卒論・第2章
 卒論2ー1 「日本的スポーツ文化」の典型としての「高校野球」

 「スポーツは社会・文化の一要素」であるから、当然社会においての事象はスポーツの場面においてもフラクタルに再現されている。日本社会全体において見られる価値観や、現象は、日本人が行うスポーツの場面においても同じように見られるはずである。ここでは、日本のスポーツと社会の両方において共通してみられる要素を抽出し、一般的に言う「日本的」とは一体何を指すのかを確認することが、非常に重要な意味を持ってくる。 「日本人異質論」は、いまなお根強い。ただこの論文では、日本人の思想・行動が「異質」であるかどうか、良いか悪いかについての見解を述べることはしない。あくまで、文化人類学で言うところの「文化相対主義的」な視点のもと、日本人の「スポーツ」と「文化・精神」との関係そのものの解明が課題である。
 日本的スポーツ文化を特徴付けている要素は、大きく「精神力・求道主義」、「社会枠」、「経済的価値」、「エスカレーション」という四つの基本的要素に分類できる。当然、それらは、「日本社会」にも、そのまま対応するものである。そして、その四つの要素を用いることにより日本的スポーツ文化の「モデル」を説明することは可能である。そのモデルとしては、「高校野球」を用いたい。「高校野球」を用いる理由としては、長い伝統を持つ点、「ベースボール」という外来のスポーツを独特の色付け(文化注入)によって、「高校野球」という似て非なるスポーツに転形させたプロセスは対外比較を可能にする点、多くの日本人が愛してやまぬ国民的行事である反面、多くの問題を内包し、噴出させている点などをあげられる。
 まず、「精神力・求道主義」の要素であるが、これが対外スポーツとの比較の上で最も「日本的」と言える要素の一つである。まず、「精神力・求道主義」の要素とは、「精神主義」、「根性論」、「修養主義」、「武道精神」、「努力」、「身体酷使」、「求道主義」などの言葉で語られる。つまり、簡潔に言うなら、「精神」を至高のものとし、「スポーツ」の過酷な練習を「修行」としての、精神力の強化、人間的修養を目指すものである。こういった傾向は「高校野球」において非常に根強く生きている。
 次に、「社会枠」の要素であるが、それは、「組織」、「チームワーク」や「集団主義」、「自己犠牲」、「画一化」、「タテ社会(上下関係)」などの言葉で語ることができる要素である。これらはそのほんの一例に過ぎないが、実際の「高校野球」では、それらは至る所にその具体的な姿を表わしている。例えば、「教育の一環」としての位置づけや、「連帯責任」という特殊な責任制度、「上下関係」の重視、「監督主導」のチーム作りなどは、「大人の倫理の介在」が高校生のクラブ活動の中に黙認されてきた結果の表れと言える。また、高校野球において女性の活躍の場が選手としてではなく、マネージャーとしてしか許されないことなどは「ジェンダー論」的見地から見たなら、「何か」の縮図であるとも思えないだろうか。その「何か」とは何か、「社会」である。高校野球においては「社会」の「枠」そのものが生きている。社会の「価値観」がフラクタルに再現されているのである。これも、この論文中の「キー」と言えるものである。
 「社会的付加価値」の要素とは、スポーツをする際に得ることのできる社会的な「付加価値」の追求そのものを目指す傾向のことである。先述した「社会枠」に囚われた形で行われる「スポーツ」はその影響をまともに受けている。「経済的価値」などはその影響の代表例である。例えば「高校野球」においては、生徒(選手)と学校(経営)とマスコミなど(社会)の価値が交錯している。生徒である選手は「甲子園」という社会的に認められているステータスを手に入れるため、あるいは、それをステップとして「プロ」という価値を手に入れるために「野球」をしているのである。そこで、プロを目指す「選手」はある意味「商品」としての自分を売り込んでいるとも言える。また、その「経営側」としての学校は「選手」を集めて強化した「チーム」を「看板」として「社会」にアピールし「学校経営の手段」として利用している。そこでも選手は商品としての「扱い」を受けていると言える。そして、毎日、朝日の両新聞社は春夏の「甲子園」を主催し、自らそれを報道し、盛り上げることにより自社の宣伝・販売部数拡張等のメリットを手に入れる。
