第六章 2000年代作品の受容に関する考察

 

第一節 男性主人公とその男性性

 

 80年代少女漫画では逞しく男らしい主人公であり、暴力性を含むストーリーが男らしさをより強調していた。馬場(1997)にもとづけば、女性読者は自分の中の「男性性」を肯定しながら、主人公と自分を部分的に同一化して作品を読んでいたと考えられる。それに対し、2000年代の主人公は好きな人に一途であり、恋愛中心のストーリーが展開されている。女性読者は主人公に同一化する読み方ではなく、登場人物同士の関係を見つめる傾向が強くなっている。

 80年代と違い、2000年代は主人公、ストーリーともに暴力性が減退した設定になっている。2000年代の主人公には80年代にはなかったような「女性性」も混じっていると考えられる。例を以下に挙げる。

 

『オトメン』

見た目もかっこよく、有段者で、クール・・・な彼の隠された一面は、少女漫画が大好きで、かわいいファンシーグッズをこよなく愛するオトメン。

・・・素敵。

でも女々しいわけじゃない所がミソ。料理もお裁縫もプロ級で、その上強いんだから、最高じゃん・・・。と思うのですが^^

心がちょっと乙女チックなだけで。

(この刹那を祝福する 2007119日の記事より抜粋)

『愛してるぜベイベ★★』

ずっとママの代わりに一緒にいるよ、とおでこにちゅー薔薇

きっぺーのお弁当をもってきてくれたお礼に、おでこに、ちゅー薔薇

「ひゃーー」のゆずゆの反応、かわいすぎるーーきらきら!!

時にはプールで、プール嫌いの克服につきあったり

色々とゆずゆの世話をしてるうちに、仲良くなってゆく二人。

ざ・ママ代わりリラックマ

(人生一度の、たび 2010320日の記事より抜粋)

『失恋ショコラティエ』

失恋ショコラティエは超〜簡単に言うと「昔の好きな人が忘れられなくて」なんですよね。爽太みたいな女の人はいっぱいいると思うしこれまでの漫画にもそんな女性キャラは(主人公、サブキャラ、モブキャラ問わず)たくさーんいたと思う。

でもこれが男主人公で尚且つ少女漫画だから面白い。

W H T *kidori 2013911日の記事より抜粋)


『俺物語!!

河原:アルコさんの作品の中に『終電車』というオムニバスシリーズがあるんですけど、3話目の何でもできる男前な女の子が好きで、その子と似た感じの男の子を描きたいと思いました。

(中略)

でもみんなイケメンのほうが好きかなと思って、最初に作ったストーリーでは、猛男をナチュラル系男子で描いていました。だけど私が途中で、やっぱり男気溢れるキャラにしたいと思い、描き直したんです。

(『俺物語!!』第2巻アルコ先生×河原和音先生 〜『俺物語!!』スペシャル対談 猛男語り!!〜より抜粋)

 

『ラストゲーム』

お金持ちなのに、イケメンなのに
なぜここまで空振りばかりなのでしょうか・・・
でも美琴に振り向いてもらいたい為にいろいろ頑張る柳くんが可愛いですvV
両手で顔を覆い泣く姿とか(笑)
もうあれは乙女ですな!
              (ふんわリズム 2012710日の記事より抜粋)

 

 

『オトメン』の主人公は「オトメン」と呼称されるように、乙女ちっくなものが大好きで、心も乙女のような男性である。『愛してるぜベイベ★★』の主人公は「ママ代わり」と表されているところに、女性性が混じっていると考えられる。『失恋ショコラティエ』は主人公のような女の人は現実にも漫画の中にもたくさんいるとブロガーが述べていることから、一種の女性性が混じっていると考えられる。『俺物語!!』の主人公はもともと女の子のキャラクターから生まれたものであると原作者が語っている。『ラストゲーム』の主人公はブロガーに「乙女」と表されるような行動をとっていることがわかる。

