第四章 調査(1) 編集長の明石あおいさん                                                

 

本稿では、『itona』の編集長である明石あおいさんに計三回のインタビューを行った。詳細は以下の通りである。

 

調査対象者:株式会社ワールドリー・デザイン代表取締役 明石あおいさん

場所:株式会社ワールドリー・デザイン(富山県富山市豊川町5-10  STビル4B

・第一回目インタビュー

日時:20154101030

・第二回目インタビュー

日時:2015631330

・第三回目インタビュー

日時:201510211000

 

 

第一節 明石さんのこれまでのキャリア

 itonaの話題に触れる前に、明石さんがその発行に至るまで、どのようなキャリアを積んできたかを、簡単な年表と共に紹介する。

 

1976年:京都に生まれる。

1981年:5歳の時、父親の実家である富山に引っ越し、高校生活を終えるまでの13年間を富山で過ごす。−[1]

1995年:東京の大学に進学。−[2]

1999年:大学を卒業。卒業後は2010年まで、NPO法人地域交流センターに在籍。そのまま東京で全国のまちづくりに関わる。−[3]

2008年:「acoico」の設立。立ち上げメンバーとして参加。−[4]

2010年:富山にUターン。−[5]

20106月〜20113月の約1年間、富山県定住コンシェルジュを務める。−[6]

2011年:株式会社ワールドリー・デザインを立ち上げる。−[7]

2012年:itonaを創刊。

 

[1]明石さんの高校時代

当時の興味、関心

 高校時代、明石さんが興味をもっていたことは、オシャレやファッションのことである。自分で洋服を作り、富山の日枝神社のフリーマーケットにも出品する程であった。そのため、当時は東京にある服飾関係の専門学校への進学を志望しており、東京に行きたい思いは大変強かった。

 

進路選択の葛藤

 明石さんのお父様は、東京の専門学校に行きたい進路希望を反対された。「自分でも分かる大学に行くのであれば、お金は出す。」との言葉に、明石さんは専門学校への進学を断念する。その後勉強し、父親が許してくれた東京の大学への進学が決定。この時は、まちづくりに携わりたいという思いは一切なく、ただ富山を出たい一心で大学に進学した。

 

[2]明石さんの大学時代

当時の興味、関心

 大学時代、明石さんが没頭していたものは、自身の表現活動であった。友人と「アンビエント」というデザインユニットを組み、ファッションデザインや学生劇団のPRデザインを担当したり、個展の開催をしたり、写真とデザインで表現活動を展開していた。就職活動時期に、毎晩のように集まって作品制作、準備に取り組んでいたため、個展が終わった途端、就職活動をしていなかったことに焦りを感じ始める。

             

デザイン事務所との出会い

 個展開催の後、偶然求人誌で見つけたデザイン事務所に連絡し、内定をもらうことができた。デザイン技術を磨いてから就職するため、すぐにアルバイトとして働き始める。しかし、サークル活動や夜間のデザイン学校での勉強等、大変多忙な毎日であった。加えて、大学卒業も危うくなったことから、デザイン事務所の社長に、一旦アルバイトを辞めたいと申し出る。だが、その時明石さんに求められていたことは卒業ではなく、翌春にデザイナーになることであった。明石さんには、大学に通う学費を出してもらっているため、卒業はしないといけないという思いがあった。留年という選択肢もあったが、「その場合は学費を出さない」というお父様の言葉で、明石さんはデザイン事務所への就職を辞退する。

 

[3]大学卒業後〜まちづくり活動への関わり

まちづくりの世界に入ったきっかけ

 晴れて大学を卒業し4月を迎えても、どこにいくのか何をするのか、全く決まっていなかった。そんな明石さんを見て、まちづくり関係のプランニングの仕事をずっとされていたお父様が、NPO法人地域交流センターの方に明石さんを紹介された。そこに就職を決めることができたが、明石さんは大学時代までまちづくりに携わることはなく、自分から希望したわけではなかった。これが、明石さんがまちづくりの世界に足を踏み入れたきっかけであった。

 

 

まちづくり活動のトータルデザイン

 明石さんが、入社後に地域交流センターで行ったことは、「まちの駅」を手掛ける仕事である。まちの駅を一言で表すと、「無料で休憩できるまちの案内所」を指している。それは公共施設から個人商店まで、既存の空間を利用しながら、地域住民や来訪者が求める地域情報を提供する機能を備え、人と人との出会いと交流を促進する空間施設である。明石さんは、そのロゴマーク作りから関わり、その機能や展開方法等のコンセプトに至るまでをデザインした。この事務局を約14年間一人で務め、まちの駅は全国で約1600か所に設置されるようになった。まちの駅をまちづくりの一つの拠点とし、他の地域での仕事で得られたノウハウを活かしながら、地域の方と活動を共にし、その地域に住んでいない外側の人間として地域を客観視するコーディネーターとしての立場で、地域活性化に向けた取り組みを展開。秋田や岩手、新潟、栃木等、明石さんの当時の仕事のフィールドは、様々であった。

 

まちづくりのための人材育成

 地域のことを、コーディネーターの立場から客観的に見つめ、そこにある魅力を掘り出し、住民たちと共に地域活動を展開した明石さん。そういった仕事の中に、地域づくりの一環として、おもてなしの人材を作る仕組みづくりを1つのテーマとしていた。その仕組みとは、住民が主体となり、研修を受け、地域のことを学び、実際にその地域に訪れた方と接する経験をもちながら、地域に必要なものや改善点を皆で見つけ出していくことである。そういった仕組み作りの仕事の中で、その地域に住む住民達をコンシェルジュとして任命し、住民自体に自分達の住む場所の魅力を発掘してもらい、そこを訪れた方のおもてなしができる人材になってもらう「おおひらコンシェルジュ制度」に関わる。これは、明石さんが栃木県大平町で展開した活動である。

大平町でも、地域の歴史を掘り起こす役割、自分達の活動をPRする役割、新しい町内外の人との交流を促進する役割等に分かれ、住民が動いた。実際に住民が地域の魅力の1つとして、土地にゆかりのある歴史上の人物を調べるために、博物館に取材をしに訪れ、展示物の撮影をしたり、絵の得意な方にその人物の絵を描いてもらったり、住民が主体となり、各々の個性を発揮したそうだ。

さらに、大平町はぶどうの産地であり、ぶどう農家が約80軒ある。それまで、農家の方々の多忙さもあり、ホームページ等、そことの窓口になるようなものはほとんどなかった。そのような中、ぶどうが有名なため、ぶどう狩りができると思って訪れた方が、情報のなさゆえに、5軒連続で断られてしまったという事態が起きた。その解決のために、ぶどう農園の方の意識を変えなければいけないと、大平町の住民でありコンシェルジュである方々が、ぶどう農園を一箇所ずつ訪れ、写真を撮り、コミュニケーションをとったことで、ぶどう農園の方の意識改革が起こり、地域を訪れる方に対するおもてなしの心を育てるコンシェルジュ制度を、理解してもらえるまでに至った。その結果、各ぶどう農園で何が販売されているのか、ぶどう狩りができるかできないか等、そういった細かな情報と共に、ほぼすべての農園の写真と様子が見られるまでに変化した。それは、大平町に起こった問題を解決するため、住民が主体となって意識改革を行ない、それが一つの成功につながったことを示している。

町全体で意識を変えていった大平町での経験は、1 冊の本としてまとめたそうで、itonaが本の形(リトルプレス)になった一つの背景的な出来事でもあるそうだ。

 

[4]acoicoの設立

acoicoとは

2008年、首都圏在住の富山県出身者の若者の会をつくろうというコンセプトの元に、完成したネットワーク。メンバーは、富山を愛する20代〜30代が中心となっている。「あこいこまいけ〜」という富山弁が名前の由来になっており、富山出身者の交流の促進を目的に、富山を愛する有志によりボランティアで運営されている。明石さんは、立ち上げのメンバーとして参加。定期的に集まり、小規模な交流イベントの開催や、カターレ富山といったスポーツチームの応援ツアーの企画等、様々な活動を行っている。活動は現在も続いており、事務局は富山県庁の知事政策局内にある。

