのに……。日本のアニメや漫画は海外ではすごく人気があって、日本の誇れる文化なんだゾ。うっうっうっ、それがさ、漫研て聞くだけで、どうしてみんな変な目で見るんだよォー。でも、それでも私は私なりに時代を先取りする「おたく」の道を突き進んでいこうと思います。


◆まんが社説で若者とらえて(声・新聞に) 94.10.14 朝刊
 熊本市 公務員 59歳

 庶民の欲求に迎合し、大きな活字と写真で興味本位に、センセーショナルに報道する新聞を、人々は手軽にとって読んでいます。
 硬い報道を基本とする朝日新聞のような新聞を、多くの大衆が読むことが、ひいては民主社会のダイナミズムを生むことになると考えるのですが、現実は必ずしもそういう方向ではありません。
 だから「朝日」も、紙面づくりに工夫を凝らして、劇画好みの現代人、特に若者たちに読ませる新聞、見せる新聞に変身していくべき時です。
 構想力を駆使して、自分と政治や社会状況との関係を見極めるといった、日常生活に不可欠の行為は、いまのままの「朝日」でも十分です。しかし、それは読まれて初めて、そうなのです。
 読ませる、見せる。いま、「朝日」に一番求められているのは、これです。
 例えば社説を、若者に人気のあるまんが家につくっていただく。社説の内容をあますところなく伝えて、見事に、若者の心をとらえる工夫。そういう時代だと私は考えます。そうなれば、小学生の読者もふえてくるでしょう。


◆漫画感覚では何も得られぬ(声) 94.11.01 朝刊 5頁
 大阪市 建築業 27歳

 若者の活字離れ、という言葉を最近よく耳にします。新聞に絵を増やせばどうか、もっと分かりやすくするために漫画を使ってはなども論議されているようです。
 しかし、本当にそこまでしてでも、読んでもらわなければならないのでしょうか。食べ物が硬いからといって、大人が軟らかくかみ砕いてやるのは、幼児期だけで十分だと思います。
 自分の頭で考え、行動できる年齢に達しているはずの若者にとって、漫画感覚で読める新聞など役に立つとは思えません。
 現在、世界は大きく揺れ動いています。各地で起こっている内戦の終結、核兵器の廃絶などの難問、世界中の学者が知恵を出し合っても答えの見つからないような現実を、非現実的な漫画で知り、何が得られるというのでしょう。
 二十一世紀を目前に控え、人類が共存していくためには、これまで以上に厳しい社会となるでしょう。
 この美しい地球を、日本という国を滅ぼすことなく子孫たちの手に譲り渡すために、私たち大人が、もっとしっかりしなければいけないのではないでしょうか。
 伝えるべきものは安易な知識ではなく、どんな状況に置かれても、耐え忍んでいける強い精神と、他人を思いやる心だと思います。使い捨て情報など、存在しないほうが良いのではないでしょうか。


困りものだね、漫画読む大人(95,12/21)

厚木市 高校生 18歳

 僕は電車通学者であり、もう六年間も電車を利用している。この六年間で、電車の中でもっとも目につくのは、マンガを読むビジネスマンたちだ。先日、僕が電車で見かけた高価そうなスーツとカバンを身につけたビジネスマンのそのカバンに入っていたものは、二冊のマンガであった。
 確かにマンガは面白いし、心が休まる。しかも絶好のひまつぶしになる。しかし、そのひまをもう少し違うことに利用してみてはどうだろう。私はまだ高校生だからでもあるが、本を読んだり、英単語を覚えたりしている。電車はバスと違って、よわないし、暗くもなく、とても快適な場所だと思っている。
 電車の中で新聞を読む女性の姿が増えてきた。一方でマンガに読みふけっているビジネスマンはそれでいいのだろうか。
 僕は別に電車の中で勉強しろといっているわけではない。ただ新聞くらい読んでみたらといっているのだ。
 それがいやなら文庫本でもいい。マンガとは違った新鮮な面白さが味わえるはずである。 中学生、高校生でさえマンガはあまり読まないのに、それより年長のビジネスマンがマンガでは困りものだ。


マンガと小説、佳作は佳作だ(95,12/28)

東京都 学生 19歳

 レイ・ブラッドベリのSF世界、そして、大友克洋の描くSF世界。方や小説、方やマンガだが、僕はその両方に魅了され、どちらともたまらなく好きだ。媒体の違いこそあれ、作品の放つ魅力、すばらしさに差はない。
 二十一日本欄に、マンガを読むビジネスマンを批判する投書が掲載された。長年マンガに親しんできた者として、マンガの評価が、いまだ不当に低いことを残念に思う。
 小説であれ、マンガであれ、佳作は佳作であり、その価値は媒体により左右されるものではない。しかし、マンガというただそれだけで、その作品の持つ価値はとたんに否定されてしまう。それどころか、蔑視(べっし)の対象となることさえある。なぜだろう。マンガは数ある表現手段のうちの一つにすぎないのに。
 全てのマンガが佳作でないのは、小説に三文小説、新聞にゴシップ記事があるのと同様だ。マンガを読む暇があるなら、小説や新聞を読むべきだ、というのは、凝り固まった固定観念にほかならないように思える。せめて一面的にマンガを判断せず、もっと、その多面性に目を向けてほしく思う。小説が魅力的なように、マンガもまた魅力的だし、そのどちらも読者を本の中へと誘う不思議な魔力を秘めている。


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