以上のように2000年代の男性主人公にはある種の女性性が混じっていると考えられる。

ただし、『オトメン』や『俺物語!!』での「女々しいわけじゃない」「強い」「男気溢れるキャラ」という語りから、従来の男らしさも完全に消滅したわけではなく、影は残していることがわかる。このように、2000年代作品の男性主人公は、従来型の男性性に加えてある種の女性性を含んだハイブリッドな性質が目立つようになってきている。そのため読者の反応も、「かっこいい」より、むしろ「可愛らしい」(第五章第二節第一項)といった表現が目立つと考えられる。

馬場(1997)によると、80年代の女性読者は、男らしい主人公に自らを同一化して少女漫画を読むことにより、自分の中の「男性性」を肯定し、精神の幅を広げてきたという。2000年代の女性読者たちは、80年代と比べると、自分の中にある「男性性」を少女漫画によって肯定しなくても済むようになったのではないだろうか。したがって、男性主人公に自分を同一化せずに、男性主人公を通して進むストーリーや、登場人物同士の関係に注目する余地が生まれたのではないだろうかと考えられる。


 

第二節 登場人物への感情移入のしにくさ

 

ここでの登場人物は主に男性主人公と想われ人である女性をメインに考えていく。

 前節では、男性主人公の男性性の変化と特徴が、読者の部分的同一化とは異なった一種の<関係>志向的な読み方の傾向を示す点を指摘した。この節では、それに加えて登場人物への感情移入のしにくさが<関係>志向的な読み方につながることを論じたい。

 まず、感情移入の定義であるが、ここでは、自分自身がいだいている感情を、対象としてかかわりをもっている相手に注入することによって、相手に移行させ、そして、自分の感情が移行されたのにすぎない対象の状態を、相手自身がいだく感情状態として認知する過程(『心理学辞典』有斐閣)ととらえる。すると、恋愛少女漫画の典型的読み方として女性主人公への感情移入が考えられる。

 

完全に私見なのですが、少女マンガを女性が読む時って、恐らくは主人公の女の子に自分自身を重ねて、A男くんやB男くんという魅力的な男に想われ、たまに強引に唇を奪われちゃったりするという、その逆ハーレム状態を疑似体験して、興奮したり感動したりすると思うのです。

(早く××になりたい! 2013215日の記事より抜粋)

女の子って、少女マンガをよんで、そのヒロインを自分に見立てて、

胸キュンしたり、涙したり、ドキドキしているんだと思うんです。

少なくとも妄想大統領の私はそうでした。

(未彩の日常 2013315日の記事より抜粋)

 

 一方、2000年代作品の特徴として、第一話もしくは後続するいくつかの区切りまでを含む初発の登場人物設定にやや癖があり、読者にとってとっつきにくくなっている点が挙げられる。主人公である男性は現実に存在したとしても、普通にどこにでもいるような男性ではない。例えば乙女のような趣味をもっていたり、お金持ちであったり、女の子にモテモテであったりなど、普通とは少し違う設定がなされている。そのような普通ではない主人公のモノローグや考えには共感しにくいのではないだろうか。そのことを裏付ける記事を引用する。

 

『俺物語!!

モノローグが猛男視点なので思考が強引なんですがそこが面白くて、読み手からしてみるとモノローグに色々突っ込みたくもなり猛男を第三者的に見守ってしまいたくなります。

(至上のとき・・・2012417日の記事より抜粋)

『失恋ショコラティエ』

すごいよね。結婚したのに諦められない執念。執念??というか、正直さ、か。
執念は多分誰にでもあるかもね、けどそっから早く立ち去らなきゃって思う人が大半だと思うけど爽太は真正面から向き合って踏ん張ってるからこうなったんだよね。それがすごい。それがすごい、格好いい。
              (W H T *kidori 2013817日の記事より抜粋)

 

以上の記事から、読者は男性主人公の「モノローグに色々突っ込みたく」なったり、あるいは、好きな人が結婚したら大半の人は諦めるのに、なお向き合っている執念を「すごい」と述べていたりすることが読み取れる。このように、モノローグや考えに憧れはするものの、共感しにくいため男性主人公とブロガーには距離が開く。そのため、男性主人公に自らを同一化することが難しくなり、感情移入もしにくくなっていると考えられる。