 

[5]富山にUターン

Uターンを決意した理由

 明石さんは、東京に住みながら、様々な地域を兼務してまちづくりに関わっていた。週の半分は、どこか地方で仕事をしており、そのような生活の中に、自身と赴く地域について、以下のように感じていた。明石さんの語りを引用する。

 

いろんな地域の人にいろいろ関わってきて、すごい元気な人も多いんだけど、私はこう仕組みを作ったり、エンパワーメントしたりして、いずれはひいていかなきゃいけない立場なんですよね。だってそこに住んでないから。その人達、その地域は、その住んでる人たちの為のものなので、けっこう仲良くなって、一生懸命頑張ったのに、結局はその仕組みの中に私はいないということに気付いたわけですよ。いちゃいけないんですよね。

 

明石さんは、どんなにその地域を元気な地域にするために、住む人と関わり合いながら活動を行ったとしても、いずれはその場所から去らなくてはいけないことを実感する。またその上で、一所に限定せず、様々な地域に足を運んでいた自身のまちづくりについて、その在り方にも疑問をもっていた。

 

 

私これほんとにまちづくりなわけって思ってくるんですよね。まちづくりって、その地域で暮らしてる人のためのものなのに、よそ者とはいえ、なんかいい事だけ言いに行って、でみんなわーってやってまた戻ってくるっていう。これがほんとに私のやりたいことなのかなっていうことに、こう疑問を覚えてきたのがまあ30ちょい前くらいで。

 

30 歳を迎えようとしている際、まちづくりに対する理想と実際の状況とのギャップに、疑問をもっている様子が読み取れる。上京して約10年東京で働き、キャリアを積んでいく中で、地元である富山県の仕事にも携わる機会はあり、明石さんは、富山と仕事だけではなく、何かもっと深い付き合いができないか、役に立てることがないかとも感じていた。

 そんな中、acoicoに立ち上げのメンバーとして参加することが決まる。活動において、東京に住む富山のことが好きな方達や、打ち合わせで東京を訪れる富山県の方から、富山の状況を知り、面白そうだなといった印象をもつ。

それまでは、どこかに通って仕事をするのではなく、どこかに落ち着いて暮らし、住む場所と働く場所を同じにしたいという思いが湧いていたが、その場所は富山にこだわってはいなかった。だがacoicoの活動の中で富山に関わり、現在の姿を知れたことで、富山に帰る選択肢が一番良いのではと感じた。当時、明石さんが一人で務めていた、まちの駅の仕事の引き継ぎ等もあったため、選択肢として富山が浮上し、実際にUターンをしようと計画してから富山に帰るまで、3年の月日は流れていたそうだ。しかしacoicoの仕事に継続して携わる中に、富山への思いは徐々に増していく。

 さらに、地域交流センターで共に働いた方が、九州で地域に根差した活動を始めたことが一つの決定打になった。その時の明石さんの心情が、以下の語りである。

 

やっぱりもうこれしかないわと。東京でいろんな人達と広く浅く付き合いしてるより、もうどんなに世界が狭くてもいいから、一所で自分ができることをやるっていう方向にしようって思ったのが、2010年の214日でしたね。

 

 

[6] 富山県定住コンシェルジュの時代

富山県定住コンシェルジュとしての一年間

富山県定住コンシェルジュとは、富山県への移住者、定住者を増やすために、先に県外から移住をした人が、次に移住を考えている人に向けた窓口となる制度である。そこで、生活を送るための相談にのったり、アドバイスをしたりして、富山に来たいと思ってくれた人に、富山県内の自治体の状況を教えられるような機能性をもってほしいと、2010年に富山県で創設された。明石さんはその初代を務め、観光情報とは異なった、実際に生活しないと分からない情報を、富山県内15市町村を訪れ取材した。都会生活が長かったために、当時は取材先まで公共交通機関を使用していた。そこで、都会よりは劣ってしまうが、実はきちんと整備されている公共交通網を実感する。その当時を振り返り、明石さんは、

 

確かに待たなきゃいけないし都会ほどではないけど、いいじゃんって思ったんですよね。どれだけ富山の人で、今住んでる人が、いろんなものが便利だし豊かなのに、不満を言いながら生活してるかっていうのがよく分かったんですよね。

 

と語っていた。

このように、地元の人が気付いていない富山の良さ、便利さを発信するため、土日も関係なく、取材で得たものを毎日ブログで発信していた。その他にも、富山のスーパーは袋が有料であることに当時愕然としたことや、名水が県内各地にあること等、富山を離れていた分感じた日常での感動を発信。その時のブログは、「とやまの定住コンシェルジュのBlog」から「勝手に☆とやまの定住コンシェルジュのBlog」へタイトルを変更し、現在も継続している。

 コンシェルジュを務めた後、明石さんは会社を設立するのだが、Uターンをする段階で、既に会社の企画書は出来上がっていた。しかし、たまたま定住コンシェルジュという仕事を耳にした時期と、富山に帰るタイミングが重なったこと、そして起業に向けた情報収集と人脈の確保のために、定住コンシェルジュの仕事を務めてみたいと思ったそうだ。この時の経験は、その後も活かされたようで、実際明石さんも以下のように語っていた。

 

確かに、やりたいことはなんとなく漠然とあるし、やることも分かってるんだけど、あまりに知らない土地でいきなり起業しても、お客さんつくわけじゃないですし、そういう意味で人脈づくりとか、情報収集という意味でも、かなり役立ちましたね。

 

[7]株式会社ワールドリー・デザイン

一年間、コンシェルジュとして富山の勉強期間を経て、明石さんは会社を設立する。以下が会社概要である。

 

会社名:株式会社ワールドリー・デザイン

設立年月日:2011620

事業内容:地域づくりのプランニングおよびグラフィックデザイン

     ・まちづくりに関する企画、調査、コンサルティング

     ・広告等印刷物の企画、デザイン、編集、製作、販売

     ・販売促進の企画、販売促進用の各種物品の製作

     ・各種イベントの企画、制作、運営、管理

     ・上記に関連する一切の事業

従業員数:現在5名(全員が女性)

社名に関しては、「“World”の “世界”という意味に対し、“Worldly”は“世間” “世の中”を指している。現代のグローバル化に伴い、経済や技術のみならず、考え方もフラットになっていくのは、ある意味すばらしいことかもしれない。しかし一方で、均質化・画一化してのっぺりとしたイメージも湧いてしまう。それゆえに、“せかい”ではなく“せけん”、人をとりまいている無数の小さな営みに、目を向けていきたい。“せけん”の多様な価値観と存在に敬意を払いながら、“せかい”とつながるような、人間らしい喜びのかたちをひとつひとつ織り上げていくような、デザインをしていきたい。」との思いが込められている。

 

 


 

第二節 itona女子に関して

第一項 itona女子との出会い、itona女子の選定

出典:『itona1号〜4

(※年齢は、2015年に誕生日を迎えた後の想定年齢)

 

ここではまず、明石さんとitonaに携わる女性達が、どのように出会ったのかに触れたいと思う。明石さんと女性達の出会い方は各々であるが、4タイプに分類できることが分かった。

 

1.元々の知り合い

浅岡さん、沖崎さん、河上さん、豊田さん、本川さん、森田さんの計6人である。

・浅岡さん、河上さん…この二人は、明石さんが当時副代表を務めていたacoicoの企画メンバーであったため、明石さんの東京時代に出会っている。

・沖崎さん、豊田さん…この二人とは、親子ぐるみの付き合いがある。だが幼い頃から、明石さん自身が、仲が良かったというわけではなく、親同士で親交があった。実際明石さんが沖崎さんと初めて会ったのは、富山にUターンした時であり、お互い一人っ子ということもあったためすぐに打ち解け、プライベートでも食事に行く関係になった。