 そして、「エスカレーション」であるが、マスコミは「高校野球」をよりドラマティックに、よりセンセーショナルに報じることで、あるいは視聴者のエモーショナルな欲求を巧妙に刺激することにより「高校野球」という単なる学生スポーツを、社会的な祝祭ともいえる現象にまで高める。そして人々はその現象の中に身を投じ、互いに熱狂して祭りを盛り上げていく。選手はその盛り上がる舞台の中で周囲の過剰な期待に応えるべく、自らの「楽しみ」のレベルを超えた野球との「関わりかた」を自分の意思で形成していくことになる。「高校野球」というフレームの中でマスコミ、一般の人々、選手はそれぞれに「高校野球との関わりかた」をエスカレートさせ、最後には「高校野球そのもの」がエスカレートして行く。これを「エスカレーション」と呼びたい。
 以上が、日本的スポーツ文化を特徴付けている四つの要素である。ただ、これらの要素は「日本的」であるための重要な「特徴」的な要素ではあるけれども、「日本的スポーツ」に限定された要素ではない。これらは、多少の「差」こそあれ海外のスポーツ文化にも見受けられる現象である。 そして、これら四つの中でも特に「日本的なもの」の要素を形作っているのは、「精神力・求道主義」と「社会枠」の二つの要素ではないだろうか。「社会の枠」を維持するという目的のために「精神力・求道主義」が用いられ、その二次的なものとして「目的としての社会的付加価値」があり、「結果としてのエスカレーション」が存在したのではないだろうか。

 卒論2ー2「イデオロギー維持反復装置としての高校野球」そして「虚偽意識」
                                             前項では、日本的なスポーツの典型としての「高校野球」の構成要素についてその具体的な例と関連付けながら述べた。「高校野球」は、人間の「遊び」という本質的欲求の転形としての「スポーツ」を越え、単なる学生スポーツの域をも越えたものである。「日本社会」という畑で育てられた野球――「高校野球」は、野球原産国アメリカのそれとは違い、実に「日本的」である。「日本型」と言い換えてもいい。何度も繰り返すが、この論文では日本人の「スポーツ」に対する「スタンス」とも言えるものを明らかにしたいのであって、日本人の「精神・心性」の解明を目指しているわけではない。「高校野球」においては、どのような「スタンス」が見られるか、つまり、1ー2で言うところの「文化・イデオロギー再生産装置」としての側面が実際どのような形で存在しているかについて考えたい。そしてそれこそが、この論文のテーマである。
  日本における「高校野球」は80年近い歴史を持つ。80年という歳月は長い。社会はその間に何度もその「姿」を変えてきた。社会を方向づける「価値観」や「精神」は常に変化を繰り返してきたはずであり、実際それは普遍的であった試しがない。明治〜第一次世界大戦の時期、第一次世界大戦〜第二次世界大戦までのいわゆる「戦間期」、「戦後復興期」、1970年代からの「高度経済成長時代」、そして現在、そこに流れる「価値観」は確実に変化してきた。そして、そこには、その時代の一つ一つに対応するように「上から」の、つまり「政府」による強力な「方向づけ」がなされてきた。その「方向づけ」通りの「価値観」を人々が形成してきたとは一概には言い難いが、実際、かなりのレベルでその方向づけは成功しているように思われる。その「方向づけ」は「法」であったり、「政策」であったりしたかも知れないが、「教育」もその一つである。
 先述した通り、「教育」の意味は、「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」(広辞苑)というものである。高校野球は「教育の一環」として位置づけられている。そこでは努力や自己犠牲の精神、チームワークなどが重視され、同時に、それが「教育的特目」とも言えるものになっている。一般的に「教育」はそれを受け入れさせ「社会」に出ても立派に適応できる人間を育てるという面を持つ。高校野球という学生スポーツにおいても人間の「社会化の過程」が現実に見られると思われる。イデオロギーには、「信念や観念の体系」という意味での使い方があるが、ここで言う「イデオロギー」とはいわゆる「虚偽意識」の意味に限定された「イデオロギー」の方である。この場合は、「事実に対して隠蔽的な働きをするような観念や信念の体系」を指すものとしてのイデオロギーとなる。