また、想われ人は共通性こそ低いが、一貫して個性の強い性格付けがなされている。例えば、無表情であったり、少女漫画にはいないような外見の主人公を好きになったり、彼氏にする条件としては完璧である主人公のことを好きになってくれなかったり、というようなキャラクターである。このように想われ人の気持ちは読者にとって理解しにくく描かれており、例え気持ちがわかるように描かれていても賛同しにくくなっているのではないだろうか。この設定により、想われ人と読者の間にも距離が開き、感情移入がしにくくなっていると考えられる。しかしながら、読者は男性主人公・想われ人両者ともに嫌いになれず、むしろ好感や愛着を抱く。したがって、この二者を中心とした登場人物同士の関係が気になるのではないだろうか。男性主人公を応援しつつ、男性主人公と想われ人の関係を見つめることで、物語を楽しんでいるのではないかと考えられる。


 

第三節 ストーリーに関するパターン化された認知の阻害

 

 そもそも、恋愛少女漫画を読者はどのように読んでいるのだろうか。次のブログを事例として考えてみよう。

 

少女漫画のパターンとしては主に2つの種類があります

カップルになることがゴールな作品とカップルになってからも話も続く作品。カップルになるまでを描く作品は初々しいし、きれいに完結出来ることが多い印象

対して、カップルになった後も話が続くタイプの作品は必ずと言っていいほど恋敵が現れ、二人の仲に亀裂が走り、作品によっては1度別れたりもします。作品を続けてく上でこのようなイベントは仕方ないのかと思う一方で、ドロドロは見たくないんや!という気持ちもあったりします

(小さな小人の村 20121013日の記事より抜粋)

 

以上の記事から読み取れるように、恋愛ストーリーの少女漫画は、おおよそパターンが決まっており、ある程度その先の展開や結末も予測しやすいと感じている読者がいる。そのため、読者は安んじて女性主人公に自分を同一化したり感情移入をしたりしながら、好きな人とくっつく過程を楽しめるという側面もあるだろう。

しかし、男性主人公になると、今までの少女漫画になかったような設定でストーリーが展開されていくため先が読みにくくなる。その一方で、少女漫画の手法である細やかな心理描写のおかげで、男性主人公の心情がよくわかるようになる。特に想われ人のことをどう想っているか、どういう行動を起こすかなどの描写がされている。今まで詳しくはわからなかった男性の想いが理解できるようになり、それが読者に新しい楽しみ方を与えているのではないだろうか。

また、前節で述べたように想われ人である女性の感情はわかりにくくなっているため、展開が予測しづらくなっているところもあるだろう。その結果、読者は先の展開が見えにくい中で共感や愛着を抱く男性主人公が、想われ人を振り向かせようとする、そして振り向かせてからも想われ人を大事にしようとするような関係、それ自体に憧れているのではないだろうか。

「好きな人から一途に想われつづけたい」「こんな男性に好かれたい、守ってほしい」などという女性読者の願望は、そのような形で満たされることになるだろう。もちろん、男性主人公をもつ2000年代恋愛少女漫画は、一切のストーリー・パターンを持たないということではない。それらの中には、相変わらず「恋敵を退けて愛を成就する」物語との境界が曖昧な作品も含まれている。それでも主人公の性を取り換えるだけでなく、その男性性も混合的なものにし、また、感情移入をしにくくすることは、従来のパターン化されたストーリーの認知をひとまず無効にするだけの効果をもつといえるだろう。(3)

第四節 登場人物の関係志向が意味するもの

 

 ここまでのところで、2000年代作品においては、いくつかの要因から登場人物同士の<関係>志向が発生しやすいことを論じてきた。それにしても、この<関係>志向は何を意味すると考えられるだろうか。最後にこの点に考察を加えて本稿を閉じたい。

藤本(2008)は、1970年代の西谷祥子『白ばら物語』を例に出し、この作品は「愛しあって結婚し、愛に溢れた家庭をつくる」ことこそが理想とされていたと述べている。このような「愛のある結婚」への憧れが少女漫画の恋愛の出発点だったという。

「生涯でただ一人の相手」というモチーフは、1970年代の少女マンガにはかなり強固であると藤本は述べている。法律的な「結婚」でこそないものの、実質的には、性=愛=結婚の三位一体を示すロマンティック・ラブは、この時代、見事に生きていたというべきだろうという。