 一方で、豊田さんとも父親同士で親交があり、豊田さんのお父様から、「娘が今こういうことをがんばっている」という話を聞き、それが豊田さんと「何か一緒にできないか」という思いが生まれるきっかけとなった。

・本川さん…本川さんは、現在富山県氷見市長を務める本川祐治郎さんの奥さんである。明石さんが東京で仕事をしていた際、氷見市の地域づくりに携わる機会があり、そこで本川さんの家に泊まる機会があった。それが本川さんとの出会いであった。本川さんは、itona女子の中では最も付き合いが古い。

 

2.コンシェルジュ時代の出会い

川端さん、久保田さん、釋永さん、立石さん、長瀬さん、松本さん、水野さん、宮下さんの計8人が含まれる。

・川端さん、釋永さん、立石さん、水野さん、宮下さん…コンシェルジュとして県内を巡り、各市町村を訪れる際に紹介してもらった。立石さんは、途中からの参加となっている。立石さんは出会った当時、関東から移住したばかりで、富山での生活をまだ探っている状態であった。そのため、明石さんは、2号目からの参加を依頼した。

・久保田さん、長瀬さん、松本さん…コンシェルジュの仕事内ではなく、人との付き合いの中で偶然出会いがあった方。

 

3.itonaを制作するにあたっての紹介

・クリスティーナ布谷さん…沖崎光代さんに紹介してもらった方。沖崎さん一人で翻訳となると負担も大きいことに加え、やはりネイティブの方も必要ではと、明石さんに紹介した。

・松井紀子さん…通常itona女子は、それぞれの市町村につき1名となっている。だが、南砺市の広さや、富山市や高岡市と比較して見えにくい南砺市の情報を伝えるために、もう一人必要なのではと、宮下さんが松井さんを紹介した。

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4.途中からメンバーに加わった方

林口さん(第4号〜)、弥生さん(第3号〜)、立石さん(第2号〜)の3名である。

・林口さん…最初は、全く面識がなかった。しかし、林口さんからitona1号の購入依頼のメールが届いたそうで、素敵な名前の方だなと、明石さんの印象には残っていた。そのため、itonaのことをどこで知ったのか、同時に疑問にも思っていた。

林口さんは、氷見で活動しているアートNPOヒミングに所属しており、その活動もプロデュースしていたそう。その時は、林口さんは東京を拠点に生活していたため、明石さんは富山に近い方なのだなと、認識していた。その後、実は林口さんが富山出身であることを知り、また名前を耳にする機会も増えた。そこで、どこかで活動を一緒にしたことがきっかけで、執筆を依頼する。

・弥生さん…弥生さんが所属している、東京の会社が発案したプロジェクトにおいて、一緒に活動する機会があった。それが「丸の内朝大学」であり、東京の大手町、丸の内、有楽町エリア全体をキャンパスとした市民大学である。このプロジェクトは、2009年に始まった取組みで、会社勤めの方が通常よりも1時間早く出勤し、その分を自分の興味があることを学習する時間として活用し、充実した朝を迎え、1日を豊かに過ごすことを目的としている。その講義内容に、富山をテーマしたものが設けられ、講義の中で一度富山をフィードワークする時があった。富山市や立山町の自治体に加え、民間の方達にも、そのフィールドワークの際の受け入れ依頼があったのだが、弥生さんはそのつなぎ役を務めていた。

そこで活動を共に行ったことが、弥生さんがitona女子になったきっかけにあるようだ。

 

明石さんを除くメンバーに関してだが、1号目の巻末に「一堂に会してみるとお互いに名前は知っていたけれど、実際に会うのは初めてという人が多かったのは意外でした」との記載があった。そのことに関して聞いたところ、明石さん以外の女性達は、リトルプレスを通して集まるまで、関わることはなかったのではないかと語っていた。しかし、おそらく遅かれ早かれどこかでつながったのではないかとも、明石さんは推測していた。

 

第二項 メンバーの選出に関して

itona女子としてメンバーを集める際、明石さんが注目した点がいくつかある。その中で最も重要視したことは、「自分で生み出すものを持っていること」だ。定期的にブログを書いていたり、何か作品を生み出していたり、発信力があるという点において、特に注目した。また、「専門を持つこと」も含まれる。陶芸であれば陶芸、農家だったら農家というように、その道で10年は何かを継続して行ってきたことも、条件として明石さんは挙げていた。

その他にも、富山の魅力、富山の日常を伝えるためのリトルプレスであるため、「ちゃんと暮らしている人」であることにも注目したそうだ。この「ちゃんと」という部分に関し、以下のような語りが見られた。

 

富山のことが分かって、例えば、富山に暮らしてるけど、料理とかいつも全然しないんですとか、そういう人じゃだめだなあと思うし、まあもしそうだとしても、何かこう…強烈に富山らしい生活を、どこかでしている人でないとだめだなあという意味では、あのーなんていうか普通の会社員で、土日にはよくあるチェーン店でお買いものしますとかだと何もないんですよね。なんかちょっと、まあ変な人というか、富山らしさを持ってる人を集めた。

 

普段は仕事をしており、チェーン店等で日々買い物をする方は、多数派であるように思う。しかし、明石さんはそういった点には、魅力を感じていないことが読み取れる。ここからではまだどのような女性が、明石さんにとって魅力的に映るのかは見えにくい。次項において、具体例を挙げながらさらに深く見ていきたいと思う。

だが実際のところ、最初から女性達を一人一人見て吟味したというよりも、明石さんが第一印象で感じた「1回切りの出会いではもったいない」「この人に頼みたい」という勘で、女性達に執筆を依頼した。当時は直感で選んでいても、女性達と会話し、itonaについての説明をする中で、相手のもつ魅力を増々感じ、「これは頼んでよかった」と実感しているそうだ。

 

第三項 明石さんが感じた女性達のもつ魅力

 明石さんが、自身の直感で選んだitona女子であるが、具体的に女性達のどのような姿を見て、魅力的だと感じたのだろうか。明石さんの語りから、3名の例を紹介しようと思う。

 

・川端典子さん

明石さんがコンシェルジュ時代、川端さんは朝日町の役場で勤務していた。そこで川端さんは、町長直々に与えられた観光課の業務を行っており、明石さんがコンシェルジュとして朝日町を訪れる際、川端さんの丁寧な対応ぶりに驚いたそうだ。その時の様子を以下のように語っていた。

 

各自治体の担当の方に、どんなところがあるか見せてくださいっていうので連絡をとったのに、やたら丁寧な対応で、すごいこう提案してくるから、なんだろこの人って思ってて、で一緒に回りながら話を聞いたら、めちゃめちゃおもしろいセンスで、あーこの人おもしろいなあと思って、

 

元々、朝日町の石仏や埋蔵文化財が好きで移住した川端さんは、ブログでもそれらの情報を発信していたそうなのだが、務めていた役場の中では、禁止されているわけではなかったものの、ブログを書いてはいけないような雰囲気があったそう。そのため、川端さんもブログを書いていることを、役場に勤めていた3年間、ずっと誰にも話さずにいた。

そんな中、明石さんがコンシェルジュとして、朝日町を川端さんと回った際、そのブログを「よかったら見てみてください」と明石さんに紹介する。伝統工芸である蛭谷和紙(びるだんわし)に関し、そこに関わる人に会い、話を聞く中で得たものを、素敵な言葉遣いでまとめてある記事を読み、明石さんは大変感動する。その時のことを以下のように語っている。

 