 日本人の独自の社会規範に「和」という概念がある。「和」の概念は日本人が非常に大切にする「価値」であり、日本社会全体に深く浸透している「精神」といってもいいであろう。そして我々はこの「和の精神」をごく当たり前のこととして受け入れている。まるで、それが遥か昔から日本人にとっての「属性」であり、「性」であったかのような認識の仕方で我々は「和」を捉えている。しかし、「和」の精神が本当に古来より日本人にとって価値を持ったものだったのか、そもそも「和」の精神それ自体存在していたのかどうかが問題である。「和の精神なるものは、聖徳太子の時代から、日本の国民性のステレオタイプとして存在していたのではなく、近代国民国家(近代天皇制)の成立にともなって、とくに昭和初年以降(一九三〇年頃)の危機の時代の中で、統合のシンボルとして、新しいイデオロギーを作り出すためのプロセスの中で創造された伝統である」(伊藤公雄、1994、p91)という論理は非常に興味深い。少なくともこの論文中においてはこの論理は非常に意味を持つものである。そして、注目したいのは「和の精神」の発生の時期が「高校野球」の成立の時期とほぼ重なるということである。つまり現在でも「高校野球」に、そして「日本社会」に見られる「和の精神」は、比較的最近に、政府の意図的な作用によって形成された「作られた伝統」なのである。「高校野球」は「和の精神」を注入され、「社会的な目的」の達成のために必要なイデオロギーの「形成・維持・反復装置」として利用されたと言う構図には、まさに前述した「虚偽意識」としての「イデオロギー」が見受けられる。「高校野球」はその成立当初から、現在において見られるような形であったわけでもなく、認知のされかたも、社会的盛り上がりかたも現在のそれとは全く違ったものであった。例えば夏の大会を80年近く主催してきた「朝日新聞社」などは、主催者になる以前の1911年(明治44年)、「野球とその害毒」という、学生野球、ひいては野球そのものを否定する記事を連載していたのである。その連載が終了した後、何年も経たないうちに朝日新聞社は「奇妙な路線転換」をし、自らが非難し、全国にその「害」を発信していた「学生野球」の主催者となり、その素晴らしさの伝播に努めるようになったのである。その「奇妙な路線転換」の裏には、一体なにがあったのだろうか。それには、互いに絡み合った様々な理由(例えば、高校野球の商品価値や、その人気が社会的趨勢になったことなど)があったであろうが、その一つには「高校野球の社会的利用価値」が注目されたことがあるのではないだろうか。高校野球は日本全体が「軍国主義」に傾倒し、無理な戦争に突き進んで行く際に、「和の精神」という言葉をその中で発し続けることによって、国民全体を一つの価値に向けて収斂させる「装置」としての利用価値を認められたのである。言い換えるなら、「高校野球」は「教育」の名のもと、「和の精神」を取り込むことによって当時の社会において「有意味」、「有価値」のものとしての「認知」を獲得したのである。その「和」の精神は、「体育」がそうであったように、「教育」という形で「高校野球」に取り込まれていったのである。
 「高校野球」にみられる価値は「和の精神」だけではない。「精神主義」もそのひとつである。いわゆる「精神主義」とは、戦時下においても多用された概念で、いかに困難な状況にあっても精神の力によって必ずそれを克服できるという、「精神力信仰」はその極端な例である。文化人類学者のR・ベネディクトはその著書『菊と刀』で戦時下における日本人の狂信的とも言える「精神力信仰」について以下のように述べている。「日本はまたその勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。〜〜〜〜まだ日本が勝っていた時でさえ、日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、繰り返し繰り返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する信仰との戦いだ、と言っていた。」(R.ベネディクト、『菊と刀』、p30)