しかし、1980年代に入るぐらいまでになると、上述の三位一体が崩れてくる。この年代には、少女漫画の中で強姦未遂というモチーフが繰り返しあらわれていた。これは、女の子の性に対するおそれやためらいをふまえて、徐々に性的な事柄にならしていく役割を果たしているように思われると藤本は述べている。こうした性に対する女の子の意識は、まず自分の女性性への忌避となってあらわれる。1980年代には性についても日常的な感覚で描かれるようになり、1980年代の後半からはかつて「そんなキミが好き」の世界であった王道の部分に「初体験もの」の流れが出てきた。また、1980年代の少女漫画である、しらいしあい『ばあじん♪おんど』を例に挙げ、この時点ですでにかつての「生涯でただ一人の人」となら、という価値観からずいぶん変わってきていると藤本は述べている。

つまり、1980年代ごろからは、日常的な設定の恋愛物語少女漫画において、ロマンティック・ラブとしての性質の減退が見られると藤本は論じている。

恋愛に関して、A.Giddens1992)は、「情熱恋愛」「ロマンティック・ラブ」「純粋な関係性」という三つの関係性を挙げている。A.Giddens1992)によると、情熱的愛情、つまり「情熱恋愛」とは、愛情と性的愛着とがひとつに結びつくことの現れとみなされるという。情熱的愛情はたんに日々の型にはまった行いと義務との結びつきを断ち切るという意味において人びとを解放してきた。対人関係の次元では、情熱的愛情は、カリスマ性と似た意味で明らかに破壊的な力を有しているという。こうした理由で、社会秩序と社会義務の観点から見た場合、情熱的愛情は危険性をともなっている。どのような社会においても、人々は情熱的愛情を結婚生活の必要条件とは認識していなかったし、逆に、ほとんどの文化で情熱的愛情を結婚生活にとって始末に困るものとみなしてきたのだという。前近代のヨーロッパではほとんどの婚姻は互いの性的誘引ではなく経済的事情をもとにおこなわれていた。情熱的愛情をとおして永久不変な愛着を生みだそうとするものは、悲しい運命をたどるという教えを人びとに徹底させるような神話を文明は創り出していた。

それに対し、恋愛が個々人の人生を大きく変革する様相を帯び始めたのが、「ロマンティック・ラブ」の出現である。「情熱恋愛」が性愛と感情の高まりを同時に実現し、それゆえに生活習慣を一時忘れさせるものだったとすれば、「ロマンティック・ラブ」はそのような現実逃避ではなく、より人生を積極的に展開させるための重要な体験としてとりわけ女性に受け止められてきたという。ここで「ロマンティック・ラブ」の定義だが、奥村隆は「伝統とか得とかの基準ではなく、ある唯一無二の「特別な人」と一生連れ添う、という愛の形」(奥村2013197)としている。「ロマンティック・ラブ」は一方で「情熱恋愛」の残滓を保ちながら、「情熱恋愛」とは別個のものとなっていった。「ロマンティック・ラブ」は「情熱恋愛」と異なるかたちで、人をより広い社会生活環境から解き放っていく。「ロマンティック・ラブ」は二つの意味合いを担っており、ひとつは、相手に思いを注ぎ、理想化すること、もう一つは、将来の展開の道筋を予想し、明示していくことである。相手に対して高潔さを見出すことにより、自分にとって相手は道徳的潔白さを備えた特別な存在として映るようになる。女性たちは「ロマンティック・ラブ」において感情表現をし、自分の人生の構築と結び付けてきた。しかしその感情は、相手となる男性への過剰な期待であり依存でもある。

そこでギデンズは「ひとつに解け合う愛情」という恋愛観が現代の恋愛理念型として重要であると考えている。「ひとつに解け合う愛情」は、能動的で偶発的な愛情であり、それゆえ、「ロマンティック・ラブ」にたいする抑圧されたこだわりの有す永遠で唯一無二な特質とは矛盾していくという。「ロマンティック・ラブ」は性的愛情であるが、性愛術を考慮から除外している。「ひとつに解け合う愛情」は夫婦関係の核心に初めて性愛術を導入し、相互の性的快楽の達成を、関係性の維持か解消かを判断する主要な要素にしていった。「ひとつに解け合う愛情」が現実の可能性としてさらに強まれば強まるほど、「特別な人」を捜すことは次第に重要でなくなり、「特別な関係性」こそが重要になるのだという。「ひとつに解け合う愛情」のことを別の言い方で「純粋な関係性」だと、ギデンズは述べている。