川端さんからいろいろ見せてもらった後に、「ああ朝日のこんなところもこんなところもすごく魅力的ですね」って言ったら、実はこんなブログもあって、こういうのが書いてあるから、興味あるならよかったら見てみてくださいって言われて、見たらもうとっても感動的で。蛭谷和紙の話とか(中略)川原さんのところに会いに行ったり、話を聞いたりする中で、川端さんが蛭谷和紙のことをすごくきれいにまとめている話があって、私はそれを読んでもう号泣して、こんな素敵な人となんかしたいなって思ったのは、まあほんとにこの人のような人だね。

 

・長瀬由樹子さん

富山市内に新しいレストランがオープンする際、そこの最初の店長がacoicoのメンバーであったというつながりから、明石さんは開店前の試食会に参加した。そこで長瀬さんに出会い、その時の様子を以下のように語っていた。長瀬さんの場合は川端さんと異なり、周囲の女性とは違う特徴的な姿や富山の食材の詳しさに、明石さんが興味をもったことが窺える。

 

何人かこう集められたメンバーがいて、ほとんど普通の女の子だったんだけど、なんか「え、あんた味わかんの」みたいな子達がみんな来てて、自分のことを差し置いて思ってたんだけど、そこに一人もうやたら食材に詳しい人がいて、「この食べ方こうですよね」とか言って「こうだよなあ、こうだよなあ」とかって言ってばっしゃばっしゃ写真で撮ってるし、オタクではないんだけど、なんか「お、この人面白いな」っていう人。なんか異質な動きをしてて。で話をしたら、なんか面白いなあって思って。

 

・松本江里子さん

富山県が主催している移住者向けの交流会に参加した際、その参加者と訪れた飲食店で松本さんはアルバイトをしていた。奇抜で入れ墨も入った個性的なスタイルに、明石さんはまず驚いたそう。よくある飲食店で働いている女の子とは異なり、お客さんに媚びを売らない態度で、化粧もしているか曖昧といった松本さんの姿に、明石さんは面白さを感じた。最初は、「こういう子と話合わないだろうな」と思ったそうなのだが、いろいろな会話をする中で、松本さんが絵を描いていることを知り、その絵を実際に見せてもらった。その時のことを振り返りながら、以下のように語っていた。

 

絵描いてんだって言うから、「え、ちょっとその絵ある?」とか言って見せてもらったら、面白い絵だったから、わーなんか…なんか頼むかもっていう話になって、そこから、その日にもう一回その…江里子ちゃん仕事終わってから、じゃあそのまま飲もうっつって、そのまま三次会でワインを飲みながら、江里子ちゃんと話をして、なんかしたいねと。ただし、江里子ちゃんが数日後にロンドンに旅立ちますみたいな感じの時で、じゃあロンドンからでも絵は送れるよねって言って、それでーじゃあなんかもし、お願いすることがあったら頼むからって言って、こう江里子ちゃんとは別れたんだよね。

 

この松本さんのエピソードから、初めはその個性的なスタイルと雰囲気に、自分とは合わないと思いつつも、少しずつ話をすることで、「1回きりの出会いではもったいない」と思った明石さんの姿が感じとれる。

 

第四項 Uターン女性が多い特徴

 ここまでのところを見ると、itonaに携わる女性達がもつ専門性や発信力、また特徴的な個性が明石さんの直感に響いた様子が窺える。これらの特徴に加え、女性達にはもう一つ共通点がある。それは女性達のほとんどが、富山へのUターン者であることだ。明石さんは、メンバーを集める際、最初からUターンもしくは移住経験者の方に絞って声をかけたのだろうか。聞いたところによると、必ずUターンもしくは移住をした方でなければいけないといったこだわりは、特にないそうである。それよりも、「その土地に根差し、その風土やその土地の恵みを頂きながら、さらに魅力を増していること」に注目して探したそうで、外から富山に帰ってきたかどうかは、二の次であった。実際、明石さんがずっと富山にいたと想定していた釋永さんが、Uターン者だと知ったのは、itona執筆に向けてプロフィールを送ってもらった時であった。また、長瀬さんも話を聞いていく中に、実は東京の大学を卒業していたことが明らかとなった。意識はされていなかったものの、メンバーにUターン者が多くなったことに関して、明石さんは以下のように語っていた。

 

富山の当たり前を、当たり前として捉えてなくて、「えーこんなんあったんだ富山に」っていって、あーじゃあそれをやろうやろうって毎日、こう日頃取り入れている人とかが多いのは、やっぱりUターンした人だったり、Iターンしたり、他の地域から来た人だったりしますね。富山と他の地域を比べられる人だからこそ、その生活をしてる…だから比べられない状態だと当たり前で、「何がすごいがんけこれ」「そんな何もすごくないわ」みたいなね、そういう風になってしまうんですけど…やっぱり1回ちょっとでも出たり、他から来たりしてると、その違いに気付くことが多いから。

 

たとえ一時でも、富山県以外の土地で過ごした人であれば、富山と他の地域の姿を少なからず比較することができるであろう。上記の語りより、明石さんは、この比較した上での富山の特徴、魅力を発見することができる点に注目していることが分かる。

 

第五項 メンバーが全員女性であることに関して

 メンバーに全員女性を選ばれたことに関し、何か理由はあったのだろうか。その理由として、明石さん自身が女性であったこともあるそうだが、その他に二つ理由が挙がった。           

一つは、女性が人生における劇的な変化の中で、日常生活を営んでいることである。大学を卒業し、就職をするまでは、そこまで大差はないかもしれないが、そこからはキャリアを積んでいく人もいれば、結婚をする人もいる。子育てをしながら頑張っている人もいれば、妊娠のために会社を退職しなければいけない人、年齢を重ねて親の介護に携わる人もいる。そういった変化を遂げながらも、日常の暮らしをきちんと過ごし、富山らしい生活をしている方でなければ、日常のことは書けないと思ったそうだ。例えば、スーパーに行けば富山で育った旬の食材に目を向けていたり、車や電車の窓から見える富山の風景を楽しんでいたり、そういったことができるのは、女性の方が多いのではと理由に挙げていた。

 二つ目は、女性が男性よりも、日常的なものに心を入れることができることだという。そのことについて、以下のように語っていた。

 

男性は、あのー非日常に心を入れやすい。例えば、こんなかっこいい車買ったぜとか、こんな所に来たぜとかっていって、けっこう彼らは非日常に心を入れている。うちの主人も見てて思うけど。

 

だが、女性を見ていると、Facebookで紹介しているのは、子供のお弁当を作ったことであったり、美味しいものを食べたといってお店や作った料理を紹介していたりと、毎日の生活の中に出会ったものだ。明石さんはそのように、毎日の生活に丁寧に向き合い生きているという意味では、女性の方がふさわしいのではと感じているようだ。

明石さんの言葉を借りれば、日常的なものに心を入られるということは、買い物をする中にも季節の移ろいに自然と意識を傾けていたり、普段の食事のことを一つの喜びとして発信していたり、自分の日常に当たり前にあるようなものの中に、楽しみや喜びを見出していることに結びついていると感じる。

一方で、明石さんは非日常と語っていたが、男性は何かを手に入れたことや、目的の場所にたどり着いたこと等、一種のステイタスのようなものに重きを置いている場合がある。その姿が、女性に対して感じる魅力的な部分とは相反するものとして、明石さんが認識していることが分かる。

 

第六項 女性のもつ視点

 前項では、メンバーが女性であることについてまとめたが、明石さんが語っていた、女性の視点に関することも触れておきたい。明石さんは、女性の視点に関して、特別なものを感じているようだ。最も感じていることは、取り巻く環境や生活状況の変化により、ものの見方が変わっていくことである。そのことに関して、以下のような語りが見られた。

 

一番大きいのは、子供が生まれて…結婚、子育てがやっぱり大きいところかなあと思うんですけど、自分を取り巻く環境が急に変化をしたり、あとは人に合わせる、つまり子供に合わせる、でー旦那さんに合わせる、家族に合わせるっていうのも、女性の役割の一つだと思うんですけど。例えば、20歳から25歳の間に結婚して、子供が生まれてっていう人がいたら、その間に好みとか、趣味とか、そういうものもけっこうガラッと変わったりするんだと思うんですね。子供目線になったりとか。そういう意味で、すごく変わりやすいですよ。