 もちろん、これは当初より、物質的な側面で絶対的に不利と分かっていた戦いに際しての思想である。しかし戦争準備期、並びに戦争終結までの期間に行われた、政府による体育教育において、スポーツを手段とした「兵力」としての「肉体」・あらゆるものを凌駕するものとしての「精神」の「鍛練・修養」が行われ、それを国民が文字どおり「一丸」となって受容したという事実は、「精神力信仰」が、いわゆる「付け焼き刃」的思想ではなく、日本人の「心性」とも言える思想であるという可能性が頭をもたげてくる。しかし、その「精神主義」も「作られた伝統」である可能性は否めない。
 「和の精神」や「精神力信仰」等の思想が正当化された理由を推測するに、それらが日本人の属性であり、古来より現在に至るまで綿々と続く日本人の心性であるかのような「錯覚」を当時の人々、ひいては我々に与えるのは、それらの思想が遠く溯ったところの「武士道精神」に類似性を認めることが出来るものだという論理を政府が持ち出し、人々もそれをごく自然に受け入れたからだという仮定はある程度の説得力を持たないだろうか。しかし、その「武士道精神」でさえ日本人のステレオタイプな心性ではない。「なぜなら、大多数の庶民にとっては、武士の生き方である「武士道」はまったく違った階級の倫理であり、それが何たるかは知るよしもなかったのである。つまり、庶民の倫理ではありえない。これは明らかに、近代国家、それもかなり急速に建設しなければならなかった状況が産んだ伝統であるとしか考えられない。」(杉本厚夫、1995、198)というように、「和の精神」、「精神主義」の説得力となったはずの「武士道」までもが、実は意図的な力によってこじ付け気味に持ち出されたものであるという可能性は非常に大きい。しかし、「高校野球」が「教育」という名のもとに、「軍事国家形成期」という日本の一時代に趨勢だった「軍国主義」イデオロギーを形成することに一役買ったことは確かである。「高校野球」に見られる「精神主義」「和の精神」というイデオロギーは、それまでの日本人の、言わば本来の「価値・イデオロギー」を隠蔽し、軍国主義国家形成、ひいては戦争へと向かわせる原動力となる「虚偽意識」として作用したと考えられる。同様に、朝日新聞社による甲子園大会主催とその報道、そして結果としての販売部数拡張などの構図には、スポーツの場における商業主義を隠蔽する「虚偽意識」としての「和の精神(チームプレー)」「精神主義(すがすがしいまでの努力・根性)」を強調して報道することによるメディアの「イデオロギー利用」が見受けられる。「和の精神」「集団主義」「精神主義」などのイデオロギーは実はつい最近発生した「虚偽意識」なのである。それらは、例えば1970年代から始まった高度経済成長時代に代表されるように「資本主義」という産業・経済を最優先する日本社会の「真のイデオロギー」を維持するための「虚偽意識」として巧みに作用し、結果的に日本の社会体制を維持してきたとも言える。近代化、軍国主義化の産物として発生した「和の精神」「集団主義」「精神主義」などの「虚偽意識」イデオロギーは、戦後の民主主義日本においても資本主義を隠蔽する形での「虚偽意識」としての利用価値と、産業社会に適応するシステム作りと人間形成への実用的価値を認められた。それらは、その発生当初の目的とはまた別の目的を有効に達成し得る「イデオロギー」として現在まで存続することが出来たのである。発生当初の隠れた価値は「軍国主義」、現在の隠れた価値は「資本主義」である。それぞれに達成しようとする目的(隠された価値)は異なるが、そこには同じ「虚偽意識」が働いてきた。つまり、「和の精神」「集団主義」「精神主義」などは、現在まで日本社会に綿々と受け継がれており、いまなお我々の行動に大きな影響を与える重要な意味を持っていると結論づけることができる。

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