第二章 先行研究
この第二章では「ヒーロー不在論」を唱える文献の中から関係のある部分に焦点を絞って簡単に紹介しようと思う。
金山宣夫(1993)「ヒーローの文化論」角川選書
著者はヒーローはいつの世も大衆とともに存在した生きる目標であり、結論としてヒーローを「欲望と不安に満ちた人生を映し出す鏡としてのモデル的人物」と定義し、人間を「ヒーローを見て生きる動物」であると言っている。人間はいつもヒーローを心のどこかで求め、今日のようなヒーロー不在の時代だからこそ何らかの目標が必要なのだと言い、ヒーローがいなければ人間は精神的に満たされることがなく、お互いに一体何のために生きているのか分からなくなってしまいかねないし、人間は生きるのに疲れることや絶望することがあっても、ヒーローの姿を見て生きる意欲を取り戻し生きることの喜びを感じさえする、とヒーローの役割を定義し必要性を強く主張している。
これほどヒーローの重要性を唱える著者がヒーロー不在と言うのはなぜなのだろうか。 まず著者は大衆のヒーロー登場願望と失墜願望がマスコミによってかなえられるという図式を示し、大衆の最終的な願望はヒーローの失墜であり「スキャンダル消費者」としての大衆が持つ、最初はヒーローを持ち上げ最後には突き落とすとう「ホメ・ケナシ欲求」を満足させるためだけにヒーローが登場しているといっている。ここで言うヒーローとは単に大衆のオモチャであり、カタルシスのための道具に過ぎなくなってしまっていると言う。
もちろん真のヒーローが生まれなくなった理由の一つに、ヒーローの資格の欠如も挙げられている。
スポーツ選手はプレイがマニュアル化し、品行上の問題や拝金主義となることで資格を失い、かつての「権力ヒーローの虚構」によって成り立っていた社会主義国も経済の破綻によってその虚構が崩れヒーローとしていられなくなる。ヒーロー的存在だったワンマン経営者も「組織的経営」が行われるようになり今では存在しない。
著者は「ヒーローの影が薄れるという現象は、メディアの過剰とも言える発達のせいばかりではなく、個人のアイデンティティ浮遊化の反映でもあるということになろう。この見方が正しければ、いまヒーローを論じるのは、皮肉にいえばナイモノネダリということになる。しかし、鏡のなかに映し出されているのがみずからのアヤフヤな存在だということを理性のうえで充分に承知していても、いや、そうだからこそ、そこに感性が鮮明な像を求めるべき切実な理由があるということにもなるのではないか。」と述べ、ヒーロー不在の時代のその向こうのヒーローについては具体的には触れていないが、個人のアイデンティティの確立が真のヒーローの誕生の時だと考えている。そしてこれからも真のヒーローは誕生しないかもしれない、しかし現存していようといまいとヒーローはヒーローである、と結んでいる。
小此木啓吾(1984)「英雄の心理学」PHP研究所
この本では日本の伝統的な英雄を取り上げ、現代的な感覚で読み直しそこにある人間像を探りだし、かつその過程で現代人の精神構造を浮き彫りにする試みがなされている。
著者はヒーローの条件として歴史上、大事業を達成したり、大きな転換期において偉大な役割を果たした人物であり何らかの人気があり、憧憬の念や畏敬の念が向けられ、しかも大衆にとって身近な親しみを持った愛情の対象でなければならない、と述べている。
しかし、このような既成概念における英雄は、天下国家、社会、歴史の為に超個人的な理念を掲げ、そのために自分をかける人間でなければならなかったが、現代はそのような人間像とは程遠い生活感覚で暮らすようになったため、現代人にとってはピンと来ない過去の存在になってしまった、と英雄不在の理由を述べている。
そのうえ、現代は高度の情報化社会であり、マスコミ社会であるため、どんな人物像も畏敬や憧憬の念を向けられるようになればなるほど、その理想像の実態を暴こうとする大衆の好奇心もマスコミの探知も厳しくなり何らかの欠点や欠陥が露呈されるために英雄とはなりきれない。そのため現代の英雄たりえるものは、政治家、指導者、思想家といった今なお大衆がどこかで高潔な人格を期待しできれば理想化した虚像をそのまま信仰したい気持ちを抱くような立場の人ではない存在である、といっている。
そして最後に非常に独創的なこれからの英雄像を持ち出している。それはこれまでの英雄に男性が多いのは、ごく最近までの軍事主義的なものあるいは国家主義的なものが世界に満ちていた時代によるものだとし、これから女性優位へと社会が大きく変化するなかで重要な役割を担っている女性が真の英雄として登場してくるに違いないといっている。
戻る