 

結婚や出産、育児といった人生の節目を迎え、それに伴って子どもの目線になったり、夫の目線になったり、変化をしながら日常を送っていく女性の姿に着目していることが分かる。結婚は、男女ともにある人生の中の転換期だが、出産は女性特有のものであり、育児においても、日本では男性よりも女性が携わる時間の方が長いといわれている。子供と共に過ごす時間の中で、子供の行きたい場所に出かけたり、子供が食べたいものを一緒に食べたり、ライフスタイルの中に子供に合わせた時間ができてくるのは、必然的なことだ。itonaに関わっている女性達も、号数と共に年齢を重ね、母親になったり、どこか住まいを移してみたり、立場や周囲の環境も変化していくことだろう。だが重ねていく分、それまで母親ではなかった人が、子供を産み母親になって富山を見つめた際に、また違う風に富山でのライフスタイルを描くのではないかと、立場の変化に伴って変わる富山の見方に、明石さんは面白さを感じているようであった。

 そして事例として、立石尚子さんのことを挙げていた。立石さんは、以前は海外に住んでいたがUターンをし、今は家族と黒部で生活している。海外で生活をしていたために、その時にはなかった地方での暮らしが面白いとのこと。一般的な家庭であれば、休日は子供とファボーレのような大型ショッピングセンターに出かけることもあるが、立石さんは、富山地方鉄道で宇奈月まで行って戻ってくる過ごし方が、大変楽しいそうだ。このように、子育てママとしての富山らしい楽しみ方を体現している様子を見て、次は様々な立場の女性達がどのように富山の日常を楽しんでいるのか、itonaの原稿を通じて知れることを、明石さんは毎回楽しみにしている。明石さんから女性達に、「あなたのこのテイストが好きだから」と語り口や文章のことで要求することは、特にはない。それよりも、その時々の女性の現在を出してほしいと、原稿を書いてもらっている。そのため、実際号数を重ねていくと、「この人、123号と、こんなん書いてたのに、全然違うなあ」と感じることもあるそうだ。

 以上のことから、女性の視点に関して、状況や環境によって変わる富山の書き方、捉え方を特徴として見ていることが読み取れた。

 

 


 

第三節 itonaの発行までの経緯

第一項 発行に至るまでの背景、その時の思い

 明石さんが、富山でリトルプレスを作ろうと思うに至った理由として、定住コンシェルジュ時代のことが関係している。コンシェルジュを務めながら富山を回る中で、「すごい面白い人がいっぱいいる」ことが分かったそうだ。そこには、itona女子の方々も含まれている。当時はそういった方達を知り、一方的にブログで紹介するだけで終わってしまったそうで、「なにかこの人達とできないかな」という思いはもっていた。それが一つのきっかけとしてある。

 会社を設立して一年後、リトルプレス『itona』を作ろうという思いに至った。明石さんは、それまで地域振興やまちづくりの活動に携わる中で、元気な地域や成功している地域というのは、特別な何かがあるというわけではなく、そこに住む人が生き生きとし、活躍している姿が見えることが大事になってくるのではないかと感じていた。その時の明石さんの心情が、以下の語りから見えてくる。

 

結局のところは、生き生きとした人がこう全面に出てこないと、その地域の魅力ってなかなか伝わらないよなって思っていたこともあって、私だけでちみちみ情報発信してるよりは、そういうこれまで会った魅力的な人達に、お一人お一人声をかけて、その人達の目線で、富山の魅力を語ってもらうっていう風にすると、「富山って素敵なところだね」って他のところに言ってもらえるんじゃないかなって思って。

 

また、明石さんが東京に住んでいた際、富山で仕事をすると、やはり自治体の方との関わりが多かった。しかし、富山には個人事業主の方や作家の方等で、個人にスポットを当てた場合に、面白い方がいるということは分かっていた。だが県外にいると、そのような個人にスポットを当てた情報は全くなく、そういった地域に生きる個人をどのようにひきだしていけるのか、こういった思いも発行の背景にはあった。

 

第二項 本の形になった理由

 地域の魅力を、女性達各々に語ってもらうスタイルが生まれた背景は、リトルプレス発行に至った経緯から少しずつ読み取れるようになってきた。ではどのようにして、明石さんの「女性達と何かしたい」という思いが、最終的にリトルプレスといった本の形に収まったのだろうか。

 まず一つとして、「手に取れる形、なにか形にしたかった」という理由が挙がった。また、以前関わった栃木県大平町における地域づくり(第四章第一節 [3]まちづくりのための人材育成)の仕事において、活動の集大成としての意味を踏まえ、本を作ったことがあった。その時を振り返りながら、本の形にすることについて、以下のように語っていた。

 

本にするっていうのは、もちろんその関わる人達の思いを、1つの形にするってこともあるけど、それをまあ手に取ったり、見た人がまた自分の世界でこう広げてくれるでしょ。思いを馳せてくれたり、一人歩きをするわけ、本がね。そういうことでこう新たななんか…また参加したいっていう人がいたりとか、そこをもっと掘り下げて、自分で歩いてみたいっていう人がいたりとかっていう風に、分かりやすい波及効果がもたらされるなあということを感じて、本にしようと。

 

本という一つの形に仕上げることで、その場限りでは終わることのない、その後の波及効果を期待している。また、Webでの公開といった方法に関しては、もしそうなってしまうと、誰もが容易に閲覧できてしまうため、「ありがたみがなくなってしまうのではないか」と語っていた。もし電子書籍で誰かが見てくれていたとしても、それは覗きこまなければ分からない。明石さんは、手に取られた方の家に置いてあったり、itonaを持ってどこかに行ってもらえたり、直接そのものを手に取ってもらえ、かつその姿を目にできることを重視しているようだ。そして、形になるからこそ、誰かが手に取っている姿を見た際、明石さん自身もそうだが、そこに関わった方皆が、そこに嬉しさを感じられる。そういった明石さんが思い描く、itonaが人の手に渡っている理想像を考えた場合、本の形が最も合致するのではと思ったのだという。

 さらに、今後のitonaの姿に関し、以下のように語っていた。

 

itonaがもっともっと富山の人に認知されるようになったらさ、itonaを持って富山に来た人がいたら、「あーこの人富山のこと相当知って、ここに降り立ったんだな」みたいなのがさ、分かるじゃん。そういう風にして、まあアイコンというかね、そういうものにもなったらいいなとか。

 

ここから、itonaを読んだ方が、そこをきっかけに実際に富山を訪れた際、そのことが分かる目印としての要素も、今後にかけて期待していることが分かった。

 

第三項 想定された読者層、itonaの設置場所

 リトルプレスを制作する際に想定した読者層を聞いたところ、一言で表せば「東京にいる私」と明石さんは表現しており、つまり東京にいた時に、明石さんが欲しかった情報を載せているということだ。そこで当時の明石さんが、どのような気持ちだったのかを聞いた。以下がその語りである。

 

ある程度都会で人にもまれて、お仕事もある程度がんばってやっているけれど、一所で何かしたいとか、ちょっとこう…田舎への興味というか、田舎への懐かしさっていうのもあるけど、なかなか関わることができない。お仕事として関わっても、まあ一線を越えられない…じゃあ、なんかやっぱりそろそろ地方暮らしっていうのも考えるのかなあっていうようなそういうタイミング…でもわざわざ地方に暮らす?みたいな。だって、富山に行ったって仕事なんかないだろうし。

 