さて、2000年代に入ると、恋愛物語少女漫画で男性主人公のものが以前よりも多く見られるようになる。読者は男性主人公に感情移入する読み方ではなく、登場人物同士の関係を焦点とする。では、登場人物は互いにとってどのような関係であるのか。それは登場人物の想いの強さや、外見ではなく内面を見て人間的な理解をしており、純粋に心の拠り所とする関係であり、読者はそこに憧憬しているのではないだろうか。

2000年代の男性主人公少女漫画に表されている関係は「ロマンティック・ラブ」の性質は弱くなっており、どちらかというと「純粋な関係性」に近いところが含まれているように見える。それは、結婚が必ずしも重要ではなく、物語の中でもあまり触れられていないところにも表れている。むしろ強調されているのは、男性主人公がもっている、想われ人に対する細やかなケアにある。

 

『愛してるぜベイベ★★』

3巻には、番外編が二つのってます。

ひとつは結平の姉が主役、もうひとつは心ちゃんが主役です。

お姉さま、なんとエステティシャンなんですね()

もうひとつのは、心ちゃんがなんで結平を好きになったか、という理由が描かれています。人を傷つけることを決して言わない結平の優しさは、いろいろ心に複雑なものをかかえている心ちゃんにとって大きな安らぎなんですね。

(おいしい作品たち201164日の記事より抜粋)

『俺物語!!

まぁどっかずれてるン(ママ)彼だけど---
彼女を守ることに必死な姿は爆笑ながらホロリ。
朝起きたら彼の周りは小動物がいっぱい--
「彼の傍って安心するンだよね」と笑う大和ちゃんが
またかわいすぎだった・・。。

shaberiba 2013418日の記事より抜粋)

『ラストゲーム』

確かに美琴ちゃんが泣くのを見たことあるのは
身内を抜けば柳くんだけですよ。
それほど美琴ちゃんにとって柳くんは安心する存在であり
大切な人ということだけは間違いないですよね!!

(ふんわリズム 201473日の記事についたコメント:舞姫 2014-07-08より抜粋 

 男性主人公の想われ人に対する優しさや、その一途さゆえの行動や言動によって想われ人が安心していることが読み取れる。このように、男性主人公が想われ人に対してどのような関係をとり結んでいくのかに作品の力点があり、読者の関心と憧れもそこに集まりやすくなるのではないだろうか。

 ただし、これらの作品は「ロマンティック・ラブ」ではなく「純粋な関係性」を描いていると言い切るのも正しくないだろう。「純粋な関係性」の特質は「いまいっしょにいたい」という基準だけで関係を結ぶことである。ただし、その帰結として「純粋な関係性」はどちらかの気持ちが変化すれば終わらせることのできる不安定な関係性である。しかし、2000年代作品においては、その不安定さを「男性主人公の一途さ」によって保障させている。男性主人公と想われ人はお互い「唯一無二の人」ではないかもしれないが、男性主人公の「一途さ」によって関係性を永続させている。このことから、男性主人公は「ロマンティック・ラブ」を否定するのではなく、担保していると考えることができる。そのような中で、想われ人に対する男性主人公のアプローチはふんだんに描かれている。このような男性主人公の「一途さ」やその「一途さ」によって奮闘している姿に、読者は安心して二人の関係を見守ることができる。それは2000年代の読者にとって理想の人であり、また、理想の関係なのではないだろうか。

このように、「ロマンティック・ラブ」を担保しながら、そこに「純粋な関係性」がもつ性質の好ましい部分(だけ)を流し込んだような理想の関係が描かれている物語を読むことで、読者の内なる願望が満たされている点に、2000年代の男性主人公をもつ恋愛少女漫画の特性があるのではないかと考えられる。