第六章 まとめ

 本論では、マンガ自身のイメージとマンガが今まで社会から受けてきた扱いとの関係に着目し、マンガの歴史・新聞記事や投書・質問紙調査と、マンガにまつわる話やイメージを調べることによってそのあたりの因果関係を明らかにすることができるだろうか、と思い分析に取り掛かった。だがしかし調査の結果、こちらの予想とは異なる実態が明らかになった。
 第二章、第三章でマンガが「マンガは子どもが読むもの」という文脈で語られている事が多い点に着目し、そのことが「有害コミック規制」のような運動の発生とも関係あるのではないかと推測したのだが、第四、五章での質問紙調査はそれを裏付けるような結果が出てこなかった。「マンガは子どもが読むものと思われているのではないか」という推測自体は間違ってもいなかったのだが、そう思われているという事によって、特にマンガばかりが子どもに与える影響について神経質なまでに非難されてきた理由を説明することはできないのである。むしろ「取り締まりが必要かどうか」ということと因果関係があったのは、「いつ頃までマンガを読んでいたか」という質問であり、これはマンガ自身のイメージというよりはどちらかというと個々人のマンガに対するシンパシーといったものに近い。しかしこれでは「長い間マンガに触れていたことによりマンガに対してシンパシーが涌き、マンガに対して寛容な態度を取るようになる」という説明をすることはできても、「何故マンガに触れていた時間が短くシンパシーが少ない人が、単に共感しないだけではなく積極的にマンガに対して厳しい態度になるのか」ということに関しての説明にはならない。
 更に言えば、「なぜ他でもないマンガが子どもによくないという非難をちょくちょく受けるのか」という、自ら打ち出した疑問点に答えることもできない。なぜ他のメディアではなくマンガなのか。単にそのメディアに対するシンパシーの有無だけであればマンガに限らないはずなので、何かマンガだけに特別な要素があるのではないか。それに対する仮説が「マンガは子どもの読むものであるという固定概念がそうさせているのでは」であったのだが、そういう事実関係は調査からは導き出せなかったのである。
 ここに、一つの誠に興味深い分析がある。高橋一郎によると、現在では教育的な読物の代表的存在であり、本稿の質問紙調査においてもマンガと対置された「活字メディア」の読物の代表である「小説」が、明治20〜30年代にかけては、子ども・学生に害をなし、日本の文化を脅かす「俗悪メディア」の代表として徹底的に非難されていたというのである。その原因は、当時の学生生徒の風紀が著しく乱れており、その責任の矛先が教育に向けられたため、教育者達が責任逃れのために当時流行していた小説をスケープゴートとして仕立てあげたからためであるという。しかし小説を送り出す側が教育者達に小説の「教育的効果」を吹き込み、また学生達の風紀問題も全く前進しなかったので、大正に入る頃には小説は「教育の敵」ではなくなっていた。かといって教育者がスケープゴートを必要としなかったかというとそうではなく、それが小説ではなくなっただけであった。近代社会による青少年の欲望の解放がある限り、「学生風紀問題はこの社会の宿病」といえるからである。結局小説のあとは映画が、さらにはマンガ、テレビ、ファミコン、と次々に新興メディアを「教育の敵」として、学校教育の問題を押し付け続けたが、そのことは問題の解決よりもむしろ問題の隠蔽に手を貸してきた。そして最後に、教育的価値というのは、教えられる側の有用性ではなく、教える側の有用性ではないか、と推測して結論としている。つまり、この場合で言えば、小説に「教育的価値」が絶対的に内在しているのではなく、教育者(及び小説家)が自分達に都合の良いように小説に教育的価値を付加したから小説は「教育的」なのである、ということである(高橋、1992、175−190頁)。この構図が当時から現在まで受け継がれているなら、マンガが非教育的で、子どもによくないとして非難されるのは、教育が抱える問題や、子どもや青少年らが大人が思うような「いい子」に育たない原因をマンガに押し付けているから、ということになる。
 この文脈だとマンガの側にマンガばかりが非難される要因がない、つまりマンガのイメージ、特に「マンガは子ども向け」というイメージがマンガの有害性の判断にさほど影響を与えない、与えたにしてもそれは「教育的か否か」というイメージである(「教育の敵」に選ばれる最大の要因はその新しさと流行力にあるから)点の説明がつく。実際にマンガは活字メディアと比較すると、「知識が広まる」「思考力を養う」といった「教育性」と呼ばれるようなものは殆ど評価されていない(第五章を参照)。さらには、家庭用コンピューターゲームが本格的に売れ出して以降に、マンガが教科書に掲載されるなどの動きが出てきた点も、「新興メディアが次々と『教育の敵』としてフレームアップされる」というこの論に符合する。
 しかし、これでは説明できない点も存在する。何故マンガは大正期にうまれて以来、「非教育的メディア」の座を守り続けているのか。「教育の敵」は新興メディアから選ばれるはずなのだが、例えばマンガのあとから流行したメディアの代表としてテレビがあったにもかかわらず、マンガは攻撃対象から外されることはなかった。つまりマンガは「教育の責任逃れのために教育の敵に仕立てあげられた『流行中』のメディア」ではなかったということだろうか。マンガが攻撃されるのはそれ以外のマンガに内在する何らかの要因があるということなのだろうか。
 そうではないと思う。少なくとも大正期に子どもによくないと攻撃されはじめた頃は、「流行中のメディア」だったからこそ目の敵にされたのだと思う。ただ、その後の経緯が違うだけだと思う。そこに、マンガの、「教育の敵」としての特殊性があるのかもしれない。例えば、マンガは小説の時の例とは違い、教育者に対してマンガの教育性を売り込んだりしたことはなかったと思う。また、テレビなどとは違い、長期間にわたり娯楽に徹してきた面もある。これらの点がマンガの社会的地位を停滞たらしめる原因になったというのは十分考えられる。しかしそれらを考慮に入れてもなお、マンガはずいぶん長い間にわたり、子どものためによくないと言われ続けてきたものである。その要因となる部分を今回の調査で補うことができればよいのだが、この論を補うことができるほどの新たな視点は今回の調査からは導き出すことが出来なかった。
 結局、結論としては「マンガばかりが『子どもによくない』といって非難されるわけは、具体的なマンガのイメージとしての『子どものためのメディアだから』という言説が影響を与えるわけではない。あえてどちらかというなら、『マンガは教育的・文学的ではない』というイメージのほうがマンガに対する態度を決定する要因たりうるが、その『教育的か否か』というイメージは、教育者や親など『子ども』に清らかな姿を望む人たちが、その現実とのギャップの罪をどのメディアになすりつけるかによって決定されるものである。」ということになりそうである。
 つまり、「純真無垢な子ども」像が大人たちの理想として存在し続ける限り、マンガに限らず何らかの新興メディアはそのメディアの内包する性質には関わりなく、子どもが現実には「純真無垢」ではないことの責任を取らせられ続けるということである。メディア側の努力などによりそのメディアのイメージがよくなればその立場もよくなるのではないかと、具体的には、マンガの社会的地位の回復の手掛かりになるかもと思い、このようなテーマ設定で研究したのだが、問題はそれよりも深いところにあったのである。全ての子どもが大人たちの思うような「純真無垢」な存在に成りおおせるか、大人が「純真無垢な子ども」なんて不可能なんだと諦めるか、もしくはそんな子どもがいない原因を自分たちの中(自分たちの社会の中)に認めるかしない限り、マンガの社会的地位は回復しない、もしくはしたところで他のメディアにお鉢が回るだけなのだ。


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