このように、都会でキャリアを積みながらも、田舎への興味や懐かしさをどこかで捨てきれない。一方で地方暮らしを考えるも、これまでの慣れ親しんだ東京での生活を抜け出して、地方での暮らしができるかどうか、仕事も見つかるのかどうかといった不安や、自分の今後のことに悩みを抱えている方を、読者の対象として、当時想定していたことが分かる。明石さん自身、想定した方達に読まれているという実感は得ている。実際、itona女子である林口さんは、東京を主な拠点としていた時にitonaを読み、「富山にこんな女性達がいるんだ。やっぱり帰ろう」と、Uターンをする気持ちに拍車がかかったそうだ。また、itonaを読んで帰ってきたことを、直接明石さんに言った方も何人かいるようで、そのような方達のことに関し、以下のようにも語っていた。

 

ああ富山にこんなにいい風景がというか、こんなところがあったんだあっていうのは、まあ県内外の人がよく言われるし、こんなに頑張ってる人達がいるっていうことが知れたことで、自分自身が勇気をもらったっていうので、帰ろうと思ったっていう声もある。

さっきの砂里さんじゃないけど、どうしようかな、帰ろうかな、どうしようかなーって考えて、悩んでというかね、足踏みしてた人が「よーし、帰ろう」っていう一つのこう…背中を押すきっかけにはなってるんじゃないかなあって思う。

 

そして明石さんは、意外と富山県内に住む方にも読まれていることを、感じている。割合としては、県内6:県外4の割合で注文がくる。その理由として、県内の取得のしやすさを挙げていた。県外に置いてもらうためには、その場所に営業しに行かなければいけないため、なかなか置けないそう。実際のところ、明石さんから多方面に伺って、リトルプレスを設置してほしいと積極的にPRすることはなく、itona女子の方々が「こういうところに置いてあったら素敵だな」と感じた場所に持って行くのだ。それは一言で言えば、「文化的で静かな空間」と表現できる。そして、日々の生活において、暮らしのことや食のこと、着ているもののこと等、決して贅沢ではなくても、どこかにこだわって生活をしている方に届いたらいいなといった気持ちが、彼女達にはある。

 

 


 

第四節 itonaがもつ特徴

第一項 個人を尊重する緩やかなネットワーク

 リトルプレスもそうだが、一般的に何か雑誌が制作される際には、執筆者には締め切りが課せられていたり、打ち合わせが度々あったりと、そういった行程が踏まれるイメージがある。だが、itonaの場合は異なっている。

 明石さんは、リトルプレスを制作した当初、半年に1回のペースでの販売を予定していたそうなのだが、徐々に遅れ、年に1度の発行ペースとなっている。まず理由としては、原稿が揃わないことを挙げていた。メンバーの女性達は、それぞれ本業の仕事を持っているため、大変忙しい。明石さん自身も、本業をこなしながらであるためになかなかitonaに時間を割くことが難しく、「暇な時にやる」と語っていた。発行にあたり、その度に編集会議も行うそうだが、その集まりのことに関して、以下のような語りがあった。

 

もうそろそろできるぞってタイミングで集まるし、出した後にじゃあ次号どうするっていって集まったり、でその間がちょっと空いちゃうから、まあとりあえず飲んどこうかみたいな感じで集まるとか、比較的まあその辺はゆるやかだけど。

 

上記の語りより、発行にあたっての集まりは、明石さんが思った自由なタイミングで開催していることが分かる。集めなければいけないといった義務感や、拘束性のようなものは明石さんの言葉からは感じなかった。それだけの緩やかさがあるからこそ、どこまでも発行が遅れてしまうそうだ。だが、明石さんを含むメンバーは、本業に関しては締め切りも守る等、緩やかな部分はあまり見受けられないそうだ。itonaの場合に限り、そういった部分が出てくるらしい。そのことに関しては、以下のように語っていた。

 

けっこう子供みたいな理由で、原稿が出てこなかったりするんですよね。ほんと仕事が忙しくてとか、最近寝てなくてとか。でも私はそれでもいいなあと思っていて、そういうゆるさで作るっていうことも。まあ日常の話なので。つまり私はこういう仕事をしていますっていうがつがつしたものを伝えるんじゃなくて、がつがつ頑張っている女性達が、日常のこんな所でほっとしてるよとか、ふと考えることがあるよっていう…そういう空気感なので。あんまり締め切り締め切り言い過ぎても、あんまりよくないなあって思って、半年が1年になりみたいな風になってますけど。誰に怒られるわけでもないから。とにかく出し続ければいいんじゃないくらいに思っています。

 

この語りより、明石さんがitonaの中で表現したいことは、女性達それぞれの日常であり、各々が普段の仕事の中で持っているような緊張感ではない。明石さんが、締め切りという期限をあまり言われないのも、そういった決められた拘束力の中で、女性達自身を表現されたくないといった思いがあるからではないだろうか。そして、緩やかな活動の中にも、続けることに重点を置いていることが読み取れる。

 

第二項 会社事業における位置付け

 明石さんの会社のHPを見たところ、リトルプレスのことに関しては、会社の業務内容のページではなく、企画&プロジェクトとして紹介してあった。リトルプレスの活動は、会社事業の中では、どのような位置付けとなっているのだろうか。次のような語りが見られた。

  

次の号を出さなきゃいけないから、また次の印刷費とか製作費がかかってくるので、最低限200万ぐらいは、itonaのためにとっとかなきゃいけない。他の事業でちゃんと儲けて、itonaを出せるぐらいにはしないといけないという思いで、いつも仕事をしているので、お金をいただくような本業のほうにかまけていると、itonaの発行がどんどん遅くなるっていう感じですね。

私が好きでお金を、会社でお金を出してるっていうことになってて、例えば書いてもらってる女性達には、お金を出してもらったりはしてないんですよね。

 

リトルプレスを発行するという活動は、(株)ワールドリー・デザインの一事業として捉えられていることが分かった。その中でも、発行のための経費を得るために、他の仕事での成果を意識している点からは、今後の継続した発行を意識していることが窺える。さらに、明石さんの「itonaが好き」という気持ちが土台にあり、会社としてお金を出している点より、itonaが明石さんにとって、他事業とは異なる重要なものであるように感じた。

 

 

第三項 広告のなさ

 itonaの中には、一般的な情報誌のように、ページの間に広告が全く挟まれていない。これは一見しても、珍しい特徴のように思った。この理由について、以下のように語っていた。

 

広告については、広告もらっちゃうと好きなこと書けなくなっちゃうので。お金出してくれるところが一番大切になっちゃうと、そこ別においしい店じゃないしとか、私達好きじゃないしみたいなところも出てくるし。

 

この語りから、リトルプレスの中で、女性達が書きたいことを自由に表現できることに、重点を置いていることが読み取れる。しかし、親切な気持ちから、「ここ取り上げた方がいいよ」といった声を周囲から聞くこともあるそうだ。だがそういった声よりも、自分達が実際に行き、食し、雰囲気を味わった上で好きと感じた場所を書きたいといった、明石さんの強いこだわりを感じた語りがあった。

 

従業員さんが生き生きと働いてるかとか、富山らしいものを作っているかとか、やり方はどうかとか、それを見てくと、まずは自分達が生活する中で、そこのものを使ってたり食べたり行ったりしてないもののところっていうのは、基本的には紹介したくないのよね。お金もらえるからっていっても。だから好きなことを書くために、広告はとらない。

逆に広告をとらないから、好きなことを書く。もう自由に。

 

明石さんは、女性達が好きなものだけを紹介しているからこそ、嘘がないとも語っていた。またそれは、女性達各々の意見であるからこそ、「富山といえばあれ」といった定番のものが前面に出てこない点を、明石さんは一つの良さとしている。 

明石さんがリトルプレスの仕事を始めた際、富山にも情報誌が多くあることを知り、それらを目にした時、もしも東京にいた時代に見ることができていたら、もっと富山のことを知れたのではと、後悔の気持ちを抱いた。しかし、それらの情報誌に目を通した時、同じお店が紹介されていたり、新しいお店が完成した報告のみであったり、そこから発展した情報は書かれてはいなかった。

 

そのお店は、例えば4月にオープンして、12月になった時点で、やっぱりいろんな変化があるわけじゃん。きっとあるんだけど、オープンしましたとか、新商品でましたとか、そこしか分からなくて、どんなお客さんが来てて、そこでどんな時間が過ごせて、逆に言うと、その店主さんってどんな生活してるんだろうかとか、私はそっちの方が気になるわけね。

 

「こういったお店があります」、「そこでこのような体験ができます」と紹介のみで終わってしまうものは発見情報。一方で、「そのお店ではこのように過ごせる」、「こういう方だったらこんな気持ちになれる」、「常連さんになればこんな変化もある」といった、実際にお店に通ってみたことで生じる変化やお店自体の雰囲気等が分かる情報を、関係情報と呼んでいた。発見情報は、自分で探したいと思えば、携帯やパソコンを通して簡単に見つけ出せてしまう。だが、関係情報を引き出すには、それを発信する人を介さなければいけない。

 

普通の情報誌だと、ライターさんは黒子に徹してるから、そのお店がいってほしいことを書くわけよね。だけどitonaは、もしかしたらそのお店の人にしたら、そんなこと言わなくていいのにってことだったりするかもしれないけど、「でもそこが魅力なの」っていうことを力強くいいたいなと思って。やっぱ関係ができていないところは、それをいったらお店に怒られちゃうけど、すごい昔から行ってるところだよとか、小さい時からお世話になってるよとか、私毎日ここで買ってるんだよっていう、ほんとにこう生活の中でその人との関係、そのお店なり、人との関係がある中で紹介するから、関係情報も引き立つんじゃないかなって思ってて。

 

以上の語りから、itonaの場合、取材先のお店が、読んだ人に知って欲しい情報を出しているというよりも、女性がそこでどんな気持ちになったのか、読む人の多数が魅力に思うであろうと予測した情報ではなく、あくまで取材を行った女性個人が、魅力的と思った点に焦点が絞ってあることが分かる。またそこには、女性と取材先との信頼関係が重要な要素として関係してくる。

雑誌やテレビでお店を紹介する際は、一過性の取材のみで、目に見えるそこの良さ、特徴、見た人が魅力に感じそうな点を主に発信することが多いのではないだろか。しかしitonaでは、その場に行ってすぐに目に見える情報を、表現しているわけではない。幼い時から通っていたり、生活の中でよく訪れていたり、取材をする女性の暮らしの中に染み込んだ、密度の濃い、そことの良い関係性の中で知った事柄を表現しているのである。好きで通い慣れ、そこの空気感を知りつくした女性の語り口だからこそ、より濃度の濃い情報として紹介でき、魅力を体現することが可能になる。明石さんは女性達に対し、「さらけ出して書くこと」をお願いしている。女性達が好まないと思うことはもちろんのこと、一般的な情報誌に書いてあるようなことではなく、「自分はこうやって食べる」「自分はここを注目して見る」というような、取材先での女性達のそのままの姿を、リトルプレスを通して投影することを大切している。そういった取材をする女性個々人の目線を重視するからこそ、もしも広告が入ってしまえば、「台無しになってしまう」と明石さんは語っていた。その上で、「印刷費を払うものとしては、1 ページたりとも無駄にしたくない」そうで、女性達の目線で書かれた文章を、ページの隅々に至るまで活かしたい思いが窺えた。

 広告がないことに加えitonaには、紹介した場所に読まれた方が訪れ、そこでお金を使用してほしいというような、消費イメージやアピールがあまり感じられない。それには、いくつかの理由がある。一般的な地域情報誌の場合、そこで紹介したお店や場所、商品であればそれがどこで購入できるか等のアクセス方法が、同じページに記載してあることが少なくない。しかしitonaの場合、その場所の詳細情報は後ろの数ページに書いてあるのみである。また先程も少し述べたが、itonaに掲載するために新しく、その場所を改めて取材したというよりも、女性達の幼い時のことや学生時代のことに添って、そのスポットが語ってあるものもある。例えば、3号目に収録されている、氷見市のitona女子である本川由子さんの語りだが、「私ごとで恐縮ですが」と「やっぱり氷見線って好きやわぁ。と列車に揺られていた日々が、今の自分の原点のような気がしています。」との言葉と共に、高校時代の気持ちに少し振り返りながら、氷見線のことを紹介している。また、おすすめスポットとして、小さな映画館やレストラン、資料館等について書いている。しかしそこからも、読者に対して必ずここに訪れてほしいというような、強要の雰囲気は感じられない。〆の言葉としては、レストランの紹介であれば「心地よい空間にランチもスイーツも!とついつい長居してしまいます」や、資料館の紹介であれば「下を通る氷見線の音を聞きながら、そこを吹き渡る風を感じつつ、伏木の町並みや港を眺めていると、日常の喧騒を忘れてのんびりとした気持ちになれます。」等、誰かに勧める言葉でなく、本川さんがそこで味わった気持ちとその場所の空気感を織合わせ、選んでいる。この消費イメージのなさに関しては、明石さんはこう述べていた。

 

結局この人達が好きだというものを書いてるだけであって、「これすごいおいしいから、絶対食べて。絶対食べて。」って、まあ直接は言えるけど、「絶対いいから。おいしいから。」っていうのを、こう不特定多数にはちょっと言えないじゃん。だから、「私は、すごくこれが好きなんです。」で止まってるんだよねきっと。

 

itonaの中にあることは、あくまで書かれた女性達個人の気持ちであり、誰かに勧めることを一番の目的としていないため、語り方はある程度のところで止めてあることが、この語りからは読み取れる。その不特定多数の読み手に向けて書かれていない点は、itonaを置かせてくださいと、積極的にPRしていないことにもつながっている。

 

第四項 英訳も共に掲載されていることについて

 itonaでは、どのページにも英訳された表現が一緒に掲載されており、それらは、沖崎光代さんとクリスティーナ布谷さんが担当している。英文としても載せている理由は、読者として、外国人の方にも読んでほしいことも、1つの理由としてある。しかし、明石さんが英訳をつけたいと最初に思った理由はそれではない。

 明石さんは、元々リトルプレスが好きで、様々な地域で制作してあるものを読んでいた。そんな中、どこか物足りなさを感じていた。リトルプレスには、その作られた地域のことにこだわり、深堀した姿が描かれている。だが、あまりにもその地域のことにこだわり過ぎてしまえば、逆に地域性が見えなくなってしまうのではと語っていた。富山県は、日本の中の、北陸という地域の中に属している。一方で、日本もアジアの中にあり、地球の中にあり、このように徐々に世界を広げていき、地球の中にある富山と考えてみる。例えば、よく富山に住む人が、地域の魅力として魚が美味しいことを挙げている。しかし、地球の中の、日本にある富山県として考えた場合、47都道府県にはその他にも、魚が美味しい県は存在している。白エビのように、特産品と呼ばれるものはいくつかあるが、そういったものは便宜上、富山で水揚げされたためにそのように言っているのであり、魚達は基本、富山湾以外の海も回遊している。さらに、富山は鰤が獲れることを自慢したとして、違うところでも獲れると言われてしまった場合、それらの違いは何なのか、客観的に見れば疑問に思うところであろう。このように富山県を、そこだけで考えてしまうのではなく、地球の中にある富山県と捉えた時、そこに住む人が富山で獲れたものを、どのように食べ、どのように活かしているのかが重要ではないかと述べていた。このように、地域に焦点を絞り、そこのみにこだわった後、今度はその地域が属している世界にまで視野を広げてみた場合に、日本のことや文化のことを全く知らない方達、外国の方に富山のことをどのように伝えることができるのかということが、英訳を付けた背景にある。

 なかには、お祭りの話や結納の話など、表現方法が難しいものも多かったようで、訳していく時間は、とても大変だそうだ。例えば、3号の久保田さんの記事に、富山発祥である「あんばやし」が登場する。あんばやしは、串に刺したこんにゃくに味噌だれを付けた食べ物だが、一言にあんばやしといっても、そのままの言葉では伝わる場所は限られている。そして特徴的な形状も想像し難い。見た人に伝えるために、あんばやしスティックと言葉を加えたり、表現方法を変えてみたり、いつも熟考している。それに関して、次のようにも語っている。

 

文化の違いもあるけれど、そうやってこう…世界から富山のあんばやしとかを見ると、なんて説明する?っていう言葉をこう身につけていくっていうのはすごく面白いし、そういうことを意識しながら発信していくと、自然と足元のことをめちゃめちゃ大事にしながらも、いろんな人達に対してその良さがちゃんと伝えられる。分からないなら分からないなりにそのままにしないというか。そういう風にしていきたいなと思ってやってて。

 

文化が違う方、日本をあまり知らない方にも、itonaの内容が伝わるように、細やかなところにも配慮してあることが読み取れる。日本全体で見た場合、あんばやしに似た食べ物はいくつかあるかもしれない。しかしそれを、富山ではどのように表現するのか、どのように食べるのか、富山における姿を表現するために、英語に訳していく行程を大切にしているのである。

 


 

第五節 リトルプレスから広がった女性達の活動

第一項 女性達が集まることでの広がり

 ここでは、リトルプレス発行を通じて生まれた女性達への影響について論じる。明石さんでいえば、リトルプレスの制作になるわけだが、今回の事例のようにそれぞれが特徴的で、個性を持った女性達が集まって何か一つのものを生み出したり、共に活動したりすることに対し、どのような意味を感じているのか聞いたところ、女性達それぞれの活動が広がったり、女性達の好感度が上がったり、そういったことに期待を向けていることが分かった。

 

第二項 釋永さんと宮下さん        

 実際、itonaに関わったことで、女性達が新たな取り組みを行ったり、外部の変化が起こったりしたようだ。そこで、明石さんが具体例として挙げた2人の女性について紹介する。詳しい内容は、次章で触れていく。

 

新たな取り組み 

 陶芸家の釋永さんが時折開催している「かわいい茶会」において、書道家の豊田さんと、松井機業の松井さんに協力を得た機会があった。

 

itonaに関わったことで生じた外部の変化

 内々で新しいものが生まれる一方、itonaに携わったことで外部からの認識の変化があった方もいる。それが、南砺市の宮下直子さんである。彼女がもつ面白いキャラクターに接している明石さんからすれば、一緒にいて楽しいそうだが、地元に住む方からすれば、自営業で、かつ女性1人で働いている宮下さんに対し、どんな仕事をしているのか分からないと思われてしまう雰囲気もあるそうだ。けれども、富山県内で実績を積んでいる女性達と、宮下さんが一緒にitonaを発行している姿を見てもらえたことをきっかけに、仕事を得た機会があった。そのため、宮下さんにお礼を言われた時があったそう。宮下さんの場合は、itonaで生まれたネットワークが、外部の人から信用を得る一つの要素として、作用したのではないだろうか。

 

itonaという一つのネットワークができたことで、女性全員で何かをすることはなかなか難しくとも、個人個人が「何かをしたい」と思った際に「この人にお願いしてみようかな」と想える一つの居場所、つながりができたのではないかと、明石さんは語っていた。

 

 

 

 

第三項 女性達にとってのitonaのネットワークとは

前項では、itonaを通じて起こった女性達への影響や変化について触れてきた。ここでは、itonaという1つのネットワークが、女性達にとってどのようなものであるか、そこに言及していきたいと思う。

前項において、2人の女性の変化は、itonaを発端にしていたものであった。しかし、ネットワーク自体を発端としていなくても、仕事において、間接的に女性達が関わっていることもある。

2015年に富山県が行った「富山で休もう。」キャンペーンの企画として、県内の6つのクラフトをテーマにしたツアー「手ざわりの秋」が開催された。これは井波彫刻や越中瀬戸焼、越中和紙といったものづくりを実際に体験できたり、施設を見学できたりするツアーである。このクラフトツアーには、企画のところで林口さんが関わっていたり、受け入れる側として、立山町の釋永さんや南砺市の松井さんがいたり、深く見ていけばメンバーが何人か携わっている企画であった。それは、itona女子だからということで集められているわけではない。そのように自然とメンバーが関わっていることに、明石さんは良さを感じている。その気持ちは、

 

itonaだよねitonaだからねって言わなくても、なんかこう…自然に入ってきてる感じが、私は好き。

 

といった明石さんの言葉からも、感じ取ることができる。さらに、女性達が自然とどこかで関わりが生まれてくるのは、女性達が個人個人の世界で頑張っているこそのものであると明石さんは実感している。そのことを象徴するのが、以下の語りである。

 

旅行でー富山の着地型旅行で、こういうところでって言ったら、もう森田さんに頼むしかないよねとか、城端でなにかこう見るって言ったら、ああもう紀子ちゃんしかいないよねとか、じゃあそれのアテンドしてくれるとしたら、もう直子さんしかいないよねとかっていう風に、その地域でこういう人って言ったら、この人しかいないっていう人達に、彼女達自身がどんどんなっているので。

端から見ると、まるでそのitonaというネットワークが、強固に形成されているように見えるけど、実際は、この仕上がった本という形がそうなだけであって、中に入っているこの人達はもっと自由で、自分自身でもっと広がりがめちゃくちゃある人達なんだよね。だから、それぞれが持っているネットワークをこう切り取って、わざわざお弁当の中に入れたみたいな、そんな感じだよね。

 

itonaを通じた女性達が新たな取り組みをするようになった釋永さんの事例や、外部からの評価を得るきっかけになった宮下さんの事例を見ていると、itonaというリトルプレスによるつながりは、一見強固なもののような印象であった。しかし、それは本の形になっているために、そう感じてしまうだけであり、実際は女性達各々がもっているネットワークの一つに位置づけられることが窺える。だが、個人が持っているネットワークの一つといっても、女性達にとっては特別なつながりであるように思う。

出会った時は、相手のことをあまり知らない方が多かったそうだが、itonaの女性達は、初めて会うような感覚ではなかった。そのことについて、明石さんは以下のように語っていた。

 

最初は全然知らない人なんだけど、よくさ、あいつは十年来の友達だっていう感覚ってあるじゃん。10年前から知ってるよっていうのと、去年会ったばっかりなんだけど、めちゃめちゃ仲良しっていうのがあるわけじゃん。10年うっすら知ってるのと、1年前に知ったけどなんかすごい通じるから、むちゃくちゃ仲良しなんだっていう…そういう感覚でいうとitonaの方は後者。みんなすごい会ってるわけでもないんだけど、やっぱりそれぞれがすごく密度濃く生きているので。だから1回会っても、得るものがすごく大きい。

 

会ったことがなくても、それぞれが特徴的であり、個性を活かした女性同士であるからこそ、itonaのネットワークは特別なものであり、互いに通じ合うものを持っていることが分かる。明石さんは、そういった女性達との関係性をビタミン剤と表現していた。年に何回も会うわけではないが、新聞等を通して、メンバーが自分達の世界で活躍していることを知ると、仲間が活躍しているような気分になるという。そして明石さん自身も、参加している女性達が誇りをもって参加でき、「itona女子なの」という風に誇りをもって言ってもらえるような場にしたいという思いを持っていた。そのためには、編集長である自身も、他の女性達の活躍に負けないように頑張らないといけないと語っていた。

 

 

第四項 itonaの活動の今後のビジョン

 今後、itonaの活動をどのように展開していきたいのか、ビジョンを聞いたところ、明石さんは、最低でも10号まで発行し続けることを一つの目標として設定している。また現在のメンバーは、30代〜40代の女性達が主である。はっきりとしたビジョンではないそうだが、活動自体を若い世代に引き継いでいくことも、一つの選択肢としてあるようだ。